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2009年12月22日 (火)

事業仕分け、ご協力についてのお礼 +α

事業仕分けについての、パブコメ募集は15日をもって終了しました。14万件もの送付があったそうですが、それは例のスパコンを含む科学技術分野や、その他のものも含んでおりますので、芸術分野に関しての意見がどれぐらいあったのかは、現時点で把握できていません。指揮者の飯森範親氏によれば、パブコメ応募締切後も、FAXや書簡による意見送付は有効であるということですので、結局、15日までに間に合わなかったという方は、そうした方法で、引き続きご協力くださいますように、お願いします。

私のページでも、微力ながらご協力を呼びかけさせていただきました。それがきっかけとなって行動を起こしてくださった方々、あるいは、記事をきっかけに興味をもって、この問題について調べてくださった方々など、もしもいらっしゃるようでしたら、甚だ略儀ではございますが、この場にて感謝の意を表したいと思います。

ありがとうございました!

目下、民主党から政府への重点要望や、文科大臣と官邸との折衝において、この問題が特に大きく取り扱われたという情報はなく、まだまだ問題は一歩も進展していないように思われますが、この問題をめぐるフォーラムなどが開かれ、足もとでは、若干の動きが生まれています。私は電子文書送付運動に平行して、事業仕分け・芸術分野切捨て反対デモやら、緊急行動などというのが起こるのをずっと待っていましたし、探してもみたのですが、いまのところ、そういう動きへの発展は見られないようです。

何なら自分が主催してもいいぐらいですが、オーケストラや音楽とまるで関係のない自分がやったのでは、何の集まりかわからなくなってしまいますし、なにより影響力がなさすぎるでしょう。

【芸術と政治】

ひとつだけ、こうした政治的問題で、芸術家や、芸術団体が尻込みしてしまう文化的な背景というのを指摘しておきたいと思います。それは、芸術は政治と分離されなくてはならぬという当たり前の常識です。確かに、当たり前の常識ですが、日本人の場合、その意識はすこし過剰に働いているように思えます。それは、戦中、翼賛的な文学思潮が国家総動員体制に利用されたのに加え、その反動として、戦後、マルクス主義が芸術につよい影響力をもったことを、2つのアレルギーとして、成り立っているように思われます。もちろん、そこに冷戦中の芸術の政治的利用とか、実りがなかった安保闘争に対する反省とか、そういった問題が複雑に絡んできています。

結果として、あらゆる芸術は政治と無関係にあり得ないことを捨象して、芸術は政治から自由であるべきことが盛んに叫ばれるようになり、それが進行して、芸術家が政治に関わるのは醜く、やってはいけないという方向に行ってしまったように思います。例えば、ルイジ・ノーノの音楽が日本では、シュトックハウゼンやケージ、クセナキスのように評価されないのは、ノーノが音楽のなかにあるポリティクスを、つよく意識した作曲家であるせいだと思います。とはいっても、ノーノが尖鋭な左翼的思想の持ち主であったとはいえ、こと音楽に関する限り、特別に政治的なものであるという根拠はなく、彼の音楽がもつぐらいの政治性ならば、ベートーベンやモーツァルトでさえ備えているぐらいのもの、と言っても差し支えはないでしょう。

例えば、『フィガロの結婚』は、十分に政治的なテーマをもっています。人間と政治の緊張がなければ、スザンナがアルマヴィーヴァの誘いを断ればいいだけでしょう。それができないから、ああした劇が生まれるわけですし、それこそがウィーンではなく、プラハで人気になった理由でもあるはずです。

日本のプレステージ層は特に、外国の富裕層はとは異なり、政治と切り離されてありたいという意向が強いように思われます。そして、芸術はプレステージによりちかいという見方から、政治と関係するべきではないという考え方が一般的です。今回、電子文書送付運動の中心的な役割を演じた飯森範親氏や、藤岡幸夫氏は、そういう意味でも勇気があると思いますが、彼らのもとには頑張れ、一緒に闘おうという好意的な声とともに、それとほぼ同じぐらい、君たちのような立場の者が政治に手を出すのはいかがなものかという、叱責の声も聞こえてきたにちがいないと思っています。

プレステージ層に限らず、日本の人たちは一般に、政治的な動きに対して警戒感が強いように思われます。私も大学時代は苦労しましたが、自分たちに身近なところで不利益なことが起こっている場合でも、この時代、なにかを成し遂げるために人を集めるのは難しいことです。自分がやらなくても誰かがやってくれると思っているし、それでも止められないことならば、もうしようがないという考え方が多い。こうなったら絶対に嫌である、という考え方がないのです。また、他人が権利を求めて闘うことには恐ろしく不寛容で、例えば、自分たちに関係するところでストライキでもやろうものならば、以前は経営側が批判的に見られたものが、いまでは労働者側が批判されてしまいます。

こういう社会において、オーケストラや音楽家、そのほかの芸術家たちが、具体的な行動を起こそうとするのはリスキーで、困難が多いように思います。

【助成を受ける芸術家は?】

もうひとつ、助成を受けなければ成り立たない芸術分野は不健康であるとか、芸術家は苦労したほうがいいものがつくれるという意見も根強いです。それぞれに、一理はあります。例えば、助成がなくても成り立つようにすべきだという正論は、否定のしようもないし、私もそうすべきだと思う。また、ゴッホはエリート教育も受けていないし、貧乏だから、ああしたものが描けたのだというのも正しいと思います。でも、こうした考え方は、すこぶる一面的な考え方です。

まず、芸術家は国の助成を受けなくてもいいように、努力して人気を得ようとしたり、社会との対話を進めるべきだという考え方は、既に述べたようにいいことだと思います。でも、そうすることで出来上がったのは、ハリウッド映画や劇団四季、宝塚、クリスチャン・ラッセンみたいなものであって、わかりやすい、手に入りやすい、誰にでも受ける、などの条件がついた芸術作品でしかないわけです。こうしたものが、芸術的に無価値であるとは言いませんが、新しいステージを切り開くものとならないことは確かです。

そこで、ゴッホのような自己犠牲が必要になるわけです。本当に新しいものは、同時代的に評価されないというのは、歴史の事実です。ゴッホもモディリアーニも亡くなってから本格的に人気を得たわけですし、シェーンベルクやウェーベルンは終生貧乏だった。マーラーはやがて自分の時代が来ると嘯きながら、指揮者の仕事に生計を賭けました。私たちは相も変わらず、彼らの犠牲において、人知れず何かが生まれ、育てられるのを期待しようというのでしょうか。そうした呑気な空想は、自分がやらなくても誰かがやってくれると思っている現代日本人の、政治に対する考え方と恐ろしく似ているように思われます。

ゴッホが残ったのは一種の奇跡であって、普通、欠乏した芸術家たちは『ボエーム』の屋根裏部屋の若者たちと同じ運命を辿ります。ゴッホだって、本当は、もっと長生きすべきだったのです。花には水が必要であるように、芸術家にはカネが必要なのではないでしょうか。助成を受けなければ成り立たないのは恥ではなく、無計画でも怠慢でもないのです。そのような助成が、ときには芸術家を腐らせることにもなるかもしれないとはいえ、生活の折り合いをつけるために芸術家が払う致命的な代償に比べれば、何程のこともないと思います。

なにも、ルネッサンス時代のように大枚をはたいて、レオナルド・ダ・ヴィンチを生み出せといっているわけではありません。足りない部分を国が補うことで成り立つ芸術分野があることは、当たり前だと言っているのです。彼らは別に特権を受けているのではなく、兵士が剣を求めるように、ただ必要なものを受け取っているだけではないでしょうか。国が彼らに必要なものを与えないというならば、彼らは・・・そして、私たちは要求する権利があります。

【サンタ・クロースはいるの?】

次の文章は、「サンタクロースはいるのですか?」という8歳の少女、バージニアの投書に答えたニューヨーク・サン紙に載った有名なコラムの一部です。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

Yes, VIRGINIA, there is a Santa Claus.
 (中略)
How dreary would be the world if there were no Santa
Claus. It would be as dreary as if there were no VIRGINIAS.
There would be no childlike faith then, no poetry,
no romance to make tolerable this existence.
 (中略)
Nobody can conceive or imagine all the wonders there are
unseen and unseeable in the world.
 (中略)
Only faith, fancy, poetry, love, romance, can push aside
that curtain and view and picture the supernal beauty
and glory beyond.

いいかい、バージニア、サンタ・クロースはいるんだ。

サンタ・クロースがいないなんてことになったら、世界がどれだけ
ガッカリするだろうね。この世にバージニアがいないというぐらい、
ガッカリなことだよ。誰にもこころを許せず、詩や小説さえも嘘だ
ってことになったら、生きていくことなんてできないよ。

誰だって、この世のなかで、目に見えない不思議なことを
すべて思い描くことはできないんだ。

ただ、信じることや、夢みること、愛や、詩や、小説の世界
だけが、その薄いカーテンを引いて、天にも上るような美しい
ところを僕たちに見せてくれるのさ。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

キリスト教的な倫理観が透けてみえるとはいえ、そのなかの良心だけを集めたような文句で、蓋し名文であるといえるでしょう。

しかし、この文章は実のところ、8歳の少女に訴えかける文章ではありません。これはむしろ、’childlike faith’を失った現代の大人に対する警告として書かれているのであり、当たり前の、つまらない現実のみが、サンタ・クロースというキリスト教的な良心の塊のような存在にさえ、ダメージを与えていることを風刺しているのにちがいないのです。

仕分け人はもしかして、サンタ・クロースは無駄だというかもしれません。彼らが期待するのは、サンタの良心ではなく、サンタに扮したバケモノたちが競ってトイザラスへ出かけ、落としていくカネのことだけでしょう。本当のサンタ・クロースは、いつも大赤字です。彼らにとって、子どもたちの笑顔だけが唯一の報酬なのだから。こんな無駄なものはありません!

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