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2019年10月 8日 (火)

アレクセイ・リュビモフ ピアノ・リサイタル オール・モーツァルト・プログラム 9/29

【ボーリングしながら1曲】

アレクセイ・リュビモフの、すみだトリフォニーホール(小ホール)でのピアノ・リサイタルを聴いた。東京公演のモーツァルトは当初、ここ1公演の予定だったが、全席完売を受け、前日に同会場で追加日程が設定された。モーツァルトに加え、リュビモフが温める同時代の作曲家にも目を配った公演で、初めからわかっていれば、そちらを選んだにちがいない。括弧付きの引退公演というプレミアもつき、出遅れた私が手に入れたのは「オール・モーツァルト」のほうの、最前列の席だった。

しかし、この位置ではペダルがよく見えた。鍵盤は見えないものの(もともと手もとが見える位置に布陣することは稀だ)、響きはよく聴こえ、足もとの動きと聴こえてくる音から、両手のアクションも完璧にイメージできた。河童の水かきの如く、自由自在に足もとを操り、操作されるリュビモフのペダル・アクションは繊細で、綿密に考え抜かれている。彼の演奏をみていると、むしろ、足もとの動きが全体を生かしているようにも思えた。新井健歩という作曲家/ピアニストが一時期、MIDIなどのコンピュータ技術を使って、新しいペダル機構をもつピアノを開発し、既存の曲であってもより自由に、思いどおりの表現ができることを追究していたのを思い出す。無論、それとはちがう発想だが、ピアニストの足もとについても当然のことながら、より慎重に注意してみる必要がありそうだ。

放送機材か空調の音だろうか、常になにかのノイズまじりではあったが、音量が増えると、それは目立たず、条件の悪さを吹き飛ばすインパクトのある演奏内容となった。なお、このホールには新日本フィルの室内楽などでも多く足を運んでいるが、そのときに、同様のノイズが聴こえた経験はなかった。例えば、絶対音感のある人だったら、相当なストレスだったかもしれない。誰よりも繊細なはずのピアニストには、どのように感じられるのだろうか。私は凡人なので、そこまでではない。リュビモフらしく、どこか現代音楽のようだと思えば、笑って済ませることもできた。

リュビモフのモーツァルトは悪くいえば、無邪気なイメージである。モーツァルトにはいくつかの固定したイメージがある。①シンプルで耳ざわりがよく、きれいで、誰にでも楽しみやすいというものと、②何を考えているのかわからず、神秘的で、意外な不協和音もあり、デモーニッシュだというものである。後者のイメージとして、フリーメイソンだったというような逸話も補強に使われる。だが、今回のパフォーマンスで、特に思い起こしたエピソードといったら、いわゆる「ケーゲルシュタット・トリオ」で、ボーリングをしている間に1曲を仕上げたというような筆の早いイメージである。一気呵成に、新鮮で、勢いのある作品を書く。そして、いくらかは・・・否、だいぶん挑戦的だ。歴史的には舞踊的なものが重くみられ、歌劇も重大な影響力をもった時期である。そのような注文にも応えながら、宮廷に仕える異端児、モーツァルトの独特な仕事の真実が明らかにされた。

【モーツァルトの未来をめぐるシュタッドラーの冒険】

演奏されたのは短調を基軸に、幻想曲とソナタ3曲である。K311 と K457 のソナタは、先に行われた仙台国際音楽コンクールでもどちらかを必ず弾くレギュレーションになっていたように、モーツァルトならばこの曲というほどの代表的なものであり、誰もが知っている作品を敢えて選ぶことで、彼の演奏や解釈を明瞭に伝える意図が明らかである。しかし、最近、武蔵野文化事業団から当の主催者であるMCSヤングアーティスツに移籍した「ミスターヤマネ」自筆による解説文をみると、少なくともモーツァルト晩年の幻想曲(未完)2曲については、A.エバーハルト・ミュラーと、A.シュタッドラーの手が入っていることが明らかにされている。前者は演奏される機会も多く、完成の度合いもより高いために、補筆者の個性を感じることはないが、後者はほとんどがシュタッドラーの作品といっても間違いではなく、よく耳を傾ければ聴こえてくるメッセージに満ちている。

アントン・シュタッドラーは当時の著名なクラリネット奏者としても知られ、ウィーン時代に、モーツァルトと親交があったとされる作曲家である。モーツァルトと同じ世代ではあるが、寿命の短かった彼より、数十年もながく生きた。未亡人コンスタンツェへのお悔やみでもある、この作品は、モーツァルトが開けなかった未来を探るように、新鮮な味わいに満ちている。コンスタンツェにどれほど音楽に対する理解力があったかは存じ上げないが、彼女にはシュタッドラーの想いが伝わっていたものと考えたい。つまり、それは音楽によって、モーツァルトの未来を甦らせるという、彼の友人にしかできない偉業であった。

同じ未完の幻想曲ではあるが、K396 と K397 は、かなり異なった特徴をもっている。シュタッドラーは教養人らしく、古典的な書法をいちおう守りながらも、例えば、一瞬でも後世の近代フランス音楽などを思わせるように自由で、メランコリックな筆致で、孤独にして神秘的、余人にとって予想もできないモーツァルトの未来を描き上げたと思う。やはりクラリネットの曲がよく知られているシュタッドラーであるが、それらと比較して、この作品はきわめて異質であり、いくぶんモダンな旋律の流れをもち、多分、バロック音楽などを参考にして、しかも、そこから大胆に逸脱した未知の領域を探ったものといえるだろう。これはシュタッドラー自身にとっても、大きな冒険だったはずである。

【棺桶から甦った死者は未来をめざす】

美しいフォルムの K397 は、いわば、この日の演奏会でもっとも模範的な古典的作品で、当時のオーソドックスな書法を示すものだ。幻想曲2曲では、リュビモフはこころなし丁寧な筆致をめざし、特に冒頭の K397 では徹底的にパーツを磨き上げた、ほぼ完璧といえる演奏を披露する。そこからスタートして、K311 のソナタでは思いもよらない無邪気さで、インパクトの強い打鍵、コントラストの強烈さを演出している。一瞬、あけすけなパフォーマンスは、明らかに先述の ① のイメージとはちがう。近年では、喪われつつある解釈といえるかもしれない。例えば、録音ではフリードリヒ・グルダにちかい。リュビモフがやるから、私たちもそれを即座に正当なものと認められる。だが、例えば無名な若いピアニストがこれとそっくり同じようにやったとして、彼のパフォーマンスを同様に素晴らしい解釈であると認めることは難しかろう。それほど、オーソドックスとはちがうモーツァルトだった。

静かで、優美なモーツァルトしか認めない、ある意味では趣味のよいマニアな聴き手がいるとして、そのような人からすれば、到底、認めがたい演奏である。打鍵は粗野で、きれぎれに聴こえるだろう。あるいは、死んでいると思っていた死者が、棺桶から甦るような感覚で、ぎょっとするのではなかろうか。

今回のリサイタルで特徴的なのは、素朴を旨とする最近のモーツァルト演奏の常識からは遠く、ペダルを細かく使用し、ダイナミズムにも拘り抜いたパフォーマンスである。モーツァルトの時代的な楽器では、オルガンの名残りでペダルが豊富にとりつけられ、足鍵盤を備えたものもあったという。私たちが古い楽器について誤解しがちな、素朴で機能の制限された・・・というイメージとは異なっていたのだ。リュビモフの演奏は、それを連想させるのではないか。殊更に(巨匠時代の)古いスタイルを追ったのではなく、モーツァルトの時代の音楽が楽器の面からみても、十分な活気に満ち、個性ゆたかに演奏され得たことを示すパフォーマンスだ。また、モーツァルトがより高度な技術のなかに生きていれば、当然、対応したであろう可能性を探る意味もある。

さて、K311 の演奏に戻れば、第1楽章はロンドー的に同じモティーフが重ねて演奏されるときに、その声がいつも違うように現れたのが印象ぶかい。一方で、中間楽章はひとりの声による祈りの歌、もしくは、オペラ的なアリアが丹精に歌われる。終楽章は技巧的な歌唱のようにも聴こえるし、シンフォニーの終楽章のようにダイナミックな味わいも持っている。そのように聴くと、ひとつひとつの音に意味と役割をもたせ、それらの個性を描き分けた上で、みごとに関係させていくリュビモフの神業が理解しやすい。

【ロングレールと、con esperssione】

前半の最後となった K310 は、非常にロマンティックな作品と思っている。やや音質も枯れぎみのリパッティの録音などで親しんでいたこともあり、必要以上に深刻なイメージで捉えていたが、リュビモフの演奏はまた独特なものだ。この作品が成立した背景には母親の死などが関係しているともいわれ、その雰囲気がないわけではないが、むしろ、第1楽章は技術的に興味ぶかかった。それは兄弟のように成立した K311 の短いクラスタの組み合わせとは異なり、いわば鉄道のロングレール(継ぎ目のない長めのレールで、騒音が少ない)のような形で製作されている。モーツァルトは父からの英才教育により、フィグーラと呼ばれる音楽の修辞法や、高度な対位法の技術を幼くして身につけ、そのために天才と呼ばれたが、これらを駆使する場合、音楽は細かく分断され、明確なアーティキュレーションを伴う形となりがちだ。K310 の作曲法は、それとはまた異なったクオリティを示している。これはあとの時間で、シュタッドラーの創作によって示したものにちかい。親しい友人が必死で考えた未来にも、モーツァルトは一足先に端緒をつけていたようである。あるいは友人もまた、それを知っていて、モーツァルトによる新しい書法を忠実に蘇らせたつもりだったのかもしれない。

アンダンテ・カンタービレの演奏が、なんとしても印象的だ。リュビモフのパフォーマンスはどの瞬間にも、深い緊張感が宿り、当該の作品の演奏で、しばしば悩まされるような con espressione を忘れた変化の乏しさとは無縁である。そこには必然的に組み込まれた音符の動きがあり、人間の複雑な感情の襞が描き込まれている。おわりの楽章で、慎重に組み立てられた対位法をクリアに描き出す手法もさすがだ。ベートーヴェンではそれが必須になるが、モーツァルトの鍵盤単独の作品で、その境地を感じさせる演奏は意外に簡単でなく、素朴で、淡い構造のなかに消えがちである。こういう音楽が聴きたかったのだ。やっとである。リュビモフはこれを序奏のように使い、その後の部分は多彩な響きで、一輪一輪の花々を丁寧に描き上げるように、複雑な響きの唱和を聴かせ、あるいは、踊り手がひとりひとり個性を放つコール・ド・バレのように振る舞わせる。みごとであった。

【死と再生、そして、未来】

休憩を経た後半は、愛らしい K545 から始まる。これは確か、ヤマハの音楽教室か、楽器の宣伝に用いられていたものではなかったか。当日の楽器がヤマハであったことを踏まえ、それをもじるわけでもなかろうが、前にも増して無邪気な演奏で始まった。あまり深く考えずに、子どもが弾くような感じだ。ところが、小節を経るごとに響きは熟れていき、ゆたかに、重みを増して、大人の音楽へと成長していく。そして、先の幻想曲を経て、K457 は愉悦的な演奏というしかない。既に、この演奏会のなかで馴れてきた野性的な響きも、この曲ではいくぶん熟成している。優雅で、気品のある音楽だ。それまでのオペラやバレエ、あるいは、管弦楽曲のようなイメージと比べると、彼自身が部屋のなかで楽しんでいた音楽のように聴こえるのだ。これを私は、「熟成」と呼びたい。アダージョもやはり、深刻にはならず、多彩な歌い方で聴かせる。シューベルトのリートのように。そして、オペラの優しいアリアのように。あるいは、ベートーヴェンの「悲愴」ソナタのような部分もある。構造をみごとに使い、これらの関係がシンプルな素材を深々と彩っていくのだ。ここに未来が、コンパクトに詰まっているようであっても、そうした一瞬の興趣は次第に薄れ、モーツァルトの深い内面世界へと共にダイブしていくことになる。いま、「沈んでいく」と書こうとして、私は表現を変えた。自ら潜っていくイメージだ。

この作品の終楽章にも舞踊的な音楽は潜んでおり、リュビモフはそれを活き活きと写し取っているのだが、それまでのパヴリックなものとは異なっている。これは正に、生き返ったモーツァルトが親しげに、大事な人と踊るパ・ド・ドゥのようなものだともいえるだろう。

この日を前に、リュビモフと同じように時代的な楽器を愛で、巧みに演奏したウィーンの巨匠で、高名な指導者のパウル・バドゥラ・スコダの訃報が届いた。同氏は以前、PCM(パシフィック・コンサート・マネジメント)によるサポートを受け、最後の来日と称する演奏会も済ませていたが、欧州ではなお精力的に活動しており、この程、リュビモフと同じMCSの招聘で、再び来日することになっていた。それとは無関係に組み立てられたプログラムではあり、演奏者からは特に、彼の死に対するコメントもなかったが、バドゥラ・スコダのことも大事に思う私からしてみれば、リュビモフの演奏会は素晴らしい追悼のようにも思えた。

この演奏会のテーマは死と再生、そして未来である。リュビモフは、既に将来の引退をちらつかせている。少なくともある程度の規模をもつコンサートホールでの、一般的なコンサートには乗り気でないと聞く。彼の特別な音楽哲学に基づいた、そして、愉しみでもある親密な演奏機会を除いて、最後の「遺言」となるような、お別れの旅が始まっていると思ったほうがよい。今回のメッセージのひとつは、モーツァルトに対する固定されたイメージをテコ入れし、伝統的な自由さへと誘うことだった。彼は敢えて、楽器も古いものを使わなかった。楽器の面でも、多様な解釈があり得るからである。日本の新しい技術に基づくピアノでも、十分に時代を感じさせる表現が成り立つのだ。しかし、それだけのことに飽き足らなかった。彼はシュタッドラーと、エバーハルト・ミュラーを配して、モーツァルトの知らない未来を描き上げようとした。特にシュタッドラーの創作は未亡人への思いやりとともに、亡き友人がもっていたであろう無限の可能性への想像力に満ち溢れている。長くモーツァルトによる真筆と信じられた幻想曲はシュタッドラーにとって、恐らく、もっとも優れた創作であり、すべての演奏家(ピアニスト)と作曲家、そして、私たち愛好家の気持ちを代弁するものともなった。リュビモフの声が聴こえるようだ。私が言いたいのはそれだけのことではない。私たちは過去を省みるだけでなく、未来を描くべきなのだと。

彼らの描いた未来とは、モーツァルトの僅かに先かもしれないし、あるいは、既に別の人類が辿り着いた港だった可能性もあれば、遠く後世に花開く世界であったかもしれない。これに加えて、アンコールではシューベルトを加えて、モーツァルトが切り拓き、別の個性が拾ったリアリティの凄まじさに迫っている。早書きで、悪戯っぽく、挑戦的なモーツァルトの演奏と、より素朴で、優美さに憧れながらも、孤独に世を去ったシューベルトでは、演奏法も異なるはずだ。だが、歌うことの素晴らしさと、神への感謝の気持ちではすこしも変わらない。アンコール1曲目の即興曲 D899-2 は、正直、こうしたリサイタルでよくある例かもしれない。つづいて、D899-3 も珍しくはない。しかし、リュビモフは急にインスピレイションが湧いたかのように、続けざまに D899-4 を弾き始めた。これには驚き、思わず涙が溢れた。シンプルな旋律と、フォルムの重ね合わせ、そして、その巧みなずらしである転調。よく知っている曲なのに、途中から、まるでモーツァルトの作品を聴いている気持ちがした。この偉大な才能に、未来がひれ伏しているのだ。

【完璧な精度と一回性】

ロンドーやソナタ形式のもつヴァリエーション的な側面も、この日の演奏で印象に残った部分のひとつだ。こうした形式が将来、ロマン派の寵児となり、ブラームスの決め技になっていく。古典における繰り返しは後世からみて無駄であるともされ、当時の主な聴取者が真剣に集中した音楽愛好家ばかりでなく、むしろ、音楽よりも社交に関心のある王侯貴族らであったことも考えると、なるほど、今日的には無駄と考えるにも一理がある。だが、そのような遊びの部分にこそ、演奏者と聴き手の立場でのコミュニケーションの余地を探ることもできるのだ。この点で、リュビモフの演奏は特筆してメッセージゆたかである。シューベルトの即興曲がアンコールに選ばれたのも、この流れから必然だったとみるべきである。

ピアニストにとって、即興とは何だろうか。往時にはある意味では曲芸的な、自己PRとしても用いられた。例えば、モーツァルトはライヴァルの音楽家たちと腕を競い、J.S.バッハは息子のエマニュエルが仕えるフリードリヒ大王の御前で、多声フーガの即興演奏を所望され、いちどはみごとに応えてみせた。次の日に出された難しすぎる要求にあとから綿密に応えたのが、『音楽の捧げもの』である。このようなPR活動や、顧客とのコミュニケーションが当時は欠かせないものだった。

通常、クラシック音楽の演奏においては即興性より、精確で、根拠に基づく蓋然性の高い再現性、一貫性のほうが重要視される。しかし、リュビモフがもっとも重くみるのは、たとえ同じアーティストによる、同じ曲の演奏であっても、二度と出会えない音楽の一回性だ。完璧であり、初めて出会うような音楽であるという矛盾した条件を満たすのが、プロの音楽家の本分である。モーツァルトは、1回1回がそれこそ特別な音楽になる要素が深い。ある瞬間に印象ぶかく受け取られたものは、一生ものとして胸に残るだろう。例えば、私にとっては、ユベール・スダーンと東響による交響曲第40番の演奏などは、そのひとつに数えられる。一方で、そこまで到達するのに邪魔するものが多い作曲家なのかもしれない。今度のリュビモフの演奏は、墓場まで引き摺っていくことになりそうだ。

予定どおりであれば、彼は来年も日本を訪れて、演奏を披露してくれるはずである。その先のことは、まだ誰にもわからない。モーツァルトはともかく、シルヴェストロフやウストヴォリスカヤでさえも人が呼べるピアニストといったら、彼以上の存在は今のところないわけで、彼がどんな形であれ、演奏を披露しつづけてくれることを願うファンが多い。彼の響きから受けとる、一期一会の体験をまだまだ重ねたいと思う。一方で、彼が伝えたかった音楽を継承する若者たちの探索にも身を削らなくてはならないだろう。例えば、モーツァルトに用意されていた未来を探るのに、シュタッドラーでは明らかに力不足であったろうが、それでもあれだけの仕事をしてのけたのだ。ある意味、そこがいちばん印象に残った。今回、リュビモフが仕込んだオール・モーツァルトの裏に隠れた、別の作曲家の存在について、私は深い感銘を受けた。素晴らしい仕掛けだった!

【プログラム】 2019年9月29日

オール・モーツァルト・プログラム
 1、幻想曲 K397
 2、ソナタ K311
 3、ソナタ K310
 4、ソナタ K545
 5、幻想曲 K396
 6、ソナタ K457

 於:すみだトリフォニーホール(小ホール)

2019年9月 7日 (土)

東欧の調べ スロヴァキアのユース合唱団 Cantica Nova を迎えて ミクロコスモス(主催)+アンサンブルAMU 9/7

【奥ゆかしい Cantica Nova】

スロヴァキアのトルナヴァで、設立から50周年を迎えるユース合唱団 Cantica Nova の来日に合わせて開かれた「東欧の調べ」というコンサートを聴いた。国の重文に指定されている上野の東京音楽学校旧奏楽堂には今回、初めて入った。中身はリノベーションされ、古き木造建築のクオリティはさほど感じず、音響はややデッドな上に、壁も薄いが、小規模なオルガンが設置され、舞台と客席の間にある空間は多分、ピットとして使用できるものと思われる。限られた空間に、当時(明治23年建設)の音楽活動に当面、必要であった施設がコンパクトに詰め込まれていたことが想像できる施設だ。外観が、特に建設当初からの雰囲気を保存する。

日本でいうところの中高生あたりで構成されたスロヴァキアのアンサンブルは、その歴史のなかで国際的にも繰り返し評価を受けてきたようだ。高度な訓練を受けてきたとしても、それを露骨には示さない奥ゆかしさ、ナチュラルで人間くさい歌唱が特徴である。今回は男声の3倍くらいの女子で構成され、特に女声の内声部に厚みがあるのが印象ぶかく、高音は滑らかだ。主旋律をシンプルに盛り上げ、敢えてハーモニーを立たせず、和声が自然に追従していく薄味のアンサンブルに味わいがある。響かないホールだったこともあるが、声量も派手に使うような傾向ではない。これは以前、レオシュ・スワロフスキーが都響と共演させ、私が深い感銘を受けたスロヴァキア・フィルハーモニー合唱団の特徴ともちかく、同国コーラスの伝統の一端を教えるものだ。

トルナヴァはかつて、ローマ教会の司教座が置かれた伝統をもつ都市であり、そのレパートリーには当然ながら、宗教的なモティーフをもった作品が多いが、当夜、歌ったもののなかにもルネサンス期のヤコブス・ガルスという作曲家のものがあり、より深い音楽の伝統とも自然に結びついている。一方で、アンコールで歌った作品のひとつはオーストラリア出身の作曲家のもので、神を讃える内容であるといいながらも、ポップス調であり、しかも、英語であるが、それもきれいに歌っており、アンサンブルがインターナショナルな感覚にも満ちたモダンな集団であることも窺わせる。祖国を代表するスホニュの『美しいわが祖国』に始まり、つごう10曲、9人の作曲家の作品には、隣国を代表するドヴォジャークなども含まれ、「離婚」後も、両国が文化的には高く認め合っている印象を感じさせた。

【ヤシュルドヴァーとケドロフ】

この日のメイン・プログラムはスロヴァキアで学び、同地で活躍したソプラノ日向野菜生を独唱に立てたマーリア・ヤシュルドヴァーの作品で、『ポリャナで』という佳品である。合唱がクラスタ気味に息づかいで示す風の音に始まり、独唱と合唱が起伏ゆたかに対話する3曲構成。この日、最初の2曲は切れ目なく歌われた。何気ない日常のやりとりをユーモラスに象り、子守唄や、別れゆく恋人同士のかみわない対話、愛情のなくなった夫婦などのモティーフが歌われる。ララバイは死や不幸への不安と向き合い、自然災害が恋人たちの間にあったひびを決定的なものにして、7年妻と会わない夫を誰かが誘惑する。単純なモティーフに多義的なものを忍ばせつつ、反対に、猥雑な比喩を想起させておいて、実はその邪推を裏切る自然的な美しさとを意図的に対置する仕掛けに満ちたポエジーが窺える。押し出しの強い日向野の声は、淑やかで慎み深いフレッシュな歌声と完全に調和していたのだろうか。また、言葉がきれた後にまた最初のように、風の音が鳴るはずだったようだが、流れが途絶え、客席からも拍手が起こってしまったがために、そのままおわるというアクシデントも発生した。別段、飛び出し気味の拍手だったわけでもないのだが。

私が気に入ったのは、ニコライ・ケドロフの『主の祈り』である。この作品で知られるロシアの作曲家は1871年、ペテルブルクの生まれ。子孫も音楽家である。いくつかの楽区が構造的につくられ、ミルフィーユのように薄い響きの層を丁寧に重ねながら、Amin が重なって祈りがおわる。ややしめやかな Amin のあと、最後、顔を持ち上げて元気よく締めるのが Cantica Nova 風だろうか(いくつかのヴァージョンがあるような気がする)。お国もののパヴォル・プロハースカ、イヴァン・フルショフスキー、ヤーン・バラフといったところは、特に歌いやすく、それぞれにモティーフは異なるものの、親しげな雰囲気を感じられた。「離婚」してよき友達にもどった両国、イジー・ラブルダ、ドヴォジャークというチェコの作曲家も、言葉の共通点などあり、比較的、理解もしやすいのだろうが、幾分、おとぎ話のようにも聴こえるのが面白い。このような批評が正しいかどうかはわからないが、それに比べると、スロヴァキアの歌はどちらかというと素朴で、人間や、生活に根差している感じがする。ところが、同時代のヤシュルドヴァーは、チェコ的にファンタジックな曲想も加え、コスモポリタンであった。

【ユニークなマドリガーレ・ソナタ】

彼らを迎える日本側のホストとしては、アンサンブルAMUが2曲を披露した。ピアノの沢由紀子さんを中心として、他にヴァイオリンとフルートで構成されるトリオは、全員がHAMU(プラハ音楽アカデミー)の出身でそれをもじって・・・というわけでもなくて、沢の実家のおばあちゃんが営んでいた編み物やにちなんだ名前というのは意外なとことである。ヨゼフ・スクの短いバガテルは舅であるドヴォジャークを受け継ぐ大らかな旋律の上で、ヴァイオリンの小技が効き、その部分はヤナーチェクの発話的な旋律に倣うかのようであった。

2曲目のマルティヌー『マドリガーレ・ソナタ』はきわめて技巧的だが、ユニークな楽しみのある作品だ。ソナタと称するように、やはり構造的な作品にはちがいない。第2部の宴たけなわなるところで、おもむろに流れが打ち切られ、最初のほうに現れたシーケンスに遡る。同時代フランスの華やかで、活気のあるアンサンブルに乗せて楽士登場というエントランス風に奏でられた響きは、おわりのほうでは、舞踏会がはねる寂しさを告げる響きへと転回し、すぐにはコーダに入らず、おずおずと、しかし、最後は華麗に幕を締める。「マドリガーレ」は周知のように、中世の歌曲の形式のひとつで、モンテヴェルディの作品群などが特に有名である。マルティヌーの作品は殊更に新古典的ではないが、フルートの細かいタンギングや、ヴァイオリンのピッチカート、それぞれの躍動的な動きを通じて、これまた声楽的なアヤをつけている。このような特殊技能を駆使した作品が、この3人は特に巧みのようであった。なお、ピアノ=沢のほかはヴァイオリン=生方真里、フルート=鈴木真紀子。それぞれ大学や音楽スクールで講師を務め、マルティヌー協会日本支部のプレジデント、もしくは会員という。

【慣れるしかないわ】

スロヴァキア側からは指揮者で、Cantica Nova の会長である ガブリエル・カラポシュ氏が参加。アカペラ曲が多いものの、一部の曲で共演したピアノのマルティナ・トマソヴィコヴァもジャンルを選ばず、好演であった。今回のツアーの世話役でもあり、演奏会の司会は、「ミクロコスモス」というアンサンブルを主催する指揮者の久保田洋氏。MCではカラポシュ氏に体重を聞いたり、合唱団で青毛に染めた令嬢をつかまえて、「お父さんはどういっているの?」と質問するなど、自由すぎた。「慣れるしかないわ」とのお答えがもっともだろう。なお、ほとんどの子はブロンズや栗毛である。最後、手を振って去って行くのが可愛らしかった。8日に町田市のプロジェクトに参加して、国際版画美術館のロビーで30分ほど歌い、帰国するそうだ。台風の影響がなければいいが。日本でのことが、よい思い出になるなら幸いだ。

2019年9月 2日 (月)

指揮者ラドミル・エリシュカが亡くなる~日出ずる国に愛された老年のミューズに捧ぐ

指揮者ラドミル・エリシュカの訃報が、徐々に広がってきています。9月1日、この愛情ぶかき指揮者は恐らくプラハで、88年の生涯を閉じたとのことです。世界中で活躍した高名な指揮者ほどには大きく伝えられていないけれど、例えば、twitter で「エリシュカ」というキーワードで検索するだけで、彼がこの国で残した足跡の大きさが窺えます。ついに、この事実を受け止めるべき時が来ました。まずは、深い哀悼の意を捧げ、同時に感謝の言葉を記したいと存じます。彼が指揮台に立つというだけで、全国の音楽ファンがその場に足を運ぶべきか悩み、多くの方が実際に動かれたことは記憶に止めておきたいと思います。そして、いちどそれをやってしまうと、もはや、その誘惑に二度と逆らいがたくなるような誠が、彼の演奏にはありました。

個人的なことをいえば、エリシュカさんの札響での2回目の演奏会から、そういう立場になったのです。氏の来日は年間2回ほどでしたが、そのペースに合わせて、札響の定期を中心にずっと聴いてきました。その最初の機会となった演奏会では、私がこよなく愛するドヴォジャークの交響曲第6番がプログラムされており、ヤナーチェクの演目も入っていました。これがのちに続くドヴォジャーク交響曲シリーズの初回に当たります。正直、感心しないロビーでの室内楽に不安感を覚えながら聴いた、本番の素晴らしさはどうして、筆舌に尽くしがたいものがありました。当地では、それ以外の人たちとの出会いもありましたが、これに限らず、エリシュカをめぐる旅を通じて、多くの人々を実際に繋ぎ合わせたことも、彼の功績のひとつだといえます。人々から注目を集めることで、オーケストラは確実に自信をもち、急速にレヴェルアップしていきました。たまにしか聴かない分、その進歩が客観的によくわかるのです。最近はロビコンも素晴らしくなり、メンバー交代もありながら、楽団の方が確実に階段を上っているのがわかります。いまでは、待遇のよいN響、読響、京都市響などにも、尾高=エリシュカ時代の同志たちが散る一方、若く優秀なアーティストが穴を埋めて、北の大地を楽しませています。

その後、日本にも様々な変化がありました。エリシュカさんがコツコツと人気を高めていく中で、2011年には東日本大震災と大津波が発生し、原発事故が起こって、日本に来ないアーティストが多くなる中でも、エリシュカ氏は予定通りに日本を訪れて、指揮を振ってくださいました。震災からまだ1月余しか経っていない4月、札幌でのドヴォジャーク『スターバト・マーテル』の公演はディスク化されなかっただけに、いっそう、胸のなかにふかく鳴り響く音楽となっています。エリシュカさんがしっかりした作品と認めるドヴォジャークの5番以降の全交響曲に加え、チャイコフスキーの後期3交響曲、スメタナの連作交響詩『わが祖国』、そして、最後となったリムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』を録音したレーベルは、エリシュカの招聘とプロモートに関わった個人的なところでした。また、Altus は、ブラームスと大阪フィルの録音に手を貸してくれ、日本コロンビアは佼成ウインドオーケストラでの録音に関係しています。

ある意味では、私たちのオーケストラと、それを支えるコミュニティは晩年のエリシュカの功績を引き出したともいえます。それがなければ、エリシュカはチェコの音楽学校で、ヤクブ・フルーシャをはじめとする後進に対し、知る人ぞ知る影響力を与えた指導者としてしか、知られなかったかもしれません。願わくはもっと広い世界に向けて、今日、まったく忘れられている誠実そのものの、滋味に満ちた、本物の演奏を発信できればよかった。そうはならなかったとしても、私たちは十分によくやったと思っています。

ところで、氏のプロ―ヴェは厳しく、やや不器用なものだったと聞いています。初めてのオーケストラでは、関係者は彼のこころがちゃんと理解されるのか、不安に感じていたと聞いています。結果的には多くの仲間たちが、彼の発する ’Ne!’ の声を温かく受け容れることができるようになりました。特に札響と大阪フィルが、体調悪化による引退まで、彼の仕事の重要なパートナーになりました。関係者の多大な苦労は想像だにもできません。一方で、それぞれの地で音楽を愛する者たちが彼のことを家族のように迎えたのです。

エリシュカは日本で吹奏楽団を含む8つのプロ・オーケストラ(9つ目になるはずだった新日本フィルは引退決定によりキャンセル)に客演し、その多くで再登場を果たしていますが、もうひとつ、恒例の音大フェスティバルでも指揮し、首都圏の意欲ある学生たちとも交流した結果、彼らの発する鮮度の高いなエネルギーもまた、エリシュカの人気に一役買っていたと考えます。そして、引退して容易にお会いできなくなった後も、日本のことを気にかけて、札幌での電力ブラック・アウトや、何か大きなことがあると、逸早くメッセージを送ってくださいました。私たちのことを絶えずこころにかけて下さっていた紳士も、いまや天に召されたのです。札響で彼の応援団長だったヴァイオリニストの石原ゆかりさん、彼の活動の基本となるものを教えたブルジェティスラフ・バカラ先生とも、旧交を温めていらっしゃるのでしょうか。日本にもつきっきりでいらした素晴らしい奥さまのお気持ちを思うと、とてもやりきれませんが、エリシュカさんも愛を注がれていた、ご家族が支えて下さるにちがいありません。

この悲しみはチェコに行かれないのであれば、札幌で雪ぐよりほかにないでしょう。札響の10月定期『ヨハネ受難曲』の演奏会に行くかどうかを悩んでいましたが、この報を聴いて、一気に手配済みとなりました。尾高=エリシュカ体制を継ぎ、現在のマティアス・バーメルトにバトンを繋いだマックス・ポンマーの指揮です。これ以上の演目はありません。

2019年8月30日 (金)

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』 演奏会形式 イェヌーファの会(主催)

【2017年からのアップグレード】

2017年に第7回「ヤナーチェク・ナイト」で披露された『イェヌーファ』の形式は、予想以上に多くの実りを与えた。イェヌーファとコステルニチカの養母子に、ラツァを加えた3人だけのキャストを用意した抜粋で、司会メンサー華子がストーリー・テリングを担い、伴奏はピアノに、一部、シュテヴァが歌うはずのモティーフを演奏するなどの目的でヴァイオリン1本を加えたものにすぎなかったが、どうして、その成果は素晴らしいものだった。関係者はそれに満足せず、2年後にキャストをすべて揃えた全幕上演を実現した。ピアノとヴァイオリンに加え、今回は歌劇のなかで、同様に重要なモティーフを担うシロフォンを追加。新国立劇場(2016年2月にイェヌーファを上演)スタッフの城谷正博が指揮に加わり、演出家の粟国淳が全体のステージングをサポートする立派な公演へとアップグレードされた。東京文化会館の小ホールは、ほぼ満席にちかく埋まった。

前奏曲の冒頭から不安のモティーフとして鳴るシロフォンの響きが加わり、ヴァイオリンのモティーフも頻繁に奏でられる第1幕の音楽的構成は密度が高く、室内楽的に完成している。2年前の公演から、上記の三役は変更せずに上演できたことも大きい。加えてブリヤ家の女主人は当役ではお馴染みの与田朝子で、イェヌーファ、ラツァとともに、序盤の展開をソツなく埋める。題名役の小林厚子は前回の公演で特に印象的な存在であったが、今回はさらに深みを増した歌唱で、役に馴染んだといっても過言ではないようだ。その見せ場はなんといっても第2幕にあるが、その模様については後述する。

ラツァ役の琉子健太郎は高音が詰まり気味になり、居丈高に振り下ろすような声になってしまうときがあり、技術的にはいくつかの課題があったものの、内面的な表現には優れている。彼が魅せたのは第1幕のおわり、ラツァがイェヌーファの頬を傷つけてしまう場面で、直後に動揺して、彼女の名前を連呼するとき、一瞬だが、深い愛情を示すところだ。彼の行動はいわば元カレによるストーカー行為に値し、自分自身が難しい状況に陥った後であるとはいえ、イェヌーファがみずから彼の行動を赦し、共に歩み出すまでの過程は現代人にとって疑問が多い。粉屋の親方などは、ラツァがわざと刃傷に及んだと思っている。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。ヤナーチェクはオペラのなかで、多義的に解釈できる要素を多く入れるのが特徴だ。ラツァにも弁護の余地はある。

【ラツァによる刃傷の意味】

仮にコステルニチカを神であるとすると、そして、また、イェヌーファがイエスであるなら、ラツァとシュテヴァはそれぞれユダとペテロに値する。面白いのは、ヤナーチェクがユダに同情的である点だ。神(コステルニチカ)は自らと、イエスを拒んだペテロをふかく憎み、実際、ともに沈む。これと比べると、ユダはイエスを傷つけたにもかかわらず、最後にはすべてを正しい方向へと導くのだ。まるで、ユダがもっともイエスをよく理解した使徒であり、イエスが特に彼を選んで裏切りを指示したという、グノーシスの一派『ユダによる福音書』を遺したグループの考えにちかい解釈ではなかろうか。ラツァが暴力によってイェヌーファを裏切った、その瞬間にこそ、最高の愛があるのだ。その後の物語は、これを読み解き、確認していく過程にすぎないともえいえる。

この愛について、私はこれまで、何回か接した『イェヌーファ』の公演では気づくことができなかった。むしろ、そこにあるのは生煮えの素材であり、その後、熟成していく想いの、尖った欠片のようなものにすぎないと感じていたのだ。人間は成長するという単純至極な見方によって、このような解釈は容易に根づきやすい。だが、現代的にみれば、女性の側からみてラツァによる刃傷は許しがたく、後戻りのできないものにみえるだろう。それならば、やや出発点が複雑なものにはなるものの、ラツァの行為がもともとイェヌーファの訴求によるものだとすれば、矛盾はずっと小さくなる上に、第3幕の台詞などにもよく整合する。

もっとも、この日はプレトークでピアノ版で披露された序曲『嫉妬』が作品冒頭に置かれていたことから導かれる解釈を重くみており、序曲が最終的に破棄されたとはいえ、音楽的モティーフからみても、異父弟に対する嫉妬がラツァの刃傷にとっての起因であったことも疑いがない。このオペラがヴェリズモ的な単純さを示す印象もまた、否定できないのだ。作品に描かれる心理的に複雑な過程にもかかわらず、ラツァだけではなく、コステルニチカも衝動的な行動をとる。第2幕でシュテヴァへの希望がほぼ完全に絶たれたのち、次に期待を賭けるラツァがシュテヴァの子を育てねばならないのかと嘆いた瞬間に、彼女はまだこの世に在る嬰児が既に亡き者であると断言してしまうのだ。この場面には息を呑む。この決定の裏にはシュテヴァへの深い憤りや、自らの立場を守りたい社会的な防衛本能が働いているにちがいない。しかし、よく見てみれば、ヤナーチェクはそのような衝動だけでは、人は動かないと断じているのである。第3幕でみられる、コステルニチカの自己分析は正しくない。やはり、これは打算的なものよりは、愛情に導かれていると思うほかない。人々は他者への特別な愛情のためなら、罪をも犯すだろう。

【イェヌーファは夢の中にいたか】

全幕上演に変わり、イェヌーファ&ラツァの関係だけに止まらず、もっとも存在感を増すのはコステルニチカであった。ベテラン歌手の森山京子は2回目の上演で、いっそう強烈な役づくりを披露したが、それでも音楽や技術のフォルムが一向に崩れないのはさすがというほかない。赤子をおくるみに包むような仕種をみせたあと、舞台のやや前方に進み、まるで歌舞伎役者のような大見得を切ったあとで、裏に消えていくときの迫力は一種のトラウマになりそうなほどだ。こんな強烈な「打算」などあるわけがない。G.プライソヴァーが事実に基づいて仕立てた戯曲『あのひと(女)の養女』を、ヤナーチェクはほとんど変えずに使ったそうだが、それにもかかわらず、音楽や構成の妙により、強烈な異化が生じている。

第2幕はコステルニチカの決断と、つづくイェヌーファの夢遊病的な「狂乱の場」が対応的に書かれている。彼女は聖母マリアに祈り、美しい晩祷が旋法的な響きで歌われる。ここでイェヌーファは、コステルニチカと同じ(そして、マリアとも重なる)母としての格を獲得するのである。今回の舞台は照明をうまく使い、第1幕を夕べの薄暗さ(むしろ明るみ)のなかに、第2幕はより深い暗闇、そして、第3幕でやや光量を上げて描き上げる工夫をみせた。粟国淳がそれ以外でアイディアをみせたのは、コステルニチカとシュテヴァの会談が決裂し、シュテヴァが逃げ去っていく場面で、裏から姿を現したイェヌーファが母と声を合わせて、シュテヴァの名を呼ぶところである。このドキリとする場面は、またも解釈を複雑にする。既述のように、コステルニチカは嬰児を亡き者にしようと連れ去ったあとで、イェヌーファの独白が始まる。これが、まだ夢のなかである可能性が露骨に生じたのだ。実際、第3幕でコステルニチカはイェヌーファが数日、目を覚まさなかったと言っている。それは普通、咄嗟にでた嘘だと思われるのだが、事実と受け取った場合には、当時のイェヌーファは夢のなかで歌っていたことになるのだ。

その後、イェヌーファは夢心地から醒めて、帰宅したコステルニチカ、使いから戻ったラツァと話す場面があるのだが、やや強引ではあるものの、これもまた夢として解釈してみるとしよう。すると、イェヌーファは第1幕の最後から、ほぼ直接的に第3幕の結婚式に飛んだことになる。その間に起こった、様々な逸話については省略されているのである。ここで重要になるのは、第1幕で示されたラツァの深い愛情だ。それが明確ならば、結婚式の場面も決して矛盾とはいえない。この詩的な跳躍は、私の気に入るものだ。粟国やキャストたちが、それをハッキリと意識したかどうかはわからない。だが、私にはもうひとつの道がみえたのだ。

【隠された行動原理~発話旋律】

第1幕と第3幕で共通するものとしては、スラヴ的な祝祭の音楽がある。第1幕ではシュテヴァが帰郷した兵隊の若者たちをおおぜい引き連れて、楽士を招き、ドンチャン騒ぎをする。第3幕では、乙女たちがイェヌーファの晴れ舞台をせめて華やかにするために騒ぐのだ。前の公演で活躍したメンサー華子を中心に、こころから楽しげなアンサンブルは見ているほうが羨ましくなるほどである。目的はちがうものの、これらが一直線に貫かれることも、夢を飛び越して現実が繋がる構造を感じさせる。なお、この作品におけるヤナーチェクの音楽は大きく3つの要素にわけられる。「発話旋律」と呼ばれる、苦心して生み出されたデクラメーションによる心理描写を、詩的に構成する音楽が、もっともみごとであるのは明らかだ。しかし、いまのような祝祭的な活き活きとした音楽や、堅固な伝統に基づく宗教的な音楽の構造美も見逃せない。

第一の要素についてもっとも印象的なのは最後の幕で、式に割り込んできた子ども(演じたのは複数の端役をこなしたメンサー華子)が嬰児発見を慌てたような早口で報告する場面だ。この1分にも満たない局面が、2時間にわたる歌劇の種明かしになっていることはなかなか気づかれないし、私も当夜、初めてそれを意識した。だが、この場面を境に祝祭的なムードは消え、罪の告白と贖罪が行われる。ほとんど神としてのコステルニチカは転落し、社会的な富貴であるシュテヴァも同時にすべてを奪われる。これはいわば、それまで神秘主義的、カヴァラ的に展開した物語と音楽の秘密が曝露されたときの罪科のようにも聴こえるのだ。この歌劇には見かけ上の激情や、ヴェリズモ的な振る舞いのほかに、とりわけ言葉と密接に関連した隠された行動原理が潜んでいるのかもしれない。それはもちろん、グノーシス主義やユダヤ教の教えの一部にも似た具体的な対象から直接、導かれるものではなく、いわば書いた者にしかわからない秘密というべきであり、表向きとは異なる飛躍が面白い。そして、この場合、子ども(牧童ヤノ)による罪の告発は二重三重に譬喩的なのだ。

この日の公演は、そうした秘密に限りなく近づいたように思えてならない。正直、ここまで揃えればオーケストラでの上演が恋しくなるが、それ以上に見どころのある舞台であった。音楽スタッフはピアノに北村晶子(藤原藍子もプローヴェをサポート、プレトークで『嫉妬』連弾演奏にも参加)、ヴァイオリンにピルゼン(プルゼニ)で長く音楽活動に携わって帰国した山﨑千晶、シロフォンは竹内美乃莉。北村は複雑なスコアを緻密に再現、山﨑も相当の訓練を積んで、この日に臨んだことがわかる。言語指導は、このグループの活動に指導的な役割を果たす西松甫味子だった。

【プログラム】 2019年8月22日

ヤナーチェク 歌劇『イェヌーファ』(演奏会形式、室内楽伴奏)
 
 於:東京文化会館小ホール

2019年8月 3日 (土)

新海誠監督 映画『天気の子』~徹底した異化と、見えないものをみようとする努力

【二部作】

映画『君の名は。』の爆発的ヒットで、新海誠監督はマニアックだが、独特のこだわりのある個性派のクリエイターという位置づけから、大資本がリソースを集中し、過剰と思えるまでのコマーシャリングをかけても十分なリターンを計算できる存在へと進化を遂げた。一作前の『言の葉の庭』が1時間にも満たないコンパクトな作品で、1000円で観られるという戦略からリピーターが急増し、尻上がりのプチ・ヒットを飛ばしたことと比較すると、圧倒的な飛躍である。ここで培われた習慣が、長編映画のヒットにも少なからず貢献したことは明らかである。作品の魅力にとり憑かれた者たちは自宅のDVDを再生するように、映画館に向かい、金銭や時間というリソースを惜しげもなく消費して、作品を味わい尽くしたいと願うようになった。通えば通うほど、愛情は募っていくものだ。作画の圧倒的な美しさと、素晴らしい音楽とのタイアップは、スクリーンで繰り返しみる欲求を生ぜしめるに十分だった。DVDや、テレビ放送を待つというわけにはいかないのだ。

新海にとっての強みは『言の葉の庭』以前に、『雲のむこう、約束の場所』と『秒速5センチメートル』というクオリティの高い作品を残していたことで、『君の名は。』のヒットにあわせて、これらの作品もスクリーンで上映されることになるが、毀誉褒貶もある新作に比べると、これらの作品にケチをつける言説はあまり目立たなかった。ユーモアのすぎた性的描写や、思春期の少年の内面的な問題が大袈裟な事件(彗星落下と町の消滅)に結びつくストーリー構造、そして、青くさい恋愛の描写に批判も根強いが、最新作『天気の子』はそれらの言説と関係なく、公開11日にして、既に40億円を超える興行収入を稼ぎ出すドル箱として機能しており、勢いに翳りはない。

『言の葉の庭』をプレリュードとして、『君の名は。』と『天気の子』は二部作のように書かれている。どこか主人公たちも、似通っているのは偶然ではない。しかし、Trionfi という伝統でいえば、ちかい将来、さらにもうひとつ兄弟作が加わることも予想される。

【筋書きよりも視点の映画】

本作の弱点は、ストーリーの弱さにある。家出して上京した少年と、親を喪って貧困生活を送る少女が出会い、短い間でも、100%晴れにできる少女の特殊な能力を商売にしているうちに、予想どおり、矛盾が生じ、罰を受けるように少女は天の側にとられてしまう。少年は警察の勾留から抜け出したり、困難を切り抜けて、少女と再会し、再び悪化する天候と引き換えに、彼女との関係を取り戻すという物語だ。ファンタジーとしては、意外な要素がほとんどない。ああなって、こうなるだろうというのが予想できる。その点では、わかりやすい映画だ。しかし、この筋書きのなかに入りきらない、胸を絞めつける要素が多くあることを見逃してはならない。もっとも大事なメッセージは、不可視(インビジブル)なものへの想像力ではなかろうか。

例えば、私たちが見上げる空に、水があるという発想だ。これは実に身近な体験であり、空に水蒸気の粒が集まった雲ができ、それが発達すると雨が降ってくるということは、ほぼ誰でも知っている科学的事実であろう。それにもかかわらず、空に水があると言われると、パッと呑み込むことができない。こうした現象を、異化と呼ぶこともできる。これは、次に重要なキーワードだ。

気候変動が進むと、極地の氷が解け、海抜の低い島嶼国などは海に沈んでしまう危機を迎える。これもよく知られており、気候変動については、国際的な枠組みの中でも議論されている。だが、実際に東京やニューヨーク、ロンドンなどに住む人たちは、しばしば、このような問題を忘れている。我々が森林を切り倒し、化石燃料を用い、生活や産業に必要な、あるいは、それらを快適、便利にするエネルギーを多く用いることで、変動の幅は大きくなる。天気の子がもつ特殊能力のメタファーは、実は非常に身近なことに基づいているのだ。

それに対する罰があることも、私たちは十分に知っているはずではなかろうか。例えば、日本では毎年、異常な量の降雨が発生し、河川の氾濫や土砂崩れを引き起こすようになった。『君の名は。』の筋書きが明らかに東日本大震災と大津波に関係していたように、『天気の子』もこれらの時事問題とつながりがあるのは想像に難くない。日本だけではなく、欧州でも今夏、しばしば熱波が襲い、南仏など、広い地域で40度ちかい高温を記録しているそうだ。ところが、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」というように、こうした感覚を私たちはすぐに忘れてしまうものでもある。季節が急になくなるわけではなく、夏は暑かろうし、冬には寒くもなる。異常が顕著に起きたときだけ、これは由々しき問題だと感じるにすぎないのである。

『天気の子』は意識しなければ、決して見ることのできない存在を中心に描いている。主人公の2人の境遇が、まず、そうだ。家出少年と、親の庇護を失って子どもだけで成り立つ家庭である。島から客船に乗り、家出した少年はネカフェで寝泊まりし、当面の仕事を探すが、うまくいくはずもなく、毎夜、ハンバーガー・ショップで飲み物だけを口にする生活に陥った。やがて、あやしげな編集プロダクション風の会社を営む男が、ちょっとした役割を提供し、彼に食住だけを保障するのが幸運にみえるほどだ。一方の少女は母親と死別したあと、弟と一緒に暮らすことができる生活を喪うことを畏れ、年齢を詐称して、自活を試みている。少年の家出の理由や、姉弟の父親がどうしたのかということについては描かれていない。社会の外で暮らし始めた主人公たちは互いの存在をみつけ、庇いあうようになる。彼らの恋愛関係はプラトニックなものにみえ、ラブ・ホテルで同じベッドに寝たとしても、キスや、ベッドインのシーンはないのだが、その本質は性欲よりも、他から目にみえないところにいる者どうしの共生感覚で成り立っているように感じられるので、さほど不思議ではない。孤独な透明人間が自分と同じ境遇をもつ、もうひとりの透明人間を見つけたとすれば、それは自然に結びつくだろうという話である。

【異化、移り変わっていくもの】

新海監督のもつ際立った才能は、物事を異化する力である。いま、述べたようなこともロジックとしては、きわめて単純で、巷間によく知れ渡っていることだ。そもそも「天気」という言葉自体が、晴れるも雨も、天の気分次第という発想からできてきたと思われる。これに神話がつながると、天照の岩戸隠れの故事のような面白いものも出てくる。天候は農業や商業に大きな影響を及ぼし、古代においては、暦に詳しいものが巫女や神官などとして特別な尊敬を集めた。例えば卑弥呼も、そんな役割を負っていたにちがいない。陽菜は、卑弥呼の後裔であると考えてもよい。ネット上を探索すると、陽菜の母が人柱であった可能性、あるいは、帆高を保護する須賀圭介の妻が人柱であった可能性も鋭く考察されていて、驚いた。

いずれにしても、新海監督はしばしば呪術的な女性の力に大きな敬意を払っており、いささか歪んだ内面性を感じさせるものの、恐らくは、そうしたところからエロティックな欲望が生じる構造になっている。『君の名は。』では組紐や口噛み酒がそうであったように、この作品では、鳥居や、陽菜の祈る姿がきわめてエロティックな象徴になっているのかもしれない。そして、そうしたものは新海監督の場合、異世界へのゲートにつながっていて、その先にはきわめて美しい世界が広がっているものだ。

この鳥居はきわめて神聖な雰囲気を備えたものでありながら、モデルが存在する代々木のある廃ビルの上に立つ不安定さが特徴的である。いわゆる「聖地」ともなりつつある、このビルはちかく解体されることとなっているようで、これほどタイムリーに解体されるとは監督も思わなかったろうが、近い将来、この場所がなくなってしまうであろうことは予想できたであろう。このことが重要なのであり、彼の生み出した神々しい伝統も、やがて消えてしまう前提でつくられている。現実のビルは耐震性もなさそうな、古びたい汚いビルにしかみえないが、映画のなかでは、このビルもなかなか魅力的に粧われている。古さのなかに、レトロな味わいがあった。そこは都会にあるオアシスのようでもあり、そのイメージをもたらすのは光のマジックである。だが、光はやがて消え、どこか別のところを照らすようになる。このように、新海監督は永遠というものを信じない。作品は、ただ一時の間借りにすぎず、長い時間にわたって絶対的な価値があるわけではない。

【クラシック映画】

彼の映画は、クラシックな流儀でつくられている。伝統的なもの、先人の努力にふかい敬意を払い、そこに自分らしいものを継ぎ足していくことで成り立っているのだ。なかでも宮崎駿は彼の「師」であり、とりわけ、『天空の城ラピュタ』はこの作品の下地となる表現をいくつも提供している。例えば、主人公の少年を保護して利用する大人と出会い、協力関係になり、最初は功利的だった大人がいつの間にか、彼らにふかく肩入れしていく構造は、同作品の主人公パズーと、(空の)海賊一味の関係と比較し得る。ところが、ここにも異化の妙味がある。ラピュタの一味は総じてまとまって行動しているのに対して、本作で主人公に肩入れする大人、須賀圭介と夏美の叔父/姪は、前者が少年にいくぶん冷淡な態度をとるのに対して、夏美は逃亡につきあうなどして共感的に振る舞うようにし、ちがいを際立たせているのだ。小さいグループではあるが、それを細分化することで味わいが加わっていく。

また、主人公が銃をぶっ放す場面は(ラピュタ的な)予想よりもかなり早く訪れ、その発砲が帆高と陽菜の関係をより追い詰めていく要素となっていった。下地とするものはあるのだが、その構成は大胆に換骨奪胎し、順番や意味付けを変えたり、細分化するなどして、異なった意味をもつものへと異化されていくプロセスに気づくべきだ。

クライマックスで天気の龍が落下する2人を鳥居のところに叩きつける場面は、庵野秀明の『エヴァンゲリヲン』を思い出させる表現だ。一見して、そこで2人が死んだようにみえるのはフェイクであり、2人は以後も離れて生き続けて、雨は止まず、東京の埋め立て地は海に沈むが、最後に恋人たちが田端の坂道で出会う半分だけのハッピー・エンドとなる。しかし、庵野ばりの暴力的な表現から、私は2人がやはり、あそこで死んでしまったからこそ、生まれる2つ目の結末であったという解釈も成り立たなくはないと思うのだ。陽菜は自分が晴れ女を演じ、それによって人々に喜ばれ、必要とされたことが生き甲斐となり、その役割を果たすために人柱となることを敢えて受け容れて、陽菜としての人生を投げ捨てる。ところが、少年はそれを潔しとせず、自分たちの関係が成就することが大切だと感じて、天から恋人を奪い返そうとした。組んでいた腕が離れ、一瞬でも互いがバラバラになってしまう表現は、ギリシア悲劇のオルフェウスとエウリディケの関係を思わせ、この場面はバロック的な聖画のごとき美しさと思う。そして、この物語にもオルフェウスが振り向いてしまったことでエウリディケが永遠に喪われるバッド・エンドと、神さまの救済で夫婦が再会する2つの結末が語られてきた。

日本神話でいうと、これはイザナギとイザナミの話に相当する。この2人の関係は最終的に、離縁という形になり、生と死は厳密に隔てられた。当然であろう。死者が、この世とあの世を行き来するのでは困ったことになるのだから。大きな事件のなかで結びついた関係は、容易に永続しない。これも、新海がずっと追ってきたテーマのひとつだ。奇跡を起こし、結びついたとしても、将来にわたって2人が幸福であり続けるとは限らない。むしろ、うまくいかない可能性のほうが強い。それだけの絆なのだから、もちろん、これは強くつづくであろうというハリウッド映画的な視点とは一線を画す発想になる。

【想像力と無関心】

神話もそうだが、歴史的なアニメーターの表現はこの作品にカタログのように敷き詰められており、当然、自分自身の作品も蔑ろにしていない。その中心にあるのが、不可視なものへの想像力だ。『言の葉の庭』では先生と生徒の恋愛を描くが、先生の側が理不尽な生徒との関係により不安定な精神状態に陥っており、味覚障害を抱えているという仕掛けがあった。女教師はこころの傷のために、いま、自分が向き合っている少年との関係にも、本気になりきれないのだ。夢に向かって一途に動いてきた少年が、それを理解するには時間がかかる。一方で、無関心というものの奇妙さについても、よく描かれている。この女教師のトラブルは校内で話題になっていたはずなのだが、靴づくりに夢中だった主人公には無縁のはなしで、それを知らなかったという設定なのである。『君の名は。』でも、主人公の少年は彗星によって消えた「糸守」の話題に関心がなく、よく知らなかった。もしくは、時間の流れのなかで忘れてしまうほど、薄くしか意識していなかった。あり得ないようで、特に、視野の狭い若い世代ではよくある話かもしれない。普通に可視のものでさえも、不可視な存在になる可能性がある。

だからこそ、3晩も同じところで、同じものを口にする少年に気づけた陽菜の感覚は凄いと思える。さらに、夜の店の黒服に対して、帆高が発砲した後、鋭い剣幕で彼を叱りつける場面も胸を衝いた。これらの印象から、のちに彼女が18歳ではなく、15歳であり、帆高よりも年下であるという事実が明かされると、驚くしかない。私はいま、敢えて1回だけの鑑賞に基づいて、これを書いているが、繰り返しみたときに、実は15歳の少女としてみた陽菜の印象を新しくするのは必定であろう。これも、ひとつの異化と呼んで構わない。その事実がわかったとき、ファストフード店の仕事をクビになった理由がわかるだけではない。語り尽くされていないことは、まだいくらでもありそうだ。不可視の要素が残っている。すべてを観たい。観なければならない。そうした欲求が生じることを、監督が期待したかどうか、わからない。商業的には、それが欠かせない要素であることは間違いないのだが。

不可視なもの、あるいは、見逃されがちな存在に対する想像力や、気づきの力、思いやり、そして、直向きな想いというのが、この作品の中心的なテーマとなっている。こうしたものが、思春期の男女の恋愛と相性が良いのは理解できる。あるいは、高齢者にとっても、これは切実な問題で、本作の2人の主人公も初盆について語ってくれる老婆と、仕事を通じてこころを通わせる。今回はその役に倍賞千恵子が起用されたが、前作で重要な役を担った故市原悦子さんのことを想うと、二重に涙が出るのであった。『君の名は。』では、同様の想像力が遠く離れた男女の入れ替わりというモティーフに結びつき、まだ出会っていない恋人との関係というロマンティックなストーリーを生み出した。しかし、考えてもみれば、ひとのこころ、特に恋ごころといったようなものこそ、もっとも身近な不可視である。

【視点と価値の枝分かれ構造】

とはいえ、新海誠の作品は、誰がどう観るかによって、まったくちがう表情をみせる。甘い恋愛をモティーフに、思春期の少年少女がメイン・ターゲットにはなっているが、例えば、私のようなロスト・ジェネレーションなどは、異なった視点を示す。また、筋書きや内面性に共感しない場合でも、その鋭い表現や、言葉の力、映像の詩的な美しさに共鳴する層がいる。反対に、歪んだ性的表現にNGが出る可能性も大いにある。大人がみるような映画ではないと感じる層もあるだろう。とはいえ、この監督の作品がもつ著しい特色として、異様なほど、多くの切り口をもつことがあり、誰がどの要素について、いかに語るかは予想がつかないということを指摘したいのである。私の場合には、視点の温かさというものをつよく感じた。この作品は社会のなかに隠されたものを、なるべく多く見ようとするものではないか。そして、それを監督の独特な発想に基づいて異化してみせる。視点は増え、価値は分化する。

代表的なものとしては、ラブ・ホテルがあった。大雨の夜、子どもたち3人が楽しそうに絶望的な、最後の夜を謳歌するラブ・ホテルは、そのカテゴライズから受ける陰湿なイメージがなく、一種の遊興施設として機能する。結果的に、ここは3人がバラバラにされる場所ともなったのだが、そのことによって、異化の価値は死ぬことがない。ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフがスヴィドリガイロフと会見する店が、ひどく印象的に記憶のなかへ刻まれるのとよく似ている。朝、陽菜はこの世を捨てて天に昇り、帆高は警察へ連行され、陽菜の弟の凪は児童相談所に保護される。大事を前に、ハイな状態で現実逃避するかのように少年たちが笑いあい、楽しむ表現は『君の名は。』にもあったものだ。そして、最初の頓挫を経て、やりなおすシナリオの流れまでが共通している。この過程で、少年が警察による勾留から抜け出したり、凪が計略によって児相を抜け出す表現は、やや現実味を欠くのだが、最近は容疑者や被告が逃げ出したりする事件がつづき、児相のほうも失敗を繰り返して、現実がフィクションに追いついて監督を助ける。

引きのつよい監督は、あわや小惑星を地球に衝突させるところであった。唯一の誤算は、丸山ほだか氏の活躍であろう。

【監督の構想に寄り添う音楽の工夫】

音楽面では前作につづけてRADWIMPSを起用し、『君の名は。』よりもいっそう深く、巧みな操作が行われている。意識的な異化であったのはわかるが、前作の主題歌『前前前世』がいかにもTVアニメーション風のもので、強くは響かず、結びのテーマ曲であった『なんでもないや』のほうが染みるものだったのと比べると、今作では主題歌の『愛にできることはまだあるかい』が映画の主張とよく噛み合い、決定的な浸透力をもっている。この主題歌の旋律は映画のなかで早めに登場するが、歌ではなく、ピアノによるインストゥルメンタルとして織り込まれるのだ。ピアノ版の『愛にできること・・・』の魅力が、この作品をどれだけ押し上げているかしれない。挿入的なものを除けば、RADWIMPSの作品だけが響く映画だが、一部では歌い手に女優の三浦透子を起用し、二重の異化を実現して、監督の構想に応えている。『愛にできること・・・』そのものもピアノ版による場面との対応でいくつかのヴァリエーションを経由し、ついに歌が出る瞬間と、さらに、もっとも大事な場面で「愛にできることはまだあるよ」と歌詞が変わる(といっても1曲の歌詞の最後である)異化で、次々に変容を遂げていくことになる。

ひとつのものが異なるいくつかの視点からみられ、さらに、それが筋書きのなかで微妙に変容していく。大きな驚きはないものの、その小さな変化が実に楽しく、感動的な映画だといえる。この作品は皆に多くのものを提供してくれて、すこしだけ優しい視点を育てる。見えないものを見ようとするようになる。あるいは、見慣れたものにも、また別の見方を与えようとする。汚いものが神聖に、見慣れたものを新鮮に、単純なものに複雑さを与えるのだ。そのような愛おしい映画としてみたいのである。まずは、空を見上げてみること。いまの季節、空の表情がひときわゆたかなことは、作品を後押ししている。

2019年3月 5日 (火)

アンサンブル・ノマド バッハを越えて 「超える」vol.3 2/23

【総決算】

アンサンブル・ノマド、今回の定期公演は「バッハを越えて」というテーマで、様々な典礼作品、祈りの音楽が組み合わされたコラージュ的な演奏会がつくられたが、それは中心となるバッハの『ミサ曲ロ短調 BWV232』からの断章を含む25のパーツから組み上げられた、至極、複雑なものであった。キリスト教カトリックだけではなく、東方正教、ユダヤ教、イスラーム等にまつわる伝統的な音楽(もしくは音楽のようなもの)が集められた一方で、作・編曲はここ数年中というものも少なくなく、伝統的なものと、新しいものが自由に行き交う活気のある音楽の風景が描かれた。また、ジャンル的にも日常の祈りの呼びかけに用いられる経典の読誦から、ミサ曲のような典礼にまつわる音楽作品、ターン・テーブルや電子音を用いたノイズ・ミュージックによる即興的な演奏、ラッパーによる自由なパフォーマンス等を含めて、越境的なものとなり、レビューを組み立てるのも簡単ではなさそうだ。

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2019年2月24日 (日)

マティアス・バーメルト(指揮) ブラームス 交響曲第2番 ほか 札響 615th 定期 (2日目) 1/26

【セレナータ・ノットゥルナ】

札幌交響楽団は尾高忠明、マックス・ポンマーにつづき、首席指揮者にマティアス・バーメルトを迎えて、今季から新しい挑戦に入っている。バロック期から現代に至る幅広いレパートリーをカヴァーし、それらをいずれも高い水準で構築する知的なマエストロだ。モーツァルトに代表される古典派作品への見識は、ロンドン・モーツァルト・プレーヤーズを率いた実績もあり、定評がある。また、音楽祭や、オーケストラのビルディングにも定評があり、その高い手腕は知る人ぞ知るところであるものの、日本での知名度が低いことでは、前任者のポンマーに勝るとも劣らないことだろう。今回、この組み合わせを初めて聴くことになったが、また、素晴らしい指揮者を連れてきたことは間違いなかった。

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2019年2月21日 (木)

オペラシアター こんにゃく座 オペラ『遠野物語』 (吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也:作曲) 2/16

【オペラ『遠野物語』の人間関係について】

オペラシアター「こんにゃく座」は今季の新制作として、柳田國男の『遠野物語』に基づくオペラを3人の作曲家の共作によって完成させた。吉川和夫、萩京子、寺嶋陸也という3人で、それぞれにインディペンデントな活躍が目立つクリエイターたちである。台本は長田育恵が担当。俳優座の眞鍋卓嗣が演出した。私自身はこんにゃく座の公演には初めて接するが、その水準の高さには驚いた。音楽、演劇(文学)、美術、照明などの諸分野における一級のスタッフが、この小さな舞台を支えているようだ。そして、国文学と民俗学、現実とまぼろし、いまとむかしの汽水域をめぐる『遠野物語』に、新たな光を当てる一作となった。

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2019年1月18日 (金)

ヴェルディ レクイエム ロレンツォ・ヴィオッティ(指揮) 東響 サントリー定期 667th 1/12

【密やかなクライマックス】

ロレンツォ・ヴィオッティにとっては、渾身の舞台だった。クシシュトフ・ウルバンスキの代役として、東響に初めて登場してから共演を重ね、昨年は新国立劇場での指揮や、東京フィルとの共演も話題を呼んだ。まだ20代という若さでありながら、複数のオーケストラでポストに就き、一昨年、ザルツブルク音楽祭でも授賞したという。細部にわたる厳しい音楽づくりで、自らのイメージを徹底的に作り上げていくことで、日本でもよく知られるようになったが、それに先駆け、24歳で初登場の彼を評して、「僕はとても、普通の言葉でこの演奏会を評する気にはなれない」としたときの感動が、いよいよ深いリターンへと結びついてきている。惜しくも、昨夏の『トスカ』とはあう日程がなかったが、その高評から名を上げたロレンツォが、着実にひとつの階段を上ったといえる。ヴェルディの『レクイエム』の演奏は、前から3列目で聴く私の心臓を激しく衝いた。

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2018年12月21日 (金)

現代音楽コンクール 競楽XⅢ 白小路紗季が第1位 12/16

【競楽の概要】

1945年以降に書かれた独奏、もしくは、室内楽のための作品(クラシック音楽)で、そのパフォーマンス、演奏家としてのセルフ・プロデュース・スキルを競いあう現代音楽演奏コンクール『競楽XⅢ』を聴いた。私は’XⅠ’に初めて足を運び、素晴らしいイベントであることを確認してからは毎回、2年おきの開催に欠かさず足を運ぶようになった。今回も16日の本選会を聴いたが、本当に素晴らしい演奏者ばかりが並んで、腕比べというには勿体ない。あり得ないことだが、自分が審査に参加して同様に25点をつけることができるとしても、ほとんどの人は満点以外につけようがなく、採点には頭を抱えてしまうことだろう。誰が受賞したとしても不満はなく、その差はジュリー各々の価値観や趣味に基づくものでしかないといってもよい。

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