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2009年12月 7日 (月)

ヤナーチェク ブロウチェク氏の旅行 東響 サントリー定期 12/6 ②

【月の世界の受け取り方】

ブロウチェク氏は、「現代」である1888年のプラハから出発し、月の世界、そして、15世紀のプラハを経て、「現代」に戻ってきます。ブロウチェク氏が酔漢であり、2つの夢のなかでそれぞれヒロインが登場し、主人公が倒錯的な旅を遍歴しながら落ちぶれいくという点では、オッフェンバックの『ホフマン物語』を思い出しますし、異世界を次々に回るという点では、スウィフトの『ガリヴァー旅行記』やサン=テグジュペリの『星の王子様』(後者は、これよりものちの著作ですが)を思い出します。また、月の世界といって思い出すのは、数年前、北とぴあで上演されたハイドンの歌劇『月の世界』です。

ハイドンのオペラ・ブッファは、頑固者で娘たちの交際を許さない父親が、科学者と若者たちのつくるイリュージョンの月の世界で歓待され、地上に戻ってからは自らの頑迷を恥じて、子どもたちに自由を与えるというプロットでした。それと共通するのは、「異世界」を旅した頑迷な主人公が、その経験から見違えたように生まれ変わること。逆に、対照的なのは、ハイドンのほうでは歓待されてイイ気分になって帰ってくるわけですが、ヤナーチェクのほうでは、むしろ逃げ帰ってくることです。また、『ホフマン物語』が作曲家の遺作ということもあり、最終的に死がモティーフとなっているのに対して、ヤナーチェクでは、生への讃歌が最後に置かれています。

そして、『ガリヴァー旅行記』のように、主人公がまわった旅の道筋(道順)にも、しっかりとした意味があります。例えば、ガリヴァーの場合、小人国にいってから大人国に行くというプロットには明らかな妙味がありますが(神のように振る舞えた商人国の世界から、蝿のような存在に転落した大人国での落差)、はじめに月の世界を経験してから、15世紀にまわったブロウチェク氏の体験は、その逆の場合よりも、ずっと効果的なポエジーを生んでいることに気づくはずです。

音楽的にも第1部はすこし難解で、ライトモティーフなどを多用して、精緻につくられています。そのおかげで、第2部の音楽は、スメタナやフィビヒを楽しむような感じで、味わうことができるのではないかと思います。

第1部は、「筋」を考えてしまう人には、いささか複雑すぎる世界になっています。というよりも、一度や二度の鑑賞で片付くほどの代物ではないと感じられたはずです。では、このパートはそんなに難解なのかというと、実は、そうではないのだと思います。私はこの第1部で「筋」を考えることは、鑑賞の側からみれば、自殺行為であると考えています。それは、カンディンスキーのキュービズム画を意味づけてみようとするのと同じぐらいのことです。確かにアカデミックな説明は可能でしょうが、画家がその説明を導き出すために絵を描いたとは思われない。見る人は、そこから受けるイメージの力強い喚起力を感じればいいのであって、そこに意味を見出す必要はないのです。

この作品の第1部は言葉の、多分、韻文的な(チェコ語はわからないけれど)配列に整然と振られた、響きの構造による見事なモニュメントであり、多分に叙景的な意味を含んだ、叙情詩であると思います。ですから私たちは、美しい山々の連なりから、その意味を考えたりはしないように、1行ごと、あるいは1連ごとにヤナーチェクの音楽と言葉のコンビネーションを味わい、細分的にユーモアやポエジーを受け取っていけば十分なのであり、その集積から生まれる1つのイメージを掴み取るだけで、まったく無理なく作品を楽しむことができるのです。

なるほど、そこで詩人・チェフは、唯美主義的な同時代の文化人を皮肉ったのかもしれませんが、少なくとも、ヤナーチェクのオペラをみる限りにおいて、多くの観客がそのことを何らの断りなく理解できるとは、私は思わないのです。もちろん、私は、背景にあるポイントを多少はあたまに入れて観劇したわけですが、そんなものに拘泥していると、この作品はすこしも面白くないのではないかと思うに至るのは、かなり早い時期でした。

【第1部と第2部の比較】

第1部は、そういう意味では音楽重視です。プロットやその流れに関係なく、自由に流れる音楽の川筋のなかで、悠々と踊るポエジーの氾濫を楽しめば、それでよろしいのではないでしょうか。もしもチェコ語がわかるならば(私はわかりませんが)、そのうえで、さらに自然に踊っている言葉の生命力を生かした、ヤナーチェクの妙技をじっくりと味わうことができるはずです。私は言葉はわからないですが、そうしたものの影ぐらいは掴めたのではないかと自負しています。この作品では、ヤナーチェクの代表作である『イェヌーファ』のような堅実なプロットをもたないがために、ヤナーチェクの独創的な作曲(作劇)手法が、むしろ自在に才能を発揮しているという感じがしたものです。

一方、第2部の音楽は、『グラゴール・ミサ』やオルガン作品の書き手であったヤナーチェクの特徴が、よく表れていると思います。このパートでは、フス派、ターボール派、カソリック、イスラム教をごちゃ混ぜにした宗教論争も含まれていますが、それらの論争には真面目に取り合うべきでなく、そこから生まれてくるポエジーだけを味わっておけばいいことは、ブロウチェク氏同様、月の世界での体験から私たちも学んでいます。そして、作品はヴェルディ的な史劇の展開を借りながらも、半ばは宗教オラトリオのようなカタチとなり、第1部とは比較にならないほどスッキリした流れで進んでいきます。

そして、その雰囲気は、戦闘場面を直接は描かずに、しかし、しっかりと凝縮させた凱旋行進曲につづき、ミサ曲の「ラクリモサ」のような、クンカの嘆きの歌をクライマックスに昇華します。ポジティヴ・オルガンが導入された、宗教的なリリカルさを含んだ甘い歌は、この役をうたうマリア・ハーンの声の美しさを象徴するものとなったでしょう。最後、裏切ったブロウチェクへの制裁のモティーフで激しく幕を閉じますが、これは第1楽章で、ブロウチェク氏が慌しく月から逃げ帰る場面と対応しています。

そして、第1部、第2部ともに、魅惑的な間奏曲のあと、エピローグ的にリリカルな場面が挿入され、そのパートを閉じる構造は同じです。第1部では、演出のオタヴァが工夫し、作曲家と芸術家たちが歌うなか、堂守がヴュルフルに金を渡し、なにやらブロウチェクにいっぱい食わせたような雰囲気を出していました。そのなかで、マザルとマーリンカの和解の場面が描かれ、そこにブロウチェクが棺で運ばれたという注進が来るわけですが、愛しあう2人は取り合いません。非常に叙情的で甘い場面にもかかわらず、すこし辛口なものが残るフィナーレ。それに対して、第2部では、既に述べたような生命感があふれかえり、回想されるワルツの雰囲気がナチュラルに響きます。

対応的な2つの部分で、この雰囲気だけが正反対なのです。

そのほかで1つ面白いのは、チェコ語とドイツ語の混交が描かれている場面でしょう。第2部の最初のほうで、ブロウチェク氏は、ドイツ語に由来するチェコ語のボキャブラリーを喋ることで、皇帝側の十字軍のスパイではないかと疑われます。注意ぶかく、ヤナーチェクは観客がそれと知らなくても、なるほどドイツ語っぽい響きの言葉を選んで、ブロウチェクに使わせています。

フス戦争後、チェコは皇帝側と妥協してドイツ人と共存関係に入るため、ブロウチェク氏の1888年には、これらの言葉は、チャンポンになっているわけですが、「皇帝の侵略を許さないぞ!」とシュプレヒコールを上げている1420年では、そのようなボキャブラリーはプラハにないわけです。ここはヤナーチェクの育った環境をみても(例えば、ヤナーチェクの時代のモラヴィア地方ではドイツ語で公教育が行われ、妻となるスデンカもドイツ語文化圏に育っていた、ヤナーチェクはある時期からドイツ語に反発して使わなくなった)、いろいろな解釈ができ、非常に面白い部分であるように思いました。

【演奏・演出】

演奏は、全体的には素晴らしかったと思います。響きの透明さや、尖った部分の立体的な造型、絵も言われぬポエジーの自然さは、エリシュカ&札響のヤナーチェクを聴いてしまうと、十分に納得のできるものではないとしても、既に述べたような音楽的特徴を表出しながら、ああした難しい形(セミ・ステージ方式)で、うまく歌手をサポートした点も特筆できるのではないかと思います。特に、このオーケストラの特長でもある金管のアンサンブルの素晴らしさは耳を惹きました。

指揮は、飯森範親。べた褒めはしないけれども、堅実な音楽づくりであったと思いますし、プロンプター兼合唱指揮の大井剛史とのコンビも素晴らしかったのではないでしょうか。転換の場面を担うコンマスの高木和弘も、すこしかさついた音色ながら、及第点だったと思います。

歌手陣は出だしはやや抑え気味に聴こえましたが、全体的には、優れたキャスティングであったと思います。主要二役については既に触れましたが、日本側のキャストもそれぞれにはまり役で、東響にしては、優れた人選をしたと思います。そのなかで1人だけ挙げるとすれば、神童/ボーイ/大学生を歌った鵜木絵里でしょう。これで1週間くらい歌うと声を潰しそうな感じがしますが、本来、リリカルな声を潰してコケティッシュ・・・を通り越して、不気味な発声で歌っていたのが役柄によくはまっており、脱帽しました。

東響のヤナーチェク・シリーズではお馴染みのマルティン・オタヴァの演出は、まあ、オーソドックスですが、役者の個性を生かし、ブロウチェク氏の造型を思いきりファニーに仕上げたのが印象的です。全体的には世紀末的な頽廃のイメージを出そうとしていますが、カネがかけられないこともあって、過度の味つけをしていないために、本来の作品の持ち味を損なわず、イメージが浮かびやすかったと思います。

字幕はイマイチで、例えば、ブロウチェクが月の世界で「鼻」という言葉を使い、花の香りは嗅ぎ飽きたとぶっちゃける場面を、「たくさん食った」というような訳語にし(ここだけ日本語で言わせたのは、作品の性質を観客に教えるために効果的ですが)、大事な「鼻」というキーワードが抜け落ちていることは問題だと思います。これがなぜいけないかというと、ここで肉体を表す言葉を使うことを忌避することを描いた上で、あとで、ソーセージを食らう場面を用意することで、神の創造物を口にすることを忌避する月の住人の、別の性質が重ねられ、コケティッシュな世界観を増幅していくことになるからです。

あの訳では、これらの道筋が「食った」というフレーズだけに一本化されてしまい、作品のもつ重層的なユーモアが生きてこないことになります。先刻、一語一語、一連一連で味わえばいいと言ったのと矛盾するようですが、それに対する説明は省き、それとこれとは訳がちがうとだけ言っておきます。

【まとめ】

このあたりにしておきましょう。ヤナーチェク・シリーズは秋山時代から好評を得ていますが、今回も、幕切れとともに非常に熱心な拍手が送られました。中には、ピンと来なかったというご婦人の感想も、帰りがけに耳に入ったことは入ったのですが、この場にきた多くの観客は、作品の素晴らしさに打たれたのだと思います。もちろん、私としては、いささか疲れ気味とはいえ、本当に上機嫌に帰ることができました。

最後、ブロウチェク氏が帰還し、ワルツが流れてくる場面などは、目頭が熱くなります。生きていてよかったと思う一時です。ヤナーチェクはきっと、こう言いたかったのではないでしょうか。芸術のための芸術など必要ない。政治のための政治など、なお必要ない。フス戦争でのチェコ民族の戦いは誇るべき栄光の歴史とはいえ、そこでは血が流れた。大事なのは争いではなく、愛であり、生きている実感である。いまを生きよ!

これは作品構成が難航したこともあり、第1次大戦をまたぐことになった歴史的な経緯からみても、大事なメッセージだったのではないかと思われます。

【プログラム】 2009年12月6日

ヤナーチェク 歌劇『ブロウチェク氏の旅行』(セミ・ステージ形式)

 演出:マルティン・オタヴァ

 指揮:飯森 範親 (副指揮・合唱指揮:大井 剛史)

 合唱:東響コーラス

 コンサートマスター:高木 和弘

 於:サントリーホール

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