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2009年8月20日 (木)

フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト レクイエム 世界初演 8/19

フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルトは、シュトゥッツガルト楽派のミルコ・ケメレンの高弟で、世界的なダルムシュタットの現代音楽講習会で講師を務めた経験もある逸材とされている。今回、ソリストを務めたメゾ・ソプラノの小山由美とは夫婦である。この日、演奏された『レクイエム』は2002年、東京大学コールアカデミーOB合唱団アカデミカコールの委嘱により作曲され、部分初演がなされた。当夜は、完成版としての初演となる。なお、この公演はアリオン音楽財団の〈東京の夏〉音楽祭への参加企画となっていた。さらに、二期会が後援。

この曲は、大規模な管弦楽伴奏をもつレクイエムで、声楽は男声合唱とメゾ・ソプラノの独唱によって構成される。テクストは通常のラテン語典礼文と同じであるが、日本人による委嘱ということもあるのか、あくまで無宗教のレクイエムとして作曲したとしている。もちろん、キリストの名前は出てくるのであるし、楽曲の構想から窺われる哲学的なものからも、多分、作曲者にとって重要であるキリスト教の影響は排除できない。ただ、プログラム解説に示されているところをみると、確かに、それだけで塗り固められてはおらず、西洋人にしてみれば理解しがたい無宗教までを含んだ、こころの在り方の自由性が構想されてはいる。しかし、それが通常のレクイエム典礼文のうえに、どのように載ってくるのかは疑問であった。

実際、耳にしてみると、それは思ったよりもわかりやすい形で実現されていた。まず、典礼文自体はより引き延ばされたり、クラスタ化されたりされて、あるいは、まったく原形を留めないものになるのではないかという予測に反し、思ったよりも素直に歌われていた。そして、その歌い方や、間奏的な部分において、非キリスト教的な要素がナチュラルに入り込んでくる形をとっていたのである。非キリスト教的な要素は、冒頭にアカペラで歌われた声明のようなものを含め、具体的に音楽的なもの、ラップやゴスペル、ブルース、ガムランなどの形で表現されている。

私の印象から言わせてもらえば、やはりキリスト教的なものが中心にありながらも、無宗教というよりは、どちらかといえば、混沌ではない多神教的な空間、つまり、各々がめいめいの神秘的な領域を固有に築いていき、広大な音楽空間のなかで共有しているというイメージをもった。

また、作品は故意に繰り返し的な要素を音楽に復活させており、古典的なソナタの循環形式や、ときにはミニマル・ミュージックのような単純な繰り返しを使いさえして、音楽的イディオム(形式)の新しさよりも、内容(あるいは、精神といってもよい)の深さや濃密さにこだわった作品構成をめざしている。B.A.ツィンマーマンやリゲティを思わせるような煉獄的で、重いモティーフと、深い清潔に満ちた古典的なレクイエムの美しい響きが、非常にわかりやすい形で並べられ、ときに驚くべき展開を含みながらも、全体的には聴き手の想像どおりに推移していく。

ヘルトフェルトの『レクイエム』は、このような点からみて、形式的な新しさという芸術的な実現を放棄して、聴き手に寄り添うことを第一に考えた作品であることがわかる。

言語(歌詞)については、ラテン語典礼文をさらに細かくいじくっているだけに、いちど聴いただけで、全体をしっかり把握するのは、私にとって簡単ではない。

例えば、’kyrie’’eleison’’sanctus’’benedicutus’’agnus dei’などというのがわかるが、もちろん、十分ではない。だが、そんな自分にもわかることがある。それは、この作品の本質的な部分に関わってくるはずだが、歌詞と音楽の生成の関係についての問題である。古典的なレクイエムでは、歌詞は初めからあるのが当然だ。聖書にも、「はじめに言葉ありき」とされていることからしても、それは自然なことと言える。音楽は、言葉がどっしりと位置をとったあとに、注意ぶかく振られてきたのだ。しかし、この作品では、互いが相手を待つという時間がある。

私たちは何の必要性もなく、おもむろに喋り出すことはないし、同時に、喋りたい、あるいは、喋るべきと思わなければ、言葉を発することはないはずだ。この音楽では、そうして言葉が発するまでに熟していく時間というものが想定されている。なるほど、初めから言葉はあったにしても、それを発したい、発するべきだという想いが熟するまで、言葉は出ない。いかなる宗教においても瞑想的な時間が必要なように、この作品では、そうした時間がたっぷりとられている。そして、音楽的要素が昂ぶって熟していき、そこに聴き手の想いが載ってきたときに、絶妙のタイミングで歌が発せられる。

もしもヘルフェルトの作品に新しさを見出すとするならば、そうした時間の操り方に求められるのかもしれない。

この作品について隅々まで記憶しているとは言いがたいし、今回のレヴューは、私にとって重要と思われた上記のいくつかの印象を書き留めたことで、結んでおくことにしたい。この世界初演では、男声合唱を歌った東京混声合唱団が粘りづよい歌唱で、印象的な下地をつくり、作曲者の連れ添いでもある小山由美はさすが掘り下げた解釈で屹立した。沼尻竜典指揮の東京交響楽団も、十分に役割を果たしたといえる。楽団からすれば雇われ仕事みたいなものだろうが、大谷コンマスをはじめ、もとは聖職者であったチェロのボーマン首席など、一線級のメンバーが作品をしっかりと味わって演奏していたのがわかり、こころのこもった仕事は気持ちがいい。

会場の雰囲気からすると、この長大な作品に対するこころからの共感が十分に生まれたとも思えないのだが、私としては身体から汚いものが抜けていくような快感と、深いリラックスを味わい、ヘルフェルトという作曲家については、他の作品も聴いてみたいと思ったのは言うまでもない。多分、これと比べると、ずっとハードな作品を書いているのではないかと思う。まずは、惜しみない賞賛を禁じ得ない公演である。

【プログラム】 2009年8月19日

フランツ・ヨッヘン・ヘルフェルト 『レクイエム』(委嘱初演)
Ⅰ原点 Ⅱ可能性 Ⅲ自己の戦い Ⅳ自己犠牲 Ⅴ聖域 Ⅵ生あるものへのメッセージ

 小山 由美(Ms)
 東京混声合唱団
 東京交響楽団(cond:沼尻 竜典 コンマス:大谷 康子)

 於:東京オペラシティ

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コメント

本演奏会を心待ちにしていた者です。評論にある通り当日の演奏は大変すばらしいものと拝聴しました。
ただヘルフェルト氏に本レクイエムを正式に委嘱したのは我々の団体(東京大学コールーアカデミーOB合唱団アカデミカコール)であります。そしてその一部を2002年4月27日第二回東京六大学OB合唱連盟演奏会でピアノ伴奏にて演奏しました。
誤解を与えるといけませんが事実を申し上げただけです。演奏会が大変すばらしいもので大成功であった事になんら変わりはありません。我々ではとても
能力的にも財政的にも本日の様な演奏会は出来なかったと演奏会の企画者には感謝しております。

ご指摘、ありがとうございます。世界初演という文句と、プログラム冒頭ページに吉野氏の挨拶文とともに、「作曲委嘱者」という肩書きがあったことから、事実関係を誤認した点についてお詫びいたします。記事は、なるべく矛盾のないよう、数日中に訂正します。

ということは、部分初演がなされており、完全版は世界初演ということですね。私が勘違いしたのがいけないのですが、そのような経緯があるのならば、最初の委嘱者をはっきりと明示すべきだったのではないかと思います。

実は、貴団がヘルフェルト氏の『レクイエム』を演奏したらしいことは知っていたのですが、あまりにも編成が異なるため、ちがう曲なのではないかと思っていました。その疑問も氷解し、ありがたいことです。改めて、貴団の功績に敬意を表します。

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