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2009年8月29日 (土)

テーマ作曲家 チン・ウンスク サントリー音楽財団 サマーフェスティバル 【管弦楽】 8/28

25日につづき、サントリー音楽財団のサマーフェスティバルに足を運びました。28日は、「作曲家は語る」「室内楽」「管弦楽」の3本立てで構成されるテーマ作曲家のプロデュースによるシリーズのうち、「管弦楽」の日に当たります。この公演では、作曲家が自らに影響を与えた先達の作品を選んで構成し、そこに、音楽財団からテーマ作曲家へ委嘱された作品の初演がつづくことになります。今回のテーマ作曲家は、1961年、韓国のソウルに生まれたチン・ウンスク(陳銀淑,プログラム等の表記はウンスク・チン)女史ですが、母国のパイオニアであるカン・スキや、リゲティに学んでいるそうです。

【チン・ウンスク、トンネル効果を起こす】

早速、驚きだったメインの新作から触れることにしましょう。ときに、ここをご覧の方は、江崎玲於奈の「トンネル効果」についてご存知でしょうか。粒子の世界のおはなしですが、端折っていうと、ある特殊な条件が整ったときに、従来の論理では乗り越えられないはずの障壁をぽこっと乗り越えてしまう粒子が出てくることを証明し、1973年にノーベル賞を得ることになった理論です。私は、この理論にチンさんの音楽を譬えたいと思ったのです。もちろん、原理事態は関係ありません。でも、チンさんの作品というのは、最初から見たこともないようなパラダイムが一挙に広がるというよりは、あるときまでは見慣れていると思えた素材が、あるときぽこっと壁を乗り越えて、思ってもみなかった変容を遂げるところに特徴があります。

【ロカナにおいて】

例えば、前半に演奏された『ロカナ』という作品では、確かに、ハーモニクスや微分音といった要素があるにしても、外形的には、それほど奇抜な面は出ていません。しかし、音の立ち上がりのタイミングや、その響きの質、ハーモニーへの組み込み方が非常に独特で、思い掛けないところから響きから浮かび上がり、不思議な結合を見せることで、どんどんと聴き手をパラドックス的な空間に導いていきます。

題名の「ロカナ」とはサンスクリット語で、「光の空間」を意味するそうですが、その光とは、もちろん、バッハの作品に射すような神の後光でもなければ、ドビュッシーのような作曲家が得意とした色彩的な光でも、あるいは、より具体的なスクリャービンの構想した光ともちがいます。それは徹底して、響きのなかで考えられ、響きの空間だけで思い描けるような光です。特殊奏法があるとしても、それは、そうした光の実感を生み出すために必要なときだけに導入されており、作品の構造自体はきわめてシンプルなのです。だからこそというべきか、そこから生じる先のような意外性に、聴き手は何ともいえない喜びを得るでしょう。それが、この作品全体のもつ雰囲気の軽さと結びついて、音楽をリアリティのあるものにしているのです。

【シュウにおいて】

メインの『シュウ』は、これに対して、より純粋な音楽的形式である「協奏曲」という形が選ばれているため、さらに自由な変容が仕掛けられています。この作品は、中国笙というミステリアスで、チャーミングな楽器、そして、その改良にも力を尽くしたウー・ウェイという大名人の存在を前提にして書かれたものです。ところが、作品全体を見たときには、それを含めた巨大な室内楽的アンサンブルというか、もっと端的にいえば、舞台上の全員で巨大な笙を演奏しているというイメージのほうが先行するのです。ウー・ウェイがそのなかで果たす役割は、例えば一隻の蒸気船でいうと、船長や操舵士というよりも、船底で汗を流しつつタービンをまわしている労働者たちの役割を受け持っているかのように見受けられます。

この中国笙というのは4000年ちかい歴史をもつということですが、この日、舞台に上がったウー・ウェイにより現代的に改造され、半音階や微分音が出せたり、和声、ポリフォニー、クラスターなどの表現が可能になったということです。日本の笙と同じような響きも出ますが、バンドネオンかアコーディオンのような響きも出ていました。もちろん、すべては人間の息を使ってのことです。特殊奏法を抜いても、ブレス等の基礎的なことを考えてみるだけでも、ウー・ウェイの超人的なパフォーマンスはそれだけで一種の芸術品であると言えます。

その芸術品を・・・なのです。ここで誤解のないように言っておくと、私は、彼女のアイディアに全面的に共鳴しています。チンさんはウー・ウェイという大名人を棚上げして主として据え、オーケストラを従者とすることにより、簡単に魅力的な音楽をつくれた可能性もあります。ラフマニノフやイザイが、自分のピアノやヴァイオリンをそうして使ったように。しかし、ここで彼女がめざしたのは、中国笙だけではなく、その楽器や奏者の魅力にオーケストラが釣り合っていけるような音楽だったと思われます。逆にいえば、ソリスト、オーケストラ伴奏という役割づけ自体が、チン・ウンスクにとっては無意味で、リアリティのないものと思われたのでしょう。

ここで一旦、チン・ウンスクの最初の師であったカン・スキの作品について見ます。

【苦しみのパイオニア、カン・スキ】

カン・スキは1931年、ソウルの生まれ。ハノーファーやベルリンに学び、母国の先達、ユン・イサンにも学んでいます。ユンとともに、西洋で作品を発表してきたパイオニアであると同時に、チン・ウンスクを輩出したように熱心な教育者でもあったようです。彼は母国に欧米の新しい技法を積極的に持ち込み、わが国でいえば、入野義郎とか一柳慧みたいな役割をした人というべきでしょうか。チン・ウンスクも、彼がもたらした最先端の技法に魅入られたひとりということです。

さて、その立場からわかるように、カン・スキの音楽といえば、わが国の先達が同じような道を辿ってきたように、少々過渡的な性質を示しています。西洋音楽の潮流に敬意を払いながらも、そこに、自らのルーツに内在するような音楽的なイディオムをいかにぶつけていくかという、精神の闘いがじんわりと滲み出るような音楽でした。この作品は60の断片から成るとプログラムにありますが、その断片のなかには、西洋的なイディオムに属するものと、アジア的なイディオムに属するものが混ざっています。

ここで、単に母国である韓国だけのイディオムに捉われず、この国とはあらゆる意味で関係を逃れがたかった中国的なイディオム、そして、僅かに日本的なイディオムさえ混ざって使われているのは、カン・スキという作曲家の柔軟で、スケールの大きな精神を物語っているかもしれません。ただ、どうなのでしょうか。1975年制作のこの作品はもしかしたら、カン・スキのいちばんの傑作とはいえないかもしれません。

上記のような様々な素材は、弟子であるチン女史のように自由に踊るまでには至らず、とても鈍重な運動性しか持っていません。どちらかといえば、カンの語法の不器用さが際立っている作品で、ゴツゴツした手触りがあります。しかし、弟子のチン・ウンスクがそれを選んだのは、この作曲家の不器用なまでの誠実さを思い描いて、それを日本の人たちに、生のまま知ってほしかったからではないかと思うのです。

プログラムに載せられたチン女史との対談で、湯浅譲二プロデューサーが、非西欧的な文化的背景に生まれた者としての、創造の可能性について質問したところ、彼女は意外にも、「これまで考えたことはなかった」としています。それに対して、カン・スキのこの作品では、’east meets west’についての様々な感覚が、節々に滲んでいます。その苦しみが、この作品には愚直なまでの厳しさとして表れています。

そういう意味では、私は、松村禎三の作曲姿勢についても思い出します。

もうひとつ、この師匠の重要な特徴は、無駄が少ないということでしょう。編成をみると打楽器がきわめて多く、とても賑やかな音楽になりそうな気配があります。ところが、実際の音楽から響いてくる要素は、予想よりもはるかに凝縮したものであって、それこそ、香りづけに僅かにたらす酢のような控えめな存在感しか浮いてきません。メインのチン・ウンスクの委嘱新作も、打楽器の多い作品ですが、編成表をみた印象と、実際の響きのなかで確認したものとでは、印象にかなりの開きがあります。

一体にチン・ウンスクという作曲家は、このような楽器法にしても、特殊奏法にしても、十分豊富に使ってはいるけれども、聴き手にそれを感じさせないという面があります。感じさせないなら不要ではないかという反論は、一旦、ここではしないでおいて頂きたい。そのようにお願いしておいて、先へ進みます。

【凝縮力という視点】

ここで、さらにプログラム遡ってウェーベルンのところに寄り道をして、メインの論評に戻りたいと思います。取り上げられたのは、『5つの小品~オーケストラのための』(op.10)で、ほんの何小節かの間にイメージを凝縮し、かつ、それでいて、聴き手のこころのなかにぱっと花を咲かせる喚起力をもったウェーベルンの作品を代表する存在です。

新ウィーン楽派では、ロマンティシズムの強いということでベルクに人気がありますが、実は、ウェーベルンも見様によっては、かなりロマンティックな作風を持っています。ところが、あまりにも凝縮したイメージのために、それを聴き逃してしまう人たちも少なくないのです。ベルクが幾分は散文的だとすれば、ウェーベルンは徹底して短歌的なのです。散文はだらだら読んでも、読者が追いつくための時間があります。でも、短歌の場合は、聴き手が積極的にコミットしていかないと、印象もなにも残るわけがないのです。

私はそんなウェーベルンの作品を聴いたあとに、チン・ウンスクという、作曲家としてはまだまだ若い女性の、規模の大きな作品を聴くことには心配がありました。ウェーベルンほど完璧に凝縮した無駄のなさに比べて、若手の表現意欲の抑制がどこまで続くかは疑問だったからです。しかし、『ロカナ』を聴いて、それとも遜色ないイメージの凝縮ができており、しかも、なにが起こるかわからないドキドキ感がずっと持続するのを聴いて、驚きを禁じ得ませんでした。その点では、最初に演奏したリゲティの影響も強いでしょう。

そして、その感銘をさらに更新したのが、メインの『シュウ』だったのです。この作品は、まったく油断がなりません。すべての要素が、いつ「トンネル」を抜けて、障壁の向こうへ旅立ってしまうかわからないからです。ほんの単純な弦のパッセージを聴くことにさえ、ファンタジーがあります。いつなにが起こるかわからないドキドキ感、そして、その蒸気船の心臓部で、鮮やかに光る汗だくの蒸気機関士の姿(ウー・ウェイ)があります。この機関士は、あるときには、妖精のように宙を舞い、またあるときには、吟遊詩人のように歌をうたいます。幻想的なリアリティのなかで、イメージは不思議と拡散せず、むしろ、シンプルなものと見られるほどに凝縮していきました。

【まとめ】

チンさんも、若い作曲家ではあります。我々と同じように意欲にあふれ、作品も活き活きとしたものにしたいという欲望が強く、妙に老成した雰囲気になることも嫌っています。例えば、ノーノのような深い自己消滅への意識は気迫で、どちらかといえば、現状肯定的な明るさがあります。しかし、「進むべきべき道はない だが進まねばならない・・・」という世界はちゃんと見てきていると思いますし、まったく楽天的な音楽であるというのも当たりません。

誤解を恐れずにいえば、チン・ウンスクはいまのところ、バッハ的な作曲家です。ここで「バッハ的」というのは、パイオニアというよりも、大成者としての役割が強いことを言っています。

大バッハには先行者がいくらもいて、同時代においても既に、どちらかといえば時代遅れの作曲家だったという考えがあります。私は、もしもそうであったとしても、なおバッハの立場は揺らがないと見ています。確かに、その後のバッハの評価は、メンデルスゾーンの再評価まで沈んでいますが、それ以後はいちども忘れられることはなく、現代に至るまで影響を及ぼしています。今回のシリーズでも、オーガスタ・リード・トーマスは、大バッハへのリスペクトを表明していました。

ところで、チンの音楽についてですが、私は、とてつもなく新しいパラダイムというのは、彼女の作品からは感じられなかったと見ています。しかし、先行の音楽をよく研究し、それを猿まねの形ではなく、鋭く自分のものして作曲を進めていることは間違いがありません。そのため、「進むべき道はない」迷路の突き当たりみたいな要素も、たくさん出てきます。ところが、その壁にぶつかっていたはずの音符が、すっと「トンネル」を潜って、向こうに行ってしまう一瞬があるのです。極端な言い方かもしれませんが、私はそこに、チン・ウンスクの開いた小さな風穴をみた想いがしたのです。

チン・ウンスクはとうとう、ノーノのつまづいた問いに答えを出したのでしょうか。それは、直ちに断言はできません。しかし、あたかも、そういうことが起こったかのように、チンさんの音楽は大きな驚きを与えたといえます。ここ何年か、このシリーズは何らかの形で聴いておりますが、チン・ウンスクはもっとも重要な発見だったのではないかと思います。彼女ならば、再度の登場があってしかるべきであろうと思います。

一夜明けても、興奮冷めやらぬ文章になりました。

ひとつだけ不満があるとすれば、2階席中段の通路に配置されたバンダです。これは最後のほうで、ようやく導入され、舞台上の響きとシンメトリカルな動きをして、空間的な自由性を高めています。しかし、私は2階中央の前のブロックにいたからいいようなものの、例えば、1階席左前方あたりにいた人たちに、この響きは届いていたのでしょうか。もしも届かないとするならば、これほど無駄なものはない。その点だけが気がかりでした。

なお、私の隣には、現代音楽のスペシャリスト集団、アンサンブル・アンテンコンタンポランの芸術監督であるスザンナ・マルッキ女史ほか、『グルッペン』を振る3人の指揮者が並んでいましたが、マルッキさんは最後の曲を聴いて大興奮していらっしゃいました。私は単純にチケットがとれなかたっために参れませんが、このホールで3群のオーケストラをやるのは無理があるなあと思いました。きっと、『グルッペン』よりも、チンさんの作品のほうが印象に残ると思いますよ!

【プログラム】 2009年8月28日

1、リゲティ サンフランシスコ・ポリフォニー
2、ウェーベルン 5つの小品~オーケストラのための op.10
3、チン・ウンスク ロカナ~大オーケストラのための
4、カン・スキ カテナ~大オーケストラのための
5、チン・ウンスク シュウ~中国笙とオーケストラのための協奏曲
 (中国笙:ウー・ウェイ)

 管弦楽:東京交響楽団 (cond:秋山 和慶)

 於:サントリーホール

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