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2009年9月 6日 (日)

ナイマン 妻を帽子と間違えた男 + ヒンデミット 往きと復り 東京室内歌劇場 9/5 ②

【リアリティの問題】

作品のもつテーマは、確かに興味ぶかい。しかし、直ちに新しい疑問が湧いてくる。

もしもドイツ人だったら、きっとこのように言うだろう。繰り返しばかりのミニマルなんぞ、どこも新しくないし下らない。ナイマンは、音楽家ではなく新聞記者になりたいのか。そのために音楽を、しかも、ミニマルというわかりやすい音楽を利用するのか。この質問はナイマンにとって、当然、予想できた批判である。私はいま、ナイマンがその反問に対して、いかに答えたかについて音楽的に述べることは趣味でないと思う。だから、そのことはしばらく脇に置いて、私なりに新しい問題を立てたいと思う。

それは、ナイマンの作品にリアリティがあるかどうかということだ。私はこのオペラをみていて、先日拝見した『路上のソリスト』という映画を思い出した。TBに過去の記事をつけるが、それはジュリアード音楽院の学生だったチェリストが精神に異常を来たし、路上生活者として暮らしているのに出会った新聞記者が、初めは記事のネタとして考えていた男と、徐々に対等なコミュニケーションを獲得していくまでの物語だ。「異常者」という認識から、徐々に共感が膨らんでいき、その人間的尊厳を認めていくという流れが、ほとんど同じだ。

だが、残念ながら、実話をもとにしているにもかかわらず、この映画にはリアリティがなかった。そこにはいろいろな理由があるが、いちばん大事なことは、重みのあるテーマに映画自体のクオリティが追いついていないことに尽きると思う。ナイマンの作品もオリヴァー・サックスのルポをもとにしており、医師Sはもちろん(オリヴァー・サックス自身)、P教授も実在するという(夫人は原著にはあまり出てこないようだ)。では、この作品は『路上のソリスト』同様の弊は犯していないのであろうか。その点について、ミニマルには危険性があるのだ。

単調なミニマルであれば、その罠にはまりやすいのは言うまでもない。

幸いなことに、この作品にはリアリティが感じられた。今回、僅か12分あまりのヒンデミットのマイクロ・オペラとダブル・ビル(2本立て)となったわけだが、それと比べても、ミニマルであるがゆえの問題点はさほど感じられず、音楽はずっと繊細にドラマに寄り添っていた。この作品が来年のシューマン上演のステップとして考えられたのは、中盤に1つしっかりと出てくるほか、シューマン歌曲から多くの素材(指揮の中川賢二によると14もの素材が使われている)が引用されていることによっているが、そのパロディ的な効果も、この作品をあるいは、低俗なものにする危険を含んでいる。しかし、これもナイマンは意識的に回避していて、シューマンの作品がもつ魅力的な部分のエッセンスだけが、大まかにいえばポエジーだけが、ナイマンの手法のなかできれいに消化されているように思えた。

このシンプルな技法と、ロックなどポピュラーにちかい要素を広く使いつつ、ナイマンは、作品が使命的にもつテーマの強さに、音楽的にも打ち勝ったのだ。音楽技法からの説明を拒んだのは、ここに原因がある。新しさ、湯浅譲二いうところの「未聴感」からいって、この作品がどうなのかは論じる知見がないし、また、そのような視点から論じたいとも思わない。しかし、少なくとも、この作品で訴えたいことに対して、十分に音楽的な価値がついてきていたことは実感があるのだ。

我々のレヴェルから見るならば、それで十分ではないか。

【音楽的なイロニー】

感想と言いながら、私は自分がどのような感情になったかを書いていなかった。私はこの作品をみて、涙したのだといって、信じてもらえるだろうか。実際、それは素直な涙だ。人間が涙するというのは、自分のもっている感情のリソースにためきれない悲しさ、感動、喜びなどを受けたときである。今回、どのような要素がそこに溜まったのかといえば、2つあるように思う。

1つは、ナイマンの仕組んだイロニーに打ちのめされたからだ。彼はこのオペラのなかに、たった1つのメッセージしか埋め込まなかったわけではない。確かに、P教授の症例を紹介し、そうした人間が備えた尊厳のゆたかさに気づいてもらいたいという願いは、何ものにも勝る。しかし、それだけではない。私は①の記事で、「この作品は、精神病患者の異常な行為=妻を帽子と間違えることを、おかしみを込めて描く作品ではない」と明言した。だが、前言を翻したといって怒らないでいただきたいのだが、やはり、アイロニカルに、この教授の姿を捉える面もなくはないのだ。ただ、そこに表れるイロニーは、周到に計算されて、教授の人格自体からは切り離されて使われていることを指摘しておかなくてはならない。

教授の姿をイロニーに使い、ナイマンはなにを批判しているのか。人間から認識が切り離されたような感覚。片目しか見えないこと。教授の機械的な分析力。ある方向だけに偏った特別な能力。戦争を遠い契機に、徐々に人間性を喪っていく教授の個人史。こうしたものから、なにか気づかないだろうか。それは、音楽の問題に重なってくるのである。ナイマンは専門的な音楽的修養を積んだあと、上のようなドイツ人の問いかけに溢れたクラシックの世界に違和感を覚えて、作曲活動をいったん止めたという。そのときの彼のあたまのなかには、ここでモティーフになったような問題が、ぐるぐると巡っていたはずなのだ。

音楽が人間の実体から離れ、なにか片方の要素しか・・・主に機能的な要素しか重視せず、人間の尊厳を無視した形で、その形式が発展しているのではないか。正にコンピュータのように、悪いときにはコンピュータそのものが音楽を分析し、プログラムに添った音楽がつくられていく。私はそうした音楽にも興味をもっているが、ナイマンもまた、そのような道をふかく学べば学ぶほど、技法的な興味とは別に、なにか不条理なものを感じていたにちがいない。それは三枝成彰が前衛の最前線基地から脱走して、人間的な音楽へと回帰していったのと似ている。

冒頭部分、シューマンの素材を使いながらも、ガチャガチャとロジカルな響きが並ぶところは、正に印象的ではなかろうか。そうした部分から、ナイマンの音楽はすっと離脱していく。むしろ、作品世界の中心部は、ロックを初めとした、ビートの効いたポップス調が主体であり、中川賢二などは、そんな部分に惹かれるのかもしれない。そこにはしかし、なんと14ものシューマン歌曲の素材が埋め込まれていて、古典的な要素と現代的な要素が、しっかり手を組んでいるようだ。

実際には、そのような音楽が病気扱いされているのが現状だった。ナイマンはこうした主流にこそ、病気が潜んでいると思った。・・・どちらが正しいのだろうか。それはわからない。このような問題はなにも、音楽に限らず、文学、映画、絵画、彫刻など、すべての現代芸術に共通の問題であると思う。

【人間的なイロニー】

ところで、このイロニーはゲイジュツという分野にだけ、限定的に視野が向かっているわけではない。そこには、人間そのものの問題が含まれている。なにも、P教授に問題があるのではない。しかし、この人物をイロニーとして使うことによって、現代人の姿が炙り出されてくるところもあるということだ。いまもすこし断ったように、この行き方にはリスクがあり、教授自身が笑われるような表現だけは避けねばならないが、その弊は、どうやら免れていそうである。

音楽に対して、現代芸術全般に対して、皮肉をこぼしたようにして、ナイマンは、人間たちをも批判している。私が涙したのは、正に、そのような点についてなのであった。そこには二重三重のイロニーが広がっており、教授の障害が皮肉にも、我々の生き方に重なっているほか、教授を病気と決めつける側にも、これまた別の皮肉が重なっている。さらに重いのは、奥さんの問題があるからだ。

演出の飯塚励生は、「薔薇」と名づけられた部分が教授の障害が決定的にわかる場面で、夫人を追いつめ感情の極点に立たせるクライマックスになっているとし、悲劇的な見方をしている。しかし、私はそうは思わない。夫人は、しっかり気づいていたのだ。医師Sは奥さんを慎重に問い詰めてさえいえれば、それだけで答えを得ることができたかもしれない。なぜなら奥さんは障害であることを認めていないだけで、夫が暮らしていくのに適切な方法を最初からとっていたし、その本質、つまり、音楽の規則に従って夫が行動していることを見抜いていたからだ。

夫人の行動は、結果的に正しかったといえるのかもしれない。なぜなら、その行動は、医師が示した「処方箋」に初めから沿っている。夫が音楽を続けることも正しければ、彼が暮らしやすいように規則正しく環境を整え、彼の音楽のリズムを遮らないことも正しかったのだ。ただ、批判されるべき点があるとすれば、夫の病気という本質的な問題を目の前にして、そこから目を反らしたことにある。

この奥さんの行動は、きわめて人間的な問題だ。例えば、我々は息子ブッシュがイラクで誤った行動をとろうとしているとき、それに十分に気づきながらも、彼らの示すいかにもあやしげな「証拠」を正しいものと認めて、見逃してしまった。否、見逃すどころか、日本は協力の姿勢をとって、ここに至るまで、公式にはその態度をいまだに反省すらしてしていない。英国のブレアはこのことで大批判に晒されたのに、小泉はこの問題について、責任を追及されていない。そんな大きな問題にしなくとも、家族や夫婦、恋人同士の問題でさえ、こうすればうまくいくとわかっていることを敢えてせず、関係を壊してしまうことがかなりある。誰にでも、覚えがあるだろう。問題がわかっていても、何らかの原因でそれを先延ばしにして、取り返しのつかないことになったことが!

ここに描かれているのは、ただの異常者・・・否、障害者の問題ではない。

【教授と夫人の結びつき、帽子とはなにか】

さて、随分と離れてしまったが、私が涙したもうひとつの理由は、教授と夫人の結びつきについて、ふかく感動したからでもある。

このオペラの題名は、『妻を帽子と間違えた男』となっている。では、帽子と間違えられた奥さんは果たして、ハッピーだったのであろうか、アン・ハッピーだったのであろうか。当然、不幸に決まっているではないかと、誰もが仰るであろうと思う。しかし、その前に、帽子とはどういうものなのかを考えてみたいのだが、どうだろうか。もしも、帽子というものが男にとって、よほど大事で、親密なものだとするならば、事情は変わってくるのではなかろうか。

実は公演のあと、アフター・トークということで、最後に指揮の中川と演出の飯塚に質問ができる時間があった。この日は誰も質問しなかったが、なぜ、このことについて聞かなかったのかと思うと後悔が先に立つ。しかし、そのおかげで、自ら考える自由を得たともいえるのだが・・・。残念ながら、オペラのなかに帽子が何であるかということについての、直接的な答えは見当たらなかった。しかしながら、ひとつのヒントは音楽そのものにある。

ときに私が、奥さんはそれでもハッピーだったのだ・・・、と、強引にでももっていくつもりであることは、すこしばかり賢明な方ならば、誰でも見抜いていらっしゃることと思う。それはなぜかといえば、この場面で流れる音楽が、複雑なイロニーに満ちていながらも、全編のなかでもっともフレッシュなものであって、美しく、潤いに満ちていた生なのだ。本当はそこから逆推する形で、このように喋っているのである。私はその後、この問題がどう片付くかに注目して観劇を進めたが、残念ながら、その答えを見つけられなかった。贅沢にも、別のことも考えてしまったせいであるかもしれない。

そこで、ここからはかなり裏づけのあやしい話になりそうだが、帽子というものは、私のイメージでは、人間にとってかなり親密な存在である。帽子はファッション・コードにも関係しており、帽子をめぐる当たり前のルールがいくつかあることは、子どもでも知っている。例えば、家内では帽子はとるとか、国歌斉唱や挨拶の折などには室外でも帽子をとるのが礼儀であるなどということだ。英国紳士を象徴するシルク・ハット、さらに王冠が最たるものだろうが、帽子は身分を表すものでもある。そして、いちばん大事なことは、帽子は人間にとっていちばん大事な、あたまを保護する役割を果たしているということだ。

手塚治虫といえば、誰でもベレー帽姿を想像するのではなかろうか。チャップリンといえば、シルク・ハット。毛沢東の人民帽(アニメ『ドラゴンボール』ではウーロンがこれに倣った格好をしていた)。競馬好きの鈴木淑子の被る、派手な帽子たち。南明奈がよく被っている、チャーミングなトーク・ハット(これは髪飾りとも見られるが)。古今東西において、しばしば帽子は人間を象徴するものとなるし、各人にこだわりというものがある。キャップしか被らない人もいれば、ベレーが好きな人もいるし、それ自体がキャラクターにつながっているのだ。

そんなことをいえば、洋服でも靴でも、何でもいいようなものだが、それらのうちで、帽子ほどシンボリックなものはないと思う。とりあえず、これぐらい証を立てておけば、満更、帽子に間違えられるのも悪い気はしなくなったのではなかろうか。特に、正式な場に出ることの多い、P教授のような人にとって、帽子とは大事なものであるはずだし、奥さんはそれをよく知っている。

つまり、奥さんを帽子と間違えたのは、滑稽で恥ずかしい体験というよりは、かえって、奥さんと教授のふかい結びつきを示すものに他ならないのだ。私はあそこで、なんと清々しい音楽が鳴ることかと気づいたときに、この作品を一挙に理解したといっても過言ではない。だからこそ、涙が出たのだ。

奥さんは、病を知っていた。それと認めない間違いは起こしたが、教授にとってなにが大事かは、医者に頼るまでもなく知っていた。そして、それに忠実に従っていた。最後に診断が下されて、医師の口から処方箋が示されて、音楽がゆっくり静まっていくときに、そのことが正しいことが、ようやく正式に確認される。ここでナイマンが音楽の素晴らしさを語ったなどというのは、解釈が甘い。いまやナイマンは、音楽を愛することそのものを問題にしている。教授にとって、音楽を愛することは、妻を愛することにもつながっている。帽子と間違えた場面以外に、シューマンの歌曲の終わりの部分が、そのまま用いられた中盤の部分で、夫妻が共演したのを忘れてはならない。このときの愉悦感を出すためにこそ、シューマンの素材は必要だったのではないか。そこへ至るエレメントとして、14もの素材が散りばめられているとしたら・・・。

【教授夫妻の愛とともに音楽が・・・】

最後、たゆたうような静かな音楽が、ゆったりゆったりと続いていく部分は、本当に憎らしい場面だ。ここで、ほんの僅かながら、ソプラノとバリトンのハミングが混ぜられているのも見逃してはならない。ここからも、音楽を通じて愛しあう夫妻の面影を眺めることができるからである。

音楽が止まったとき、教授の人生も止まると医師が歌うとき、聴き手はどんな感情を抱くだろうか。教授夫妻の結びつきに気づいていれば、彼らにずっと動いていてほしいという想いから、音楽よ、いつまでも続いておくれと願うにちがいない。そのとき、当然ながら、そこに流れている音楽そのものにも愛情が芽生える。これは正直、ずるいような気もする。つまり、音楽的な共感とは無関係に、教授とその奥さんへの共感を通じて、間接的に音楽が正当化されてしまうからだ。

しかし、そんなことは考える必要もない。なぜなら、ナイマンがここにつけた音楽は、ほとんど静寂にちかいものであって、彼の音楽とはほとんど無関係なほど、真っ白な(透明な)音楽だからだ。いずれにしても、この最後の場面は、一見、何の関係もないように並立してきた人間(教授夫妻)と音楽との関係を、決定的に結びつけるキーになっている。そこを開けることができれば、全体のなかに繊細に埋め込まれた関係性に気づくことも容易だ。だからこそ、私はヒンデミットの音楽よりも、こちらの作品につけられた音楽のほうが、「ずっと繊細にドラマに寄り添っていた」と書いたのである。

(③につづく)

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