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2010年1月21日 (木)

ジョルダーノ マダム・サン=ジェーヌ 戦場に翔ける女 東京オペラ・プロデュース 1/17 ②

【弥勒忠史の演出】

今回、演出はカウンタテノールとしても知られ、ここのところ、演出でも力を発揮している彌勒忠史が務めた。これはという奇知をみせてくれたわけではないが、全体的に底堅く、現役の歌手だけに音楽を尊重した舞台づくりだったといえるだろう。正直、歌手としての彌勒には魅力を感じない私だが、演出家としてはなかなか筋がいいように思える。

例えば、第2幕の導入部にある舞踊調の快活な音楽にあわせ、直後の場面に現れる舞踏教師、仕立屋、従僕を登場させ、彼らに軽い振りをつけて、無理のない範囲で躍らせる工夫が面白かった。その振付は、あとのシーンで舞踏教師とカテリーナが交わす会話に基づいており、上流階級の恭しい挨拶の仕種をモティーフにしたものであるのも頓知が利いている。また、歌い手が必ずしも舞踊に馴れ親しんでいるとも限らないことに配慮し、ごく簡単な振付ながら、コミカルで、見栄えのする踊りを考えたのも必要な配慮であると思う。

なお、この3人組は狂言まわしとしての役割が強調され、真っ白なドーランを塗りつけ、薄くほお紅を注したメイクで登場する。

低予算とはいえ、第1幕の洗濯屋、第2幕の公爵邸、第3幕のナポレオンの部屋と、しっかり色分けがされているのも賞賛すべきだろう。特に、第3幕では緞帳を巻き上げて豪華な部屋の天幕をイメージし、いきなり登場する有名人、ナポレオンの存在感を補強するような質感を示している。第2幕で登場するカテリーナの騎乗用の衣裳もエレガントで、気品があり、そのようなポイントに惜しげもなく資源を注ぎ込むことで、洗濯屋の主が公爵夫人に・・・というあり得ない(実際にあったことだが)シチュエーションを実感のあるものとして見せているのは、演出としてなくてはならない視点だったろう。

髪型やメイク、衣裳にもこだわり、細かいところで劇のリアリティを追求しているのは、決して間違った姿勢ではない。なお、美術は土屋茂昭、衣裳デザインは友好まり子が担当した。

【当日の出来】

菊地については既に触れたが、ほかのキャストについては、さほど目立たなかった。ルフェーブル役の羽山晃生には期待していたが、今回、明らかに不調であったのは残念だったというほかない。特に、高音は音程がまったく当たらなかった。フーシェ役のバス、岡崎智行は声量があまりにも薄くて迫力がなく、ナイペルグ役のテノール、青地英幸はなかなか旺盛な表現ではあるが、いささか深みが足りなかった。周りがやや窪み気味のところで、菊地のパフォーマンスの素晴らしさが圧倒的に目立つ結果となったという面もあるのかもしれない。

オーケストラは、東京フィルでコンマスを務めていた平澤仁がコンマスに入り、チェロの諸岡由美子、ファゴットの角田高弘らを含む「東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団」が臨時編成された。指揮の時任康文は、この寄せ集めオーケストラから、驚くべき多くのものを引き出したことから及第点といえる。しかし、全体的にみれば、表現のニュアンスがワン・パターンで、箱(新国・中劇場)の音響特性もあり、いささかドライな響きが多すぎたのも確かである。特に、幕開きのプレリュードでは、あまりにも乾いた響きに違和感があり、いますこし艶やかな響きを求めたかった。

ただ、それにも関わらず、ピットから舞台上のバランスが優れており、舞台の緊張が奪われることはなかった。今回のプロダクションでは、特にチームワークが良かったという評価はできないが、それでも、短期間ながら、密度の濃い練習ができたのではないかと想像する。そういう意味でも、指揮の時任の功績は十分に加味すべきであろう。

【まとめ】

私としては深い共感の感じられる作品で、終演後は、実に清々しい感想を抱いた。ジョルダーノは、それこそ天上の出来事のような素材を選びながらも、そこに滑り込んでいるサン=ジェーヌの素朴で、力強い人間性を中心に、作品を組み上げた。そのような哲学が貫かれているだけに、私たちは作品を高嶺の花として拝むのではなく、自分たちに身近な問題として考えることができるのである。その分、ナポレオン時代を舞台とした史劇の緊張感は失われたが、作品と、それを観る者との間に広がる距離は縮まった。

しかし、マダム・サン=ジェーヌは決して、我々の弁護人としてのみ在るのではない。自らのルーツを忘れ、それを笑うかのような言動をとったナポレオンの妹たちを、果たして我々は笑うことができるだろうか。マダム・サン=ジェーヌの強さは、私たちの弱さを照らす。彼女は我々の理想であると同時に、我々に対する告発者でもあるのだ。誰もが彼女のようにしたいと願いながら、そうすることはできない。より正確にいえば、彼女のようにしようと決断すること自体が、相当に勇気のいることであると言えるのだろうか。

もしも、マダム・サン=ジェーヌのようにできるならば、戦争など起こり得ないのかもしれない。しかし、我々は自らの拠ってきたるものを忘れ、それを嘲笑うようにして他者を排撃する。私が得れば、ほかの誰かが失うという単純なことに気づけない。そして、その獲得を当然のものと思い、傲慢になっていく。失ったものを嘲笑い、軽蔑する。これは、人間の常である。しかし、サン=ジェーヌには、それがないのだ。

彼女はただの自由主義者ではなく、人々と分かちあい、守りあうという、社会の底辺にあるべき人間のつながり、いのちの繋がりをいつも大事にしている人間である。その分、ドーラン白塗りの仮面の生活には耐えられないということなのだ。言葉遣いや、細かい所作に表れる育ちの悪さは、彼女にとって、むしろ当然すぎる人性の根本部分であった。そして、その中心部分に「愛」があるのも、至極当然ではなかろうか。ジョルダーノは迫り来る恐ろしい時代のなかで、そこに希望を見ようとしたのかもしれない。

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