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2009年8月30日 (日)

小出稚子 委嘱初演 + 芥川作曲賞選考演奏会 8/29

前日のチン・ウンスクの作品に感銘を受けたこともあり、それほど感動できるわけがないとは知りながら、芥川作曲賞の選考演奏会を聴いた。演奏は、小松一彦指揮の東京フィル。

【小出稚子の委嘱新作】

まず、一昨年の受賞者である小出稚子(コイデノリコと読む)に委嘱された作品が、演奏された。”ChOcoLAtE”は、とても変わった作品。雑誌評などからそういう作風の人だとは聞いていたが、実際に接してみると、クラシックのなかではロック・テイストな作品だ。プログラムには、友人と作成したという自動筆記的な、シュールな詩が自由な形式で書かれ、これを原イメージとして音像化したものと思われる。「嗜好セルロイド品」「注文したオレンジが届かず 白いメレンゲに飛び込み きめ細かい泡立ちの中でスピン ブクブク・・・」「コーンベルト地帯出身の爆裂種トウモロコシの暴君とのラリー」・・・などという文句が、字体も太さも、大きさもバラバラに、斜めになったり、クロスしそうになったりして書かれている。

椎名林檎より訳がわからない。実際、音楽を聴いても、この作曲家がなにを考えているかは想像もつかない。多分、スピーカーからの音も混ぜながら、部屋飼いの猫がひっくり返したバケツから、スルスル流れる水の音、プチプチを潰すような連続音や、コップの中にストローを突っ込んでブクブク・・・いろいろな現象が起こっては過ぎていく。音を出さないオケ団員がアルミホイルをひらひら振って音を出し、ディミヌエンド、休符にフェルマータ。このまま終わるのか・・・否、そんなわけは・・・と思っていると指揮者が動き出し、やっぱりまだあるよと安心させておきながら、フィンガー・クラップで終わり・・・・・・・・・。

うーん・・・どういう教育をすると、こういう人が生まれてくるのであろうか。終演後も、いかにも作曲家らしくきりっと出てこずに、チョコチョコ小走りに現れ、小動物的なうごきで賞賛を受けると、またぞろチョコチョコ去っていく。これも含めた、パフォーマンス作品と見るべきなのか。よくわからないが、響き自体はとてもユーモアがあって、楽しいのだから、それでいいんだという気もする。クラップのあと、思わず笑ってしまったし!

【藤倉大、策士策におぼれる】

さて、ここからが芥川作曲賞の選考会となる。今回の審査員は、斉木由美、三枝成彰、松平頼暁の3人。

藤倉大は繰り返しノミネートされているが、これまでに受賞がない。まあ、芥川賞などを貰わずとも、ブーレーズ・アカデミーの優等生として、既に売れっ子なのだから問題ない。毎回ノミネートされているのも、それだけ作曲機会があるということだろう。他には、こういう人はあまりいない。

私は以前、藤倉さんのキレのある書法が好きだった。だが、腕が上がり、社会的評価が高まってくるにしたがって、審査を担当した斉木さんも言っていた独特のポエジーに、少しずつ粗さが生まれ始めた。特に、日本で委嘱された仕事には真心が感じられないので、印象を悪くしている。今回の作品"・・・as I am・・・”は、アンサンブル・アンテルコンタンポランのために用意されたが、アンサンブルの全構成員とメゾ・ソプラノために書かれた曲である。初演を務めたローレ・リクセンベルクが、わざわざ東京に足を運んでくれたのも、若いが才能のある作曲家と認められている証拠だ。

結果的に、斉木、三枝の支持で受賞となったが、私は、そんなにいい作品とは思わなかった。以前から言われているように、藤倉の作品は一貫して運動性に優れており、手法も細かく、スキルの高さはスコアを見ずとも明らかだ。技法について、自分ではよくわからないと言っているが、それが謙遜でないとすれば、労せずして、そう書けてしまう天才をもっていることになるのだろう。それは素敵なことだ・・・。

だが、私はこの作品が、リクセンベルクという優れた歌い手なしにはあり得ない作品だと思った。そんなことをいえば、前日のチン・ウンスクだって、ウー・ウェイという名人の存在なしにはあり得ない作品を書いただろう。しかし、それとは次元がちがう。特に後半においては、公開審査では、反復音型の良し悪しが問題になったが、私にはもっと大きな問題があると思われた。それは、反復音型を導入したこととも関係がありそうだが、結局、リクセンベルクの表現の奥行きに対して、バックのオーケストラのキャラクターが呑み込まれてしまうことなのだ。

確かに、この作品において、藤倉はある種の成長を見せている。特に、リクセンベルクというゆたかな表現法をもった歌手に出会ったことで、かなり謙虚に、歌のもつ可能性について探求した藤倉の姿勢からは、作曲家として大事な好奇心の強さが復活しているように見受けられる。生声だけではなく、敢えてマイクも用いることで、その声の可能性はさらに大きく広げられているし、リクセンベルクもそれを楽しんでいるかのようだ。

しかし、その肝心の言葉は聴きやすかったのだろうか。私の英語リスニング能力は貧弱だから、あまり偉そうなことはいえない。それにしても、藤倉は考えすぎたと思うのである。それはこの曲の美点でもあるが、テクストと音楽があまりに一体化しすぎているために、かえって、声が聴き辛くなっているのは否定できないのではなかろうか。私はこの点において、中間でかなり退屈に感じてしまった。そのため、藤倉の持ち味である運動性についても、若干損なわれた印象があり、策士策におぼれるの感があった。

【松本祐一、イロニーがイロニーとしてもたない苦しさ】

松本祐一(祐の字の示偏は旧字だが、変換できないので常用漢字にした)は、あるテーマについてアンケートをとり、その答えを品詞にわけて、それによって音程を決め、単語の長さで音符をの長さを決めるというシステムで音楽をつくるという独特の方法を編み出した。西洋人の場合、人名を素材化したりして、それを神から与えられたものとしてセリー化することで、偶然性を出しているわけだが、そうした背景がない東洋ベースの松本は、アンケートという形に、その代替を求めたというわけだろう。

今回は、「広島・長崎の原爆についてどう思いますか?」がテーマである。この質問に対する答えを、日本語と英語の両方に置き換えて、素材化している。スティーヴ・ライヒが審査員だった武満賞への応募作品であるためか、ミニマル・ミュージックになっているが、後述のように、単純なミニマル作品ではないような気がする。スピーカーから、前もって録音された答えがアナウンスされ、それに合わせて、舞台上のアンサンブルが演奏する。左右シンメトリカルにヴァイオリン、チェロ、ピアノ、打楽器が配置され、実質的には、舞台上に2つのアンサンブルが配置されていることになる。

品詞が大事ということで、アナウンスは主語、述語、助詞・・・という品詞名の連呼から始まる。それも、いくぶんか機械的な読み上げだ。そのあとにいろいろな答えが読み上げられるが、ミニマルなので、それに対応して音楽が入れ替わることはなく、いくつかの分岐点を境に雰囲気がすこし変わるぐらいで、あとは音楽的には同じ要素がつづく。単純な構造にもかかわらず、左右対称がときどき崩されて、すこし揺らぎが出たり、あるべき響きが抜けていたりして、なかなか油断がならない。

しかも、いろいろなところにイロニーが仕掛けられていて、一筋縄ではいかない作品だ。まず、ミニマルという形式であるが、この要素からして曲者だ。松本は決して、ライヒの忠実なしもべというわけではなさそうである。もしもそうだったのならば、ライヒは彼を選ばなかったと思う。そこには、既にしていくつかのイロニーが込められており、ライヒが評価したのは、多分、そのような毒の部分なのである。

まず、この形式は、彼が用いたコンピュータ・プログラムへの皮肉を含んでいる。つまり、この作品では、どんな答えが来ようと、そのシステム上、音楽は何の反応も示さない。そして、あのすこし人を食ったような軽い音楽(それは世論調査の結果を伝えるテレビ番組の背景音のようでもある)がつづくことで、聴き手のもどかしさを誘うと思うのだ。つまり、彼は自分で仕組んだこのシステムそのものに、自虐的なユーモアを仕掛けている。もちろん、それは翻って、ミニマル・ミュージックの弱点を炙り出すものでもある。まず松本は、作曲者と聴き手のこうしたディス・コミュニケーションを肯定することから音楽を始める。

斉木も指摘していたように、アンケートの読み上げは、初めは交互に聴きやすくしていたが、例の品詞の連呼を境にして風景が変わり、複雑化して聴きにくくなる。ここにも、イロニーがある。それについて説明する前に指摘しておきたいことは、原爆投下についての意見聴取をテーマにしていること自体に、このイロニーは始まっていることである。つまり、この問題について、投下された側の日本人と、投下した側のアメリカ人では、まったく意見がちがうという事実を考えねばならない。

アンケートの内容は、多分、日本人の側だけからのものだ。しかし、予想どおり、原爆投下が避けられないものであったことを指摘する声も、聞こえたように思う。とはいえ、一般的にみて、日本語圏では原爆投下が問題だと思い、英語圏では必要だったと肯定される傾向にあるのは止むを得ない。そうした対立軸があることを、松本は十分に考慮に入れている。それが整理されて、秩序づけられて互いに主張されている間は、まだいいのだ。しかし、後半に行くにしたがってそうなったように、それぞれが自らの意見をまくし立てようとしたとき、なにが起こるのだろうか。それは、混沌である。この混沌に陥ったときにも、コンピュータ・プログラムは、あくまで定められた動きを続けるだけだ。ここに、二重のイロニーが展開する。

原爆問題が敢えて取り上げられた意味も、ここにあるのだろう。

発想は、面白いといえるのかもしれない。しかし、それをちゃんと制御して、聴き手に納得させるだけの音楽世界があるかといえば、それは大いに疑問だ。

逆に、イロニーがイロニーとして命脈を保ち得ず、聴き手に反発されてしまう要素があまりにも多い。例えば、そのひとつは、アンケートの答えがまったく音楽に反映されないもどかしさや、そのこととも関係して、原爆という重大な問題がただの音楽的要素に陥ってしまう不満。また、本来はたくさんの声が集まったはずのアンケートが、無機質に、それぞれ1人ずつのナレーターによって読み上げられ、その意見が殺されてしまうことへの不満(そこにもイロニーはありそうだが)などである。こうしたものを抑え込んで、あくまでも純粋に音楽的なイディオムとして止揚してもらうことを聴き手に求めるのは、あまりにも作曲者の傲慢ではなかろうか。それを許すような音楽的な果実があるかといえば、そうでもない。

【藤井喬梓、あまりにも真面目すぎる】

藤井喬梓(フジイタカシと読む)の『ディエシスⅡ』は、母校・国立(クニタチ)音大のシンポジウムに寄せて書かれ、「国立ならでは」の作品として構想された。こういう場所に出されるとも思っていなかったのだろうから、すこし内輪的なネタもみられる。例えば、楽器編成が音大の学生数に比例していることなどである。また、バリバリに新しいものが求められていたとも思えないので、こうした場所に引っ張り出してくるほうが可哀想な作品であるともいえるだろう。

始まって数秒、トーン・クラスターというのだろうか、整然とした響きが真っすぐに伸びてきて、要は古色蒼然とした響きに、かえってギョッとさせられた。ああ、なんと真面目な作品だろうか。聴いたか・・・小出君。リンドベルイとかを連想させる生真面目な・・・さほど歴史はないけれど、もはや古いとしか言いようのない響きの怪物に出会ったのだ。

良くも悪くも真面目一途の藤井は、ここから雅楽のような響きを使いながら、セレモニアルな雰囲気に作品を織り上げていった。「ディエシス」とは半音以下の微小な音程を意味するそうだが、この曲では、半数の管楽器、キーボード(シンセサイザー)、ハープなどが四分音下げて調律されており、その効果が雅な効果をあげていることで好評だった。私は雅楽的な響きだけではなく、西洋のパイプ・オルガン的な響きもそこに二重写しになっていると思った。この襞が、とっても美しい。なにで演奏しているのかわからなかったが、四分音によるずれと、シンセの響きで出来ていることは、審査のなかでわかった。それがぱっと花咲いて終わるところなどは、ポエジーに満ちみちている。

やはり、日本人的にいうと、真面目は絶対的な美徳だ。だからというわけでもないだろうが、例の藤倉の反復音型を嫌いなものと言いきった最年長の松平頼暁は、こちらを支持した。私もその真面目さは、この3人のなかでは十分に買えるのではないかと思った。なぜなら、藤倉はどんどん才能だけで書けてしまうようだし、松本の音楽はコンピューターの働きで、労せずして(これは比喩的な表現だ)出来てしまうようなものだったからだ。選考対象でこそないが、小出稚子の作品をも相対化できるかもしれない部分がある。これらの人たちは、人も羨むゆたかな才能があるが、本当は、もっと苦労したほうがいいのだ。

とはいえ、あまりにも真面目すぎて、絶対に、この作品が優れているとは言いきれないもどかしさがある。それに、やはり、音楽的なパラダイムが遅れている。別に古くてもいいのだが、その古さを納得させるだけの要素が十分でないところに、最大の弱点がある。きれいなだけでは、評価されないのだ。

【まとめ】

かくして、若手らしい共鳴で藤倉を支持した斉木と、筆力を素直に評価した三枝に対し、松平は藤井を推すことになり、結局はスプリット・ディシジョンとなったのである。藤倉は最初のころの好奇心が復活してきているが、まだまだ駄目だと思う。前に聴いたとき、まだ生きていた江村哲二も言ったし、この日、三枝成彰も言ったが、ブーレーズの影響は如何とも拭いがたい。アカデミーの申し子だから、それはそれでいいと思うし、藤倉といえばブーレーズと公式化されてしまうのも可哀想だ。でも、彼の筆力の底に沈んだ表現の瑞々しさに立ち返って、一生懸命に書いてほしいと思うのは事実なのである。私は彼のことが好きだから、そのように思う。

三枝成彰も言ったように、今回の3作品を聴いて、瑣末なオリジナリティぐらいはあるにしても、形式的に、本質的にインディペンデントなものは1つもなかった。その点、やはり最初の小出の作品に魅力がある。わからなくても、わかりたいと思わせる引力があるからだ。でも、いまのところ、彼女の音楽を聴くぐらいならば、私は椎名林檎のほうがいい。面白い作曲家だが、アムステルダムでさらに学ぶことが決まっているというから、さらに大きな存在になってもらいたいと願う。

とにもかくにも、良いものもあり悪いものもあるが、若い作曲家たちもめいめいに頑張っている。彼らの作品も、もっと聴かねばと思った一日であった。そのことが聴き手のレヴェルでは、三枝の語る作曲界の危機感に応えるものになると思うからである。

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