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2009年11月18日 (水)

尾高忠明 エルガー エニグマ変奏曲 札幌交響楽団 @東京オペラシティ 11/17

札幌交響楽団は1989年以来、1年に1回以上、欠かさすことなく東京公演を行ってきたオーケストラだ。今回の公演が22回目というから、その息の長い活動には敬意を払わなくてはならない。今回は音楽監督の尾高忠明に率いられて、尾高得意のオール・エルガー・プログラムを演奏した。

結論を先に言うと、感動的な公演だった。ポイントはいくつかあるが、いちばん大事なことは、エルガーのこころを伝える演奏だったということである・・・否、正確には、作曲家の名前のまえに「アリス夫人に支えられた」という形容詞をつけるべきなのかもしれない。一般的によく知られているように、エルガーは天才的なアマチュア作曲家であり、その彼をやる気にさせ、才能を開花させて本物の音楽家として目覚めさせ、ついには英国のこころとまで言われるような作曲家にまで上り詰めさせたのは、アリス夫人であったとされている。

今回、演奏されたのは初期作品で、アリス夫人と結婚した翌年に書かれた序曲「フロワッサール」。エルガーの出世作となり、エルガー夫妻とその友人たちの姿をモティーフとしたエニグマ変奏曲。そして、第1次大戦の最中、アリス夫人を喪う1年前に書かれたチェロ協奏曲という3つの作品であり、協奏曲を書いたあと夫人を喪うと、以前ほどの創作意欲は湧かなかったとされている。エルガーは友人への手紙のなかで、自分の成し遂げたことは、夫人によるところが大きいと書いたそうだ。今回は、そのようなストーリーに基づいたエルガーのこころを巧みに捉えた演奏である。いわば、「アリス・セット」とでもいえるようなプログラムなのだ。

ただ、1つだけ付け加えておくと、エルガーが夫人と死別したのは63歳のときである。その年で創作のスピードが衰えるのは、さして不思議ではない。以前ほどの創作意欲はみられなかったにしても、その年代の人としては十分に書いているという印象もあり、上のストーリーはいささか誇張的なのであるが、それはそれとして・・・。

【序曲フロワサールに託されたエルガーの喜び】

いつものように前置きが長いのだが、札響の演奏について述べよう。まず、特筆すべきことは、札響の音楽性の柔らかさについてである。

札響といえば、私にとってエリシュカという本物の音楽家、その素晴らしさを教えてくれたオーケストラだという印象が強い。このエリシュカの出現は、札響に、いろいろなものをもたらしたと思う。だが、そのなかでいちばん重要なのは、札響がプロのオーケストラとして、本当の意味で自分たちの可能性に目覚めたことである。もちろん、それ以前から、尾高や高関といった指導者が、その可能性を大事に育てつづけてきたことは忘れるわけにいかない。

だが、エリシュカの出現によって、この親愛にして、高潔なる音楽家を「発掘した」札響への注目度は俄然、高まることになった。彼らは、自分たちは北国の僻地でチマチマ音楽をやっている地方オーケストラなどではなく、札幌という素晴らしい土地から、全国に向かって堂々となにかを訴える力があるアーティスト集団なのだ、と気づきはじめた。そして、その芽生えに気づいた人々は、札幌に吸い寄せられるようにやってきた。ちょうど私のように。そして、他の土地では味わえない札響の特別な魅力に気づいた。

エリシュカは自分の音楽を素直に受け容れて、札響がまるで、チェコのオーケストラのような響きを出すのを聴いて、仰天したのだという。それが、現在のポスト着任につながっている。だが、彼らは特定の指揮者のときだけ一生懸命になるという、どこかのオーケストラとはちがうようなのだ。この日、尾高が指揮したのは、もしかして英国のオーケストラだったのではなかろうか。LSOやBBCフィルとは言わないまでも、それは、あのグレートブリテン島のどこか歴史のある街からやってきたオーケストラだった。その都市がもしかして「サッポロ」という名前であったとしても、私は驚かないだろう。

確かに、ロンドン響のようにノーブルな音楽とはいえないかもしれないし、向こうのように、天才的な仕事の早さはないかもしれない。しかし、自ずと漂う気品があり、豪勢な音色をしっかりと組み上げている。そして、そこにエルガー独特の特徴が加わる。それは、温かさ、もしくは優しさとでもいうべきものだ。

最初の序曲「フロワッサール」は、これらの特徴を2つながらしっかり押さえた演奏である。ちなみに、フロワッサールの年代記というのは14世紀後半以降に書かれた年代記で、英仏百年戦争の模様を伝える代表的な文献資料として有名ということになっているらしい。調べてみると、年代記はページごとに紋章をモティーフにした装飾が刷り込まれているが、のちの写本には壮丁者たちがカラフルな挿絵を入れるなど、すこぶる雅やかな書物だったようだ。我々の文化でいえば、『平家物語』本巻と、『平家物語絵巻』とを合体したようなものと言えるのだろうか。このことをわざわざ書いたのは、あとで協奏曲の感想のところですこし関係してくるせいだが、ここでは先に進む。

具体的にフロワッサール年代記のどういった部分を、エルガーがイメージしていたのかはよくわからない。しかし、上記のような歴史絵巻の壮大な雰囲気が、威厳のある構造に反映されて、がっしりと書かれているのは間違いない。ただ、今回の演奏で面白いのは、その部分ではない。私が注目したのは、この勇壮な序曲を演奏して、なぜか浮かび上がってくる作品の温かさなのだ。それは特に、この作品のなかの一服の清涼剤ともいえる緩徐的な弱奏部分で顕著であり、巧まずして幸せになってしまうような音色の優しさが、作品をぐっと凝縮しているように思われる。

エリシュカの演奏会でも感じたことだが、やはり札響の立ち上がりは不安定で、木管の響きなどもしっかりしていない。終わりのほうで、音階を単純に下ってくるホルンの響きをトロンボーンが拾うようなところで、ホルンのデクレシェンドのしまいにブレスが入り、吹きなおしたことで、トロンボーンとの接続が切れてしまったり、言い出せばキリがないほど瑕はあった。しかし、弦が中心に温かいメロディを歌う最弱奏の部分では、すこしばかり胸が詰まって目頭が熱くなりかけたものだ。

これを「アリス・セット」という観点からいうと、正に、アリス夫人との出会い・・・そして結婚による喜びが、この歴史絵巻の華やかさに託して語られているとイメージするのは、容易なことであった。

【協奏曲は悲しみの予感とその克服】

そうであるとするならば、『チェロ協奏曲』は悲しみへの予感に満ちみちている。アリス夫人が、いつごろから死病に罹ったかは詳らかでないが、死の1年前ともなれば、何の兆候もなかったとは考えにくい。そのような背景とともに、英国全体として91万人の死者を出したという第1次世界大戦の傷が、この作品のなかで溶け合っている。フロワッサールでもそうだったが、このように、今回、取り上げられたエルガーの音楽はごく個人的なモティーフと、よりパヴリックなモティーフが、まったく自然な形で貼りあわされ、それがダイレクトに響きのなかに流れ込んでくる点に特徴を置く。

なお、さらに因果はめぐるというべきか、この曲を得意としていた後年のチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレがMSという難病におかされて活動ができなくなり、早世したことも、現代を生きる人たちに対して、この曲のもつ雰囲気を強調するきっかけを与えている。

しかし、この曲を愛する多くの人たちが知っているように、この作品に「葬送」というニックネームを用意しようとすれば、それは甚だ不似合いだ。エルガー自身もこの作品への愛着は強かったようだが、それは結局のところ、この作品が長い苦しみの末に、そのような悲しみや憂いを克服するような内容をもっているからである。エルガーが「輪廻転生」について知っていたかどうかはわからないが、最後、型どおりに冒頭のフレーズが再現するときに、その響きには最初の哀切な雰囲気よりも、堂々としたロマン性の風格が優先している。エルガーが精神の苦悩に打ち克ったことは、そこに表れる響きの質をよく吟味すればわかることだ。

それを証明するように、尾高のつくるバックの音楽は堅牢で、シャープである。とりわけ、短く、鋭利なフレーズほど確信に満ちて、大胆である。

当夜のソリストはうら若い英国のチェリスト、ガイ・ジョンストン。私はデュ・プレが弾くのを止めた年にはまだ生まれていなかったから、彼女の演奏を生で聴いたことはないが、このジョンストンの師匠筋に当たるスティーヴン・イッサーリスや、若手の才媛、ソル・ガベッタによる非常によい演奏に接している。特に師匠と比べたときに、ジョンストンの未熟さは明らかなのであるが、1981年生まれの青年に彼と同質のクオリティを求めるのは無理がある。

ジョンストンは師のひとり、イッサーリスほどラディカルな考え方はもっていないようで、意外に、ヴィブラートも使ってくる傾向にあるが、歌のベースにおいては非常に清潔な響きを求めており、やはり、彼の影響は拭えないところだろう。しかし、未熟とは言いつつも、誰かの物真似ではないものを作り上げようとして、必死にもがくところまでは来ている。また、冒頭のハーモニクスに象徴される深い音色や、素直で、素朴、かつ、優しさのある歌のセンスには捨てがたいものがある。

第1楽章の後半など、やや指揮と呼吸があわなかったり、響きの美しさが売りであるにもかかわらず、最後のグリッサンドがスムーズに行かなかったり(これは大事な場面だ)、ところどころ不満の残る部分も散見するが、それはそれとして、将来に期待したい若者である。

【歌われない主題は愛情】

最後は、エニグマ変奏曲だ。この曲を実演で聴くのは初めてで、もっと小さな編成で、室内楽的な作品と勘違いしていたことを告白するが、実際は、意外に大きな編成だった。その印象は札響の弦が異常に多くて、ヴァイオリンだけで14-15プルト(ちゃんと数えていない)も使っていたせいであるかもしれない。多分、ひとりでも多くの団員を東京公演の舞台に上げたいという、尾高の親心がああいうことになったのではと見ている。

さて、プログラムに面白いことが書いてある。それによると、この作品に含まれる謎(エニグマ)は2つ。1つは、既に全員の名前が解明されているが、各変奏につけられたイニシャルが、誰をあらわしているのかということ。もうひとつは、全曲を通して存在するある主題(しかし、それは演奏されない)の正体についてである。後者は、現在でも、アカデミックの観点からは明らかにされていないようだが、我々の直感は、その謎を既に解いているようにも思われる。その主題とは、愛である。愛はすべての音楽の源泉にして、主要主題、しかし、直接、演奏されることはない・・・なんていうと、プッチーニの『トゥーランドット』のなかにある謎かけのようになってしまう。

そんなことを言ってみたくなるのも、やっぱり札響の音色のせいだろう。この曲が好きな人なら、ほぼみんながいちばん好きだというニムロッドの部分の、あの燃え上がる響きのそこはかとない優しさ。そして、すこし退いた部分で、聴き手を包み込んでくれるような響きの包容力に、私は泣けてきたものだ。テレビCMに使われた記憶がある、次の間奏曲のユーモアも忘れられない。石川首席のチェロ・ソロに始まる第13変奏は、今回の演奏では、ある意味でひとつのクライマックスを成す。なぜなら、それは彼らがつくってきた、あの温かく、優しい響きの終着点であったからである。やはり、最弱奏部では涙を誘った。

ここで、詰まらぬ予備知識を書いておくと、この変奏は唯一、イニシャル「***」の意味がはっきり確定されていない。LBLのイニシャルがいちど書いて消され、伏せ字にされおり、「LBL=メアリ・ライゴン夫人」であり、彼女は当時、オーストラリアへの航海中であったため、不在を表す伏せ字が使われたという説明がある。エルガー自身の指揮による録音など聴いてみると、この変奏では確かに汽船がボッーと汽笛を上げるような音を出したり、それらしい雰囲気があるし、よく言われるように、メンデルスゾーンの『静かな海と幸ある航海』の引用があることも踏まえると、ここでライゴン夫人への想いが、主要なモティーフになっていることは間違いないと私はみる。

しかし、それをライゴン夫人だけに捧げることなく、伏せ字にしたのには、もっと深い意味があると思うのだ。このロマンツァの美しさは、そうしたパーソナルなモティーフだけでは、カヴァーしきれない麗しさに達している。むしろ、エルガーは、この変奏の正体とされるライゴン夫人や、かつての恋人のヘレン・ウィーヴァー、さらには、キャロライン-アリス夫人のすべてのイメージ、もっと言えば、女という存在そのものを、この変奏が受けきれると思ったのではないだろうか。だからこそ、上のうちの誰かのイニシャルを当てはめず、敢えて伏せ字を使ったのではなかろうか。そんなことも思わせるような、懐のふかい演奏であった。

今回、尾高の演奏スタイルで面白いと思ったのは、一見、パーソナルな性格のつよいエルガーの作品を通して、ワーグナーの影を表現していることである。そう気づいたのは最後のほうだったので、この視点で、全体を論じられないのは歯がゆい。しかし、最後の「EDU」変奏を聴いているとき、ずっしりシャープなフォルムを抉り、溜めをつくったりしている部分が、いかにも『マイスタージンガー』的であり、タッタララーというリズムの強調などは、有名な第1幕への前奏曲を思わせるし、金管のアクションは『ローエングリン』的でもあったからだ。そう思って振り返ってみれば、ニムロッドも『トリスタン』的な雰囲気がある。最後の締めなどは、『マイスタージンガー』そのものと見紛うばかりだ。

あとでいろいろ調べてみれば、サー・ロジャー・ノリントンなどは、エルガーとは、ブラームスとワーグナーを融合した作曲家であるとまで言ったそうだ。そこで、最近、私の素晴らしいパートナーになっているNML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)で、エルガー自身の指揮、それとハイティンクの指揮で聴いてみたが、いずれもオペラ的な感興のある演奏スタイルが当たり前のよう出ている。なるほど、これはエルガーをよく知る指揮者には、当たり前の知見だったのだ。しかし、尾高以外で、このことを積極的に打ち出している日本の指揮者はあるのだろうか。そして、知見としてはあたまに入っていたとしても、これほど見事な形で、ワーグナーの影響を受けながら、そこにエルガー自身の個性としかいいようのない温かいものを注ぎ込んで、たっぷりと演奏できる指揮者というのは、どれだけいるのだろうか。

そして、さらに言えば、そうした尾高の身体に入っているものを、これほど忠実に音にできるオケというのは、どれだけあるのであろうか。そのひとつが、こともあろうに札響であるというのは、驚くべきことではなかろうか。

【まとめ】

長くなったが、以上である。エルガーを知り尽くした指揮者、そして、その音楽をスポンジのように吸い取って、素直に表出した札響の柔軟性は、本当に得がたいものである。

論おうと思えば、細かい点でいろいろの不満があることは否めない。なぜ、木管がここで最後の1拍まで、しっかり音を保持できないのかとか、オーボエの予備動作が遅れて、アンサンブルがはまらないとか、ヴィオラ首席のソロはいちばん目立つところだけうまくて、最初のほうの変奏で、ちょろっと出てくる部分では一生懸命に弾けないのかとか、ティンパニがバチを落としたり、舞台の上で不用意に音を立ててしまう奏者が続出とか・・・結局、最後に書いてしまったけれど、こういうネガティヴな要素をすべて吹っ飛ばすくらいに、今回の演奏は気持ちのいいものだった。

そして、これは私がいう場合には褒め言葉だが、アマチュア的な共感のある演奏だった。これがなぜ褒め言葉かというと、アマチュアというのは、年に何回かしか演奏する機会がないので、その分、1曲1曲に強い共感を育てて、本番に臨む。それゆえ、たとえ技術的に及ばない点が多くとも、聴き手がつよい感動を味わえることが少なくない。札響はより高いスキルをもち、プロとしてルーティンの仕事をしながらも、そうしたこころを忘れていない。

1つだけ、大きな問題があったとすればホールのことだろう。世界最高水準といっても過言ではないKITARAと比較すると、東京オペラシティは彼らの発する響きをしっかり受け止めてくれないからだ。東京公演は東京公演で意義ぶかい面もあるだろうが、やはり、札響はホームの札幌で聴いてナンボというものだろう。しかし、弦を中心に、非常に質のいいアンサンブルが育ちつつある札響の姿を確認できて嬉しかった。それもまた、KITARAというホールを使って演奏ができることの、良い作用のひとつであるかもしれない。

なお、この公演はホクレンの協賛を得て運営されている。帰りには、てんさいからつくった砂糖のサンプルが配られていた。こういうサーヴィスは、山形響もやっていると聴いているが、そちらに発想を頂いたのかもしれない。ロビーには山形の特産品が並び、抽選でサクランボがもらえると聞いた。そこまでは行かないが、いつものように札響グッズの物販をやっており、賑やかなロビーではあった。また、これは楽団とは無関係だろうが、ロビーには、すこし早めのクリスマス・ツリーも飾られており、電飾が美しかったことを付記しておく。

【プログラム】 2009年11月17日

オール・エルガー・プログラム
1、演奏会用序曲「フロワッサール op.19
2、チェロ協奏曲 op.89
 (vc:ガイ・ジョンストン)」
3、エニグマ変奏曲 op.36

 コンサートマスター:伊藤 亮太郎

 於:東京オペラシティ

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コメント

詳細なレヴューありがとうございます。
楽しんでいただけて嬉しく思います。
でも細かなところ結構、辛口ですね。

私は札響は非常に良い方向に進んでいると思います。技術面での課題は残されているにせよ定期毎に音楽が面白くなってきている。どうか暖かく応援して下さい。

エルガーは、ディーリアスやブリテンと比べ私には親しみにくい作曲家でしたが、やはりライヴでなければ分からないことは多いですね。アリスさんの解説は、いろいろ参考になりました。


どうも、楽しませていただきました。ご紹介くださらなかったら、多分、足を運んでいないと思いますので、まずは御礼を申し上げましょう。

確かに、言うことがコマい、と自分でも思いました。しかし、札響はドンドンいい方向に来ているように思いますし、かつ、大事なところでは、自分たちの個性を守っているようにみえます。このあと、どういう風に進んでいくのか、私としても楽しみに思っていることはご理解をいただきたいと思います。

また、おすすめの公演などあったら教えてください。宜しく、お願いします。

ちなみに、ヤナ友じゃないですが、ごく少人数ながら、日本エルガー協会というのがあるのをご存じでしょうか。私は以前に、会員の方とMLでお話ししたことがあります。

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