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2010年2月 1日 (月)

アンサンブル・ノマド フェルドマン クラリネット五重奏曲 ほか 第36回定期 春・ヤング・アメリカ 1/31

アンサンブル・ノマドは、ギタリストの佐藤紀雄を中心に活動している現代音楽のスペシャリストの集団である。一時活動を休止していたが、このところ再開していて、この日、36回目の定期演奏会に臨んだ。「時代を創造するパイオニアたち vol.2」として「春・ヤング・アメリカ」がテーマとなっている。これは、かつてアメリカから発信され、強い刺激を生み出した作品たちを取り上げるという意図をもつ。

【演奏者の選択性によるトランスフォーメーション】

まずは、ヘンリー・カウエル(1896-1965年)の『モザイク・カルテット』が演奏された。初演は1935年。この作品は一応、ラルゴ、アレグロ、アンダンテ、アレグレット、アレグロ・ノン・トロッポの5楽章からなるが、演奏者はこれらの楽章を自由に選択し、並べ替え、繰り返すこともできるという点が変わっている。その後の現代音楽では、古い時代に流行した即興性を復元したり、コンピュータ・プログラムやゲーム性を用いた偶然性の導入、人名表象などを使った偶然性の導入などを、特殊な音階と組み合わせて固有の作品を構成するストリームが生まれるが、カウエルはここで、演奏者の選択性というものを使って、それらを先取りしているわけである。

今回は、1,4,5,2,3,1,4,5という順番で演奏したが、これは古典的なソナタ形式を模したような、伝統的な解釈によるものといえる。それはカウエルのサウンドに対する演奏者なりの見方であり、非常に先進的な問題意識を有しながらも、カウエルのつくるサウンド自体は、西洋音楽の体系になおディペンデント(立脚)していたことに対する視点を感じさせる。

【音楽の世紀末】

2曲目は、アイヴス(アイヴズ)の『ヴァイオリン・ソナタ第2番』である。初演は1907年であるから、例えば、ラヴェルの『夜のガスパール』よりも古いのであり、「現代音楽」とはいえないかもしれない。確かに、そうした時代を反映する後期ロマン派の尖った美意識を反映する作品であり、通常のコンサート・プログラムに載せても十分に味わいぶかい作品だろう。例えば、ラヴェルの名品『ツィガーヌ』を思わせるようなヴィヴィッドな美しさもある。

作品は3楽章構成になっているが、謎めいたアダージョ・マエストーソから、典型的に展開するアレグロ・モデラートに転ずる第1楽章「秋」から、緩徐楽章を置かずに、いきなりエネルギッシュで、劇的な第2楽章「納屋」が導かれたあと、ラルゴとアレグレットによる哀切な第3楽章「復活」が来ている点である。1→3→2と演奏すれば、類型的な同時期の作品と、さほど隔たりがあるようには思えないかもしれない。しかし、手際よく第2楽章までに形式を織り込んだあとに来る第3楽章は、どこか空虚な響きである。「復活」というタイトルとは裏腹に、前2楽章で示したような形式が滅んでいくときの、懐古的な響きと聴こえなくもないのはアイロニカルである。

この第3楽章では、ラヴェル、ドビュッシーといった時代に足を残した大半の部分と比べて、のちに無調、多調、微分音程などと称されることになるアイヴスらしいサウンドの萌芽が顔をみせているが、それでも、まだ、その個性は旧時代の音楽にディペンデントなものが主体であるように見受けられる。それだけに、一層、音楽の世紀末的な雰囲気がよく出ているのであり、作品の興味ぶかさもそこにある。

ヴァイオリンは野口千代光、ピアノは中川賢一。野口の演奏はやや瑕が多いが、低音のずっしりした響きがヴィオラのようだ。中川のピアノの安定したベースもあり、作品の素晴らしさは十分に伝わってきた。さほどハードな響きが使われているわけではなく、既に述べたように、ヴァイオリンのスタンダード・ナンバーとして十二分に通用する作品といってよいのではなかろうか。

【カーター、ナンカロウ】

つづく作品は1908年生まれにして、現在も現役の作曲家であるカーターの『エスプリ・リュド-エスプリ・ドゥ』である。題名を邦訳すると、『粗い息-滑らかな息』となるようだ。ノマドの看板アーティストであるクラリネットの菊地秀夫とフルートの木ノ脇道元による明瞭なフォルムの描出が見事な演奏であった。1985年という制作年代にしては、既に「ありがち」なサウンドであるが、2本の楽器の関係性の揺らぎは十分に興味ぶかく、カーターという作曲家の奥行きを思わせる作品である。

ナンカロウの『タンゴ?』は、ロール・ピアノ(自動ピアノ)のためにつくられた作品の雰囲気を、通常のピアノ作品に置き換えたものであるという。機械的で、複雑なリズム体系を、生身の人間がいかに処理するかということが問題となる。演奏者はノマドの誇るヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、稲垣聡であったが、機械的な部分を残しながら、全体的に柔らかいリズムの揺らぎを大胆に印象づけ、ある種のユーモアを選び出していた。

【再びカウエル】

5曲目は、カウエルの『26同時モザイク』である。最初に演奏した曲は1935年の作品だが、この作品は晩年の1963年の作品である。ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、ピアノ、パーカッションの5人で演奏されるが、この5人は全部で26の断片をもち、それらを互いに交わすことで音楽が出来上がっていく。しかも、演奏者は任意のどの部分から初めてもいいので、作品は無数のフォルムをもつことになる。今回も、短めに2つのヴァージョンを演奏した。

なるほど、実際に2回演奏されてみると、それらのフォルムはまるで異なって聴こえる。確かに、さっき聴いたような断片の重ねあわせであるのに、それらの微妙なずれが、決定的に作品を異質なものにする。今回は、前列のヴァイオリン、チェロ、クラリネットの並びも変え、主導権を握る楽器をヴィジュアル的にも変えてみることで、聴き手に多くの情報を与えてくれる。

例えば、最初の演奏では、前列でセンターをとったチェロの動きで、全体のフォルムが切り替わっていくように聴こえたのに、2回目の演奏ではヴァイオリンがセンターをとることで、印象的だったチェロの直前で薄く刻んでいるようにしか聴こえなかったヴァイオリンの響きが、作品を動かす主要なドライバーに変わる。すると、作品全体がより繊細なメッセージで満たされることになり、チェロの深い音色を生かしたいわば情感的な最初の演奏と比べると、ずっと内面的な奥行きが広がることになる。

旧来の作品でも、アーティキュレーションの工夫により、同じ楽曲に異質なイメージを与えることも可能ではあったが、ここまでドラスティックなトランスフォーメンションは見ることができなかった。また、どの素材をどう組み合わせても作品が成り立つように準備していく過程は、想像を絶するほど豊かなイマジネーションの生成と、その抑制、コントロールによる旅のようなものであり、旧作品から30年以上も経っての傑作の完成に、想いをめぐらす一時であった。

【フェルドマンの大作】

後半は、フェルドマンの『クラリネット五重奏曲(クラリネットと弦楽四重奏)』がメイン。なにしろ、40分ちかくもある作品であるが、この時期のフェルドマンは、ほとんど動きのないまま、ときに数時間もかかるような長大な作品を書く傾向にあったので、そのなかでは短い作品ともいえる。

作品は冒頭から、クラリネットの中心的な響きに4本の弦がゆったりと寄り添い、ふわふわと風が吹くようなサウンドが延々とつづく。いわばミニマル・ミュージックの原型を見るような形であるが、のちのライヒのそれと比べると、作品はより内発的なものに感じられ、作り物めいた部分が少なく、ごくごく自然な味わいをもっているのが不思議である。「繰りかえし」や「ずれ」というよりは、ある時間、同じように吹いている風なのに、その実、一度たりとも同じように吹くことはない、そんな柔らかい雰囲気がずっと続いているのである。

そのため、私たちは、ライヒの音楽を聴くときのようにリズムをとったり、次の展開を待つということがなく、まるで潮風に吹かれながら、夕陽の暮れる海辺に長々と座っているように、作品を味わうことになる。小見出しには「大作」としてみたが、実際、そんな肩肘ばったポーズもない。ただ、そこにあるべき音楽が、ゆったりと続いていくだけのことだ。そこでは、音楽家も聴き手も、もちろん、作曲家も無きに等しい。しかし、無きに等しいとはいえ、確かにあるのである。

我々の国では、こうしたタイプの音楽として武満徹のものが有名で、武満自身、フェルドマンへのオマージュ作品も書いているが、フェルドマンの作品は、あの武満と比べてもずっと透明である。ずっとピアノがつづくタイトな表現になるが、クラリネットの菊地を中心に、5人の演奏家は粘りづよいパフォーマンスで、作品に自らを捧げた。特に20分前後からは響きのまろやかさが増し、作品世界に溶け込むサウンドとなっていった。

【まとめ】

最後は、実質的にアンコールのようなライヒの『木片の音楽』でおわった演奏会だが、やはり、ノマドの音楽は楽しかった。彼らの演奏自体の面白さもないわけではないが、私は、彼らが選ぶ作品が実に面白いと思っている。現代音楽をつまらないと決めつける前に、アンサンブル・ノマドの演奏会をいちど聴いてもらいたい。それでも何の面白み感じないというならば、それは仕方がないと思う。

今回は、良くも悪くも、現代音楽の潮流のひとつの中心であったアメリカからの発信が確認された。例えば、亡くなられた江村哲二氏は、そんなアメリカの功罪にいつも警戒的な姿勢をとっていた。なるほど、我々からみて、アメリカはいつも近くて遠い国でありつづけた。ディズニー映画や、ハリウッド作品に熱狂しながら、その軽薄な文化性にいつも疑問を投げかけてきた。マクドナルド(マク・ドゥーナルズ)やケンタッキーの味にのめりこみながら、脂ぎった食べものの健康に与える悪影響を、いつも心配しているのも同じことである。そして、また、米軍の駐留に国家の安全保障を託しながらも、その存在にいつも眉をひそめてきたのも同じことなのであろうか。

しかし、こと音楽に関するかぎりは、やはり、アメリカを避けて通ることはあり得ない。プログラムのなかで、代表の佐藤紀雄は、「かつてアメリカから世界に発信されたアートにおける新鮮な発想のひとつひとつ」が衝撃的なものであり、伝統的な概念を覆すだけではなく、「日常の生活世界を率直に投影するものとしての作品」という新しい概念を生み出したとして、深いリスペクト(敬意)を表明している。

正に、そうした視点から組まれたこの公演は、我々にとって「身近なタブー」であって、すこし遠くに置いておきたいような気のするアメリカの重要性を、ガツンと認識させるものであったといえるのではなかろうか。

【プログラム】 2010年1月31日

1、カウエル モザイク・カルテット (1935年)
 (vn:花田 和加子、甲斐 史子 va:吉田 有紀子 vc:松本 卓以)
2、アイヴス ヴァイオリン・ソナタ第2番 (1907年)
 (vn:野口 千代光 pf:中川 賢二)
3、カーター エスプリ・リュド-エスプリ・ドゥ (1985年)
 (cl:菊地 秀夫 fl:木ノ脇 道元)
4、ナンカロウ タンゴ? (1984年)
 (pf:稲垣 聡)
5、カウエル 26同時モザイク (1963年)
 (cl:菊地 秀夫 vn:甲斐 史子 
    vc:松本 卓以 pf:中川 賢一 perc:宮本 典子)
6、フェルドマン クラリネット五重奏曲 (1983年)
  (cl:菊地 秀夫 vn:甲斐 史子、花田 和加子 
             va:吉田 有紀子 vc:松本 卓以)
7、ライヒ 木片の音楽
 (木片:中川 賢一、甲斐 史子、木ノ脇 道元、
                    佐藤 紀雄、宮本典子)

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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