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2009年12月 7日 (月)

神田慶一 輝きの果て 青いサカナ団 第30回公演 12/6

国立オペラカンパニー・青いサカナ団は、作曲家にして、指揮者、演出家である神田慶一の作品を中心に、古典作品をときどき入れる形で、インディペンデントな活動を続けてきた。今年は20周年を迎え、夏場に、これまでの作品のアンソロジーを追うガラ・コンをおこなった。また金沢では、自治体からの委嘱を受け、市民参加型の『終わらない夏の王国』を上演した。今回の作品は遅筆といわれる神田としては珍しく、それから半年も経たない間に発表されることになった。

神田にとって12個目の作品となる『輝きの果て』は、以下のようなポイントがある。まず、いわゆる「マカロニ・ウェスタン」を意識したプロットや、創作姿勢。この発想は多分、昨年、新国で上演されたプッチーニ『西部の娘』から得た着想ではないかと思っている。次に、音楽的な面では、これまで主流だった中規模の管弦楽を想定したものではなく、弦五部については1本ずつといった、より室内楽的な規模のなかで、チェンバー・オペラとしての可能性をより抉ったカタチになっていること。最後に、プログラムの表記によれば5、6年前から、テノール歌手の田代誠と相談しながら構想が練られたそうだが、正に、彼のために書かれた作品であるという点である。

【マカロニ・ウェスタン】

まず、簡単にプロットを紹介する。主人公は、「ウタヨミ」と呼ばれる特殊能力者。オペラのなかでは、人間の内面を現実化する能力があると説明されている。彼は自分の能力が平和のために役に立たず、妻子を亡くしてしまったことに絶望し、テロリストと組んで反社会的な活動に加担する。しかし、このあたりはオペラでは描かれない。物語が始まるのは、彼がテロリストと手を切ろうとして、怪我をしながらも、とある荒野の酒場に逃げ込んでくる場面から。

ここでピンと来るように、流れ者のヒーローが酒場にやってきて、ならず者たちをやっつける西部劇の筋が、まずは展開される。そこには、しっかりヒロインがいるが、子連れというのは珍しい。次に、彼に挑戦してくる自称「ウタヨミ」青年との、マスタージンガーの歌合戦的なコメディがあったあと、彼を追ってきたテロ・グループとの対決があり、最終的に彼はナイフで刺されることになるが、身を賭したウタの力によって、グループは首謀者1人が取り残されるのみとなり、解体してしまう。テロリストが隣町で爆発させた爆弾の「死の灰」が降るなかで、人々は逃げるが、瀕死の「ウタヨミ」だけがそこに残り、赤い花を植えながら死ぬという筋書きである。「赤い花を植えよう、血を流さずに済むように」というヒューマニスティックな歌が、何度かうたわれるのが作品の象徴になっている。

ご覧のように、作品は、マカロニ・ウェスタン=西部の娘と、ニュルンベルクのマイスタージンガーの混交のうえに、さらに、神田的な社会派的な風刺を含むヒューマニティ・ドラマとして仕上がっている。

周知のように、「マカロニ・ウェスタン」はハリウッドの西部劇を真似た、おもにイタリア製の量産映画を指している。そこにはハリウッドでいわばリストラにあったような中堅の名優たちが出演し、あくまでニセモノとは言いながら、ホンモノに迫る魅力を含むものもあった。しかし、本場の「ウェスタン」にしたところで、ハリウッドの完全な独創とはいえず、元を糾せば、『西部の娘』のような作品(むしろ、マカロニのほうが先にあったわけだ)もあるわけで、どちらがホンモノで、どちらがニセモノかがわからないという、倒錯的な存在に目をつけところに、神田の慧眼があるというべきだろう。

【田代誠とル・グリ】

そして、こんなことを言っては失礼かもしれないが、今回、初めから主役に想定された田代誠は、マカロニ・ウェスタンの名優のような立場でもあるかもしれない。藤原歌劇団の主力テノールとしてうたっていた過去ほどの精華はなく、近年、大病に苦しまれた時期もあると聞くが、それを乗り越えての公演だ。この公演が主役としては復帰戦となるそうだが、まだまだ自分なりに納得のいかない部分ばかりだとは思う。しかし、技術的なものの緩みとは引き換えに、ずっしりとのしかかる人生の重みが彼の歌に自然と表出し、ほんの些細な仕種、台詞さばき、歌いまわしに、ぐっと来る瞬間が何度あったろうか。

この作品では、主要な歌はすべて田代の役(ル・グリ)だけに与えられている。準主役のヒロイン、アニュエル(飯田みち代)にも見せ場があるかと思ったが、ル・グリの歌を拾って、展開する部分を除いては朗唱のみで、誰もが期待するような、ロマンティックな見せ場はない。しかし、題名役の「ル・グリ」から連想されるバレエ・ダンサーのマニュエル・ルグリの名前をもじった、アニュエルの名前をもつだけに、もちろん、彼女の存在は非常に重要で、彼女の連れ子のリヨンソも、子どもが歌う役であるにもかかわらず、かなり多くの・・・そして、重要な役割が与えられている。

主役の話に戻るが、このオペラでは、すべての要素がル・グリとの関係のなかに見出される。「ウタヨミ」という設定自体がそうであり、マカロニ・ウェスタンの構想もそうであるし、ヒロインやその連れ子、テロリストの頭目(ボリシェヴィキをもじった名前)、その他の町の人物との関係も、すべて彼のところにつながり、そこから発展していく。それは主役としては当然といえば当然だが、最近の多視点的な作劇法のトレンドからいえば、むしろ希少なプロットの作り方であろう。正に、この作品が田代のために書かれたというべき作品である所以だが、では、その主役に派手派手な音楽の煌きをつけたのかといえばそうではない。

神田は多分、この役をいわば通奏低音のような形で、成り立たせようとしたのではなかろうか。誰が歌っているときでも、常に彼の影が覆っているような、そんな存在として、新しい主役の形をつくろうとしたのではなかろうか。これがロッシーニであれば、それほど大事な主役ならば、アジリタ満載のド派手な難役を書いたであろうし、ヴェルディやプッチーニならば、決然とした高音を要所に配し、全体的にどっしりとした重厚な、もしくは、甘い旋律を用意したであろう。だが、神田はそれらのいずれの方法にもつかず、等身大の「ウタヨミ」をつくりたかった。彼は特殊能力者ではあるが、その輝きは既に「果て」に到達した。そこで彼がみたものは、彼の歌が次々に人々へと乗り移り、テロリストさえも呑み込もうとした瞬間であったのだ。

しかし、夢は短くおわった。彼の秘密を知るボルシェヴィク(テロリストの頭目)は、彼を刺すことで、そのイリュージョンが消えることを知っていたからだ。結局、その傷が致命傷となるわけだが、彼はそこで死んだのであろうか。それとも、生まれ変わったのであろうか。この作品が田代にとっての復帰戦でありながら、どこか引退戦のような雰囲気をも漂わせたように、ここは両義的である。彼は「ウタヨミ」の特殊性から降りて、一瞬でも、人々のなかに入り込んだ。それは、ル・グリの新たな一生の始まりだったのかもしれない。

田代は最後、自らの身は滅んでも、花(=芸術、ウタ)は残るとでもいうように、大事に赤い花を植える。舞台上に埋め込まれた鉢に、土が入れられていたのは憎い演出だ。

【リヨンソ】

もうひとつ、ル・グリと、アニュエルの子・リヨンソとの関係についても触れておかねばならない。このリヨンソこそは、ル・グリの能力をひきだすもうひとりの魔法使いだ。彼に花をみせるために、ル・グリはウタを披露し、それは母親のイマジネーションを通して、赤い花として実現される。それは作品の主要テーマである、例の「赤い花を咲かせよう・・・」という歌につながっていく。明日、もういちどウタを詠んでくれといって、ル・グリを引き留めるのも彼なら、去っていこうとするル・グリを嘘つきだと告発して、最後の歌を導き出すのも彼なのだ。

正に、その大事なリヨンソを扱う田代の慈愛に満ちた仕種は、一体、どういうところから出てきたのだろうか(ミュージカル歌手のご子息がおられるとしても)。

また、このリヨンソ役の少年、斎藤夏諱はよく訓練して、素晴らしい歌をうたったにしても、仮に彼が、どれだけ外しても、作品が成り立つように神田は書いている。つまり、斎藤さんのように素晴らしい歌い手でなくとも、この役は歌えるはずだ。母親とユニゾンになるような部分さえ、すこし揺れても大丈夫なように書かれている。こうしたフォルムの強さ(もしくは柔らかさ)が、私には面白く思われた。

【室内楽の強さ】

管弦楽にも、触れておかねばならない。今回、弦楽五部が1本ずつということは既に触れたが、オーボエが2本(1本はコーラングレと持替)、クラリネットが2本(1本はバスクラと持替)、ファゴット、ホルン2、ティンパニ、ピアノという編成で、きわめて小規模であることがわかる。通常、神田の作品は弦を多めに使うことが多いので、これまでの作品と比べると、より室内楽的な特徴が強まることになるだろう。また、合唱も9人と少ない。

このことから懸念されるのは、弦のヒューマニスティックな響きを利用して、キャラクターの実感を立体的に彫り込んでいく神田のスタイルが、このスカスカの編成で、どのように生きてくるのかという問題であった。結論からいえば、それはまったく問題にならなかったのである。まずは、コンマスの成原奏以下の弦五部の濃密なコミュニケーションとアンサンブルの素晴らしさが、数の不足を補ったわけであるが、そこへ丹精に練り込まれた木管の響きがうまくカヴァーをしており、響きに厚みを与えている。

箱そのものが小さいということは割り引いて考えるにしても、弦を中心としながらも、そことの関係性を緻密に図りながら、絶妙の厚さ、響きの質で組織された管弦楽法・・・というよりは、室内楽的な親密な響きの膨らみというのが、数の不足をまったく感じさせなかっただけではなく、むしろ、その徹底した無駄のなさに、深い感動を覚えさせるものがあった。これは合唱についてもいえることであり、例えば、間奏曲風の音楽のなかで、ル・グリを罵ったり、逆に褒め称えたりするような歌の響きは、数による勢いに任せられない分、ひとつひとつの声に実感がこもっているように聴こえた。これがダイレクトに田代演ずるル・グリに響いてくる関係が、まるで目に見えるようだったのである。

神田の活動を支えてきた青いサカナ管弦楽団や合唱団の面々には残念な面もあるだろうが、この方向には、神田のめざすもののひとつの答えがあるように思った。次回作も、そのまた次回作も、ずっとこれでいくとは思えないし、過去の作品を扱う場合には、彼らの協力がもちろん必要だとしても(勝手すぎる?)、今回のスタイルは再演の可能性を増やすという点からみても、魅力的な選択だといえる。いわば、室内楽の強さが、こうしたチェンバー・オペラの可能性をむしろ高めるという方向で作用したことは、私にとって貴重な発見だった。

【まとめ】

以上のような理由を踏まえて、作品自体は非常に好きである。

ただ、神田の作品にしては、プロットがいささか「ヤワ」である点は否めない。「マカロニ・ウェスタン」ならば、そんなものだろうという言い訳も成り立つが、それだけでは十分な説得力がないのである。例えば、ル・グリとアニュエルの関係は曖昧で、彼らの間に十分な関係ができないまま、女が去ってしまうという構図は、なかなか粗削りである。これまでの作品と比べると、悪人役であるテロリスト・グループの造型も甘く、ドラマに深い陰影を与えるには至っていない。頭目のボルシェヴィクと、ウタヨミの関係性も曖昧だ。

ベックメッサー(マイスタージンガー)兼ジャック・ランス(西部の娘)の役割をするカニシュも、これら2人のバックボーンを背負っているにも関わらず、役柄としての機能性がすこぶる甘い。あまりうまく歌ってはいけない役まわりを、田代の弟子で、まだ東京音大在学中(といっても、一般の大学を卒業し、俳優としても活動してから声楽家をめざしている)のテノール、浅山裕志が一生懸命にやっていたけれど、それだけではカヴァーできないファンクションの甘さがある。人物像だけではなく、これまでの作品からすると、バリバリに固めた作品全体のポエジ-は薄く、やや肩透かし的な面もなくはない。

しかし、例えば、飯田みち代という名優を得たことで、神田の独特な朗唱法が、かなり爛熟していることは確認できたはずだ。これまでのヒロインで、これほど繊細に神田の朗唱のラインに感情を込めて、ビシビシと響かせた人はいなかった。今回は彼女に限らず、田代、所谷、岡林、石川など、神田の作品をよく知る歌い手が揃ったことで、オペラづくりのベースが、ここにきて急速に整備されてきていることが実感できる公演であったことは、20周年を祝う年に相応しかったかもしれない。

管弦楽法とデクラメーションというオペラの両輪が、一応、整ったことで、神田には新しいステージが見えてきているのかもしれない。今回は、ここのところ絶叫的なメッセージを直情的に訴える作品が多かったのに対して、そのデクラメーションの形をすこしずらして、より穏和で、パーソナルなところから広がりをもつ主張に適用しているという点で変化があった。

今回は、次回作が予告されていないが、彼の活動はゆっくり見守っていきたい。

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