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2009年12月10日 (木)

クロノイ・プロトイ 第5回 作品展 with クァルテット・エクセルシオ 12/9

クロノイ・プロトイは6人の若手作曲家によるグループで、定期的な活動をつづけ10年を迎えた。若手といっても、結成から10年ともなれば、既に全員が30代の中盤にさしかかっている。その5回目の作品展は、グループとしては初の挑戦となる室内楽、それも弦楽四重奏での取り組みとなった。それら全曲を、クァルテット・エクセルシオが演奏する企画を聴いてきた。

【芸術家というよりは技術者】

今回は、各人とも1楽章構成の作品を1つずつ制作し、そのイメージに基づき、仲間の作曲家が、前奏曲(もしくは間奏曲)を作曲して、その前に置くという趣向で演奏された。こうして演奏会自体を1つの作品として構成する・・・というのが、このグループの基本的なコンセプトに入っているようである。複数の作曲家がグループを組み、互いを励ましあい、批判しあいながら、定期的な活動をつづけていくこと。また、お互いの作品に関心を払い、こういった形でコミュニケートを図る試みは、有益であろうと思う。しかし、それが本当の意味で評価に値するのは、そうした努力が、素晴らしい作品として結実するかどうかというポイントにある。

結論からいうと、微妙な成果だといわざるを得なかった。新しい作品を聴く以上、私たちはどうしても、独創的なところのある作品を期待する。だが、6人中2人がミニマル的な音楽を制作したことにも表れているように、この作曲家グループに新しさを期待するのは不可能なのかもしれない。クロノイ・プロトイを積極的に評価しようとするならば、そのような新しさにおいてではなく、爛熟した現代の作曲技法の職人技を使いこなすテクニシャンとして・・・芸術家というよりは、技術者としてみる以外にない。

若手の作曲家グループには、我々は古い人たちの考えつかないような発想を期待するものだ。しかし、彼らのうちの1人でも、彼らの先行世代をぎょっとさせるか、大笑いさせるような仕事をできていたであろうか。少なくとも私には、30代中盤にもなりながら、大学を出たての学生となんら変わらない優等生の姿しかみえなかったのだ。なにも、新しくなくてもいい。彼らにしかできない、彼らだけのパフォーマンスがみたかったのだ。

【2つのミニマル】

今回の作品群は一応、ほぼすべての作品が無調のもので統一されている。このうち、鶴見幸代と大場陽子の作品は、ミニマル・ミュージックといえるような作品である。

鶴見の『ブロアー』は、風の仕組みから作曲されたといい、海陸風の1日のモデルをモデルにしたと解説されている。その実態は、雅楽的に尻上がりに音が膨らみ、ふっと空気が抜けていくような・・・譬えるならば、風船が膨らんでしぼむような響きのアクションが、微妙にずらされながら延々とつづく楽曲だ。途中に一度だけ弱奏になって、風がおさまるときがあるのだが、これが「夕凪」の場面のようだ。最後は、その夕凪の場面を回想するように、「朝凪より前の午前2時くらいに曲は終了」する。

このような構想の上に成り立つ作品であるが、如何せんまったく面白くないのである。これはある種のミニマルになっているが、どちらかといえば、音型の鋭さや、その推移の切れ味に依存する典型的なミニマル作品に比べると、ずっと大らかで、どこか独特の響きであるといえばいえなくもない。しかし、その原型には雅楽の影響が透けてみえるわりに、その魅力をしっかりと捉えきっていないことで、作品に奥行きが出ていない。また、「風」という発想が彼女を縛り、そのことで作品が過度に膠着的なものになってしまったのだ。

ラヴェルの『ボレロ』よろしく、聴き手との我慢比べを挑んでいるのかとも思ったが、いつまでたっても新しい展開は出てこない。その失望のなかで、あの不快な響きの伸縮に耐えているのは、どうにも辛かった。そして、この分では、夕凪のときのように、なだらかに減衰させるよりほかに終わり方はあるまいと想像していると、正にそのとおりとなったのである。発想の機知がまったく感じられず、パソコンでコピー・アンド・ペーストしたような音楽には怒りさえ感じた。

これと比べると、大場陽子の『カエル・シンフォニー』はまだ見所がある。嫁ぎ先の鳴子温泉郷に生息するカエルたちの大合唱から着想されたもののようで、なかなか愉快な素材を選んでいると思ったが、始まってみると、型どおりのミニマルでげんなりしてしまった。しかし、最弱奏でケロケロ歌いだす序盤戦は、弦の響きのクオリティをうまく生かしてチャーミングな部分もあったし、先の鶴見作品よりは動きが多かったので、もしかしたら・・・という期待を抱かないでもなかった。しかし、ボレロ的な長いクレッシェンドを経ていくうちに、カエルの響きはどこか機械的なものに変わり、まるでライヒの『ディファレント・トレインズ』を聴いているような響きになってくると、もはや失望は隠し得なかった。

【渡辺作品、篠田作品】

4人のなかで、いちばん「現代音楽」っぽいのは渡辺俊哉の『シェイディングⅡ』であった。少しずつ影を追うようにして、響きを受け渡していく手法は月並みで、解説を読んだときから、ありがちなものになるだろうと踏んでいたが、予想をはるかに上回るほどありがちな作品。その整然とした響きの組織立ては見事であり、高い作曲技術を思わせるのであるが、その発現たるや、なんとも見慣れた意匠にすぎないのであって、譬えるならばクリスチャン・ラッセンの風景画のように安心してみられるものの、こころの奥ふかくに届くような面白みがなかったのである。

同じように、篠田昌伸の『フィルタード・バラッド』も爛熟した作曲技法を感じさせたが、この日最初の曲ということもあって、その達者な筆遣いには感心する部分が多かった。この作品は、当夜の作品のなかではもっとも出来のよいものであり、見所があった。というのも、この作品はイントロ部分と9つのバラッドをとおり、コーダへいたる作品なのだが、そのバラッドの部分では、現代的な特殊奏法の音色をきれいにフィルタリングして、弦の新たな持ち味として提示することに成功しているからである。弦楽四重奏における4つの楽器のキャラクターを、上手に生かしていた点も評価したい。

その素材集を眺めるのに聴き手が飽きてくるころを見計らって、これらのパーツを組み合わせ、新しい風景を開いてみせるのもよかった。ただ、9つというのはやっぱり多すぎて、本来は、その半分くらいに絞り、工夫した素材の料理法で新たな味を引き出し、聴き手を驚かせるのが作曲家のやるべきことだと思う。その準備段階としてみれば、悪くはない。現代音楽ではよくある、進化型の「Ⅱ」に期待したい。

【徳永作品、小林作品】

徳永崇の『刺青の彫り方』も、それなりに印象には残る。当初は「刺青」という発想はなかったそうだが、その彫り方を知るや、自らの作曲工程に似ていると感じたことから、発想されたものであるという。彼の作品には、刺青を彫るための電動針のような芯がピンと張りつめており、そのベースのうえで、ときには広くとろけるように、またあるときには、鋭く突き刺すように展開する動きは、なかなか見ごたえがある。

ただ、惜しむらくは、その芯の部分の求心力が強すぎるために、棒杭に括りつけられた飼い犬よろしく、作品のポエジーがちょっと飛び出しては引っ張られ・・・という感じで、広がりがない点は作品にとって致命的な欠点となっているのではなかろうか。

小林寛明の『弦楽四重奏曲』は、各奏者の独創的な振動を核として、他方向に開かれた音像を表現しようとしたとある。この作品では、ときどき調性的な部分をトリックに使いながら、きわめてグロテスクな変容をみせ、全体的に厳しい音像を作り出している。しかし、それは直前に置かれた鶴見の間奏曲が示すように、結局、パガニーニ的なヴィルトゥオージティの今日的な表現にすぎない。そのイメージは中間部分のクライマックス的な部分で、はじめてスッキリとしたイメージをみせるが、その構想は総じてわかりにくく、ぼんやり聞いていると、作品はおわりにさしかかっていた。

【まとめ】

このように作品はすこし出来のいいものでも欠点が多く、演奏会全体が1つの作品とするならば、いささか複雑な想いであった。間奏曲とあるから、全体が続けて演奏されるのかと思えば、そうでもなかったから、実質的には、これらはすべて前奏曲といっても同じことだ。これに象徴されるように、すべてにおいてコンセプトが曖昧なのである。

そのなかで、演奏会がなんとか演奏会らしいものとなったのは、クァルテット・エクセルシオの健闘によるところが大きいだろう。一応、これらの曲目をがっちりと受け止めたうえで、それらの特徴を的確に捉えるというだけではなく、チャーミングな部分も見つけ出していたからだ。特に、篠田作品における素材の扱いの丁寧さや、『ブロアー』冒頭の弱奏の、柔らかな性質と大地に根を張るような音色のコントラスト。渡辺作品における、響きの受け渡しに見られる濃密なコミュニケーションなどである。

例えば、科学者のなかでは、「テクニシャン」という言葉は決してポジティヴな言葉ではない。それは特定の作業を能率よくこなす人のことを指し、自ら考えるあたまをもつ本筋の研究者ではないからである。もしかしたら6人は、その「テクニシャン」の立場に充足してしまっているのではなかろうか。これだけの技術があるならば、私はもっと暴れ、手のつけられない芸術家のエネルギーを発するように期待したいと思う。彼らはもはや大学生ではなく、程々によくできた作品など誰も評価しないし、そんなものを用意する必要もないはずだ。私は、彼らの才能を惜しむがために、そのように言うのである。

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