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2009年7月5日 - 2009年7月11日

2009年7月11日 (土)

カリニャーニ ローマ三部作 読響 芸劇マチネー 7/11

         1

パオロ・カリニャーニの客演した、読売日本交響楽団の演奏を聴いた。最近までフランクフルト歌劇場のGMDとして目覚ましい実績を挙げていたカリニャーニは、読響へは確か3回目の客演となるはずだが、いずれも好評を得てきた。この日のプログラムは、レスピーギのローマ三部作による。コンマスは、藤原浜雄。

         2

これまで、カリニャーニの演奏は買ってきたつもりだが、2年ぶりに聴く今回の演奏は、私にはキツく感じられたものである。曲目自体がド派手なことはあるにしても、とりわけ強奏部分の乾いたサウンドは聴き手の余裕を奪うものであり、コバケン的な力押しではないのだが、やや芯を押し出しすぎたきらいがある。プログラミング的にも、いきなり「ローマの祭り」を演奏するというのは、空きっ腹にビールをがぶ飲みするようなもので、頂けない。正直なところ、あまり思い出したくないので、つぶさに書くことは控える。

ラザレフが読響でこの曲をやったときは、もっと大暴れだったけども、それなのに、響きには不思議な艶があって、耳が痛くなることはなかった・・・ことを書いておこう。ただし、主顕祭の部分だけは、さすがにイタリー人らしいアドヴァンテージを生かす。金管主体のジャズ風な旋律線を身体を反るようにして上手に受け流し、サルタレッロの部分は独特のリズムを完璧にコントロールするだけでなく、適度に遊びも入れている。最後の、「ダン・ダン・ダン!」がきれいに決まり、カリニャーニもご満悦のようだった。

         3

前半、免疫ができたおかげで、後半は、それなりに楽しむことはできた。なかでも、「ローマの噴水」の一筆書きは、身体にすっと馴染む演奏である。弦がツーと響きを延ばす冒頭部分に始まり、各パートの粘りづよい音楽づくりが好感を誘う。その最初の部分は、スメタナの「ヴルダヴァ」の開始を思わせる不思議な響きが、管楽器が入った途端に色彩を帯び、チョロチョロ流れる水のイメージと結びつくのが、丁寧に描かれている。

トリトーネからトレヴィの部分には強奏する部分があるが、先の「祭り」と比べると、ずっと抑えの効いた表現である。トレヴィは、リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」とよく似た響きだが、「噴水」の1年前に初演された作品を、ローマにいたレスピーギが耳にしていた可能性は低いだろう。だが、今回の演奏を聴いていて感じたことは、レスピーギの音楽のなかに、意外なほどワーグナーの影が溶け込んでいるということで、ワグネリアンだったシュトラウスとレスピーギが似たような響きを思いついたということは、少しく示唆的である。

今回の演奏で特に素晴らしかったのはサンセット(メディチ荘)の部分で、先に述べた粘りづよいアンサンブルが、引き延ばされた夕景の持続を、独特のノスタルジーに染め上げている。

         4

最後は、「ローマの松」である。最初に「祭り」を演奏したことを批判したが、この「松」が最後に置かれるのは納得がいく。演奏効果のあがりやすい曲なので、それなりに満足感を与えるが、全体的にみると、いたって普通の演奏だ。そのなかで、ジャニコロは、主要なモティーフを吹く藤井洋子のクラリネットの、穏やかな響きが耳を惹いた。鳥の声は水笛などを使う場合もあるが、今回はスピーカーを使用した。

締め括りとなるアッピア街道では、イングリッシュ・ホルンの緊張感のある響きが、楽曲を引き締めていた。金管のバンダは高いオルガン席の脇に配置したので、響きが迫ってくるときの効果はイマイチ。しかし、それに頼らず、パーツを丁寧に組み立てて、正攻法で響きを盛り上げていくのは悪くないアイディア。岡田のティンパニーが轟音を上げる。最後、トゥッティの盛り上がりをつくりながら、切るまえにヴィオラ方面に顔を向けて響きを確認するあたり、意外な冷静さをみせるのは驚きだった。

         5

今回は、やや空回りな感じであろうか。やはり、この人はピットに入ってもらうほうが、いい仕事をしてくれそうな気がする。また、読響はここのところ、ドイツ的な響きが主体になっており、こうしたプログラムをやるときにカリニャーニの求める響きと、若干、ズレがあるようにも思えた。カリニャーニ自身、ドイツ暮らしが長かったこともあって、感覚が鈍くなっているのかもしれない。このあたりの音色の柔らかさ、茶目っけ、響きのヴァリュエーションを、カンブルランに鍛えてほしいと願うものだ。

【プログラム】 2009年7月11日

1、レスピーギ ローマの祭り
2、レスピーギ ローマの噴水
3、レスピーギ ローマの松

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:東京芸術劇場

下野竜也 ドヴォルザーク 「伝説」 紀尾井シンフォニエッタ東京 7/10

公開練習にも足を運んだ、紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)の公演の本番である。今回のメインは、ドヴォルザークの「伝説」の全曲演奏。ゲストは、サイトウキネンや水戸室内管への出演でも知られるファゴットのダグ・イェンセン。コンマスは、澤和樹。

【伝説:前半】

さて、その「伝説」は5曲ずつ、最初と最後に分けて演奏された。この日の演奏では、どちらかといえば、最初の5曲の演奏が優れていたように思われる。なかでも、白眉とみられるのは第4曲である。ホルンの爽やかな序奏から、豪華な響きが立ち上がる最初の場面の印象が、まず素晴らしい。中間では細かな表情変化が自然な推移をみせるのが、印象に刻まれた。強奏と弱奏がハッキリ切り替わりはするものの、その間にエネルギーが逃げていかないで、しっかりした手ごたえが残っていることが、作品のフォルムを引き立てる。そのことが特に生きてくるのは、弦の薄いトレモロと金管の響きから導かれる最後のヤマである。

だが、それを上回る感動を与えたのは、その盛り上がりが静まったあと、すこし微妙な響きのする和音が敢えて選ばれている部分についてであった。通常であれば、共鳴しにくい音をゆるめて響きを柔らかくするか、楽譜どおり和音をしっかりとって怜悧なフォルムをつくるしかないだろう。しかし、下野はこの不協和な響きを真正面から受け止める。和音のつくる構造をしっかり整理して拾い上げ、すこしだけ丁寧に魂を吹き込んでやるだけで、いかにもドヴォルザークらしい、穏やかで、親密な響きとなることを知っていたのだ。

つづく第5曲は、1−2世代あとを追ってくるリヒャルト・シュトラウスを思わせる華やかさのある響きが特徴であるが、それよりも少しくすんでいて、素朴な感じがするだろう。こちらは多彩な表情をヘルシーに生かし、なるべく小さな動きのなかに閉じ込めて、優しい響きを作り上げている。

前半も、充実した演奏である。第1曲は、長い休符を機に向かいあう部分の対比が鋭く、その段差が、この曲に含まれる民俗性を自然なカタチで引き出す。第2曲は、まず繊細な序奏の作り方が魅力的であるが、主要なモティーフに入ると、ザクザク刻むリズムの動きが強調され、この両端のあいだを振れる振り子の動きが、表情ゆたかに印象づけられた。

第3曲は、公開練習のときにやっていた曲のひとつだが、もっとも深彫りが進んでいて驚かされた。テンポも速めにアジャストされ、前のめりなフォルムの鋭さが小気味いい。この曲に愛らしい特徴を与えるトライアングルの響きをはじめ、すべての楽器の音色やフレージング、それらのバランスや受けわたしが格段に磨き込まれ、あるときには柔らかく、またあるときには鋭さを増して、演奏されていた。最後、ホルンの勇壮な響きから1曲が閉じられる部分の鋭さも、思いきった感じである。

【伝説:後半】

これと比べると、後半は、すこし緊張が弛んだ感じがした。6−8曲は、練習のときの印象とさほど変わらない・・・どころか、すこしとちり気味になってしまった部分もあって、いささか残念な想いがした。それでも、公開練習のときの出来が既にして良かったのだから、まるで聴きものにならないということはない。例えば、第6曲はその前のイェンセンの好パフォーマンスを拾う形で、魅力的な主題のメロディを濃厚に描き、ゆったりと落ち着けていく。

7−8曲は、他の部分と比べてつまらないミスが多く、聴きばえがしない。特に、第3曲の最後の部分に対応するような、第8曲の最後のキメの部分は、練習のときに優れてゴージャスな響きに仕上がっていて本番が楽しみだっただけに、うまく決まらなかったのが惜しい(すこし急いでしまったのではないだろうか)。

これらの部分で感じたことは、この曲のあまりにも、あまりにも繊細なフォルムについてであった。この作品はもともと、ピアノ連弾のために書かれた作品を肉付けし、作曲者自身が管弦楽化したものである。骨組みはスカスカであるのに、ドヴォルザークが見事にオーケストレ−ションを施すことで、信じられないくらい濃厚で、肉厚な作品に仕上がっている。だが、そのデコレがすこしでも剥がれてしまうと、途端に魅力を失ってしまうのである。

第8曲のあと、下野がすこし微笑んだのが効いたのかどうか、第9曲ではもとの流れが戻ってくる。この曲は、すこしヨハン・シュトラウスを思わせるような感じで、ウィンナー・ワルツのような揺らしはないものの、リズムに特徴があるのを上手に捉えている、また、後半は、古典的な対位法的な響きが換骨奪胎で使われているのがわかり、ドヴォルザークについて見逃されがちな、構造観の鋭さをアピールすることも忘れない。

このように、「伝説」という曲では、ドヴォルザークのもつ民俗的な特徴と、ドイツ的な特徴がうまく混ざり合っていて、交響曲第6番と同じ時期の作品であることに納得がいく。

終曲は、再び魅力的なものとなった。しっとりと構造を浮き立たせていく演奏であるが、適度に抑えられた表現で、何ともいえない気品が感じられた。最後の和音は第4曲と対応するように、やや複雑な配置をうまく読み解くことで、ドヴォルザークらしい、彼の音楽にしかない特徴を炙り出すことができるのは同じことである。

この日はこの日で、(特に前半において)独特の緊張感があって素晴らしかったが、2日目は、既述のポイントにアジャストが入り、もっと良くなるだろうと思う。今回の演奏は、この曲の魅力を感じさせるに十分すぎるほどであり、この日より以降、私の好きな曲として、この「伝説」が加わったことはいうまでもない。交響詩のような叙情性の高い作品表現に優れたエリシュカさんに演奏してもらったら、本当に素晴らしいだろうと思う。

【演奏会テーマは、シンプル・イズ・ベスト!?】

ドヴォルザークの親友のブラームスは旋律を節約して、馥郁たる構造で聴かせる。だが、「伝説」におけるドヴォルザークは構造のほうを節約して、穴だらけのスポンジにバターを流し込み、クリームを被せ、シナモンを振ることで、非常に素朴で、柔らかく、穏やかな音楽性を獲得している。

どちらがモーツァルトにちかいかと問われれば、ブラームスと答える人が多いだろう。しかし、もしかしたら、そのシンプルな音楽づくりからすると、むしろ、ドヴォルザークのほうがモーツァルトにちかいのではなかろうか。シェフとパティシエというちがいこそあれ、この2人の作品はいずれも屈託のないヒューマニティに溢れており、また、目に見えない難しさがあって、一音たりとも邪険に扱うことができない点などもよく似ている。

ところで、ここにいうシンプリシティというキーワードは、今回の演奏会のプログラムを串刺しにするような言葉でもある。メインの「伝説」は正に・・・というところであるが、イェンセンの吹いた2つの作品もまた、シンプルそのものである。モーツァルト(KV191)については言うまでもないとして、ジョリヴェ「ファゴット、ハープ、ピアノと弦楽オーケストラのための協奏曲」も、そうではなかろうか。

この2部構成のジョリヴェのコンチェルトは、トリスタン和音を擬した大胆な開始から、非常にゆたかな遍歴を描いて、結局、直前の絞り出すような厳しいモティーフから、信じられないほど鮮やかで、色目も爽やかな清潔な和音に解決していく。ところが、専門的な分析眼を持たない私からすると、すこぶる感覚的な見解ではあるが、見かけ上のレトリックの多彩さからすると意外なほど、このコンチェルトは単純で、ナチュラルな語法だけで組み立てられているように思えるのである。

それぞれの作品で、すこしずつ切り口が異なるものの、ときには、シンプルなものにこそ、より大きな喜びがあるということが、この演奏会を貫くテーマだったのかもしれない。それは、オケのアンコールに「ユモレスク」が選ばれたことからもわかる。

【2つのファゴット協奏曲】

同じファゴット中心の協奏曲とはいっても、モーツァルトのジョリヴェの作品は、まるでちがう表情を我々にみせるだろう。モーツァルトでは非常に人工的な、技巧性の極致から、不思議と安らかで、純朴な響きが立ち上ってくるのに対して、ジョリヴェではより自然で、語りかけるような響きが、それに代わるからである。

ジョリヴェでは、ソリストと伴奏者がボーダーレスに隣りあっており、ソロ楽器たるファゴットの役割は目まぐるしく変わっていく。ときには伴奏にちかい役回りまで演じ、あくまで一歩浮かび上がったようなモーツァルトのファゴットとは、若干、趣がちがってくるのである。

ところが、その中心にある可能性となると、驚くほど似通っている。それは、揺るぎのないフォルムの堅固さ(それは骨組みの緻密さから来るというよりは、解体しようもないぐらい単純であることの頑丈さによっている)に基づいた、ある種の安心感、穏やかさ、癒しというものに結びついている。

イェンセンは、正に、その点を鋭く突いた演奏になっている。彼の演奏を物語るうえで、もっとも大事なのは、その音色のジェントルな優しさについてではないかと思う。私は、ヴィオラやコントラバスの音色が好きだが、ダグのファゴットは、それらの響きにもちかい深みがある。ジョリヴェでは、1本の大木が物語る遠いむかしの叙事詩のようなものがきこえてきたが、それは、どっしりした表現の安定感に基づく、落ち着き払った音色の濃厚さや、研ぎ澄まされたフレージングの自然さから導かれる。

モーツァルトでも、実は、同じものが求められている。出力の方向性にちがいはあっても、入力においては同じ要素だったのであり、結果として聴き手の胸に届いてくるものは、さほどちがっているわけもないのだ。というわけで、ダグのファゴットは、モーツァルトの技巧性ゆたかな作品においても、不思議な癒しの感覚を与えるものだった。彼の巧妙な演奏だけではなく、なによりも、その優しさに酔いしれた会場は異様な盛り上がりを見せたのである。

おわってみると、彼に全部もっていかれたという感じがしないでもなかった。

【まとめ】

非常に、満足感の高い演奏会であった。KSTはいろいろなタイプの音楽仲間を呼んで、プログラムを組み立てているが、下野のような一端の指揮者が来たときには、やはり、特別な響きを聴かせてくれるのだ。今回で1シーズンが終わったことになるのだが、レーゼルの客演に始まり、大曲「エリヤ」の演奏もあった今年のKSTの演奏会のなかでも、今回がベストであったと思う。

【プログラム】 2009年7月10日

1、ドヴォルザーク 伝説 Ⅰ-Ⅴ
2、ジョリヴェ fg、hrp、pfのための協奏曲
3、モーツァルト ファゴット協奏曲
4、ドヴォルザーク 伝説 Ⅵ-Ⅹ

 コンサートマスター:澤 和樹

 fg:ダグ・イェンセン

 hrp:篠崎 史子  pf:野平 一郎

 於:紀尾井ホール

2009年7月 9日 (木)

ヨーゼフ・シュトラウス ポルカシュネル「憂いもなく」 @1870年

 参考録音:
  クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル

ヨハン・シュトラウス(父)の3人の息子たちのなかで、今日、もっとも有名なのは同名の長男です。彼は俗に「ワルツ王」と呼ばれ、もっとも作品が多いですし、例えば、ウィーン・フィルの新年のコンサートでも毎年、もっとも多くの作品が演奏されています。また、舞台芸術のなかでも重要な位置を占めています。しかし、このヨハンがイチローのようなアベレージ・ヒッターだったとすれば、弟のヨーゼフ・シュトラウスは、より人々のこころに突き刺さるようなホームランを打てる天才打者だったのではないでしょうか。

それは例えば、シュトラウス・ファミリーのワルツの形式から、そう大きくは抜け出ていないにもかかわらず、どこかはみ出たようなスケールを感じさせる「天体の音楽」1曲を聴くだけでも明らかだと思います。兄同様、結局は200以上の作品を遺した多作で、職人的な作曲家だったことは否めないとしても、兄の作品より、ヨーゼフの作品は人間の内側に鋭く切り込んでいくような、深い要素をもっています。

父の教えに従って進んだ実業界に、大いに未練のある弟へ発破をかける言葉だったのかもしれませんが、兄・ヨハンは自分よりもヨーゼフに、よりゆたかな才能があると語ったとされているぐらいです。

【1870年ごろのオーストリア】

ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、1870年の作品です。原題は、”Ohne Sorgen”となり、直訳して「憂いなく」ですが、間に「も」を入れることで、より優雅で、余裕綽々たる雰囲気になっている訳題でしょう。

1870年はどういう年だったかというと、まず1月に、1837年に発足したウィーン楽友協会の尽力で、今日につづくムジークフェライン・ザールが開場しています。同じ年、かつて領邦だったプロイセンはフランスとの戦争に突入しますが、1866年の普墺戦争の敗北により帝国から弾き出されていたオーストリアは、幸か不幸か、関係がありません。

この時代、オーストリアは興味ぶかい状態に置かれています。まず、政治的にみると、どうやら凋落の一途を辿っていきます。先の普墺戦争の結果、自立を危ぶまれた国家はハンガリーとの関係を強め、オーストリア=ハンガリー二重帝国を形成することで、ようやく生き残りを図るという状況です。かつて欧州の中心的な位置を占めたハプスブルク帝国の勢威はもはやなく、政治の表舞台から、オーストリアの重要性は削られてしまいそうな状勢です。

しかし、経済や文化の面でみると、どういうことか、上昇局面にあります。市壁が取り払われて都市の再開発が企図され、工業化や、鉄道など交通インフラの整備が一気に進みます。ウィーンの人口は、1869年の63万人から、僅か40年ちかくの間に3倍以上に増加することになるのです。1873年にウィーン万博が開催されるように、当時のウィーンはなかなかの勢いだったのです。

世紀末ウィーンは政治的な没落傾向にもかかわらず、そのように不思議な活気に満ち溢れていました。万博の年、ウィーンの株価が大幅に下落したというのに示されるとおり、勢いはさほど長続きしませんでした。とはいえ、ポルカ・シュネル「憂いもなく」は、そんな時代の風景を遺憾なく物語っています。そのなかで、ヨーゼフ・シュトラウスは一体、どんな時代観をもっていたのでしょうか。

【隠れているメッセージ】

ヨーゼフは、技術者の出身です。彼らの父、ヨハン・シュトラウス・ファーターは、音楽で身を立てることは難しいことを身を以て知っていたので、息子たちがその道を歩むことを望みませんでした。ヨハンはそれに反発して自らの楽団を組織し、一方、ヨーゼフはその忠言の正しさを認めて、技術者の勉強をしました。音楽家としてよりも、テクノクラートとして国家に貢献していきたいと考えていたであろうヨーゼフにとって、彼の同僚たちが成し遂げるであろうウィーンの発展を、つよく信じることは自然だったと思います。

確かに、「憂いもなく」には、太鼓がゴーン、ゴーンと鳴り響き、突貫工事でウィーンの開発が進んでいることが示されます。そして、「ハ、ハ、ハ、ハ」という笑い声によって、ウィーン市民の自信と達成感が象徴的に描かれてもいます。

しかし、同時に、この作品はすこしアイロニカルでもあります。例えば、2分にも満たない演奏時間は、この景気が一時のものでしかないことを示しているのかもしれないし、そのためにわざわざ「ポルカ・シュネル」という急速な曲のスタイルが選ばれている可能性もあります。

参考録音として挙げたクレメンス・クラウスの演奏は、耽美的なウィリー・ボスコフスキーの録音などと比べると、より厳しさのある演奏といえましょう。そこでは軽快なノリのなかにも、なにか張り詰めたものが感じられて、ウィーンの再生にかける市民の情熱と、「こんな時代は二度とないから、いまを生きろ」というようなメッセージが伝わってきます。

この時代の美点は、野心的なビスマルクの治めるドイツ人国家から切り離され、戦のつよいハンガリー人と結びついたことで、戦争の驚異からウィーンが遠ざかったことです。太鼓の響きはしばしば大砲の音に擬せられましたが、この曲では、それが大槌で鉄棒を打ちつけるような音に取って代わっています。大砲は遠ざかり、都市建設の響きがちかくにやってきたのです。ヨーゼフは、そのことにも注目したと思います。

【まとめ】

こうして見ていくと、数分にも満たない「憂いもなく」のなかに、抱えきれないくらい多くのメッセージが潜んでいることがわかります。これを読み解こうとしないことには、シュトラウス一家のウィンナー・ワルツは面白くも何ともないのですが、「憂いもなく」もその例に漏れません。

この作品は、ワーグナーが「ラインの黄金」を示し、ヴェルディが「ドン・カルロ」や「アイーダ」を上演し、また、ブラームスが「ドイツ・レクイエム」を初演するような時代に書かれているのですが、たった数分にして、それらの作品と向きあうだけの力を持っているといっては、さすがに言いすぎなのでしょうか。

2009年7月 7日 (火)

下野竜也 紀尾井シンフォニエッタ東京 リハーサル

今週末、公演予定の紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)のリハーサルを見てきた。今回は、下野竜也の指揮で、ドヴォルザークの「伝説」がメイン。これを5曲ずつ両端に振り、ジョリヴェ「ファゴット、ハープ、ピアノと弦楽オーケストラのための協奏曲」と、モーツァルト「ファゴット協奏曲」をサンドウィッチするという凝ったプログラムになっている。ゲストは、ファゴットのダグ・イェンセン。

さて、この日の練習は2日目に当たる。午前のみの公開で、「伝説」の5、6、7、8,4、3番が取り上げられた。ネタバレ的な要素があるので、あまり細かくは書かない。だが、ピアノ二重奏曲から作曲者自身によって、小編成のオーケストラのために編曲された曲にもかかわらず、非常にゆたかな表情をもった演奏になりそうである。

下野によるプローベは初めてみたが、非常に熱心に研究して臨んでいることが分かり、これならば、百戦錬磨のKSTのメンバーにも十分な納得と、インスピレーションを与えることができるだろう。指揮者としては当然だが、1つ1つのパートの組み立てがしっかりあたまに入っており、指示も細かい。ときどき、自分の声で歌いながら具体的にイメージを伝えていくときの、その響きの魅力的なこと!

練習の手際もよく、コミュニケーション能力にも優れているようだ。例えば、弦のメンバーへの指示出しでは腰を落として目線を合わせたり、気になる部分がある人がチョロチョロやっていると、しっかり拾って、簡単な指示を与えたりするあたりに、その要素が感じられた。KSTのメンバーも、今回はかなりまとまりのある響きを出しており、高いレヴェルからスタートした濃厚なプローベになっている。本番では、この曲へのイメージを塗り替えるようなガッシリした響きになるだろう。

この練習をみていると、下野の有能さは疑う余地もない。KSTへは3度目の登場となるが、前回、メンデルスゾーンを演奏している。この「伝説」も、メンデルスゾーンのストリング・シンフォニーや、いくつかの交響曲を思わせる部分もあり、そのような意味での選曲となったのかもしれない。

私は初日に窺うことになったが、本番がますます楽しみになった。

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