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2009年11月11日 (水)

クァルテット・エクセルシオ 東京定期 モーツァルト 不協和音 11/9

クァルテット・エクセルシオは、日本にはほとんど存在しない常設の室内楽グループです。ほとんど存在しない理由はズバリ、商売にならないからです。日本ではオペラを頂点に、規模の大きなものから評価される貧弱な価値基準があり、室内楽への社会的な評価、そして認知度は、欧米に比べて、きわめて遅れているのが実情です。そのため、オケのコンマスや首席奏者などとして活躍する奏者たちが、副業で親しみのある音楽を演奏するパターンが圧倒的に多いのです。

そうした文化的背景をもつ日本のなかにありながら、敢えて、クァルテットとしての活動を中心におこなうという茨の道を選んだのが、クァルテット・エクセルシオ、通称「エク」です。ヴァイオリンの西野ゆかと山田百子、ヴィオラの吉田有紀子、チェロの大友肇の4人。この1月にはNPO登録をおこない、オーケストラのようにアウトリーチまでおこなうという独特の活動を展開しています。このように退路を断っての活動が認められたものか、教育方面や自治体からの演奏依頼が増えているということで、この日も、NHKのカメラが入っていました。

しかし、だからといって、エクの活動環境が飛躍的に良くなったとは言い難い状況にあることも忘れてはならないでしょう。彼らの活動は、まだ始まったばかりなのです。

 エクのHPはこちら → http://www.quartet-excelsior.jp/

ちなみに、私も「NPO法人クァルテット・エクセルシオ」の社員(オケでいう後援会員みたいなもの)の末席を汚しております。

さて、当夜の演奏会は、第一生命ホールを舞台とする「ラボ・エクセルシオ」とともに、彼らのメイン・ステージとなる東京定期演奏会でした。NPO登録を見据えたエクはここのところ、クァルテットの基本単位である、ベートーベンを中心とする古典派での活動をメインでおこなってきましたが、この演奏会で、そのシリーズも一旦、フィナーレを迎えるということになるようです。第1回に演奏したベートーベンの5番を最初に据え、壮大なアンコールに「大フーガ」を単独で演奏。それをモーツァルトの「不協和音」(弦楽四重奏曲第19番)で受けるという構成です。

【カンヴァッセーションを写し取るベートーベンの演奏】

まず、ベートーベンの弦楽四重奏曲第5番(op.18-5)から。プログラムではチェロの大友さんが苦手意識があるなどと言っていますが、演奏自体は、このシリーズで2回目の演奏ということもあるのか、非常に滑らかな演奏。前半がベートーベンで、後半がモーツァルトなのですが、実は反対なのではないかと思わせられる響きの柔らかさを感じました。そして、男女4人がぺちゃくちゃやりあっているうちに、1日がおわっていく風景をを写し取ったような、響きのユーモアを引き出しています。

4人で一体となる常設クァルテットの強みというべきなのか、そのなかでも、1本1本の主張にウェイトを置くエクの強みというべきなのか、それぞれの響きを絶妙のタイミングで拾いながら浮かび、かつ、沈んでいく響きの流れが会話のように、素直に流れていきます。その浮き沈みが楽しく、思わず笑顔になってしまうような演奏です。交響曲の分野では大暴れする闘士・ベートーベンも、室内楽の世界ではウィットの効いた紳士に変わるようです。

その流れのなかで聴く第2楽章の演奏は、独特の解釈のように思われました。メヌエットが指定される楽章ではありますが、表立ってメヌエットらしいリズムの強調はありません。その代わり、それは先述のカンヴァッセーションのうえに高次に構成され、これはいわば、舞曲のリズムを背景に使った人物(会話の)描写のようになっているようでした。

つづくアンダンテ・カンタービレの第3楽章は、喋り疲れた4人のまどろみに始まりますが、変奏に入り、急に4人で歌いだすような快活なアンサンブルが出てから、変奏の形式を生かし、1人ずつ特技を披露するようなカンタービレの競演がおこなわれる部分は、かなり印象ぶかいものがあります。遅ればせながら、この変奏の流れのなかで、舞曲らしいアンサンブルが導入されるのもアイロニカルです。最後、コーダでついに酔いつぶれたものか、さっと響きがしまわれる部分のユーモアまで、しっかり描かれていました。

これをフォローするような第4楽章は、メルヘンティックな感じがします。寝静まった4人に夢の精が近寄り、真夜中の饗宴がつづきます。この部分は響きの爽やかさが目覚めのイメージとも重なり、眠りと目覚めの両方が、リアリスティックに寄り添っているのが特徴的です(つまり、夢のなかでは我々は、しっかり目が覚めていると思い込みますよね)。このような詩情を前半でしっかり描いて、中盤以降の堂々たる展開にリアリティを与えます。そのイメージはワルプルギスの魔女たちの宴、加えて、フンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』のなかにある、眠りの精の場面(とパントマイム)を思い出させるものでもあります。かくして、4人の眠りを見守る優しいフィナーレが訪れますが、その響きのユーモアはエクのメンバー、4人の人間的な優しさを象徴するものと言えるのかもしれません。

【大フーガ】

つづく(op.133)の『大フーガ』は近年、本来は(op.130)の弦楽四重奏曲の終楽章として作曲されたという歴史的な知見がよく知られるようになり、しばしば、それに連続して演奏されるようになりました。しかし、エクとしては『大フーガ』を必ずしも、(op.130)の付属物とは考えず、単独の作品として「それ自体がひとつのエンターテイメント」となるように取り扱いたい旨が、プログラム中に示されています。いちど弾き出したら修正するポイントが少ないジェットコースター的な作品、あるいは、一筆書きといわれる鈴鹿サーキット的な作品とも見られるだけに、そうした考えには説得力があるでしょう。今回はもちろん、(op.133)のみでの演奏となります。

これも、先のソナタにおける「メヌエット」と同じように、「フーガ」という常識を乗り越える発想力(それゆえ、大フーガとも言われるわけですが)をそのまま形にした演奏で、4声の自立性にこだわったエクらしい特長が表れた演奏になっています。この曲に関しては、完璧という出来映えは、特に実演において、ほとんど実現されないように思うのですが、そのなかでも後半の声の集め方などには高い集中力が見て取れる、立派な演奏であったと思います。

エクの演奏では、1つ1つの声部がくっきりとラインを描きながらも、ときどき少しずつお邪魔しあって、結びあっていくユーモアがよくわかったのではないでしょうか。

【モーツァルトにみられる対話】

後半のモーツァルトは、「ハイドン・セット」のうちの1曲ということで、ハイドン・イヤーにまつわるプログラムとなっているようです。モーツァルトですが、ベートーベンに比べて、ずっと決然とした響きが印象的でした。

愛称のもとにもなった不協和音による序奏は、立ち上がりがやや硬くなったものの、その後のハ長調の展開がきわめて美しかったと思います。今回、ヴィオラとチェロが入れ替わり、外声が外側を固めたこともあり、第1ヴァイオリンの西野さんの音色のキレと、チェロの大友さんのどっしりした包容力が強調され、構造がわかりやすく提示されたといえるでしょう。ただし、そのなかで、いよいよ内声が動き出すと音楽が進むというイメージが明確な演奏でもありました。

この曲では、4声の役割がベートーベンよりも、ずっとはっきりとしています。その点で、4本の楽器のコミュニケーション(もしくはカンヴァッセーション)にポイントが置かれ、その関係性に注目が集まったベートーベンの演奏と比べると、1本1本の楽器がいかに歌い、いかにして動き、いかにしてぶつかりあうかという、クァルテットとしての本質が問われるパフォーマンスであったと思います。同じカンヴァッセーションといっても、ベートーベンでは「おしゃべり」であったものが、モーツァルトでは「対話」といったほうがちかいイメージになりそうです。

アンダンテ・カンタービレの第2楽章は一転して、ベートーベンの第3楽章と比べて、より素朴なカンタービレとなっています。同じ音型を繰り返すチェロの掌のうえで、ゆったりと遊ぶ3つの声部。最後、再び重ねられるチェロからの優しい展開に収斂していくときの、ソット・ヴォーチェの美しさはなんとも印象ぶかいものがあります。短調に転じた部分もゆったり余裕をもち、ふうわりと長調にひっくり返す部分の柔らかさも記憶に残ります。

今回の演奏では、メヌエットが、アレグロ・モルトのフィナーレと直結する雰囲気がありました。西野さんのリードが本当に絶好調で、こうなると、エクは怖いものなしになります。大友さんの受けはいつもながらどっしりしているけれど、やはり内声の動きが音楽を進める構図は第1楽章から引き継がれていました。ロンド的な流れで同じようなフレーズが積み重なっていくのに、1シーケンスごとに新鮮な響きがします。しかも、その新鮮さが少しずつ積み重なっていくうちに、ごく自然に自分の内面が昂揚していくのがわかります。

最後の一音まで、ドキドキする鼓動がつづきました。

【まとめ】

なお、アンコールではハイドンが取り上げられましたが、ベートーベンを聴いていたとき、これはハイドン的なユーモアであると感じていたのを、自分のなかで修正せねばなりませんでした。確かに、ハイドンの作品にもユーモアはありますが、それはずっと大人の笑いであって、ベートーベンのほうがずっと無邪気なのです。このように、優れたアンサンブルの演奏では、発見が多くなります。ベートーベン・シリーズ最後の演奏会に相応しい、素晴らしいパフォーマンスだったと思います。

実は、彼らの演奏を聴くのは久しぶりで、1月に総会のときにツェムリンスキーを聴いたのが最後でした。その前は大晦日のラズモフスキーでしたが、彼らの演奏を聴きつづけていると、日ごとに成長しているのがわかります。例えば、アルカント・クァルテットはあれだけの凄いメンバーではあるけれども、この前、耳にしたときは、数年前に聴いたときとほとんど印象が変わりませんでした。常設の古典四重奏団でさえ、私は、彼らが数年前と比べて成長したといえる要素を知りません(まあ、それほど聴いてないですが)。エクの場合は、明らかにちがいます。第1回のベートーベンには接していないけれど、それとも確実にちがっているはずです。

それは、彼らが「若い」からでしょうか。それもありますが、若いといっても、途中で第2ヴァイオリンが交代したとはいえ、エクは結成から15年ちかくも経っていますし、演奏回数にしたら、それこそ物凄い数になるはずです。最近、彼らは新日鐵から「フレッシュ・アーティスト賞」を貰いましたが、これはクラシック音楽界に独特のレトリックであって、サッカー選手ならば20歳で入団したとして35歳だから、もう引退を考える時期なのです。それだけのキャリアを持ちながら、否、それをどんどん糧にして、エクは成長をつづけています。

こういうクァルテットは目下、日本広しといえども、エクだけではないかと思います。これは、贔屓目で言っているのではありません。逆です。私はエクがそういう団体だからこそ、贔屓にしているのです。今後、ウェールズ四重奏団とか、ステラ・カルテット、クァルテット・アルモニコなどの若いクァルテットや、そのほかのコンマス・首席で構成されるクァルテットたちが、どういった変貌を遂げるのかは予想できません。しかし、そのなかで、エクはきっと、手本となる活躍をしているはずだと信じています。

【プログラム】 2009年11月9日

1、ベートーベン 弦楽四重奏曲第5番 op18-5
2、ベートーベン 大フーガ op.133
3、モーツァルト 弦楽四重奏曲第19番「不協和音」 K.465

 於:東京文化会館(小ホール)

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