2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
無料ブログはココログ

« 宮部小牧 ソプラノ・リサイタル 真夏の夜の夢 8/8 | トップページ | フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト レクイエム 世界初演 8/19 »

2009年8月13日 (木)

湯浅譲二 バースデーコンサート 80歳の誕生日を祝して 8/12

作曲家の湯浅譲二が12日、80歳の誕生日を迎えた。その誕生日当日に彼のことを祝うため、秋吉台の現代音楽祭に関わる音楽家や弟子たちを中心にしたグループが、東京オペラシティのリサイタルホールで公演を行なった。湯浅作品のうち、独奏作品ばかりで構成されたプログラムは、湯浅譲二という音楽家のこころを知るには打ってつけといってよかった。

【湯浅の誕生と活躍、そして、その時代】

湯浅譲二は1929年8月12日、福島県の開業医の次男として生まれた。夏の暑い日の生まれで、いまのように冷房がきいているわけでもなかったろうし、激しいつわりが何日もつづいて、もうすこし酷ければ、流すことも考えたという。

時代も厳しかった。周知のとおり、この年は世界恐慌の起こった年であり、日本では昭和4年となる。同年に生まれた者としては、音楽家では作曲家の黛敏郎、指揮のクリストフ・フォン・ドホナーニ、ニコラウス・アノンクール、ほかの分野では、映画監督の五社英雄、女優のグレース・ケリーやオードリー・ヘップバーン、日本の若山富三郎、文学界では『アンネの日記』のアンネ・フランク、政治家ではPLOのかつての指導者であるヤセル・アラファトなどがいる。

作曲界の先達について考えると、例えば、リヒャルト・シュトラウス、シェーンベルク、ストラヴィンスキーはまだ存命であり、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、フランク・マルタン、ヒンデミットなども活躍している。もちろん、これらの名前は、ほんの一部にすぎないだろう。

湯浅ははじめ、家業を継ぐべく医師としての勉学に就いていたが、60年代、武満徹らとともに「実験工房」の芸術運動に身を投じて、前衛音楽の道を歩み出した。以来、湯浅は現代の新しいシステムを積極的に利用しつつ、娯楽音楽を含む数多の音楽制作に関わり、世界各国に招かれて教育面でも活躍した。数々の受賞・受勲歴があるが、1995年には京都大賞、1997年には紫綬褒賞、2007年には旭日小綬章などを受けている。

【楽器や演奏者本来の持ち味】

さて、湯浅譲二について、もちろん、多大な興味を持っているからこそ、こうした場所にも足を運んだわけだ。しかし、特に最近は、我々のもとにこうした音楽家の仕事ぶりが正しく伝えられる機会は多くなく、彼の音楽を私が十分に理解できているはずはない。だから、今回の感想にはどれも、ここで聴いた限りという条件がつくことを前置きしておきたい。

ときに、湯浅の作風をめぐるキーワードはいくつもある。例えば、最近では「未聴感」、つまり、いままでに聴いたこともないような響きだという感覚、ということを頻繁に口にしているように思う。しかし、「未聴感」は本質的な価値ではなく、作品を残したいと思う者にとっての前提的な条件ではあれ、本当に大事なのは、そのことによっていかなる表現をしたいかということに尽きるのである。湯浅譲二とはそこに、なにをもっている作曲家なのかということが、私にとって当面の関心事であった。しかし、それは最初の「マイ・ブルー・スカイ第3番」(ヴァイオリン独奏)を聴いた瞬間、すぐに直感できたといって間違いではない。それは、楽器本来の持ち味、そして、それを弾く人間の持ち味というのを、いかに引き出すかということであったのだ。

それは、3番目に演奏されたフルート独奏による『タームズ・オヴ・テンポラル・ディーテリング』の演奏において、より象徴的であった。この作品はまず演奏者が肉声を発し、それを模倣するようなフルートの響きが、そのイメージを追いかけていくところに始まる。本来、単一的な響きしか出すことができず、1つの楽器では和音もつくれないフルートは、ソロ用の楽器としては可能性が限定されている。これは、その限定された可能性を切り開く方法のひとつであり、そのほかの特殊奏法もあわせて、その可能性が大きく広げられている。

例えば、ポッ、ポッと破裂的な響きがパーカッション的に鳴らされたり、フルートが単なる空洞のある管のように使われ、そこから吹き込まれた息が活き活きと聴こえてきたり、様々なのであるが、フルート奏法については詳しくないので、それ以上の説明はできない。しかし、私が面白いと思ったのは、そうした奏法の特徴が徐々に本質的な表現、つまり、楽器と演奏者の持ち味の表現という「本丸」に向かっていくことであった。

使えば使うほど、特殊奏法の驚きは効果がなくなり、逆に、聴き手に仕掛けを見透かされて、冷笑的に受け容れられはじめる。実際、そこで終わってしまっているコンテンポラリー・ミュージックは少なくないのだが、湯浅の面白いところは、その先があることだ。つまり、短い間に、そうした手法を見せびらかしておきながら、聴き手がそれに呆れる頃合いを見計らって、それがまた別のパラダイムに突っ込んでいくところだ。この作品は9分あまりの作品だが、後半では、こうした手法の面白さに向きあう演奏者のこころが表れる。今回の大久保彩子の場合、この後半部分に、不思議な艶やかさが漂って、夢心地になる。

一方、次の『ヴィオラ・ローカス』(ヴィオラ独奏)はよりシンプルな語法だが、結局のところ、同じような展開に演奏者が向きあっていくことになる。般若佳子(佐藤佳子)の場合、大久保と比べると、より実直で、理詰めなところが窺われる。彼女のようなファンタジーはない代わり、もっと確固としたセオリーのようなものが感じられるのだ。この曲はもともと、ABQのトーマス・カクシュカが初演したそうだが、彼がどのように演奏したのかは興味ぶかいところではなかろうか。

このような形で、湯浅の作品の前に立つ者たちは、たちどころにその本性が丸見えになる。

【作曲家としての客観性】

ところで、日本の作曲家には、野平一郎、一柳慧、池辺晋一郎など、ピアノの演奏が得意な人が多いが、どうやら湯浅も、そのなかに入りそうだ。ピアノによる『メロディーズ』の冒頭和音からの展開は、明らかに楽器の可能性を実感している者の音楽であり、最後、鍵盤の響きを1音ずつきれいに並べ、直立したろうそくに1本1本、炎が灯されていくような響きのつくり方も、この楽器をあまり知らない作曲家には書けそうもないものである。

その点、ヴィオラの曲では、例えば、名手のガース・ノックスがつくるような作品とはちがい、むしろ、作曲家としての客観的な視点がつよい。そのことは、どちらかというと、後半の曲目によく表れていたように思う。そこでは、リコーダーやテューバ、二十絃筝といった特殊な楽器(そこには、きわめてパーソナルな『楽器』である人間の声も含めるべきだ)が登場するからでもあろう。要するに、必ずしも身近な楽器ではないからこそ、そこに対する飽くなき好奇心と、本来の演奏者には思い当たらないようなイメージの転換や組換が見られるのである。

わかりやすいのは、テューバ独奏による『ぶらぶらテューバ』だろう。この曲は題名のとおり、どこからともなく現れたテューバ奏者が、舞台のあちこちをぶらぶら歩き、ときに立ち止まったりしながら、いくつかのパターンを繰り返したり、取り替えたりして演奏しいていくものだ。この作品の要点は湯浅がプログラム上で語っているが、それは敢えて出さないことにする。大事なのは、この作品の演奏のなかに、湯浅のテューバに対するアイロニカルな見方が投影されていることだ。

テューバの特徴はいくつかあるが、楽器と音量が大きい、音域が広い、楽器と奏者が密着している、響きは柔らかくユーモアがある・・などの点に要約される。そうした要素に対して、湯浅の示す温かい関心といったものが、この作品のほとんどすべてを占めているといっても過言ではない。街を練り歩くマーチング・バンドの場合を別にすると、演奏者はこの大きな楽器を抱えて歩くことは、普通は考えないだろうし、それを為したときに、聴き手との間に生まれるある種の絆については、発想が及ばない。そのことは恥でもなければ、当然至極のことで、増してや演奏者の肉声を重ねて、拡声器のようにして使うことで、宇宙人と出会ったような声が出せるなんてことは、思いもしないのが普通なのだ。

それは、テューバ奏者への冒涜などでは決してなく、本当に温かいとしか言いようがない、悪くいえば、子どもじみた、あるいは、こう言ってもいいが、「童心を思い出させるような素直な共感」なのである。湯浅といえば、前衛のハードな知性家というイメージがあるが、その本質的な部分に、こうした純粋なものがあることは見逃されがちではなかろうか。

【声は究極の個性、湯浅音楽の本質】

その『ぶらぶらテューバ』でも活用されていた人間の声というものは、演奏者にとって究極の個性である。フルートの曲でその発想を聴いたとき、私は面白さとともに、その狡さについても考えさせられた。つまり、これは本当に、楽器や演奏者の個性を表すものなのだろうかと考えてしまったのだ。俗な言葉でいえば、「反則」ではないのかと訝った。しかし、実際、湯浅の作品の全体を調べてみれば、コーラスの入った作品もかなりあるにせよ、こうした声を導入した作品が極端に多いとは思えない。それなのに、なぜ湯浅にちかい音楽家たちは、このような作品を多く集めて、プレゼンテーションを行なったのであろうか。

その理由はハッキリとは分からないが、『R.D.レインからの二篇』や『筝歌〈蕪村五句〉』といったような作品を聴いて、やはり人間の声というものは人間にとって根源的な個性であり、それを導入することは、邪道でも何でもなく、ごく自然なことであるにちがいないと思った人は、少なくないのではないかと思う。一体に、人間に対する根源的な関心の深さというのは、湯浅譲二という作曲家を見るにつけて、まったく欠かせない要素であるように思える。

初演の平松英子に代わり、松平敬が歌った『R.D.レインからの二篇』は、親交のあったレインという精神病理学者の追悼のために、レインのつくった「つぶやき」「私はなくしてしまった」の二篇の詩を選んで付曲されている。ところが、その内容は葬式のものがなしい弔辞とは似ても似つかず、リラックスした、賢者の諧謔に満ちた作品なのである。特に、後者では日本語訳のあとに原語の詩が追っかけるような形になっており、その二重性のなかに、愉快な友人との国境を越えた関係がユーモラスに忍び込んでいる。

次に、二十絃筝の曲であるが、この楽器は厳密には「伝統的な」和楽器ではない。この楽器は、戦後のクラシック作曲家たちの前衛音楽運動のなかで、必要性に応じて、野坂恵子らにより生み出された。いわば、和楽器である筝の可能性を西洋音楽であるクラシック音楽のなかで表現するときに、その可能性を遺憾なく引き出すためだけに生まれた楽器なのだ。もともとの筝は十三絃をもち、絃の1本ずつに名称がついていたが、『春の海』で著名な宮城道夫が十七絃の筝を生み出し、さらに下って、二十絃筝は1969年に生まれた新しい楽器なのである。その後、さらに絃の多い楽器もつくられている。

マメ知識の講釈はこれくらいにして、いまは声との関係であった。ここでは、蕪村による辞世を含む5つの句が選ばれ、筝の伴奏で謡がつくようになっている。この曲はいわば一種の歌曲なのであるが、伝統的に存在する「筝歌」とは似て非なるものと言えそうな気がする。もちろん、それは20世紀的なイディオムをふんだんに含んだ響きのイメージからもたらされる感覚でもあるが、より本質的に、声と筝の音の関係性においてパラダイムが異なるように感じられるせいでもある。うまく説明できないが、湯浅の作品における声と筝の音と、付け加えるならば、さらに蕪村の句との関係は、それぞれ1:1:1で対応するように思えるのだ。

現代音楽は、ミュージック・コンクレートと言われるように、どちらかというと、まったく別々のパラダイムにあるものを融合していくところに視点が置かれる傾向にあるが、湯浅の作品では逆に、それぞれの要素がパラレルな価値観を保って、共存ではなく、並存している感じを受ける。ここでは、吉村七重という傑出した筝の奏者と、それとは別の謡の名手が、蕪村というもう1人の天才とを加えて、パラレルに我々の前に立つ。その壮観たるや、表現の仕様もないほどだ。ここにこそ、湯浅の音楽の本質の本質をみる想いがしたのである。

【まとめ】

ごく簡単ではあるが、以上のように感想をまとめたい。

最後は、正確には「弟子」ではないと思うが、若い作曲家の川島素晴が湯浅の大衆的な音楽から素材を拾って、ユーモアたっぷりに作曲した『湯浅メロディーズによるプロジェクション』というオマージュ作品を、出演者全員で披露して、温かいフィナーレを迎えた。

80歳になったとはいえ、湯浅は杖をつくでもなく、まだまだ元気そうである。昨年、100歳の誕生日を迎えた先輩のエリオット・カーターもバリバリに現役で、いまだに新しい作品を披露しつづけている。この老爺を追いかけて、まだまだ20年も若い湯浅には頑張ってもらわなくてはならない。

なお、4ヶ月ほど前に開催が決まった、このコンサート。なんと、この日は本来、定期メンテナンスの日に当たっていたという。そこを湯浅のために空けてくれたというのだから、このホールの関係者にもなかなか粋な人がいるものである。こんな日本が、少しでも後世に引き継がれることを願って、この記事の結びに代える。

【プログラム】 2009年8月12日

オール・湯浅・プログラム
1、マイ・ブルー・スカイ第3番 (vn:ジョージ・ヴァン・ダム)
2、クラリネット・ソリテュード (cl:山根 孝司)
3、タームズ・オヴ・テンポラル・ディーテリング (fl:大久保 彩子)
4、ヴィオラ・ローカス (va:般若 佳子)
5、メロディーズ (pf:藤田 朗子)
6、テナー・レコーダーのためのプロジェクション
 (テナー・リコーダー:鈴木 俊哉)
7、R.D.レインからの二篇 (vo:松平 敬)
8、ぶらぶらテューバ (tub:橋本 晋哉)
9、筝歌〈蕪村五句〉 (二十絃筝:吉村 七重)
10、川島素晴 湯浅メロディーズによるプロジェクション (全員)

 於:東京オペラシティ リサイタルホール

« 宮部小牧 ソプラノ・リサイタル 真夏の夜の夢 8/8 | トップページ | フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト レクイエム 世界初演 8/19 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/45917827

この記事へのトラックバック一覧です: 湯浅譲二 バースデーコンサート 80歳の誕生日を祝して 8/12:

« 宮部小牧 ソプラノ・リサイタル 真夏の夜の夢 8/8 | トップページ | フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト レクイエム 世界初演 8/19 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント