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2009年11月23日 (月)

ベルク ヴォツェック 錯綜した倫理によるメルヒェン・オペラ 新国立劇場 11/21 ②

【ヴォツェックとマリー】

ところで、この作品の、いちばん大事な部分にヴォツェックとマリーの関係があるのは、もちろんである。ふかく愛しあい、結ばれあっているはずの2人が、ついに殺し、殺されるという関係になってしまう筋書きは、実にこころが痛い。典型的なヴェリズモ作品のように、2人の関係は決して崩壊しているわけではない。レオンカヴァッロの『道化師』のように、妻は自由を求め、夫は父権にも似た束縛の権利を主張するという関係ではないのだ。2人はなお、深く結びついている。だが、彼らを悩ませるものは金と宗教であった。

第1幕の最初の場は、あらゆる意味で象徴的である。まず最初に、大尉が部下である床屋あがりのヴォツェックに散髪をさせている場面で、2人の関係が暗示的に描かれる。たとえ上官といえども、部下に髪を切らせるという関係はまずない。その秘密・・・つまり、どうやら、ヴォツェックが大尉に対して金銭的な借りがあるらしいことは、あとになってわかる。そして、この金銭の問題こそ、ヴォツェックが医者の言うなりになり、狂ってしまうもとにもなっていることを憶えておこう。

2人の会話のなかでは、まず、最初の音楽のテンションの高まりに託して、大尉が「憂鬱だ」という場面が、作品全体の背景をつくっている。次に重要なのは、大尉が饒舌を飛ばして、ヴォツェックが教会に祝福されない子どもを生んだことをなじり、それに対して、轟然とヴォツェックが反論する場面である。ヴォツェックは、聖書の一節に触れて、貧乏人と子どもには道徳は役に立たないと弁ずる。ここでは、あたかも大尉のほうが常識的な宗教的倫理に忠実であり、ヴォツェックは非道徳的な人間であるように錯覚される。しかし、場面を追うごとにわかってくるように、この関係はまるで逆である。

こうして作品の素地は、第1幕第1場のなかでほとんど用意されたといって過言ではない。

ヴォツェックの信仰心がどのようにして形成されたのか、定かではない。しかし、いわゆる「私生児」の誕生を契機に、彼が救いを求めて、聖書を読み漁ったのは想像に難くないところだろう。最初の幕の場面でもそうだが、ヴォツェックは宗教倫理的な批判をされると、すぐさま聖書の一節を紐解いて、それを論破する教えを示すことができる。正に、牧師いらずだ。だが、不思議なことには、そのことによって、少しでもヴォツェックが救われたようには見受けられないのである。

ここが、非常に面白いところだ。ヴォツェックたちは、宗教的倫理観からの批判にさらされて、日陰者の暮らしをしているわけだが、彼らを救い出すはずの教えが見つかっても、そのことによって、彼らはすこしも救済されない。むしろ、その聖なる言葉のなかに、現実と乖離した偽善をみることになってしまうのである。

このことについて、夫婦は、すこしずれた態度をとっている。ヴォツェックがふかく考え込んでしまうのに対して、マリーは考えないことを選んでいるからだ。現実を直視するヴォツェックと、現実から逃避するマリー。しかし、ここでは、どちらの態度も正しいとはいえなかった。否、どこにも正しい選択などはあり得なかった。いずれにしても、2人は各々の選択に基づいて、行動するほかなかった。ヴォツェックは、もうひとつの現実である金銭の問題を解決するために、医者のもとに奔った。

一方、マリーは、他の男との恋愛という方向へ進む。これは鼓手長との愛による結びつきというよりは、熱に浮かされているときにみた、悪夢のようなものにすぎない。いわば、鏡の向こうの出来事である。しかし、ヴォツェックとすこしちがうのは、その罪をうすうす自覚するだけの意識があることだ。彼女の神経は、まだヴォツェックほど痛みきってはいなかった。

では、ヴォツェックの殺人とは、何だったのだろうか。実在のヴォイツェックは、精神異常のつよい症状を認められながらも、責任能力は有りとされて、死刑に処されたという。そして、多分、ビューヒナーもヴォツェックの殺人を意識的なものとして描いた。これはクリーゲンブルクの演出でも、はっきりクロとして描かれている。ヴォツェックは恐らく、マリーの現実逃避を許せなかったし、その延長線上に起こった姦通を許すことができなかった。彼は、彼らのことを罰した教会や社会と同じように、マリーを罰した。そして、これはもちろん、メルヒェン的な教訓にも通じている(姦通すれば殺される→姦通してはいけない)。ここに、ビュヒナーの仕組んだ強烈なイロニーがあるのは言うまでもない。

【マリーの官能性】

しかし、逆にいえば、マリーにはまだ殺し得るような魂が残っていたということだ。もっと言えば、マリー以外の全員のキャラクターが、自我を崩壊させているのに、彼女だけが辛うじて生き残っているようにも見える。そう思えるのは、この日、マリー役を歌ったソプラノのウルズラ・ヘッセ・フォン・デン・シュタイネン(ヘッセ以外が姓となるので、以下、ウルズラとする)の、リリカルで、甘い歌いくちのせいであるかもしれない。

今回、この劇場には珍しく、キャスティングが非常にうまく嵌っていた。このウルズラは、まだ若い歌手だと思うのだが、あまりフォルムをつくりすぎず、ナチュラルに歌っているのが耳を惹く。子どもをあやすララバイをもじったシュプレヒシュティンメがたくさん出てくるが、管弦楽の響きをよく聴いて、そこに溶け込ませるようにすっと入ってきた第1幕第3場の登場から、彼女は魅力を放っていた。

ここで重要なことは、ハルトムート・ヘンヒェン率いるバックの東京フィルが、実に優しい響きで、メルヒェンの世界を丁寧に敷きつめてくれたことだ。ヘンヒェンの音楽づくりは、大まかにいって2つの特徴を有している。1つは、いま述べたように柔らかく、優しげな響きのベースである。2つは、包容力が大きいということ。今回、クリーゲンブルクは、舞台に張った水音をベルクの音楽に添えるというリスキーな戦術をとっているが、これを効果的なものにしたのは、まずもってベルクの音楽の堅固さによるというべきだか、それをナチュラルに引き出したのはヘンヒェンである。

こうしてみると、クリーゲンベルクの思いつきはなかなかのものであって、この水音は、現代音楽でよく使われる弦と弓をこすれあわせてつくる響きに似ており、それが注意ぶかく埋め込まれていることで、この演出家の音楽的なセンスの高さを証明することになった。彼は、助演のパントマイムに弦の動きを真似させたり、後半の居酒屋の場面で、大事な楽器(アコーディオンなど)を舞台上にあげて、効果的なPRをおこなっている。演劇畑でありながら、こうしたチャーミングな発想が出てくるのは買えるところだ。グルグルまわる台の上で弾くピアノなどは、いささか無理な発想であるとしても・・・。

ウルズラ演ずるマリーはこうした響きのベースの上で、鼓手長をみつけ、象徴的に「ソルダーテン、ソルダーテン!」などと歌うのだが、そうした場面の活き活きとした表情には、実に光るものがあった(この場面については、相手を務める友人役の山下牧子も効いている)。しかし、どちらかといえば、光よりは陰の表現にこそ、彼女のリリシズムは親和力があるのかもしれない。第2幕第1場では、自己陶酔から罪の苦しみへと落ちていくマリーの姿を、情感たっぷりに表現している。

そして、第3幕の第1場はすべてのシーンのなかで、もっとも印象的な場面のひとつだ。私は事前には、次の場でついに刺殺に至る場面の官能性こそが、クライマックスとなるのではと思っていたが、実際には、唯一のアリアと見られなくもないこの場面に、イメージが集中していた。ここでは前述のように、ララバイをもじるようにしてつくられるシュプレヒシュティンメのデクラメーションの素晴らしさが、どこよりも力強く解放されていた。オーケストラの演奏は緊張感のある頂点をつくり、演出的にも子は母親をばいたと罵り、母親といよいよ相克する。

こうしてマリーの官能性が、ある意味でもっとも高まったときに、ヴォツェックは決行する。第1場からの移行が実に素晴らしく、その甘い雰囲気のなかで、ヴォツェックは引き寄せられるようにして、マリーを刺す。だが、これは例の水の張った舞台のなかでおこなわれ、あくまで鏡のなかの出来事であることに留意しておかなければならない。ヴォツェックの殺人には実体がなく、転換の音楽でそのイメージは強烈に膨張させられるが、そこでようやく実感が伴ってくる。しかし、その終結とともに、再び実感は失われる。それを象徴するような、ヴォツェックの死のあとの部屋の使い方については、既に述べたとおりである。

【ヴォツェックの造型】

では、ヴォツェックの造型はどうだろうか。観客たちは多分、この男のことを異常で、野蛮な兵士というよりは、まず、あたまのいい人物として印象に焼きつけたのではなかろうか。それは多分に、非常に知的なトーマス・ヨハネス・マイヤーの歌いくちによる印象であるが、大尉にいびられ、医者に騙され、妻に寝取られる愚鈍な男というイメージは、今回の上演に関してはない。そこで、先述したような意識的な殺人という見方に辿り着くわけであるが、不思議なことに、これが卑劣な知能犯に対するような嫌悪感にはつながっていかないのだ。

このヴォツェックは知的であるとはいえ、そのことによって、何程の利益も得ていない。それどころか、彼は、自らの明晰さに苦しめられているようにも見える。きっと彼がもっと愚かであれば、マリーを殺すということもなかったのだろう。彼の身に投影されるのは、あまりにも洗練された知に冒される現代人の姿であり、そのあたまのなかには、はるかに及ばない現実の悲劇であった。それはまるで、あれほどラディカルな音楽伝統の転回を実現しながら、死ぬまで貧乏生活をつづけたという、ベルクの友人、シェーンベルクの肖像をみるようでもある。

そして、ついにヴォツェックは、利己主義者の医者の罠にはまり、その罪を罰されることになる。クリーゲンブルクの演出では、マリー殺害のあと、ナイフを捨てようとするヴォツェックに、助演の役者たちが次々に(実際には2回だけだが、もっと多いように感じられる)ナイフを渡し、彼の罪が決して拭えないものであることを印象づける。しかし、それは鏡の向こうの出来事だっただけに、ヴォツェックとしては、自分がやったことのようには思えない。

【消えない罪】

こうして、罪をめぐる円環は見事に登場人物たちをつなぎ合わせていく。そして、その消えない罪は、最終的に、ヴォツェックとマリーの子どもにも振りかかっていくことになる。

この子どもの存在は既に述べたように、クリーゲンブルク演出にとって象徴的な存在となっている。もちろん、彼自身に罪はないが、2つの点において、この子どももまた罪の円環への接続を免れ得ない、と演出家は判断した。その1つの理由は既に再三述べてきたように、この少年の育っている環境からして、遠からず、彼が罪に手を染めるのは目に見えているからだ。

もうひとつの理由は、すべて彼の誕生から、ヴォツェックの人生が狂ってきているからである。少年の誕生が、ヴォツェックとマリーにいかほどのダメージを与えたか、ほとんど無宗教国といってよい日本の人には、想像するのが難しいのだが、倫理的な面に限らず、経済的、社会的な制裁が、彼らを死よりも苦しいところに追いやったのは間違いがない。そして、クリーゲンブルクの演出は、こうした役割をもつ子ども存在感を、メルヒェンのグロテスクさと意図的に対応させたのであり、原戯曲よりも子どもの存在に光を当てたベルクの作法に、何らかの意味を見出しているようだ。

この子どもの存在というのは、既に何度か述べてきたように、ジークフリート的である。彼は生まれる前から様々な奇縁に包まれ、運命の定めるようにしか行動できないようにみえる。彼は両親を喪い、ミーメのような養父に預けられるのだろうか。養父はいずれ、彼の養子に対してろくなことを望まないだろう。さらにいえば、彼の運命は、父親・ヴォツェックが体現しているのだ。ヴォツェックはジークフリートが薬を飲まされて正気を失ったように、医者に騙されて精神をおかしくする。そして、最愛の妻に災厄をもたらす。ハーゲンが言ったように、彼は妻の偽善を罰したつもりだ・・・。

ここで、この子どもが最後の場面で、ベルクの別作品『ルル』に登場する切り裂きジャックに擬せられているといったことを思い出してもらいたい。実在のジャックは未解決事件なので、その実像はわからないが、一説には売春婦を嫌悪しての犯行であるとされている。その場合、売春婦的な行動に奔ったマリーと、それを罰したヴォツェック、そして、その子の将来像であるジャックを重ねることで、作品の立体性は面白いように高まることになる。

罪は消えない、たとえ、子どもでさえ・・・クリーゲンブルクの演出は、こうしたメッセージを最後に張りつけることで、ベルクの描いた世界をすこしだけ拡張した。

【まとめ】

さて、このあたりが潮時であろう。

今回の舞台は、作品、演出、歌手、オーケストラが、久々に一体となった素晴らしいプロダクションに仕上がった。現在、新国の舞台づくりは、基本的なところでバランスがとれていないものが多く、プロダクション発表時点で、ほとんど期待感の抱けないものが多かったために、私も足が遠のいてしまったが、この舞台については、さすがに若杉弘の残した一粒種だけに、劇場の総力を凝縮した舞台に仕上がった。

指揮者のヘンヒェンについては、本当にいい仕事をしたと思う。メルヒェン・オペラとしての特徴を捉えた素晴らしい音楽づくりと、包容力については既に述べたが、東京フィルから非常に多彩なニュアンスを引き出し、安定した統率力で全体を引き締めていた。紀尾井シンフォニエッタで、前代未聞の大絵巻、メンデルスゾーン『エリヤ』の音楽をまとめ上げた手腕は、ここでも存分に発揮された。水音と音楽の関係については、ヘンヒェンから演出家へのアドヴァイスも相当にあったのではないかと想像する。

主要二役以外のキャストでは、アンドレス役の高野二郎に注目した。本来は非常にひょうきんなキャラクター・テノールであるが、アンドレス役では、ぐっと自分を抑えて、緊迫した表現をつくり上げていた。特に、ヴォツェックが決定的におかしくなってしまう森の場面では、彼の内側に潜むユーモアと、こうした緊迫感がうまい具合で発現し、ヴォツェックのキャラクターを相対化する。素晴らしい演唱であった。

美術のハラルド・トアー以下、ドイツ組が担当した演出チームも非常に優秀だ。あまりにモノトーンすぎるきらいはあるが、かえって、そのシンプルさが作品のもつ多彩な表情を損なわないことにつながっている。

もういちど観たいと思ったし、それに値する久しぶりの舞台!

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コメント

アリスさん
こんにちは!
若杉さんの,まさにレジェンドに値する上演だったと思います。
アリスさんの「ジークフリート」或いは「ルル」との
関連性や類似点など、なるほど納得です。
いずれにしろ「ヴォツェック」の生鑑賞は初めてなので違う演出でもう一度鑑賞したいと思いました。
コメントありがとうございます。♪

わざわざのご訪問、そして、長ったらしい文章を読んでいただきまして、ありがとうございます。

「こじつけだ!」と仰られず、「納得」と仰ってくださいましたので、私としても嬉しいですね。この作品については、いろいろな解釈があると思います。それだけの奥行きがある作品で、面白い台本をベルクが選んだということができます。

私は、今回の舞台がもういちど観たいという意味で書いたのですが、確かに、ちがう演出にも接してみたいです。また、新国が、前回の上演でしくじった「ルル」への再トライも望まれます。

私は、26日に観ました。
記事、リンクさせて頂きますね~happy01

26日、私も行きたかったのですが、断念しました。リンクは、問題ありません。

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