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2009年10月 6日 (火)

吉田秀和 世界のピアニスト @ちくま文庫

【吉田秀和氏のイメージ】

吉田秀和氏がもっとも活躍した時期を知らないせいか、私には、この人物の立ち位置がよくわからない。経歴を見てみると、実家は開業医、成城高から東京帝大に入ってフランス文学を学んだあと、内務省に入っている。ここまでをみる限りは、いわゆるキャリア官僚のエリート・コースを歩んだ若者だった。この間、文学への愛情もふかく、批評家の伊藤整や詩人の中原中也に私淑しており、わりに恵まれた環境もあった。戦後は文部省に移ったようだが、ここでドロップ・アウトし、雑誌記事への寄稿をきっかけに音楽批評の道に移っている。

その後、一貫して音楽批評家と呼ばれているようだが、今日イメージされるような音楽批評家のイメージよりは、よほど行動的なスタイルであったように見受けられる。例えば、批評家の長木誠司氏らによってまとめられた『日本戦後音楽史』(平凡社)などを読んでいても、音楽家たちが離合集散する運動のなかで、しばしば吉田氏が世話人のような形で登場しており、二十世紀音楽研究所の所長となったり、アクティヴな活動が窺えるのである。今日の人(吉田氏も存命であるが)では、先の長木氏や日経新聞の池田卓夫氏などにちかいイメージとなり、ペン力よりもより行動の側に傾斜した、記者席よりはピッチ・レヴェルにちかい文筆家というイメージが私にはあるのだが、間違っているだろうか。

【世界のピアニスト】

今回、私は氏の『世界のピアニスト』という著書を読んでみた。著書といっても多分、書き下ろしではなくて、60年代に書かれたものを中心に、ときどきの音楽時評、レコード(CD)時評などをまとめたものと思われる。はじめラジオ技術社で発刊され、つづいて新潮社に移り、いまは筑摩書房に収められている。吉田氏の真価を知るのに相応しい著作ではないかもしれないが、彼の批評家としての態度については、象徴的に表れている作品だといえるのだろう。

ここに論じられているのは、おもに戦前から1960-70年ぐらいまでに活躍した28人のピアニストである。今日からみれば、錚々たる名前が並んでいるわけだが、ラフマニノフのような歴史的な人もいれば、アルゲリッチやゲルバーなどは、出始めのところを捉えており幅が広い。文量もそのときどきの発表機会によるため、ほんの数ページでおわるものから、何十ページにまたがるものまでマチマチである。評価の傾向をいえば、グールド、グルダ、コルトー、バックハウス、ギーゼキングなどには好意的で、ルビンシュイタイン、ホロヴィッツ、フランソワ、あとは、項が改められているわけではないが、ランドフスカなどには厳しい評価が与えられている。

【吉田氏の時評の特徴】

しかし、そのような傾向を分析することは、吉田氏の批評をみるに当たって、あまり重要とは思わない。例えば、ホロヴィッツに対して、吉田氏が「ひびが入ってる」「この珍品には欠落があって、完全な形を残していない」「がたがきている」などと無礼千万な言葉を並べているのも、そのとき、その瞬間のホロヴィッツを描写した結果にすぎないのであって、この類稀なるピアニストに対する、いわば絶対的な評価ではない。よって、吉田氏がいくらグールドを持ち上げに持ち上げる批評をなし、ホロヴィッツの晩年を貶めたとしても、それを即座に、吉田氏の好みや、パーソナルな評価基準の表れとしてみることは避けたほうがいいし、慎重に注意してみる必要がある。

吉田氏の時評には時評に相応しく、2つの特徴がある。1つは、そのピアニストのもつ特徴を「現時点」において判断していること。もう1つは、各々の音楽家がもっている価値観に対して、「現時点」のパフォーマンスから窺われる内面への遡行を試みていることである。ここで「現時点」というのは、単に実演の場合に限らず、レコードなどの録音媒体について論じる場合には、その録音した当時の「現時点」を問題にしている。特に顕著なのは、後者の視点への目線の鋭さであろう。この著書のあとがき(実際には解説となっているが、そんな立派なものではない)で、ピアニストというよりは文筆家(エッセイスト)の青柳いづみこ女史も書いているように、吉田氏がそれと知らずに推察的に書いたピアニストの内面描写には、のちにわかった事実から、なるほど当を得ていたことが明らかになるようなものさえあるぐらいだ。

しかし、私が言いたいのは、実は、そういうことではない。確かに、当たっていた例もあるにせよ、どちらかといえば、私はそうした内面描写については当たるも八卦、当たらぬも八卦であって、眉唾の部分が多く含まれていると思うし、こうした吉田氏の批評姿勢が、後進たちに悪い影響を与えているのも事実だと思う(先日の山之内氏の例などは顕著な例だ)。確かに、この時代、フロイトの精神分析学などがマルクス主義の弁証法的な論述と結びついて、表現者自身が自覚しているかどうかには関係なく、表現者の内面にあるものが、表現の中心的な部分に影響してくるという風に考える思潮は、一般的にかなり信じられていた。

この時期を私は生きていないが、きっと「トラウマ」とか「エディプス・コンプレックス」などということが、よく言われたはずである。それが行き過ぎたところで、いわゆる「内向の世代」などというのも出てきた。彼らは、先のような内面へ遡行していくような批評的知見を知りながら、半ばは逆手にとって、自らの内側へ内側へと表現を押し込んでいった(と私はみている)。その影響は現在でも残っており、例えば、いたましい殺人事件が起こると、その犯人の少年時代に両親や周りの人たちから受けた仕打ちや、不健康な関係などが積み重なったものとして説明されたりする。しかし、私は親の影響は子どもにとって重要だとしても、その子が長じて、いい大人となって犯した殺人が、結局、親のせいに行き着くというのには納得がいかない。

吉田氏の文章も、そうした時代柄を反映している部分が確かにある。しかし、彼がそういうことをするのは、表面に現れてくるものだけではなく、むしろ、そうしたものを支える音楽家の必然性に注目しているからなのである。吉田氏にとっては、誰がどうミスしたかなどというのは、さほど問題ではなく、音楽家がなにを目指し、どんなことに成功し、いかにして躓いたかということに、ほとんど注意が向けられている。このため、吉田氏の評論には批評家独自の価値基準云々というよりも、無数にあり得る音楽家のスタンダードをまずは受け容れることに始まり、それが(音楽)コミュニティのなかで、どのような位置づけにあり、成功しているのか失敗しているのかを論じているようである。

【音楽家の内面を探り、描きこむ困難】

この行き方の究極は、音楽家の内面に迫っていくことにある。この批評姿勢は、決してスマートなものではない。青柳女史のような人に、あとで当たっていたと言われても、吉田氏は別に、それを喜びとは思わないだろう。彼はいつも、音楽家をわかりたいと思っていたが、それをわかるための方法は、聴き手にとってただひとつしかない。それは、その音楽家の演奏を聴くことである。そして、その唯一のコミュニケーション手段を通じて、吉田氏は音楽家のこころに迫っていく。だが、こころというものは、そう簡単にわかるはずのものではないので、吉田氏の批評はときに当てずっぽうのようなものとなる。しかし、吉田氏はそうした不確かなものに、想像力を働かせないではいられなかったのだ。

例えば、冒頭に長文を裂いたグールド論では、この類稀なる才能をもったピアニストが、何故、録音スタジオに立て籠もらねばならなかったのかについて、鋭い批評眼が寄せられている。この人の文章は「悪文」なので引用が難しいが、次のようなものの見方が目を惹く。

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(前略)現今のレコードの録音と再生の技術の進歩(中略)いわゆるハイ・フィデリティの出現は(中略)演奏家自身に危機的な脅威になっている。

(前略)これ以上のことは考えられない、技術的な完璧を要求しているわけだが、そういうレコード吹込みに(中略)成功したとしても、彼は、もう一度、それをステージ上で再現できるかどうか確信がもてるとは限らないだろう。そのためには、彼は、自分の極限状況で仕上げたものを無限に反復しなければならない羽目に追いこまれるわけだが、それこそ、音楽における演奏という行為の本質にもっとも矛盾するものであって、そうやって自分自身を模倣するところでは、演奏のもつ現実的な創造性は失われてしまう。

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この説明は、実に合理的である。グレン・グールドといえば、ここに収められたような吉田氏らの評価もあり、いまでは人気のピアニストとして認知されてはいるものの、そのわりに、このピアニストの変人ぶりは過度に強調されており、最近では、「ひきこもり」という便利な言葉ができたおかげで、その格好の餌食ともなっているようである。しかし、それらの不健康な推測のどこか腑に落ちない印象と比べると、吉田氏の評言は、なるほど、もっともと思わせるものである。

かつて、これほど音楽家に親密な批評を書くクリティックがいただろうか。別のコルトー論の冒頭では、次のように言っている。

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感情的な表現とか情緒の伝達に重きをおいた演奏とかいうことをいいながら、では、それはどういう感情なのか、どういう質の情緒の伝達が行なわれているのか、そういう点になると、あまりつっこんだ分析が行なわれないのが、日本の批評のひとつの特徴ではないだろうか?〈中略〉西洋の批評の非常に多くは、むしろ、この《質》についての記述に費やされているのである。

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これが、吉田氏の評論の特徴である。日本の多くの批評家は、自分が誤ることをひどく嫌っている。よって、吉田氏のように、いくら真面目に突っ込んでも、「主観的」としかいわれない内側への議論を掘り下げていくことを避け、音がどう出ていたか、どこでミスしたかというような表面的な議論に徹することで、紳士的な・・・つまりは当たり障りのない立場を守ろうとしているのである。ときどき、狂ったように「精神性が・・・」などと言い出すものの、それはベートーベンとか特定の作曲家につく枕詞みたいなもので、その精神性とやらがいかなるものであるかは、吉田氏が書くように、いつも曖昧なままだ。

この影響はもちろん、そうした批評に厭々ながらも触れてきた愛好家の層にも広まっており、精神性があるとかないとかいう話になっても、結局のところ、空論ばかりになっていて中身がない。要するに、なにか自分が受け容れられないほど強いメンタリティが感じられると、この魔法の言葉が出てくるらしいが、誰もその実体を知らないくせに、精神があるの、ないのというのが、どれほど意味のないことであるかは言うまでもない。

【吉田氏への評価】

予め言っておくが、ここでは、吉田氏が各々のピアニストについて、どのように評価していたか、それが妥当なものであるか否かについては、あまり触れるつもりがない。私はあくまで、吉田秀和という人を評しているのであって、ピアニストの評価は目的から外れている。

さて、この本を通じた吉田氏への評価は、やや厳しいものとなる。

まず、その基本的な批評の姿勢については、大いに評価しなければならない。その姿勢は既述のように、今日の批評家の多くが、紳士気取りと交換に怠っているようなことであるから、吉田氏の態度からみんなが学び取らなければいけない。私のような音楽のわからない者だけが、彼の志を継いでも意味がないのだ。

しかし、それでもなぜ厳しい評価にしなければいけないかというと、個々の音楽家に対する評価というのが、やはり偏っており、いささか恣意的な面も窺われるからである。また、構造がはっきりしていて、わかりやすい(つまり、論じやすい)ドイツものでの評価がほとんどになっており、その点でもバランスを欠く。ショパンやドビュッシーでの評価も試みられているが、ドイツものを取り上げるときと比べると、いささか作品への理解や共感が薄いため、十分に彫り込まれた議論になっていない。

もちろん、文章も無駄に長く(ひとのことは言えないが!)、ゴツゴツした「悪文」(悪文はひとえに悪ではなく、個性的なことにも通じている)である上に、基本を誤った文法さえ見られて、文学的な著作としては質が悪い部分もある。私が編集者だったとしたら、申し訳ないが、たくさん赤を入れさせていただきたいような文章である。無駄な寄り道も多く、正直、500ページをゆうに超える一冊を読み上げるまでには、かなり憂鬱な時間も過ごした。

もうひとつ、吉田氏の行動力が、音楽視聴と執筆の分野に関しては、あまり積極的でないのも目につく。氏は一貫して、レコードだけで評価することの難しさを指摘し、実演で聴くことの優位性をはっきり述べている。しかし、実際の行動はというと、すこぶる足が重いようなのだ。いまのように情報や交通が発達した時代ではなかったとしても、やや動きが鈍いのは否めない。そのため、その気になれば聴けたはずなのに、それを逃しているアーティストが意外に多くて、新しいピアニストについての情報も早いほうとは言えない。

多分、既に書いたように文筆よりは、行動そのものに重点を置いていた吉田氏は、方々に出張る用事があって、忙しかったのだろう。そのことが、逆に、吉田秀和という批評家の独特の立場を醸成したところもある。しかし、批評家としては、もっと貪欲に動きまわる姿勢もないと、いささか頼りない。といって、吉田氏は自分が批評家だからといって、がめつく情報を追いまわすような人物でもなく、じっくりときっかけを待って、ようやく批評する気になるというような、慎重なスタイルだったのであろう。そのことは、非常に細かくコンサート追っていかれる東条碩夫氏のような、売文の人(失礼!)と比べれば、はるかに倫理的なのであるかもしれない。

幸い、私が吉田氏の文章をどう評価しようとも、文化勲章までもらった名士に、いかなる瑕がつくわけもない。もちろん、私も瑕をつけたいわけではなく、文筆家としては二流と言いたいのにすぎない。私は、彼の功績は、こうした時評の分野には、すこししか表れていないと思った。もっと良い作品に触れるべきなのかもしれない。でも、吉田氏の著作集などみても、大体、こうした私小説的なスタイルがほとんどで、やはり、読んでいてすこし胃にもたれるところがある。私は、「語りたい」という吉田氏の基本的なスタンスを抑えて、本当に冷徹に「書いた」批評があったら、どんなによかっただろうかと思う。しかし、根本的に、吉田氏はそうした仕事になじまなかったようである。

【吉田氏の象徴主義~グルダ論】

だが、その「象徴主義」ともいえなくもない表現(イメージ)の絞り込みについては、敬服せざるを得ない。彼のバックハウス論にしても、ギーゼキング論にしても、あるいは、グルダ論にしても、どれも、強烈に頭のなかに残るものであることは間違いない。例えば、西洋の批評家の言説も引きながら、グルダを他分野との混交に溺れた独特の立場に置くのではなく、「現代のもっとも迫力のある、しかも最も虚飾のないベートーヴェン」弾きとして評価しているのが、全編のなかでも特に印象ぶかいことは、あとがきの青柳女史と同意見である。

確かに、グルダの協奏曲など聴いていると、その物凄いコミュニケーション能力について、感じないものがないということはあり得ない。ところが、独奏のソナタなどについていえば、曲によっては、パッセージを鋭くつくりすぎて、いささか表現に重みが足りず、「その特徴が、彼の場合、なんら人為的でなく、巧まずにごく自然に出てくることを、もっとよくききとらなければならない」という点に、疑問符がつく面もなしとはしない。しかし、内面的には、氏の仰るとおりではないかと思う。例えば、バイロイトでワーグナーを演出する、若いほうのワーグナー嬢などとはちがい、確かに、その音楽には独特に弾くことで、世間の感心を買おうという野心は全くみられない。

いささか異質な手ごたえがあるが、グルダのベートーベンには実のところ、モーツァルトやバッハの激しい反映があるだけで、いわゆる「精神性」などという浅はかな言葉を乗り越えて、確信に満ちた伝統表現の厚み・・・というのが気になるなら、自然さがある。その点で、私は吉田氏の意見に納得させられる。なるほど細部でみれば、グルダが「最も虚飾のない」表現をしているとは、見受けられない部分も多いかもしれないが、それにもかかわらず、吉田氏の書いたそのような象徴は、じわじわと拳闘のボディ・ブローのように効いてくる。

だが、その表現の強さが、かえって後世に誤ったイメージを残すことも否定できない。私は、ここで吉田氏が書いたものをじっくり読んでいると、彼の書いているものを誤解したり、下手に模倣することによって、とんでもなく筋違いのイメージが現代に広がっていることを実感せざるを得ない。もちろん、それは氏の責任というよりは、それを受けとる側の不用意さに起因している。特に、ある程度のプロとして文筆を生業にする人たちに、その悪しき影響はふかく浸透しているように思うのだが、それはまるで、ホロヴィッツの真価を知らない若者たちが、その華やかなテクニックに憧れるあまり、彼の奏法や演奏を猿真似して、まったく的外れな演奏をするのに似ている。

そういう若者をコンペティションなどでみたとき、彼らはそうした若者が、実は自分たちの姿に生き写しであると気づくべきなのだ。

【まとめ】

現代日本に、音楽評論というものは存在しない。評論家と呼ばれる人物は存在するが、彼らがしているのは、ほぼ例外なく、当たり障りのない毀誉褒貶であって、みんなが知らない価値を生み出したり、気づかせたりするような社会機能から離れたところにある。批評家には、記者型、学者型、文芸型の3タイプがあるが、今日、もっとも多いのは、記者型が商業的な分野と手を組んで、つまらぬ言論を垂れ流すタイプだ。つづいて、そういったレヴェルの売文家を嘲笑い、ついでに多くのオーディエンスも相手にせず、学究の世界に閉じこもる批評家たちも多い。彼らは表面上、社交家を装ったりもするが、最終的に人間に興味がない点で、やはり社会的機能を果たさない。

そして、吉田氏のように、文芸として読む価値のある批評を書いているのは、批評家としては、もはや絶滅危惧種であって・・・もしかしたら、もう絶滅しているのかもしれない。そういう批評家が今日、純粋に批評家としての道をなすことは、容易ならざることであるという事情もある。しかし、売文家でもなんでもいいから、音楽家がなにを考え、なにをやりたいのかに、しっかり寄り添える存在であることに、プライドをもった仕事をすることは彼らの義務だ。

なにも私は、職業人だけにものを言っているのではない。私のような素人連中にしても、そういうところに、拙いながらも想像力をもって接しなければ、やがて音楽家のほうが折れていくと思う。我々の愛する芸術家を守るために、このことは心がけなければならない。吉田氏は私の知る限り、音楽家からもっとも信頼されている批評家であると思う。それはとにもかくにも、彼が貪欲に、彼らのやっていることを理解したいと願う、純粋な評論家であるからにちがいない。その姿勢だけは、誰もが意識しなければならないものだと思うのである。

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