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2009年9月 6日 (日)

ナイマン 妻を帽子と間違えた男 + ヒンデミット 往きと復り 東京室内歌劇場 9/5 ①

東京室内歌劇場は、非常に珍しいオペラの演目を取り上げているが、今回は、来年のメモリアル・イヤーに予定されている、シューマン唯一の歌劇『ゲノフェーファ』の上演に向けて、この作曲家と関係する作品を取り上げたということだ。

順番を入れ替えて、まずはナイマン『妻を帽子と間違えた男』から行きたい。珍奇なタイトルがついているが、これはその通りの意味だった。男(P教授)はかつての大歌手であるが、知覚生涯(アルツハイマー)を発し、右側だけは見えるが左側は見えないという障害のほか、事物、人間の認識にも破綻を来している。その男が夫人に連れられて、神経科医のS博士に診てもらうところから始まる・・・以下、作品を観たことがない人も多いだろうが、筋書きは思いきって割愛してしまうつもりなので、悪しからずご寛恕ねがいたい(どうせ、筋書き的なものが入ってくるはずだ)。そこで、早速、感想から入ろう。

【ICF的な考え方に基づいた作品】

まず、作品そのものの性質はルポルタージュ(記録・報告文学)的な作品だと思った。導入部で註釈がついたように、この作品は、P教授のような症例があることを観客に知ってもらうことを第一の目的にしている。ただ知ってもらうだけではなく、「・・・がない(できない)」「・・・欠損」「・・・喪失」などと言われ、病気としては消極的にしか見られない症状の人たちについて、どうしても見逃されがちな人間の尊厳の問題を扱った作品なのである。

私の知る限り、障害についての認識はごく最近まで、ここでナイマンが指摘するような消極性から脱け出られていなかった。国際的には2001年になって、ようやく’ICF’という基準が導入され、障害者の残存機能(まだ使える機能)を重視し、それを積極的に活用していくという考え方が一般的となるのである。それまでは、障害者というのは人間として当たり前の機能がなくなってしまった人だから、手厚く保護して、彼らに相応しい環境を与えるべきだという消極的、隔離的な考え方が普通であったのだという。

そうではなく、適切な手助けをすることで、障害はあっても残った機能を使って人間らしい生活を営み、我々と同じ生活環境で生きることができること、つまり、障害者の自立が大事だという考え方は、わりに新しいものなのである。櫻井翔が主演した『ザ・クイズショウ』というテレビ・ドラマにも問題として出てきたのに驚いたが(第3話)、最近になって、ノーマライゼーションというキーワードが、少しずつ浸透してきているのはご存じだろうか。作品は1986年の製作なので、こうした考え方がまだまだ一般的ではない時代に書かれている。

題名から予想できるのはとはちがって、この作品は、精神病患者の異常な行為=妻を帽子と間違えることを、おかしみを込めて描く作品ではない。そのような障害のある人物の姿を描きながらも、異常な状態にありながら、なお、誇りだかい尊厳をもって生きる男の姿を描いているのだ。そして、その男が優れた音楽家であったということには、大いに意味がある。

【誰が正しいのか?】

さて、P教授を診た医師は、左の靴が履けず、足を靴、靴を足だと思ったというような、教授とのやりとりから異常があることを察知するが、もしかしたら、相手が全てをわかっていて、からかっているのかもしれないという想いもあり、症状を断定できない。大したことはなかったと言って、夫妻が帰ろうとしたときにそれは起こる。教授は自ら帽子を取ろうとして、妻のあたまを掴んでしまうのである。これをみた医師は、夫妻の家を訪れ、普段の生活環境を確認することにするのだ。

結局は筋を書いているが、本来、ここで誰が正しいのかという問題が起こってくることを言いたいのであった。つまり、客観的にみれば、教授に異常があるのは明らかである。しかし、教授のことを知れば知るほど、そのことに自信がなくなってくる。実際、家に帰ったあとも、教授は一方的に貶められるわけではない。

例えば、砂漠の写真を見せられて、教授はそれを川だと答える。無論、明らかに間違っているので、これは教授にとって不利なようにも思える。しかし、サハラ砂漠もかつては緑や水に恵まれていたわけだし、地形だけをみれば、そこが昔は川だったことを想像させないこともない。そこには家があり、テラスがあって・・・とつづく完璧に詩的な描写については、異常者の妄想というよりは、芸術家のファンタジーすら感じさせる。

そのほか、シューマンの歌曲を見事に歌いきる場面や、盤をみないでチェスをさし、完璧な作戦で医師を破る場面などからは、教授の人並み優れた能力が十分に残っていることが示される。これは、ある機能をうしなった人が別の機能を人並み異常に開花させること(例えば、目の見えない人が聴覚に優れていたりするようなこと)とはちがい、教授がこれまでの人生のなかで、身につけてきたそのままの能力だ。それは弱ってはおはらず、異常というには当たらない。

とはいえ、P教授は病気なのだ。手袋を手袋と理解するのに、相当に頭をひねらねばならない。薔薇を薔薇と認識するまでに、かなりのヒントが必要だ。形状をコンピュータのように分析し、香りを嗅いだところで、ようやくそれとわかる。病気なのだ。しかし、多分、この「病気」は100年も前には存在しなかっただろう。そう名付けられていなかったからである。確かに、病気ではあるだろうのだろうが。

では、病気とは何なのだろうか・・・。病気だから、何だというのか?

きっと多くの観客は、作品が終わるまでにP教授に共感するはずだ。彼の偉大さや、気高さについて。同情はしない。可哀想だとは思わない。なぜなら、彼は堂々と生きているからだ。むしろ、奥さんには同情を感じるかもしれない。あとで触れるが、彼女は、教授の状態をちゃんとは受け容れられていないだろうからだ。だからこそ、可哀想だと思うのである。例えば、死を完璧に覚悟した病人を、誰も可哀想とは思わないのではないか。むしろ、立派だと思うだろう。だが、死を受け容れられないで泣き叫ぶ病人については、可哀想だと思う。その道理と同じである。

ナイマンは、ここにもっとも典型的な2つの存在を登場させたというわけだ。誰が正しいかといえば、それは教授なのである。しかし、それを受け容れない夫人のほうにも、理がないわけではない。医師については、どうなのか。この3つ目の存在は、教授を病気と判断することで、正しくもあれば、間違ってもいる。この医師の素晴らしいところは、教授の残っている力を認め、そこへ敬意を払うということを忘れないことだ。音楽があれば、彼は生活を維持できる。そのことを見逃さない。ここに医師S博士は、中立者として申し分のない立場を得たかのようだ。作者の代弁者としての・・・。

だが当時、実際には、こうした医師は少なかったのだろう。

(②につづく)

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