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2009年11月22日 (日)

ベルク ヴォツェック 錯綜した倫理によるメルヒェン・オペラ 新国立劇場 11/21

新国立劇場の公演で、ベルクの歌劇『ヴォツェック』を拝見した。この作品は昨年に上演された『軍人たち』とともに、惜しくもこの世を去った劇場のディレクター、若杉弘が上演を念願していた演目だった。彼自身が指揮を振る予定にもなっていたが、その早すぎる死により、バトンはハルトムート・ヘンヒェンにわたった。新国の舞台は久しぶりに観るのだが、彼の置き土産をたっぷりと楽しませてもらうことになった。

なお、このプロダクションはバイエルン州立歌劇場との共同制作となっており、2008年11月にドイツでプレミエが出されている。演出は、アンドレアス・クリーゲンブルク。

【錯綜した倫理によるメルヒェン】

さて、最初はベルク論というよりも、ビューヒナー論になってしまうかもしれないが、作品についての視点を定めておきたいと思う。

この作品に実際に接するのは初めてだったが、まず筋だけを眺めていて、大きくは2つの要素が絡みあっているように、私は思った。1つは、ヴェリズモ的な筋書きである。原作のビューヒナー『ヴォイツェック』は、実際に存在した兵士、ヴォイツェックが内縁の妻の浮気に怒って、彼女を刺殺した事件に取材している。ヴォイツェックは精神異常に陥っており、事件後の訴訟では、詳細な精神鑑定書がつけられたことが話題となったが、結果的には死刑となったという。

ビューヒナーは、その精神異常の黒幕にヴォイツェックを実験台にした医者の存在を置き、最後、自ら入水させるという筋にした。さらに、2人の間に実際にいた子どものあやし役として、カールという道化役を用意した(ただし、オペラでは削除されている)。医者の介在を抜きにしてみると、ご丁寧に道化まで用意したことも含め、まったくもってヴェリズモ的な要素が濃厚である。しかし、医者の存在が、ヴェリズモの激情性を錯綜したものにしている。

さて、その医者が、私の2番目のイメージを喚起するのである。といって、すこし注意ぶかい人ならば、医者がメルヒェンに登場する魔法使いの役割を果たしていると気づくのに、そう難しいことはないだろう。彼はヴォツェックのことをうまく騙して、実験台にする。ヴォツェックは、その差し金によって道を踏み外す。もちろん、メルヒェン的な要素はそれだけではない。ここには森も出てくるし、子どもも出てくる。森に入って、ヴォツェックは決定的におかしくなる。森はメルヒェンでは、恐ろしいなにをかを引き起こす「ワンダーランド」であることは周知のとおりだ。そして、オペラでいえば、ララバイのようなものも出てくるわけだし、音楽の要素には、いつもメルヒェン的な要素が忍び込んでいる。そして、本来のメルヒェンの筋書きは、非常にグロテスクであることがよく知られるようになった。

だが、ひとつだけおかしな要素がある。メルヒェンは、子どもたちにこういうことはしてはいけない、もしやると、恐ろしい目に遭うのだということを教えるための、反面教師のような役割を果たしているものだ。そこには、素朴な倫理観が見えず働いているのであり、もちろん、それは当たり前のようにして、宗教的な倫理観と結びついている。そこが、最大の問題となる。

ビューヒナーの時代、そのような倫理観(もちろん、宗教的な倫理観を含めて)というものは、もはや期待できない状態になっていた。人間はモノとして扱われ、神の似姿というには、あまりにも惨めな状態だった。特に、ヴォイツェックのような身の上にあっては・・・。作者が描こうとしたのは、そのような時代にあって、もがき苦しむ人間・・・それも、底辺にある人間の姿であった。もはや、ビューヒナーにとって、ヴォイツェックの身に起こったことは、まるで他人事とは思えない現実だった。そして、だからこそ、メルヒェンとして描く目もあったのである。

付け足すならば、戯曲の後半には、老婆が読み上げる長い童話のような部分があるそうだ。実際、それがどういうものなのか、読んだことがないのでわからないが、この作品をメルヒェン、もしくは、5本指の手袋を内側からひっくり返すようにして、反転させたメルヒェンとしてみることは、妥当性が高いという根拠にはなるだろう。

【ヴォイツェックとベルク】

オペラにおいては、そうした作品の特徴に忠実な音楽化が試みられているように思われる。手近な資料から調べてみると、ベルクの施した主な変更点としては、道化役のカールを消滅させたこと、池に落ちたヴォツェックを大尉と医者が見過ごしにする場面を加えたこと、最後に子どもたちが家を訪ねてきて、ヴェ(イ)ツェックとマリーの子に、お前の母親が殺されたといって走り去っていく場面が加えられたこと・・・の3つということになりそうである。

なお、主人公が「ヴォイツェック」ではなく「ヴォツェック」になっているのは、ビューヒナーの原稿の残り方と関係があるようで、作曲者による故意の改変ではないようだ。つまり、戯曲『ヴォイツェック』は、23歳にして早世したビューヒナーにとっての遺作である。のちに、非常にコンディションの悪い状態から原稿が復元され、世の中に知られるようになったが、判読しにくい部分が多く、肝心の「ヴォイツェック」から、’y’が抜けて「ヴォツェック」として認識されていたらしい。

音楽的には、いろいろなパロディ的要素が入っていそうだ。もちろん、原作がそうであったように、ヴェリズモからの流れはオペラも共有しているし、シェイクスピアの『マクベス』の要素を通じては、ヴェルディと絡みあう部分もある(例えば、マリー殺害の場面や、その後、池で血を洗う場面などは正に!)。さらに、今回の演出でさらに強調されているので後述するが、ヴォツェックとマリーの子は、ジークフリートの運命を背負っているといえる(もちろん、そのイメージにはハムレットの影も差しているが)。

いちいち挙げていけばキリがないが、『魔弾の射手』のイメージや、メルヒェン・オペラの金字塔を築いたフンパーディンクなどのほか、何といっても、ワーグナー、とりわけ「リング」を想起させる象徴は山ほどある。例えば、ヴォツェックを狂わせる’GELD(≒GOLD)’の重みは「リング」の筋書きと関係するし、ヴォツェックが「炎が・・・」などと言っているのも、ヴァルハラ城の炎上とか、ブリュンヒルデを包む炎とか、「リング」の道具立てを思い出させる。そして、終末論的な雰囲気は、『神々の黄昏』に通じている。私はワーグナーがさほど好きでもないわけだが、こんな風に、いろいろな符合を挙げればキリがないほどとなっている。

もちろん、ワーグナーと生年の同じビューヒナーが、そうしたものを前提にしたはずはないが、少なくともベルクから見れば、奇しくもワーグナーと結びつくような象徴に満ちていた。また、ヴォイツェックのように、結婚という手続きなしに子どもをつくってしまった経験は、彼自身、10代のときに体験していた。さらに奇特なことには、作者であるビューヒナーがチフスで亡くなった23歳という年齢は、ベルクが、その後、彼を苦しめつづけることになる喘息を患った年齢と同じだったのだ。ベルクにとっては、あまりにも身近な素材がそこにあった。そこへもってきて、戯曲から着想を得た直後、戦争への徴集という体験が陰を添えることになった。こうしたなかで、ヴォツェックという作品世界は出来上がった。

もうすこし、第1次大戦前後のドイツ社会、都市史や社会史、労働史、政治史などについて詳しければ、もうすこし穿った見方ができるのだが、そろそろ本題に入っていくことにしよう。

その前に、もうひとつだけ書いておくと、ゲオルク・ビューヒナーは『レンツ』という作品の著者でもあり、昨季、新国で上演されたベルント・アロイス・ツィンマーマンの『軍人たち』の原作を書いた詩人、ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツの生涯を描いている。その作品はヴォルフガング・リームの手でオペラ化され、『狂っていくレンツ』という作品になったが、これもヨーロッパではよく上演されている作品である。リームについての上演予定はないが、故若杉氏は、リング4部作と、『軍人たち』『ヴォツェック』を置くことで、ともすれば、目をつぶってしまいがちの、ドイツの暗い時代に光をあてようとしていたのかもしれない。

【クリーゲンブルク演出】

さて、こうした作品世界の重層構造に対して、クリーゲンブルクがどのようにアプローチしたかということを描くことで、ようやく上演へのアプローチの基本を固めていくことができる。このクリーゲンブルク氏についての紹介は省くが、もともとは演劇畑にいた人である。今回は、舞台全体に水を張る幻想的な舞台をつくり、ポリティクスを持ち込むことなく、非常に濃厚な心理劇としての側面を徹底的に掘り下げている。パンやお金を魚の餌のようにばらまくと、助演者たちが駆け寄って、その獲物を獣のように奪いあう、そして、あぶれた者たちは、劇のなかでさりげなく膝から崩折れて倒れてしまうという象徴をベースに張って、人間が基本的な尊厳を失い、人間が人間として生きていくのが難しい時代背景を見事に描き上げた。

今回の上演では、ヴォツェックとマリーの子も重要な役割を果たす。彼は黙り役であり、途中、いくつかの場面に登場するものの、大抵は寝かしつけられたりしている場面であり、親たちとの会話もなく、最後、仲間たちが母親の死を報せにくる場面でさえ、一言も発せず、ト書き上、木馬に夢中になっているという形になっている。いわば、人格をもたないキャラクターである。この薄気味わるい存在に注目し、クリーゲンブルクは、この子をあらゆる形で全幕を通して舞台上に残し、すべての場面を見届ける存在に仕立てた。

それだけではなく、序盤で家庭的に存在感のない父親を揶揄したり、落書きで母親を「あばずれ」と罵ったりする小悪魔的な役割も付け加えられた。そして、最後の場面では、死んだヴォツェックの上の層に立ち、部屋の真ん中に立って右手にナイフをもち、きりっとポーズを決める。彼はジークフリートの似姿ではないかということは、さらに後で述べることになるが、もうひとつ、彼の姿から想像される将来は、ベルクの最後の作品『ルル』に登場する切り裂きジャックのそれである。

ベルクが純粋無垢のように置いた子どもの存在を、クリーゲンブルクはさらに暗い方向で捉えた。ベルクはもはや従来の倫理観や、キリスト教的な倫理観の延長線上で、人間が救い得ないところに来ていることを、この作品のなかではっきりと描いている。しかし、彼がどっちみち、そうした世相のなかで生きていかなければならないことを認めつつも、その子どもだけはまだ、罪の色に染まらない存在として残しておこうとした。そこには、ベルクのなけなしの倫理観があったともいえる。

しかし、クリーゲンブルクは、そのベルクの倫理観の欺瞞を暴き、徹底的に、ベルクの本心に迫った。どのように足掻こうとも、その子どもの将来は定まっているということを、ジークフリートと切り裂きジャックのイメージで、はっきりと宣言しているのだ。今回の舞台は、もはや罪から逃れがたくなった人間の、終末論的な行き場のなさに焦点を当てている。その象徴が、子どもであるというのは、まったく皮肉なことだ。メルヒェンに学び、子どもたちが正しい道を歩むことは、もはやあり得ない。なぜなら、もはや彼は染まってしまっているのだから。

最後、転換の音楽に乗って、子どものいるマリーの部屋が、再び前面に引き寄せられてくる。その大きさは変化しないはずだが、遠くから近づいてくるときの遠近法的な錯覚により、その部屋は膨張しながら、我々のほうに迫ってくるように見える。それが、演奏のクレッシェンドにあわせて起こる最強奏の場面は、その真ん中に堂々と佇む不気味な子どもの姿とともに、観客たちの印象に焼き付けられたことだろう。

血の色が落ちないといって、自らの手を洗いつづけたレディ・マクベスのように、マリーを殺したヴォツェックは手を、そして、からだ全体を洗おうとして入水した。その前の場面で、ヴォツェックはマルグレートに、人殺しをしたのかと問われ、自分は何もしていないと答える。これは、言い逃れではない。ヴォツェックは、自分がしたことを憶えていない。憶えていたとしても、まるで自分がやったことが、自分でやったことのように思えないのである。その前の場面で、ヴォツェックは、俺はヴォツェックじゃないと言って刺殺に及ぶ。ここでは、はっきりと自我の崩壊が窺える。

このクリーゲンブルクの演出は一般的に、全編がヴォツェックの目を通した世界として描かれていると説明されるし、彼自身がそう言っていたようだが、私はそのことを、別に念頭においてみる必要はないと思うのだ。それよりも私にとって重要なのは、いくつかの例外的な場面を除いて、登場人物の自我が崩壊しているということである。

【鏡の国のヴォツェック】

例えば、ヴォツェックを実験台にする医者は、確かに利己主義者だ。しかし、利己主義者としての医者に、本当に「己」があるかといえば、それには大きな疑問がある。彼にとっての「己」とは、結局、鏡で写したようなものでしかなく、実体がないのだ。

私は舞台に水が張ってあるという情報を事前に知っていたが、そのことを知らないことにして席に着いた。まず、小部屋が舞台前面にぴったりくっついた状態で、劇が始まる。その箱状の部屋がクレーンで吊られ、向こうに移動することで、水の張られた面が登場する。だが、それを水と思わなければ、鏡のようにも見える。水面に照明の当たった舞台の姿が映り、まことに美しい。この場面が象徴的だが、鏡のモティーフは、さらに第2幕の最初で自分に見とれるマリーの場面でも使われている(これはコジ・ファン・トゥッテの一場面を思い出させるが、鏡自体は小さい欠片だ)。

鏡というところから思いつく道具立てをもつメルヒェンとしては、有名な『白雪姫』がある。自分よりも美しい女性がいてほしくないという王妃の利己主義により、白雪姫は殺される。彼女は森に送られて、そこであらゆる形で殺害されるのは誰でも知っている話だろう。ビューヒナーも多分、このイメージを下地にヴォイツェックの世界を詩的に描こうとしているが、クリーゲンブルクはこのモティーフを広げ、徹底している。鏡のなかの世界では実体がなく、すべてが反転しているから、この作品にとって、実に相応しい世界なのだ。

クリーゲンブルクは、ヴォツェックの死について、以下のように解釈する。大尉や医者が、ヴォツェックを助けなかったのは・・・否、正確にいうと助け「られなかった」のは、なにも不気味な音に怯えたからではない。鏡の世界の象徴である水の中に、ヴォツェックが落ちたからである。そこには、さらに正確にいえば、死というものはない。なぜなら、実体がないのだから。ヴォツェックはこうして、鏡のなかで永遠のいのちを得たのである。それは、当時の現実世界で、人間が行き着くはずの彼岸であった。少なくとも、ベルクにはそう見えた。そして、輪廻転生的に、彼の子どもがその呪われた時代を歩み始める・・・。

もちろん、これは私が舞台をみて、感じた、クリーゲンベルクの哲学であり、実際の彼の哲学と同じであるかどうかは別問題だ。とはいえ、彼が果たして何と言おうとも、舞台には答えなどというものはないのだ。

(②につづく)

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