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2009年8月26日 (水)

小川典子 夏の音楽浴Ⅱ ドビュッシーの日 8/24 ③

【19:00 幾何学模様】

最後となる19時の回は、『12の練習曲』全曲の演奏で締め括る。この曲は、サントリーホールで開かれた小川典子の10周年記念演奏会でもメインに組まれており、彼女の得意とする曲目だ。ところが、一般的にはあまり知られておらず、録音も多くない。小川のほかでは、私の知る限り、内田光子、ポリーニ、エマールあたりが全曲を録音しているぐらいで、あとは、ドビュッシーのピアノ全集に辛うじて入っているぐらいのものだろう。

そうはいっても、このエチュードは癌に冒されたドビュッシーが完成させた最後の、ほんの一握りの作品のひとつであり、ドビュッシーの備えた美的センスが、一切の虚飾なく、見事に凝縮された名品であることは言うまでもない。私は先に示した小川の20周年記念のコンサートで、この曲について知ったが、そのときには、初めてドビュッシーのピアノ作品の全体像をみた想いがするほど、衝撃的な体験だった(トラックバックにそのときの記事を貼りつける)。

今回、ドビュッシーの全時期の作品が曲がりなりにも、包括的に取り上げられた延長線上において、このエチュードを聴くとまた格別の味わいがあった。特に後半部分では、既に小川が弾いてきた曲のアンソロジーのような要素が散らばっており、この曲集がドビュッシーにとって、きわめて重要な作品であることを如実に物語っている。

一方、単純な音階にぶっきらぼうなドット和音が打ちつけられる第1曲のような要素も、ドビュッシーでは意外に主流のひとつである。既に②の記事でも触れたように、それは『版画』のようなポエティックな作品のなかにさえ見られるのであって、そうした部分では、何気ない音階の動きがみるも見事に色彩づけられ、詩的に位置を占めていくのがわかる。しかし、このような練習曲では、その飾らない美しさがいかにも素朴に響くのである。

全体を通して、このエチュードにおける小川の演奏スタイルは、フォルムを崩してルバートしたり、極端に曲想を揺らすようなことがほとんどなく、保守的であるといえようか。しかしながら、ここでいう「保守的」というのは、私なりに言わせてもらえば、かなり攻めた演奏姿勢と思われるのである。つまり、この曲を面白くするために、いかにもドビュッシーらしいインテリジェンスを効かせて、ジャズ風にしたり、何にしたりということで、飾り立てることは簡単だと思う。しかし、そういうことをしていては、この曲の真の輝きというものは浮かび上がってこない。

この練習曲の味わいは、山の湧き水のなかにほんのりと感じられる甘み。その輝きは、澄んだ空の下でしか見えないような、二等星のほのかな光なのである。

小川がドビュッシーのピアノ曲に対して相当ゆたかな手練手管をもっていて、しかも、自由自在に使いこなせるということは、既に、ここまでの演奏が十分に証明している。だが、そうしたものに頼らず、5本の指のために、3度のために、4度のために・・・というタイトルどおりに、きれいに特徴を捉えながら、ナチュラルに演奏していきつつも、12の曲の構造を丁寧に追っていく演奏は、ある意味で、ひとつの究極をいく演奏なのだと思われる。

TBの記事にも書いたが、6曲ずつ2巻で構成される練習曲は、さらに3曲ずつのグループとして分けて、各々を「前奏曲的なもの」「中心的な部分」「転換と総括」という感じでイメージすると、まことに聴きやすい。さて、このなかで、聴き手の注意を惹きやすいのは、独特なアイディアの詰まった転換の部分だろう。例えば第1のグループでは、〈4度のために〉がそれに当たり、この不思議な組み合わせで形成される響きの違和感を上手に利用しながら、ユーモラスなフォルムを形作っていく様子がハッキリとわかる。

2番目のグループ、つまり第1巻のおわりでは、〈8本の指のために〉準備された小悪魔的な旋律線に挑むピアニストの苦労を目にするだろう。3つ目のグループでは、〈反復音のために〉構成された機械的な響きに、ドビュッシーの意外な未来予想図を聴く。

そして、最後のグループは起承転結が結合的に演奏されているのに気づいただろうと思う。そこでは、ドビュッシーの旧作をイメージさせる部分がいくつもあり、この日の全プログラムにつきあってきた人たちは、なるほどと思ったはずだ。「転」に当たる12曲目では、『映像Ⅰ』の〈運動〉でみられたようなフォルムが現れ、エチュードのなかで示してきた手法が、結局のところ、運動のエネルギーというところに行き着くことを示唆している。しかし、中間部では、より初期の素朴な体験が戻ってくる。

この第12曲が単純なトリオ形式を示しているのは、また面白いのではなかろうか。今回、小川の演奏を聴いていて思ったのは、ドビュッシーのつくる華やかなフォルムに、何気なく浮かぶ孤独だ。アンコールの最後で再演奏した〈月の光〉を、もういちど思い出してみよう。そこでは、まず、おもちゃ箱をひっくり返したようなファンタジーの詰まった、美しい旋律が展開され、中間部で古い旋法が導入される。しかし、最後にもういちど主旋律が戻る。そのときの響きは、ただの再現ではなく、何か大事なものをしまい込むような想いと同時に、何か大事なものと別れるような寂しさにも襲われる。この感覚は、ドビュッシーの中期までの作品には、よくみられるものであろうと思う。

だが、このエチュードの終曲では、そうした感情の澱みのようなものがなく、爽やかに突き抜けていくのだ。人々は、そのことに対してどのような感覚をもつのだろうか。深みがなくなった、練習曲だからドライなのだ、あとを引くような余韻がない・・・などと否定的な取り方もできないことはない。ところが、小川の解釈は、そうではない。正に、こうした部分にこそ、ドビュッシーの辿り着いた境地があるとみているのだ。

そこをどう評するかは個人のセンスによってくるのだが、私は、この1日のピアニストのプレゼンテーションを信ずる立場から、小川のセンスに同調すべきだと思ったし、そこにリアリティをみた。

この作品を書き終えたあと、ドビュッシーに残された時間は僅かだ。とはいえ、ドビュッシーのあたまには、彼が神さまに召される最後の時間まで、新鮮な曲想が溢れていた。だが、神さまはそのアイディアのすべてはドビュッシーの自由にさせず、遺作のソナタ群も半分の完成をみるに止まった。そこに至るまで、ドビュッシーの熱意が失われなかったことからみても、小川のセンスはやはり正しいということになりはしないか。

どちらでもいいが、このエチュードに関して、小川典子の演奏は、確かに世界に冠たるものがある。先日のアレクサンダー・マッジャーの退屈な演奏と聴き比べてみれば・・・そんな下劣なものと比べる必要はないが、例えば、大先輩の内田光子女史の録音と比べてみても、先に述べたような、清水のなかのほのかな甘み、二等星のほのかな輝きにおいて、小川の自己抑制は見事に勝っている。

素晴らしい一日だったと思う!

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ピアニストの小川典子が、デビュー20周年を自ら祝う、記念のコンサートに臨んだ。プロ奏者として20年ものキャリアを築くだけでも、そう簡単なことではないが、そのアニヴァーサリーをこんなホールで飾ることができる人は、さらに少ないだろう。会場としてこの人が選んだのは、ロンドンであればウィグモア・ホール、NYであればカーネギー・ホールといった格に相当する、サントリーホール(大)であった。それでも、この大きなホールが7割ぐらいまで埋まっているのは、健闘というところだろう。国際的に評価される実力とは裏腹に、国内知... [続きを読む]

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