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2017年6月22日 (木)

ダニエレ・ルケッティ監督 映画『ローマ法王になる日まで』 ”Call me Francesco” @シネマ・カリテ(新宿)

【導入と時代背景】

ダニエレ・ルケッティ監督の映画『ローマ法王になる日まで』を新宿のシネマ・カリテで拝見した。原題のほうがフレンドリーで、『フランチェスコと呼んで(英:Call me Francesco、伊:Chiamatemi Francesco)』となっており、副題は「みんなのための法王」である。中身はほぼスペイン語で出来ているが、映画冒頭に画面へと浮かぶのは英語題である。私の好むのは一部でも、思いきって意味を放棄したような詩的映画であり、史実をもとにする場合でも、より抽象的な表現こそが映画らしいものと考えている(例えば、ミック・デイヴィス監督の『モディリアーニ~真実の愛』)のだが、この作品は史実を若干、脚色しただけのドキュメンタリー・タッチであり、その範囲においては、非常に質の高いものといえるだろう。そして、過度にリリックな表現を嫌い、ほとんど表現に無駄がないということも強調できる。それでも、じわじわと深い涙を誘ったのだ。

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2017年6月16日 (金)

ハインツ・ホリガー スカルダネッリ・ツィクルス コンポージアム2017 5/25

【ホリガーとスカルダネッリ】

ハインツ・ホリガーのライフワークともいうべき傑作『スカルダネッリ・ツィクルス』が、東京オペラシティの「コンポージアム2017」の企画として演奏された。「スカルダネッリ」というのは、精神に異常を来した詩人フリードリヒ・ヘルダーリンが用いた自署で、彼の異名である。ヘルダーリンは頭脳明晰で、神学と哲学を修め、鋭いポエジーを示す傑出した詩作品を多く発表していたが、生前、広く認められることはなかった。30代にして統合失調症を病んで、37歳から熱心な支持者であったE.F.ツィンマー家の塔に籠もりがちになり、ほとんど外界との接触を断ちつつ、73歳にして歿した。別に、自殺したわけではない。

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2017年6月 1日 (木)

フェドセーエフ チャイコフスキー 交響曲第4番 ほか N響 1861st定期 Cプログラム

【錆びついたエンジンも輝かしく再生】

N響の再構築は、2015年に首席指揮者となったパーヴォ・ヤルヴィによって急ピッチで進んでいるようだ。5月の公演は、ピンカス・スタインバーグとウラディーミル・フェドセーエフの指揮によるもので、熟達した彼らの統率力の凄さというのもあるのだろうが、それ以上にオーケストラのコンディションの良さが際立った。近年は実力ある若手・中堅の奏者を集めながらも、全体が活き活きと機能しないN響というイメージだったが、いちどは錆びついたエンジンも輝かしく再生を始めたのだ。アシュケナージやプレヴィンが悪かったというわけではないが、2003年にデュトワが退任したあとは、もう一手を欠いていた印象がある。デュトワは一口にいえば、N響を一挙に現代化した功績がある。オペラを含むプログラムの幅をワイドにし、アンサンブルの質という面でも、伝統的なドイツ的な堅固さを一部削っても、よりしなやかな表現力を手にできるようにした。ところが、彼が音楽監督を辞したあとは明確な方向感を打ち出せずに、あまりにも音楽の「民主主義」が進みすぎたように思われるのだ。

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2017年5月19日 (金)

ピンカス・スタインバーグ ベルリオーズ 幻想交響曲 ほか N響 オーチャード定期 5/7

【時代的矜持と良心の代表】

以前の来日が放送され、気になっていたピンカス・スタインバーグが、それから12年もの歳月を経て、再びN響の指揮台に立った。オーチャードホールは好きでなかったが、本拠地よりはマシであろうし、前半の独奏がアンヌ・ケフェレックということもあり、聴きに出かけた。メインの『幻想交響曲』も、生で聴くのは久しぶりだ。私の記憶に残っているのは、2006年のジョアン・ファレッタ(都響)による見事なパフォーマンスであり、スタインバーグの前回の来日と大差ない時期だ。私のなかではある程度、「解釈」が決まって、お蔵入りしていた演目ということになる。つまり、それを覆すに正当な根拠、発想力、イマジネイションを発することのできる演奏を選んで聴かなければ、意味がないことになる。さもなくば、私のなかにある音楽が改めて鳴らされるだけであり、目の前で鳴っている音は、ただのカラオケ音源にすぎなくなってしまうからだ。

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2017年5月15日 (月)

カンブルラン バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』 ほか 読響 567th定期 4/15

【イントロダクション】

かつて、日本では十分な準備期間がとれないことから、オペラは振らない(振れない)と明言していたシルヴァン・カンブルランだが、その後、読響と関係を深めたあとでは発想を変え、限られたリソースのなかでも、どうにかできないかと可能性を探るようになってきた。カンブルランは生粋の劇場人であり、その可能性を知らずして、彼の音楽を理解することなどできない。氏の構築する知的なプログラムも、ある意味では劇場的なドラマトゥルギーをそれぞれの演奏会にもたらそうとした結果であるとみることもできようか。かくして、読響とカンブルランにとって、節目ごとに刻まれるオペラ公演は活動の柱と位置づけられるようになってきた。『トリスタンとイゾルデ』、そして、『アッシジの聖フランチェスコ』といった目玉上演を中心に、彼らの活動は組み立てられるようになった。現在は、アッシジに向けて、歩を進めている最中である。

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2017年4月26日 (水)

ペドロ・アルフテル ヒナステラ バレエ音楽『エスタンシア』 ほか 新日本フィル ルビー・シリーズ #6 4/14

【カナリア諸島の優しい風】

スペインで活躍する指揮者、ペドロ・アルフテルが、新日本フィルに客演した。同団にはウィーンで同門だった当時の音楽監督C.アルミンクの招聘に応じ、2006年に初めて出演し、プロコフィエフの交響曲第3番などの演目で素晴らしい成果を挙げた。当時は英語読みで、「ハルフター」となっていた。同年の夏、彼の手兵であるスペインのグラン・カナリア・フィルを率いて、再来日を果たしている(そのときは『アルフテル・カーロ』)が、それ以降は本邦との縁が途切れてしまい、NJPへの出演も実に11年ぶりとなる。今回は母国スペインの曲目で固めたが、特にヒナステラのバレエ音楽『エスタンシア』で、ナレーション・歌唱のついた全曲版の演奏は我が国では珍しい例となる。会場は、すみだトリフォニーホール。

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2017年4月23日 (日)

寺岡清高 ツェムリンスキー 交響詩『人魚姫』 ほか 新交響楽団 237th演奏会 4/23

【イン・テンポで始まるビーダーマイヤー時代】

寺岡清高の指揮による、新交響楽団の演奏を聴いた。彼のつくった演奏を聴くのは、2007年のブルーメン・フィルに客演したとき以来のことで、いま、大阪響(旧大阪シンフォニカー)のポストにあるように、どちらかというと関西でプレゼンスを示している指揮者。関東では、アマチュアへの出演が多いという印象になる。もっとも本人はいま、ウィーン在住ということであり、この日のようなプログラムにも現地の風が吹くというはずであった。ビーダーマイヤーから世紀末的ロマンティシズムの終焉に至るウィーン音楽の精緻を確かめる試みは果たして、どの程度、成功したのであろうか?

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2017年4月10日 (月)

古楽アンサンブル コントラポント with ヴォーカル・アンサンブル カペラ モンテヴェルディ ミサ「イン・イロ・テンポレ」 ほか 3/17

【概要】

クラウディオ・モンテヴェルディの『聖母マリアの夕べの祈り』、通称して『ヴェスプロ』は、古楽の演奏家や研究者、愛好家にとっては、特別な意味をもつ大曲である。歴史的にも音楽の系統の「汽水域」に位置し、その原点において圧倒的な新しさを示した、作曲家の物凄さを象徴する作品である。宗教的な興趣に基づく純粋な感動、多様で味わいぶかい独唱および合唱と、器楽のゆたかなヴァリエーション。楽器構成の今日にはない特徴と独特の魅力を含めて、この作品を知って、深く愛さない人はないというほどである。

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2017年3月25日 (土)

エリシュカ ブラームス交響曲第1番 札響 2日目公演&東京公演 3/11、14

【ブラームス交響曲ツィクルス最終回】

首席客演指揮者のラドミル・エリシュカと札響が、ブラームスの交響曲ツィクルス最終回となる第1番を札幌と東京で演奏した。エリシュカはヨーロッパである程度、共有されている感じ方があるとして、それを日本に伝えることを目的にツィクルスを進めてきたという。ツィクルスの演奏はアルトゥス・レーベルによりすべて録音され、市販されている。ドヴォルザークのツィクルス公演をおえたあとで、チャイコフスキーと並行して、彼らが追ってきた新しい目標が一応の完結を迎える特別な日であった。札幌2日目の3月11日と、東京公演3月14日を追ったリポートを示す。

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2017年3月17日 (金)

今井顕のシューベルト D568 & D959 & トークタイム「タブーへの挑戦」 3/8

【ウィーン音楽とビーダーマイヤー】

今井顕は、ウィーンの最高楽府=ウィーン国立音大において、24年間の長きにわたって教鞭をとり、オーストリー政府より名誉教授の終身称号を得たピアニストである。古くはフリードリヒ・グルダ、現在もパウル・バドゥラ・スコダルドルフ・ブッフビンダーなどに継承されるウィーンのピアニズムは、きわめて特徴的な音楽である。フランスの瀟洒で色鮮やかなスタイルや、ドイツ・ピアニズムのカチッとした機能美とは異なり、貴族的な気品とともに、ある種の大らかさが感じられ、ウィンナー・ワルツに象徴される自由な揺らぎがあるせいだろう。ウィーンのピアニストは、圧倒的な技巧的な冴えや演奏の迫力で人を魅せるのではなく、自分だけにしかない意外なこだわりや、遊びの領域を広くもちながらも、現地特有の独特なプラットフォームを守り、めいめいの美学によって飾っていくのである。こうしたことの歴史的起源としては、ウィーン・ハプスブルク帝国のビーダーマイヤー時代に醸成された雰囲気が挙げられる。

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