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2009年9月29日 (火)

アルカント・カルテット @王子ホール 第2夜 エナジー 9/28

アルカント・カルテット(以下、アルカントQ)は、世界的にみても第一級の弦楽器奏者のみによって結成された、超技巧派のクァルテットである。全員がソロの活動をもち、第2ヴァイオリンのダニエル・セペックは古楽器にも通じ、オケでも活動。そのほかの3人は、著名な音楽院にも教授として迎えられている中堅以上のメンバー。つまり、知と技術の最高峰を占める4人が集まったわけだが、うち3人がドイツ人、ケラスのみがフランス系のカナダ人である。これだけのメンバーであるから、いつも一緒に行動する専門のクァルテットではないとしても、これまでに数枚の録音もリリースしている準常設のグループであるといえる。

さて、今回は王子ホールで組まれた2夜のうち、2日目となる28日を聴いた。本当は初日、デュティユーやメンデルスゾーンが組まれたプログラムのほうをみたかったのだが、チケットが手に入らないのでは止むを得ない。第2夜は「エナジー」と題されているが、彼らが思いきりぶつかれる曲というイメージであろうか。

【バルトークは未完成】

演奏会は、バルトークの弦楽四重奏曲第5番で始まった。

クラシック愛好家の間では一般的におこなわれているように、軽々に、アーティスト同士を比較することを私は好まないが、今回は敢えて、その弊を犯そうと思う。2006年、ご存じの「バルトーク弦楽四重奏団」(以下、バルトークSQ)という名クァルテットが活動休止の直前、最後の来日公演に臨んで、バルトークの『弦楽四重奏曲』全6曲と、アンコールには『ルーマニア民俗舞曲』までつけて、ほとんど「遺言」のようなコンサートをおこなったのは、いまも記憶に新しいからだ。高齢にはなっていたが、腕の落ちは少なく、自らのグループに名前を冠したアーティストへの敬意は明らかで、素敵なコンサートになった。

私はただのオーディエンスにすぎなかったが、せめてもの良心として、ことバルトークに関しては、彼らの「遺言」をどうしても無視するわけにはいかないように思っている。アルカントQの演奏は、あのとき4人の老爺がみせてくれた真心(もしくは良心)と比べると、相当に物足りないのは、どうしても否定できない。バルトークSQの演奏では、大木がドスンと根を据えて、例の「アーチ型構造」をしっかりと支えていたのに、アルカントQの演奏にはそれがなく、まるで柱も何もないのに、屋根だけが不思議と家屋に乗っかっているような落ち着かなさがあった。それは見様によっては、ガウディ的な発想ともとれないことはないのだが、私は、そうした評言が正鵠を射ているようには思わない。

確かに、特殊奏法、ファルセット、グリッサンドなどの抜群の巧さはあって、それは第2楽章などにおいては、異様なほど効果を挙げているのだが、それはバルトークというよりは、ラッヘンマンとか、なにか別のものに聴こえてしまうだけであって、この曲の表現として見合うものだったのであろうか。なるほど、人が語りかけるような書法はバルトークらしいものであるかもしれないし、いかにもハンガリー的というような訛りまで感じられたから、その書法をよく研究したあとは窺われる。第3楽章の柔らかいピッチカートの効果も理想的であるし、ソット・ヴォーチェも美しい。アタックもなよなよしたものではなく、表現としての筋がまったく通らぬような演奏ではないし、面白い部分もたくさんあった。

しかし、例えば、アレグロ・ヴィヴァーチェの終楽章では響きもまとまりきっておらず、彼らのもっているはずのスキルや表現性のレヴェルの高さからいって、納得できない部分が多かったのは誰しも感じたことであろうし、その点とあわせて、彼らのバルト-クはまだまだ未完成という風に受け取っておくべきものと感じた。

【まだ上がありそうなハイドン】

そこへいくと、ハイドン(弦楽四重奏曲第49番 op.64-2)は、演奏から受ける「良心」がまるでちがうレヴェルにある。彼らの演奏を聴いていると、ブリュッヘン翁が自信たっぷりに新日本フィルのメンバーたちを説きつけて、オーディエンスをも納得させた2月の日々を思い出さずにはおけない。音楽性が同じだというのではなく、彼らもまた、ときには楽譜に書いていないハイドン独特のルールというものをしっかり意識し、聴き手に感じさせた演奏だったということである。

第1楽章、アレグロ・スピリトゥオーソが象徴的で、沈み込むような深い音色で開始し、ロ短調の主体的な雰囲気に、いかにもハイドンらしいユーモアが差し挟まれていく。その間の、推移の見事さを彼らほど見事に捉えた例は少なく、とりわけ第1ヴァイオリンのヴァイトハースの多彩な歌いまわしは、さすがである。終盤、上昇気流に吹かれながら、哀切な部分からなかなか抜け出られないのは、モーツァルトとの比較で、いつもハイドンに感じる特徴である。

アダージョ、メヌエットは特筆すべき特徴は指摘できないが、4本の弦の味わいのどこかに、身を任せながら聴いた人が多いであろう。どことは言わぬが、細やかな工夫がそれぞれに聴かれたはずだから、どこに耳をやろうと、十分に楽しめたであろう。安心して、これらの名手の奏でる響きの面白さを楽しむには、これら2つの楽章は打ってつけというべきだったかもしれない。

しかし、プレストに入り、ややメッキがはがれた感じがしないでもない。この楽章に関しては、テンポが速めに設定される分だけ、表現がやや単調なものになってしまったのではないか。響きの華やかさと、即興的ともいえる装飾の奇知によって大胆なユーモアが聴かれるものの、それらはやはり煮込みが足りない分、途中で大きなずれとなって表面化した。最後のユーモラスなフィニッシュはいいが、完全に聴き手を虜にするところまでは行っていない。まだ上がありそうだという演奏であった。

そう思って振り返ってみると、確かに良い演奏ではあったけれども、やはり彼らの持ち合わせたものからすると、完全に満足できるレヴェルとは言い難いように思うのである。

【ラズモフスキーに見えたクァルテットのポジション】

そして、最後は、難曲として知られるベートーベンの「ラズモフスキー第1番」(弦楽四重奏曲第7番 op.59-1)である。その難曲たる理由はいくつもあると思うが、そのなかでもっとも大きいのは、突っ込めば突っ込むほど、どこまでも奥行きがあるから・・・というものではなかろうか。クァルテット・エクセルシオのメンバーは、現代作品はあるレヴェルまで到達するには苦労するが、そこを乗り越えてしまえばゴールは見える。しかし、古典作品の場合、あるレヴェルまで達するのは簡単だが、その先で自分たちの納得するレヴェルまで到達するのは容易でないといっている。このラズモフスキー・セットは、そうした「古典作品」のなかでも、ひとつの境地を行くものであろう。もちろん、規模が大きいということもあるとは思うが・・・。

ということで、この曲の演奏について評する場合には、どこが良かった/悪かったというよりも、どういったゴール設定がなされていたかについて見ることが、まず、なによりも重要になってくるのだろう。ただし、その点について的確な評価が与えられるほど、私は優れた見識のあるクリティック(批評者)ではない。しかし、少なくとも、次のようなことは言えるのではなかろうか。アプローチはやや浅彫りであるが、非常に高いところに辿り着くための豊富なエレメントを感じさせる演奏であったこと。そして、構造的なアピールについては、この上もなくすっきりしたプレゼンテーションが爽やかであり、長大な曲が長大であるとは感じられなかったことである。

特に、第2楽章から第3楽章にみられるベートーベンの独創性は、わかりやすい。第2楽章では、第1ヴァイオリンを除く声部が先行し、最後に第1ヴァイオリンがとびきり華やかな音色で追走する構造が見事に出たし、第3楽章ではチェロと第2ヴァイオリン、ヴィオラと第1ヴァイオリンのマッチングから展開する構造の広がりが鮮やかに捉えられていた。音色の面からいっても、第2ヴァイオリンやヴィオラといった内声に強みをもつアルカントQだからこそできる、表現の深みを窺わせる箇所がある。

アダージョ楽章(第3楽賞)は特に、4本の弦の絡み方が濃厚であるが、特に、第2ヴァイオリンが薄く高い響きをつくるのが、チェロをはじめ、周りの響きと微妙に混ざり合うことによって、なんと木管楽器の響きのように聴こえたのは驚きであった。第1ヴァイオリンが主体となる部分でも、他の3本の楽器の刻みこそが、聴き手にとっての楽しみであったろうし、それらの関係を一生懸命に追っていくと、あっと言わされる瞬間が随所にあった。

もしも彼らにとっての到達目標を探るとするならば、このあたりの声部の関係をきっかけに、構造や、それに張りついた音色、さらにそこから広がっていく表現の中心を掘り下げていくところにヒントを求めるのが適切かもしれない。

その結晶ともなるべきは、第4楽章のロンド・フィナーレだろう。

序盤からロンド主題をダイナミックに展開し、伸びやかな筆致で作品世界を膨らましていくまでは素晴らしい。ときにベートーベンは、いまはこれ以上は望めないというほど自信のある作品を書き得たときには、最後に典型的なポリフォニーを書いて、神さまへの捧げ物にする。このフィナーレにもそうした部分があるが、アルカントQは、この大事な結びの部分に至るまでは、聴き手を圧倒していた。それなのに、すべて台なしというほど酷くはないが、こうした要諦をしっかり歌いきるためには、やはりクァルテットとしての練度がものをいってくるようである。この点だけが、心残りであった。

【まとめ】

しかし、そのことを殊更に言い立てることが正しい態度なのかどうかについては、疑問がある。最初のバルトークを除くと、少なくともハイドンとベートーベンについては、私は批判的に書いたと誤解されるのを畏れている。このベートーベンなどは、文字では書ききれないけれども、ディテールで相当に面白い部分もあり、まったく感動的でなかったわけはない。特に、弦楽器に造詣の深い方であればあるほど、この4人のパフォーマンスには驚きを禁じ得なかったろうし、4つの声部のどれかには、必ず食いつきたい部分があったに相違ないのである。

私の場合は、第2ヴァイオリンのセペックの粘りづよい動きと、揺るぎのない作品解釈の確かさにおいて、感動的であった。

ただ、室内楽というのは、聴けば聴くほど奥がふかい芸術である。私は前回の来日時、アルカントQの巧さに酔いしれたものだったが、よくよく思い返してみると、そのときの演奏で、忘れっぽい私のあたまのなかに辛うじて残っているのは、ヴァイトハース(当時は男性のような装いだったはずだ)とケラスで弾いたコダーイの二重奏曲の凄まじさなのであった。クァルテットとしては、そうした有無をいわせないようなポテンシャルが、完全に生かされるところまでは来ていないというべきだろう。

しかし、コンサートとしては楽しかった。アンコールで演奏したラヴェルのクァルテット(第3楽章)では、タペア・ツィンマーマンの弾くヴィオラの濃厚な音色を思う存分に楽しむことができて、ヴィオラ・マニアの私としては、幸福でないはずがないのである。いろいろと言ってはみたが、技の利く、創意工夫に満ちた存在感のあるクァルテットであることは間違いがない。ほぼ満員の会場も盛り上がっていた。

【プログラム】 2009年9月28日
1、バルトーク 弦楽四重奏曲第5番
2、ハイドン 弦楽四重奏曲第49番 op.64-2
3、ベートーベン 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」

 於:王子ホール

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