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2009年10月 1日 (木)

スクロヴァチェフスキ ショスタコーヴィチ 交響曲第11番 読響 サントリー定期 9/30

23日につづいて、スクロヴァチェフスキ&読売日本交響楽団の演奏を聴いてきた。ブルックナーとは打って変わり、今度はショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。読響のショスタコ担当というと、まずバルシャイの名前が思いつくが、スクロヴァチェフスキもこの任期中に10番を取り上げた記憶がある。10、11と来たのだから、是非、退任後には12番も期待したい。そう思わせる演奏会だった。

もともとショスタコーヴィチの交響曲は一般的な知名度と比べると、はるかに演奏効果が上がりやすい特徴があるのだが、そのなかでも、今回の演奏は図抜けていたといえるだろう。

【前置き(読まなくても結構)】

演奏について述べる前に、この作品についての背景を整理しておこう。交響曲第11番は周知のとおり、ロシア第一革命のきっかけとなった「血の日曜日事件」に材をとった標題作品である。いわゆる「雪解け」後に発表された作品だが、ソヴィエト政府から1958年にレーニン賞を授かっていることもあり、西側からは長らくプロパガンダ作品とも呼ばれた。作品には、(ショスタコーヴィチでは珍しくもないが、)革命歌や自他の作品からの引用が多くなされており、コラージュ的な要素をもっているが、より古典的なソナタ形式の巨大化と見られないこともない(これは私の見解だ)。事実、今回の演奏でも、第4楽章は超巨大な、引き延ばされたコーダのようにも思えたのであり、その象徴として、あの長々とつづくコール・アングレのソロを捉えることもできるのではないか。

さて、この作品が「プロパガンダ」なのかどうかについて、ここで論じようとは思わない。昔から言い古されてきたその手の議論には、こういうことだけで十分だ。それは、演奏する者のこころによって決まる。悪用しようとすれば、プロパガンダにもなるだろう。しかし、作曲家のこころを過たず理解せむとする人たちが演奏すれば、そんな馬鹿げた弊に陥ることはない。今回の演奏は、正しくそういうものだったと思う。

前置きが長くなるが、私はいつも、スクロヴァチェフスキがショスタコーヴィチを演奏するとき、どんな想いでいるのだろうと想像すると複雑な気持ちになるのだ。バルシャイはロシア人だし、ショスタコーヴィチは尊敬に値する友人にして、師匠のようなものであった。しかし、スクロヴァチェフスキはポーランドの人間。生地のルヴフは戦後処理でウクライナに組み込まれ、ポーランド自体もソ連の強い影響下に置かれつづけた。ポーランドが政治的な自立を獲得したのは、それほど昔のことではない。スクロヴァチェフスキはしかし、そうした国境の問題を乗り越えて、ショスタコーヴィチの懐のうちに入り込んだ表現を取り出してくる。

そういった意味では、スクロヴァチェフスキの演奏はバルシャイよりもさらにずっと、奥深い内面へ入り込んだかのような演奏になっているが、反面、この知的なショスタコーヴィチの若い友人よりも、ずっと冷徹な視点も持ち合わせている。この両面性が、スクロヴァチェフスキの「ショスタコーヴィチ」を特別なものへと引き上げているのである。

ちなみに、実質的には革命序曲でしかなかった第一革命だが、その結果として生まれた成果として、ポーランド人がポーランド語を話すことを認められる、というオチがついたことも付記しておく。もうひとつ、第4楽章で使われる革命歌は、「ワルシャワ労働歌」といわれている・・・閑話休題。

【無類に美しい響き】

第一音を聴いて、私は早くも衝撃を受けた。いきなり始まる主題が、暖炉にぼうっと炎が上がるような柔らかさで立ち上がったとき、この作品がブルックナーとは比較もできないほどに、よくトレーニングされていることを知った。第一音につながって、トランペットの吹奏まで、ぎっしり実の詰まった音楽だ。その後も、この緊張感が解けることはほとんどない。そして、全体にわたって、とびきりに美しい音色・・・それもただきれいなのではなく、各パートに宛がわれた響きと響きのつなぎ目が丁寧にならされ、そんな時間はないはずなのに、じっくり時間をかけて磨き上げられたとしか思えないようなレヴェルで、柔らかく推移していくのである。

例えば、この第1楽章最初のシーケンスで、2度目のトランペット吹奏のあと、フルートの低音と、それを拾うように声を伸ばすクラリネットのやりとりを思い出してほしい。さらに、その裏でティンパニーのベース音が、低音減の響きと符合して、いかにも生きているというような、ふかい響きで聴き手のこころをノックしてきたときのことでもいい。意外性はないが、こうしたオーソドックスなグルーピングに繊細な配慮を示す、ショスタコーヴィチの音楽性がここに象徴されているが、正に、このようなポイントが数えきれないほどある。

弦を中心とした精度の良さもあるだろうが、こうした惜しまぬ努力を細々と煮詰めていくことによって、音楽の響きは無類の美しさを獲得した。その時間も十分でないというのに、どうやってやったのだろうか。これは奇跡にちかい。もちろん、それは第2楽章の虐殺シーンを含む強音においても例外ではなく、第3楽章のアダージョで主体となる静かな場面では、なおさら強烈に輝く。

【積み重なっていく標題性】

まず、外面的な響きの美しさに着目したが、標題性という点ではどうだろうか。これも、ショスタコーヴィチのこころが、そのまま音になったような見事な立体感を示している。しかし、これは映画のように、1つ1つシーンを積み重ねていく方法とはちがい、あくまで音楽的に実現されていく点に注意しなければらない。なるほど、虐殺シーンの凄惨さは、耳を覆いたくなるほどのリアリティがある。

これを書く前に、この時代に使われていた銃がどのようなものだったか、調べてみた。私は当然、武器には詳しくなかったので、今日的な知見からみた誤解があってはいけないと思ったからだ。しかし、既にこの時代には機関銃のような兵器が使われており、自動小銃、ライフル銃が使われていた。例えば、ボリシェヴィキーの主力隊は500もの機関銃を揃えて、武力的に優位に立ったという。これ(より旧式なものだが)が1905年には、衛兵たちにより、1000名を超える犠牲を払った市民たちの群れに向けられたのだろう。

さて、その直接の模様は第2楽章で描かれるわけだが、音楽的には虐殺、そして、それに伴う哀しみ、祈り、魂の克服までが、そこに至るまでに、さらに層を重ねて描かれているのである。第1楽章冒頭のテーマは象徴的で、こうしたすべての要素を包みこむものであろう。第2楽章の前半部分は民衆の請願行動の昂ぶりとして説明されるが、実際には、既に虐殺の場面と重ねあわされている。この「1月9日」のアレグロは、弦楽四重奏曲第8番の三連符のように、どこからともなく昂揚していくテーマを、金管と打楽器でたちどころに打ち砕いていくという構造的な特徴がある。スクロヴァチェフスキは、その最初のシーケンスを強調し、映画のように、ここはこの場面と分けられないような修羅場に来ていることを、聴き手に実感させる。

これらの動きのなかで、特に目立つのは、打楽器と金管である。しかし、弦の動きが内側から激しく襲いかかっていることも見逃してはならない。さらに、総奏のなかで目立たぬにしても、木管も総出で響きを支えていることは、あとで役に立つ(後述)。ひとつ言っておきたいだが、こうした部分には、ただ悲劇の重苦しさがあるだけではない。そこには既に、人々のエネルギーの力強さが同時に描かれているのであり、この押し引きがのっぴきならないものであるからこそ、衝突が起こるということである。言い換えれば、ここで示されたような民衆のエネルギーは、あとで、当然のように生き返ってくることになるということでもあるのだ。

映画では、いかにうまく伏線を仕組んだとしても、これほど一斉に、多層的なイメージが観客に襲いかかってくるということはない。良くも悪くも、映像とプロットの流れに支配されている映画では、より手の込んだシーンの構成・配置が必要である。だが、音楽ではそうしたシーンの境目というものがないことを利用し、ショスタコーヴィチは実に音楽的な・・・しかも、オーソドックスな交響曲のやり方で、標題性を重ね合わせたり引き離したりしているのがよくわかる演奏だった。

【目立たないものへの愛情】

虐殺の場面は、最初の弦楽器のうごめきが、もっとも血なまぐさい。ここで重要なのは、エモーショナルなアクションのなかにも、拍節感をしっかり意識して、止めるところは止めるということで、サーベルを振りかざし、手近なデモ隊に襲いかかる兵士たちの立体感が表れてくることだ。そして、然るのち、徐々に距離がとられて、銃の乱射が始まるのだが、この部分に解説はいらない。想像するだけで、身もだえするような気持ちがする。スクロヴァチェフスキは、かなり勢いをつけて、この部分を快速で駆け抜けるが、それもリアリティのある表現だった。

それでも、なるべく打楽器だけに頼らないように、音楽に立体感を与えるようとする姿勢は、ショスタコーヴィチの想いを正しく拾い上げるためにも必要なことだ。そして、今回の演奏では実のところ、虐殺のシーンよりも、その直後に訪れる沈黙の深さにこそ、演奏の力点が窺えるのである。それは、アダージョで引き延ばされる。ヴィオラのパート・ソロは、そのひとつのクライマックスを構成するものとなる。もうひとつ、第4楽章のコール・アングレが、このイメージを引き継いでいる。終演後のアプローズでも、これら2つが大きな賞賛を呼んでいた。

しかし、これらの楽器は通常、ひどく目立たない役割しか担っていない。ヴィオラもコール・アングレも、それまでのシーンで頻繁に登場しているが、どれだけ一生懸命に弾いても、彼らの響きにどれだけ耳を傾けてみても、その役割が、どれだけ重要なのかはあまりわからない(私はこれら2つの楽器が特に好きだから、実際、そうしていたのだ)。それが、こういう風に浮かび上がってくる。目立たないものへの愛情・・・それがここに滲み出しているわけだが、正に、そうした存在は事件で亡くなった人たちに重なりあっていく。この曲のトゥッティでは、金管や打楽器がどうしても目立つことになり、木管がどう頑張っても目立つことはない。しかし、そこに張りついている響きが全部なくなったとしたら、作品は意味を成さなくなるだろう。

多分、ショスタコーヴィチは自らをも「目立たぬ存在」として考えている。だからというわけでもなかろうが、目立たないものへの愛情こそが、本当の革命を導くのだと主張しているのである。スクロヴァチェフスキは、そのような作曲家の良心において、共感しているのであろうと思う。

【引き延ばされたコーダ】

しかし、私が引き延ばされたコーダとみた第4楽章にも、スクロヴァアチェフスキは、さらに幾重ものトリックを見出しているように見える。これに先立ち、第3楽章のアダージョには、トリオ的な部分に僅かに明るい響きになる部分がある。これは民衆の勝利への伏線となるものだが、その部分をスクロヴァチェフスキはなるべく隠すようにしている。そして、第4楽章の革命歌を両義的なものに置きなおし、正に「警鐘」と題された標題の意味にアイロニカルな緊張感を付け加えている。

だが、いかにもショスタコーヴィチ的な癖のある諧謔ではなく、もうすこし、響きそのものの味わいに迫った演奏である点は、この指揮者の真骨頂をみる想いがする。この流れで、おもむろに最初のテーマに回帰する部分の緊張感は、むしろ圧倒的なものとなる。「雪解け」を信じないショスタコーヴィチの、目立たぬ存在から送られる必死の歌声が、例のコール・アングレに託されている。長いソロだが、前半部分の緊張感がすべてを物語っているようだ。あろは、ただ引き延ばされていくだけ。そして、さらにこの流れを追って、響きがもういちど昂揚していくのは、自然すぎるほど自然なことだった。

最後、けじめはしっかりつけた上での話だが、どこか途切れるように終結するのも示唆的であった。

【まとめ】

これほどびっくりさせられる演奏に立ち会えるとは、あまり思っていなかった。

スクロヴァチェフスキの演奏は決して、豪華絢爛たる装飾に満ちたものではなく、構造を丁寧に追っていくような、いつもの手法とさほど変わらない。感情より、いつも理性が勝る。高齢だからという理由もあるが、この手の曲で大騒ぎして、煽りまくるような若手の指揮者とはちがい、スクロヴァチェフスキは表面上、こじんまりと振っており、強いていえば、あくまでドイツ的な拍節感にこだわる感じでもあった。しかし、そうした職人的な指揮ぶりが、かえって響きの強さだけでなく、標題的なもののイメージをも強く醸しだすことにつながっているとは、皮肉である。その点は、前半のモーツァルトとさほど変わらない。

あまり触れられないが、モーツァルトの「ジュピタ」も、私は気に入った。はじめのほうは元気がないと思ったし、あまり時間もかけていないのは丸わかりだが、そのなかでも、構造を追っていくごとに、少しずつ花びらが開いていくような構成が出ており、冒頭からガンガン飛ばして、スポーツ的に盛り上げていく昨今の演奏のなかでは、かなりコンサヴァティヴな音楽づくりであった。

コーダで、ヴィオラが典型的なポリフォニーを始めるときに、ぎょっとするほど強い音を奏でたときにはびっくりしたが、その後の推移で一気にオペラティックな悦楽的な響きに変わるところの、魔法を使ったようなオーケストレーションの鮮やかさが強調され、こんな詰まらない素材からでも、自分なら神さまの音楽が書けると威張ったモーツァルトの顔が浮かんでくるようで、面白い演奏だった。

モーツァルトは賛否両論があろうが(多分、否のほうが多いだろう)、主に後半のパフォーマンスを讃えて、オケ団員が退いたあと、もういちどスクロヴァチェフスキが舞台に呼び戻されるほどの喝采だった。ザールブリュッケンのオケで来日の際などには、こうしたことも珍しくなかったが、相手がスクロヴァチェフスキとはいえ、読響の定演ではこれまで、こうしたことはあまりなかったはずだ。びっくりしたのは、私だけではないということであろうか。

なお、この日の挟み込みチラシで、楽団の桂冠名誉指揮者として、スクロヴァチェフスキが顕彰されることが発表された。前任者のアルブレヒトは「桂冠指揮者」として顕彰されている。彼のような長期政権ではなかったが、高齢をおして読響の急場を凌いでくれて、当初契約を1年延長する無理も聞いてくれたこと。成果をみても、シューマン、ブラームスの交響曲をコンプリートしたうえ、ブルックナーもかなりの割合を制覇して(コンプリートではないと思う)、短い期間ながら、楽団の歴史に残るような働きをしていることから、これは納得がいく。

アルブレヒト時代と比べて、アンサンブル精度が落ちたとかいう専門家もあるが、私は、その手の偏見には首肯しかねる。本当に、楽団としては感謝の声もないというとところだろう。

【プログラム】 2009年9月30日

1、モーツァルト 交響曲第41番「ジュピタ」
2、ショスタコーヴィチ 交響曲第11番「1905年」

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:サントリーホール

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