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2009年11月 6日 (金)

ミンコフスキ もう一つのサンフォニー・イマジネール ルーヴル宮音楽隊 11/5

大げさな言い方かもしれないが、私にとって、マルク・ミンコフスキ率いるルーヴル宮音楽隊(レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴル)の来日は悲願だった。それが実現すると知ったときの喜びは、計り知れないものがあった。今回、2プログラムが用意され、1つは録音で高い評価を得た『サンフォニー・イマジネール』の続編と、モーツァルトの「ポストホルン」セレナードを組み合わせたもの。もうひとつは、記念年に当たるハイドンの後期交響曲によるプログラムである。この公演を秋冬のメイン行事とみなしている私は、両日、足を運ぶことになっているが、まずは初日のリポートである。

【ミンコフスキの立ち位置】

ところで、それ自体が古くさいと感じられる言いまわしだが、ミンコフスキは「古楽器派」として分類される。しかし、このいわゆる「古楽器派」にも、3つぐらいのタイプがある。1つは、アカデミックな意味からの蓋然性を強く主張し、ラディカルに啓蒙的な動きをみせるグループである。例えば、バッハをピアノで弾くなと主張したランドフスカやレオンハルト、すこし前までのアーノンクール、ジョシュア・リフキンなど、古楽演奏初期を支えた闘士や研究家がここに入る。2つは根っからの真面目タイプであり、なるべく作曲当時にちかい演奏をすることで、神様への捧げものであった音楽の姿を丁寧に再現しようとするグループである。このグループには、ヘルムート・リリンク、鈴木雅明とか、私のあまり得意でないタイプの演奏家が来る。

そして、今日の主流となっているのは、古楽器演奏で実現される響きのキレや、音楽の躍動感を重視し、そこで体現されているはずの人間的な解放を、力強く歌いたいと願うグループである。このグループの代表格にはウィリアム・クリスティがあり、エルヴェ・ニケ、ジョン・エリオット・ガーディナー、エマニュエル・アイム、トーマス・ファイ、ロジャー・ノリントンなど、ほとんどの人気音楽家がここに連なる。そして、そのなかでも最右翼をいくのが、マルク・ミンコフスキである。

初日のプログラムには、そのような姿勢を象徴するようなプログラムが並んでいた。いずれもビートの効いたナンバーが主体となっており、ロック的な流れで、聴き手を最高の愉悦感にもっていってくれるであろうことは、予想に難くなかった。実際に演奏を聴いてみると、正にその予想どおりの世界が、東京オペラシティに広がったのであるが、そこには予想を上回るほどの繊細な音楽の美しさも見られた。

【サンフォニー・イマジネール】

曲順は当初発表と入れ替わり、『もうひとつのサンフォニー・イマジネール』が先に演奏された。この曲は、ファンには解説の必要もないだろうが、まとまった管弦楽作品を書いていないラモーの作品を愛するミンコフスキが、オペラの場面や序曲などを集めて、あたかもひとつの管弦楽曲のようにまとめたものに由来している。CD録音で世界的にヒットし、ときどきは実演でも演奏されている『サンフォニー・イマジネール』の続編で、そのうち発売されるかもしれない。私はこれを真似てitunesのプレイリストに好きな作品を並べ、私なりの『サンフォニー・イマジネール』をつくって遊んだりもした。

だが、それを実演でやるとなると、かなり大変なことだと思う。例えば、発売された『サンフォニー・・・』ではクラヴサン曲を含む12もの作品から、17のナンバーが選ばれている。時代柄、編成などは大きくはちがわないのが救いだとしても、本来、何の脈絡もない作品が並び、それぞれがもつ作品世界はまるでちがうのが当たり前だ。それを独特の共感に基づいてひとつの世界として聴かせるのは容易でなく、録音のように、やりなおしがきく形であるならばまだしも、1回きりの生演奏では、弾くほうの切り替えがきわめて難しいと思われる。またラモーの作品は演奏が難しいナンバーもあるので、空想と現実では、相当に開きがありそうなのである。

実際、今回もしくじった場面があったけれども、そんなことを言い立てることに何の利益もないことは、多くの人たちに共通する見解であろう。ほぼ真ん中に置かれた『アカントとセフィーズ』の序曲に含まれる、花火の場面が象徴的であるが、カンシャク玉が次々に空に舞い上がり、一瞬のアートを花開いてさっと消えていくように、彼らの優美なイマジネーションの発露が、断続的に聴き手を捉えてはなさないのだ。

演奏は、『カストールとポリュクス』の序曲で、名刺代わりのしっとり艶やかな音色と、カチカチとはまった演奏で始まる。ラモーに特徴的な太鼓が入ってくるナンバーから一気に熱が上がり、先の『アカントとセフィーズ』の序曲でテンションは最高潮へ。しかし、勢いだけで突っ切る演奏では決してなく、例えば『ピグマリオン』の〈彫像のためのサラバント〉では、トラヴェルソがソット・ヴォーチェをみせたり、その繊細な表現力にあわせて、全体が呼吸するようなアンサンブルをみせる。

こうした呼吸感というのは、全体を通して感じとれる要素である。ブレスを使う楽器だけではなく、弦の奏者にも、生きた人間の息づかいが随所に聴かれる。さらに、アンサンブルの立体性はとてもオーケストラを聴くという感じではなく、妙な言い方になるが、室内楽的なダイナミズムを感じるのである。オーケストラのアンサンブルには、何よりも引き算の論理が先行しがちだが、レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルにおいては、各「ミュジシャン」の主体的な動きが次々に重ねられることによって、アンサンブルの整頓や、一体感といったものを越えたレヴェルの人間性の解放がみられる。正に、聴き手の共感は、そうしたものに向かった。

しかし、先ほど3つに分けた「古楽器派」の類型は、実は、三位一体ともいえる要素をも含んでいる。つまり、ミンコフスキが人間性の解放性ばかりを求め、アカデミックな蓋然性や、古の音楽のもっていたはずの純粋性をまったく意識しないというわけではないのだ。この愉悦的な『サンフォニー・イマジネール』の演奏の最中であっても、くすんだ弦の響きの沈静な響きのなかに、いかにも原始的な、素朴な信仰心の発露をみた人は、こと音楽に関する限りは繊細な感覚の持ち主というべきだろう。

そうしたミンコフスキと彼の音楽隊の奥行きを、しっかり感じさせてくれたのは、最後の『カストールとポリュクス』のなかの〈シャコンヌ〉である。この劇の最後のアリエッタとコーラスの直前で奏でられる音楽は、フランス・バロック・オペラではお約束になっている、フィナーレ周辺で踊られるバレエ用の音楽である。作品全体の息吹きを吸い込みながら、優美な舞曲が広がっていくこうしたナンバーは、「お約束」であるがゆえに、今日では軽視される傾向にあるが、ミンコフスキも録音しているモーツァルト『イドメネオ』の最後のバレエ音楽や、グルック『オルフェオとエウリディーチェ』の本編が終わったあとの長いバレエ音楽など、もうひとつの聴きどころともいえるぐらいの充実度がある。

ミンコフスキは直前のリゴードンで気高く盛り上げた雰囲気を、このシャコンヌで丁寧に昇華している。見事な演奏であった。

【工夫に満ちたポストホルン・セレナーデ】

さて、後半に置かれたモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」。この構成は、やや心配でもあった。この曲はモーツァルトの人気曲のひとつで、頻繁に演奏されるもののうちに入る。『サンフォニー・イマジネール』をあとに置いておけば、容赦なく愉悦的なこの作品の力によって、仮にモーツァルトの演奏が多少舌にあわない人がいたところで、後半はよかったね・・・ということで、喜んで帰ってもらえる。ところが、ミンコフスキはあえて、モーツァルトをあとに置いた。これは、リスキーな選択だったと思う。

演奏は、当時の慣習に従うということで、(K.335-1)の『行進曲』を頭に置くかたちで進められた。どういう慣習かは詳らかでないが、当時の王宮や貴族邸での演奏は必ずしも、現在のような専用の音楽会ではなかっただろうから、こういうチャーミングな曲を予め演奏して、本編を演奏する前に王侯貴族諸氏の注意を惹きつける必要があったのだろう。行進曲に関しては、そのような意図が明確な愛らしい演奏で、優美な導入のあとは、弦のファニーな動きが繊細に織り込まれて面白い。

間をおかずに演奏された「ポストホルン」セレナードは、そのニックネームはニックネームとして、実際は、管楽器がメインとなる曲だと思っている。それが象徴的な第3曲では、管楽器の奏者が下手に集中しての演奏を試みた。管楽器のアンサンブルはフランスらしくフリーな感じだが、それを拾い上げるときの弦のサポートが夢のように美しい。その流れは第4曲でも継続するが、ここでは根本雄伯(ネモトタケノリ)の吹くナチュラル・ホルンの爽やかな音色も印象的だ。トラヴェルソは機動力が高く、ふうわりした音色。オーボエはやや鼻につまるが、歌ごころがある。バスーンは音色が柔らかい。

のちに述べるコメディのおかげで、洒落っ気のある演奏が印象に残ったかもしれないが、前半は、非常に格調の高い演奏であるように思われ、2日目のハイドンに期待を抱かせる。現在、市場原理にあわせてレパートリーを拡大中の彼らだが、やはり、こうした時代の作品で、すこし重みのあるものにこそ、彼らの音色はよくあっているようだ。

アンダンティーノの短調はいたずらに強調しすぎず、感情が内側から染み出してくる感じ。ポストホルン登場の第6曲では、ちょっとした演出があった。ポストホルン奏者が小さな楽器を片手に、郵便夫を思わせる赤い自転車に乗って、舞台の前面を飄々と横切ったのだ。しかし、その音色は非常に温かく、かつ、きびきびしたものであった。最後は自転車の前かごに乗っけたダンボール箱(もうすこし気の利いたものであったらよかったのに!)をミンコフスキに届け、代わりに楽譜の1枚を預かるというコメディがついた。

プレスト・フィナーレは、彼らが録音したモーツァルトのCDを思い出す華々しいもので、いかにもこのグループらしい特徴がいっぱいに詰まっていた。特に、このグループの凄いところは、非常に速いテンポを選びながらも、作品が本来もっている詩情がまったく損なわれず、むしろ、より鮮明に浮かび上がってくることである。例の室内楽的なダイナミズムや、抜群のリズム・センス、押し引きの鋭さと、力の加減の絶妙さ。こうした要素の完璧なバランスが、既に述べたような人間性の解放として、聴き手を捉えるのであろう。

【まとめ】

実に素晴らしい演奏会で、私の過度な期待にも、十二分に応えるパフォーマンスであった。

実はアンコール・ステージも多彩なものであったが、そこについてあまりふかく書くべきでないというのは、私の信条である。しかしながら、最後のグルックでみせた鬼神のようなアンサンブルについては、一言しないわけにはいかない。先に書いた『オルフェオとエウリディーチェ』の録音は、意義ぶかくともつまらない作曲家、グルックというイメージを完全に覆したものだが、今回の演奏も、響きのなかから飛び出してくる精霊の姿が見えるような演奏であり、漸次盛り上がっていく響きの加減の完璧なコントロールとか、あれだけ熱奏するなかで、精妙に絡みあい、解けていくアンサンブルの動きとか、驚愕としか言いようのないパフォーマンスをみせてくれた。

2日目はハイドン。この日とはすこしアプローチが変わるように思うのだが、一体、どのようなパフォーマンスをみせてくれるのか、予想がつきそうでつかないものだ。

【プログラム】 2009年11月5日

1、ラモー/ミンコフスキ もう一つのサンフォニー・イマジネール
2、モーツァルト セレナード第9番「ポストホルン」

 於:東京オペラシティ

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