2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« スメタナ ダリボル 日本初演 オパヴァ シレジア劇場 10/25 ② | トップページ | 浜松国際ピアノコンクール 開幕直前! »

2009年11月 4日 (水)

つのだたかし & 波多野睦美 弦の道 @北とぴあ国際音楽祭 11/3

北とぴあ国際音楽祭の企画の一部としておこなわれた「弦の道~さまざまな弦楽器で音楽史をたどる」と題する公演を聴いた。会場に入ると、リュートの仲間の楽器や、ギターの仲間がたくさん並べられており、演者のつのだたかしが、それらの調律に余念なく働いていた。つのだ氏の話によれば、それらの弦の総数は人間の108煩悩よりも多いということである。これらの楽器を使って、ルネッサンス期から19世紀中盤までの作品を、同時代で使われていた楽器とともに辿っていこうという企画である。

まずは、ルネッサンス時代、花形の楽器だったリュートによる演奏から。前半のプログラムはロマンティックな性質をもった作品を避け、パヴァーヌを中心とした舞曲に基づく素朴な作品を取り上げることで、純粋に音楽的な響きそのものをテイスティングしてもらおうという趣向にみえた。最初のアルフォンソ・フェラボスコⅡ世はルネッサンス期に活躍し、エリザベスⅠ世やカトリーヌ・ド・メディシスに仕えた父親の跡を継いだ作曲家だった。その手になる『パヴァーン』は非常に素朴な作品で、ゆったり瞑想的な時間をつくりだす佳曲。リュートのもつ音色の静かな美学を拾うには、なんとも象徴的な曲であった。

つのだがよく取り上げるジョン・ダウランドも同時代の作曲家だが、より優美な感じである。つのだにとって『涙のパヴァーヌ』や『ファンシー』は十八番であり、演奏はひときわ滑らかだ。

ここでつのだによる楽器の紹介があり、今回、使わない楽器を含めて、興味ぶかいプレゼンテーションをはさみながら、少しずつ演奏がおこなわれた。もともと中東オリエント圏で親しまれた楽器が、地中海を渡って西欧に伝わるとリュートなどの楽器となり、シルクロードを伝っていったものが中国の琵琶となったのであり、これらの起源は同じという話も面白かった。

リュートの仲間であるウードは、リュートよりすこし小ぶりで、フレットをもたない素朴な楽器。水牛の角からつくった薄いヘラで弦を弾く。中東、トルコから北アフリカのイスラム圏で発展した楽器だが、その流れでイベリア半島に渡り、これを支配したスペインにもちこまれた。13世紀スペインの支配者、賢王・アルフォンソ10世の作品は、楽器の故郷、トルコの歌趣をふんだんに織り込んだ作品で、今日の人気ピアニスト、トルコ出身のファジル・サイの作品などをダイレクトに想起させるが、響きは力強く、支配者の威厳を思わせるものがある。

そのほか、前半は16世紀のスペインを中心に、ごく短い間に愛用されたビウエラという楽器や、バロック・ギターを使った作品が紹介された。同じような機構をもった楽器でありながら、大きさや、響きの質が微妙に異なるものがつくられたのは、こうした撥弦楽器が人々にとってごく身近なものであって、時代の好みや環境にあわせて、少しずつ楽器が工夫されていったことを窺わせる。

後半は、19世紀ギターと声の組み合わせを楽しませる趣向に変わる。まずは、18世紀初頭から活躍したマウロ・ジュリアーニの『アレグレット』で露払いがおこなわれる。その後、つのだとは関係もふかいメゾ・ソプラノの波多野睦美が登場し、ドイツ歌曲の世界に聴き手を導いていった。

今回、リラックスした古い撥弦楽器の響きにあわせたものか、波多野も7-8割の力加減で、柔らかいパフォーマンスを心がけていた。なるほど、クラシック音楽というと、いつも100%で歌うのが「善」と思い込んでいたが、ときには、すこしばかり抜いたパフォーマンスが効果的となる場合があることを知った。もちろん、それは「手抜き」ということではなく、力の加減という意味である。例えば、誰かのことを団扇であおいであげるとすると、私たちは力いっぱいに団扇をあおぐのではなく、程々に加減して風を送ろうとするだろう。それと同じことである。

この日の波多野は、その気になればもっと歌えるに決まっているが、声量も表現も抑えたパフォーマンスをつくり、前半から丹念につくってきたつのだのペースを、しっかりとフォローしていた。

波多野が歌ったのはわりに規模の小さな歌曲10曲であるが、シューベルトの「朝のあいさつ」(~歌曲集『美しい水車小屋の娘』}が白眉であった。最近の風潮では、ここに歌われるような青年の想いや行動をことさらネガティヴに捉え、「ストーカー的」「粘着質」「しつこい」などという言い方が罷り通っているが、波多野はむしろ、ここから読み取れる純粋な愛情の丈を引き出しているようだ。ギターの音色の優しさと、男声ほどナイーヴではなく、スマートに伸びる女声の響きを、軽いアジリタを交えて技巧的に歌う波多野の爽やかな歌唱が、そうした雰囲気を導く。

3度目のシーケンスで、思いきり伸びをしてごらんと言って、清々しい和声が整う部分の響きがなんともいえず素晴らしい。

モーツァルトとシューベルト2曲のあと、シュポアの歌曲が取り上げられたのは珍しい。他の曲ほど歌いこんでいる印象がない分、新鮮な感じがする。2曲目の『ミニョンの歌』は(op.37)の歌曲集に含まれるが、とろけるような美しい詩情が広がる佳品であり、シュポアの歌曲のよさを端的に知ることができたのは喜ばしい。次いで歌われたジュリアーニの(op.89)の歌曲集に含まれる『別れ』は、白眉といったシューベルトの次に素晴らしかった。すこし悲しい詩情をもった作品ではあるが、祈りの想いが人間のこころを下支えするようなところが、波多野の芯のつよい歌にしっかりと表れていた。また、それをジェントルに支持するギターの伴奏も、コツコツと手ごたえのある響きを示して、面白かった。

最後の4曲は18-19世紀に出たギターの名手、フェルナンド・ソルの作品であるが、イタリア歌曲でいうところのカンツォーネにちかい小ぶりで、身近な歌曲が並んだ。波多野はウィットもたっぷりに、飄々と歌い進めていったのだが、どんな曲でもしっかり歌おうとする波多野の姿勢は、こうしたナンバーでは、いささか硬い印象を抱かせるのも確かである。その点、アンコールに歌ったシューベルトの『野ばら』は、すこしエロティックな、悪戯っぽい表現も織り交ぜて、私などでも歌えるシンプルな曲目に独特の奥行きをつけた。

後半の曲におけるギターの役割についてみると、より小ぶりなギターや、リュートの仲間で演奏した場合と比べ、聴き手のとの間に、すこし壁をつくってしまう感じがする。その代わり、非常に高められた機動力と、幅のついたダイナミズムが獲得されるわけだ。つのだはそうしたちがいを、なるべく滑らかに埋めるようなパフォーマンスをみせてくれるが、親密で手の届きそうな表現性から、よりパヴリックな・・・より多くの人に、幅広く訴えかけるような表現へと、楽器と作品が連動しつつ推移していく様子がわかり、興味ぶかかった。

レクチャー・コンサートのような感じとなったが、休憩を除き、90分強のパフォーマンスはあっという間におわった。本人が言っているように、見かけよりも非常に大変な企画だったと思うが、丁寧に準備されたまごころを感じる企画で、聴き手としても有意義な時間を過ごした。なお、舞台背景は旧約聖書の「雅歌」をの文句をモティーフにした望月通陽氏による染物で飾られ、そのナチュラルな美しさにも目を瞠る公演であったことを付け加えておきたい。

« スメタナ ダリボル 日本初演 オパヴァ シレジア劇場 10/25 ② | トップページ | 浜松国際ピアノコンクール 開幕直前! »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/46668016

この記事へのトラックバック一覧です: つのだたかし & 波多野睦美 弦の道 @北とぴあ国際音楽祭 11/3:

« スメタナ ダリボル 日本初演 オパヴァ シレジア劇場 10/25 ② | トップページ | 浜松国際ピアノコンクール 開幕直前! »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント