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2009年10月25日 (日)

下野竜也 メンデルスゾーン 交響曲第5番 読響 芸劇マチネー 10/24

読売日本交響楽団は本年1月以来、4回のシリーズを組んで、メンデルスゾーンの交響曲ツィクルスをおこなってきたが、そのフィナーレとなる公演を東京芸術劇場で聴いた。

【メンデルスゾーン 交響曲第1番】

まずは、演奏機会がほとんどない交響曲第1番。これは作曲家が15歳のときの作品であるが、既に10歳すぎから聴きごたえのあるストリング・シンフォニーを書いていただけあって、十分に味わいのある作品と思えた。冒頭からテンション高く始まる作品は、いかにも単刀直入なメンデルスゾーンらしい作風である。まだまだ十分に可能性が試されていない作品だけに、その解釈には自由度があるが、今回、下野はわりにゆったりしたテンポを選び、オペラ的な劇的要素をじっくりと煮込んでいく演奏姿勢をとった。

メンデルスゾーン演奏には大別して、古典派的な解釈に寄ったものと、ロマン派の扉を開くような解釈と、2つの方向性にわけられる。オペラ的な・・・という表現からは、後者の方向性に偏ったものと受け取られかねないが、実際には、両方の要素が作品の展開に従って、上手に織り込まれていたというところであった。冒頭部分は、タララーンという連符のリズムをギャロップのリズム風に強調し、グイグイと作品世界を引っ張っていく。

この主題のもつ跳躍感を基調に、前半は、古典派的な解釈が前面に押し出されて、先行するベートーベンやモーツァルトの影響が濃厚である。ここでは構造重視の美的センスが垣間見られるが、後半、いささか響きが深くなる部分では、今度はロマン派的なセンスが主流となる。その間、基本となる素材は揺らいでいないのに、微妙なアーティキュレーションやダイナミズムの操作によって、作品にしっかりとした陰影をつけつつ、明確に作品世界の示す様相を切り替えていく手法は、10代半ばの人間にやれたこととは思えない。下野と読響のメンバーは、そのあたりの構成をはっきりと捉え、聴き手にしっかりと伝達している。

解決に向かう部分では、これらの要素を魔法使いのように自由自在に組み合わせて、予想できない展開を導く。コーダはやや淡白だが、そうした特徴を象徴する部分としては印象ぶかい。

第2、第3楽章は、油断するとウトウトしてしまいそうな安心感のある緩徐的な部分が印象に残る。このあたりの大らかな解釈も、下野らしいもの。一方、金管をすこし押し出したメヌエットの主部や、第4楽章のサウンドの爽快さも、特徴的だ。アレグロ・コン・フォーコでは、弦のふくよかなピッチカートに乗って、ゆったりと響く笛の音が思い出される。最初のシーケンスでの、藤井のクラリネットもよかったし、後半の再現で、木管のアンサンブルとなる場面も美しい。また、対位法的な響きとなる部分も、拍節感を明確にし、実に気持ちよく弾いてくれる。

あまり知られていない曲ということもあり、終演後の会場の反応はいまひとつだが、よい演奏であっと思う。

【ワーグナーとメンデルスゾーン】

中プロをはさんでのメインは、交響曲第5番「宗教改革」。出版順では「第5番」であるが、実際の作曲順では「第2番」となり、作曲家が21歳のときの作品となる。

この作品では、ロマン派に寄った解釈というべきか、より正確には、交響詩的な解釈とも言えそうな感じであった。開始は思ったよりも響きをしっかりとしたものとして組み、「ドレスデン・アーメン」への接合まで、手ごたえのある構造を組んでいく。その後の展開は、同じ動機をワーグナーが用いたというイメージもあるのか、かなり図太い演奏を貫いている。しかし、それはむしろ、「ワーグナーこそがメンデルスゾーンの影響を受けた」という下野の考え方を示しているようにも見える。

すこし脇道に逸れるが、その考え方を短く検証してみよう。ワーグナーへの強い影響を与えたのは、一般的には、ウェーバーだということになっている。『魔弾の射手』からワーグナー作品への発展は、確かに明らかなのであり、哲学的にも近似する部分がる。一方、メンデルスゾーンに対しては、ワーグナーは反ユダヤ主義と絡めて、厳しい批判を展開しており、ナチスの行状と関連付けて、そのエピソードはしばしば紹介される。また、「第一級の風景画家」なるメンデルスゾーンへの評言も、良質な風景画家としての彼を褒めているとはとれず、「風景画家としては」一流であるという皮肉めいた意図のほうが、強いように思われるのである。

しかし、だからといって、ワーグナーがメンデルソーンの影響を受けていなかったと思うのは早計だ。この議論はまた改めてやりたいと思うのだが、私は、ワーグナーがそうしてメンデルスゾーンを批判しながらも、実は、その拭いがたい影響を受けており、ウェーバーと同じくらい・・・否、もしかしたら、ウェーバーなど比にならぬほど、メンデルスゾーンをつよく愛して止まなかったと思うのである。

緩和休題。

【融合】

とにもかくにも、下野はダイナミズムの変化を大きくつけ、思わずワーグナーとメンデルスゾーンの関係を論じたくなるほどに、山谷をつけた演奏を展開した。そうした起伏は、「プロテスタント対カソリック」の対立軸をイメージするものともいわれるが、今回は、そうした対立的な構図からみるには、響きの推移が滑らかすぎた。下野がここで示したのは、「対立」の軸ではなく、例えば、同じ作曲家のオラトリオ『エリヤ』で示されるような「融合」の精神なのである。それは、最初のテーマに戻る再現部からコーダへ移るときのの穏やかな流れに象徴され、そこから、のちのブルックナー終止を思わせるような野太い展開を、自然に導いている。

舞曲風の第2楽章でも、その雰囲気は温存され、長閑なイメージをより躍動感に満ちたもので描くことで、からだいっぱいを使って、「平和」のありがたみを強調するような姿勢を示しているかのようだ。それらは弦管のバランスに気をつけることで、さらにエッジを増してくる。フレーズの後半で、ふうわりと浮かび上がってくる蛎崎のオーボエが印象的だ。

アンダンテは、どこかバッハのコラールみたいな雰囲気だ。そして、一戸が吹く快活なフルートの導くルター作のコラール「神はわがやぐら」からの展開は、のちのスメタナ『わが祖国』の後半2曲の流れを思い出させる。多分、カソリック的な世界観を代表するポリフォニーが大事に演奏され、基本的な素材となるルターのコラールと仲良く組み合わされる。これはプロテスタントの勝利を思い描いたものなどではなく、宗教的な和解をイメージしたものにちがいない。下野の演奏は、そうした配慮において一貫しているが、これがかえって、演奏の骨組みをしっかりとさせ、爽やかで、気持ちよいメンデルスゾーンらしい響きへと、作品をまとめ上げている。

終結の盛り上がりも、頂点からさっと響きを抜いていき、ゆったりと響きを天上に導いていくような形で、見事な感興を残した。そのため、聴き手もその響きが切れるのをしっかり見送ってから(つまり、僅かに間を置いて)、熱狂的な賞賛に変わり、おっかなびっくりの第1番のときとはちがって、演奏者がフロアの信頼をしっかり集めてしまったことを印象づけた。このシリーズの最後に相応しい、下野らしい、あるいは、読響らしい立派な演奏であったし、それらに聴き手の感情も融合されたといえるだろう。

【ピアノ協奏曲第1番】

中プロの、メンデルスゾーン『ピアノ協奏曲第1番』も素晴らしかった。ソリストは、小菅優。彼女には、やはり読響の演奏会で、ヴァンスカが伴奏したモーツァルトの協奏曲(27番)を演奏したとき、はじめて出会ったものである。そのとき、私は既に頭角を現しつつあった彼女の才能に、自分なりに確信をもったが、世間はまだ評価が厳しかったと記憶している。その後、私の言を肯んじなかった人たちが、少しずつ評価にまわっていったのは驚きだ。

下野にしろ、小菅にしろ、私にも、たまには先見の明があるということだろう。

さて、私はそのときの印象と比べると、正直、彼女への評価をすこしずつ下げていたのである。しかし、今回の演奏で、また風向きが変わったというべきだろうか。小菅は、明らかに成長していたのだ。才気ばしったところがなくなり、表現に重みが出てきた。もともと指のまわりには定評がある人だが、イギリスの天才(例えば、ピーター・ドノホー)みたいな表現の落ち着きが出てきたし、そこに日本人らしい繊細なピアニズムが溶け込んできている。

下野の伴奏も、素晴らしかった。第1番の演奏を踏襲し、単刀直入にスタートし、ピアノの序奏をゴージャスに盛り上げながら、しっかりとした響きを織り込んでいく。小菅は序盤のカデンツァ的な部分をベルベットな音色で弾き上げると、下野率いるオーケストラと役割を見事に交換し、例えば、弦の薄いカーブに沿って、すっと身体を翻してピアノの音色を乗っけてみたり、オケのつよい響きに、ゴージャスなピアノの音色を対置してみたり、柔らかいパフォーマンスで踊りまわった。全体を通して、ソリストとオーケストラの関係がよく煮込まれており、聴きごたえが持続する。

はっきりしたカデンツァがないこの曲では、ピアノ独奏ということでは、やはり第2楽章に注目することになる。前半、うっとりするような美しい旋律線から、高音のトレモロに抜けて、オケが被る部分の演奏は、いまの小菅のもつ音色の煌き、しっとりした表現の爽快感というのを、一挙に印象づけただろう。ショパンやベートーベン、リストといった近似のイメージに引っ張られず、口では表現しにくいが、メンデルスゾーン独自の声とでもいったものを表現しようとしていたことが、特に印象ぶかい。

とはいえ、最大の見せ場は、やはりプレスとにあった。そこでは、第1楽章でみせたコンビネーションの素晴らしさと、第2楽章で醸成されたピアノの表現力のヴィヴィッドな煌きが、爆発的に現れてくるからである。テンポを上げすぎず、プレストながら、余裕をもたせた解釈もちょうどよかった。以前ならば、勢いに任せてどっと煌びやかな表現を試みていたであろう小菅も、じっくりと音符を叩き、そこに濃厚なオーケストラのサウンドが絡みあうことで、肉厚な響きが浮かび上がってくる。

あまり長くない曲だけに完成度が求められるが、その点も申し分のないパフォーマンスで、休憩後の後半の開始をしっかり盛り上げてくれた。そのことが、メインの成功にもつながったと思うのである。

【まとめ】

今回は、素晴らしい演奏会であった。

演奏もそうだが、プログラムの構成が興味ぶかい。最初に言ったように、この日の演奏会は、5曲のシンフォニーのツィクルスの最終回だ。しかし、そこにもってくることを下野が選んだのは、真ん中のコンチェルトを含め、メンデルスゾーンが最初期に作曲した作品だった。ツィクルス最終回で、その作曲家の到達点ではなく、出発点に焦点を合わせてきたのである。

発展史観からみれば、最後に「スコットランド」「イタリア」あたりを演奏し、メンデルスゾーンはこうして成長していったのだとするほうが、ロジックはわかりやすい。しかし、今回は、その反対をいった。下野がどう考えているかはわからないが、私は、作曲家・・・それも天才的な作曲家ほど、成長しないと考えている。つまり、最初から全部を持っていて、そのうちのどんな面を、いつ出すかという部分にだけ、その人の成長史の影響が窺われるにすぎない。メンデルスゾーンの場合も、正にそのように論じるべき作曲家であり、10代早々にストリング・シンフォニーを書いていた作曲家が、『エリヤ』を書くまでに成長したと考えるのは適切でない。極端な話、彼が10代早々で、この大作を書くこともできたはずだ、と私は信じるが、まだ、その時期ではなかったということだ。

下野は作曲家の初心が窺い知れるということから、その初期作品を重くみている指揮者であるが、そうした姿勢の面白さが、今回ほどよく表れたことも珍しいのかもしれない。それは多分、尾高が振った3番を除き、下野ひとりでツィクルスを進めてきたことと無関係ではないだろう。こうしたプロジェクトは、オーケストラだけではなく、それを担当する指揮者をも成長させるのである。

【プログラム】 2009年10月24日

1、メンデルスゾーン 交響曲第1番
2、メンデルスゾーン ピアノ協奏曲第1番
 (pf:小菅 優)
3、メンデルスゾーン 交響曲第5番「宗教改革」

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場

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