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2010年2月14日 (日)

ホグウッド 陽気の人、ふさぎの人、聖セシリアの祝日のためのオード HFJ公演 2/13

ヘンデル・フェスティバル・ジャパン(HFJ)は、本年のヘンデル・メモリアルに向けて、2003年からレクチャーとパフォーマンスをあわせた息の長い活動をおこなってきた。そのなかでも最大のイベントが、ヘンデル研究および演奏の権威であるクリストファー・ホグウッドを迎えての演奏会である。

今回、取り上げられたのはオラトリオ『陽気の人、ふさぎの人、中庸の人』(HWV55)であるが、そのうち、第3部として置かれていた『中庸の人』に代わり、(HWV76の)『聖セシリアの祝日のためのオード』が当て嵌められた形での上演となった。これは1743年の再演以降、しばしばヘンデル自身が試みた組み合わせであるとのことだ。また、オードについては、ソプラノのアリアのうちフルートをモチーフにしたナンバーを、当時の名アルト歌手、シバー夫人のために編みなおした異稿で演奏するという試みがなされた。この異稿は現在までに出版がなされておらず、ヘンデル存命の時代を除き、いちども演奏されたことがない「現代初演」となる模様だ。

なお、『陽気の人、ふさぎの人、中庸の人』は、わが国ではほとんど演奏される機会がないが、欧州ではわりと知られていて、アリアなどはしばしば歌われている作品として位置づけられるようである。テクストはジョン・ミルトンの詩に基づき、ストーリー性はない。情感的にして外向的、耽美的でもある「陽気な人」と、思索的にして内省的、抑制的でさえある「ふさぎの人」の歌詞が、交互に表れ、それに対応した音楽が付されている。なお、この曲に対してヘンデルはシンフォニアを書かず、しばしばコンチェルト・グロッソやオルガン協奏曲を代用したが、今回は、前置きなくアッコンパニャートから入る形態を採った。

一方、オードはジョン・ドライデンの詩に基づき、音楽の守護聖人、セシリアを讃え、同時に音楽の素晴らしさを賞賛する歌詞が付されている。長さはオラトリオの1部程度になっており、それ単体では短すぎる作品とともに付加的に演奏された可能性が高いという。そのため、聖セシリアの祝日(11/22)のための宗教行事として演奏されるとは限らないようだ。

今回は、これらの合体物を一作品として論ずることにする。

【親密な音楽】

さて、演奏の所感に移ろう。全体を通してつよく感じられたことは、とても親密な音楽だということである。わりと大きな管弦楽編成であるものの、音楽自体はわかりやすく、歌詞と音楽の対応も素直で、響きも素朴なものが多く、笑い声やナイチンゲールの鳴き声、晩鐘など、具体音を使ったモティーフも数多くみられる。非常に緻密に書かれた作品ではあるが、それを感じさせない単純さ、率直さをまず感じる作品だと思う。テクストは哲学的な面があるものの、言葉には飾りがなく、実感的なものが主体となっていること、ギリシア哲学的な率直な対話が中心に置かれていることもあり、知的反発が起こらず、メッセージがすっと身体のなかに沁み込んでいく感じがする。

音楽的にも、それぞれのナンバーがシンプルに構成され、まとまりの良いメッセージで統一され、まるで無駄がない。そのため序盤戦は、やや淡白な印象も受けるかもしれない。しかし、「陽気な人」と「ふさぎの人」の大まかな交代、また、それぞれの中における微妙なグラデーションづけが音楽に投影され、また、最適のタイミングでコラール的な合唱が置かれていることも含めて、聴き手の集中力を途切れさせない繊細な配慮がみられる。なにより音楽的なメッセージが実にリラックスしたものであることから、我々は作品のもつ親密な雰囲気に対して、遅かれ早かれ寛いでしまうことだろう。

イタリア・オペラ的なアジリタも多用されており、それが例えば、笑い声やナイチンゲールの鳴き声に応用されており、このような面白い響きを書けることがヘンデルの魅力の大きな部分を占めていたのだろうが、こうした技巧性のある種の華やかさは、作品のもつ寛いだ雰囲気を損なわないように柔らかく使われている。そのことは多分、今回の4人の歌手たちの意識的な配慮にも基づいていようが、なかでも、波多野睦美の肩の力の抜けた歌いまわしは、上のような作品の特徴を見事に捉えている。

【歌手たちのパフォーマンス】

ここで、歌手たちに言及しよう。まず全編のなかで、もっとも多くの役割が与えられるのは、ソプラノである。佐竹由美が歌い、安定感のある歌唱で、清楚な歌いくちを聴かせた。穏やかで味のあるアジリタ、情感をたっぷり込めての肉厚な表現は素晴らしい。これで波多野ぐらい、言葉にこだわった表現が聴かれれば言うことはないのだが。オードの最後のナンバーで、「聖なる歌の力で宇宙が始動・・・」と歌ってフィナーレの盛り上がりの口火を切る部分は迫力があった。

これと対をなすテノールは、このフェスティバルで大いに活躍した辻裕久である。英語ディクションの柔らかさが群を抜いており、同じく英語の歌曲を得意とする波多野と双璧をなす。流れるような言葉のコントロールや、癖のない中性的な歌いまわしは曲にあっているが、表現の立体性が不足し、例えば、オードのトランペットと太鼓がフィーチャーされるような勇ましいエピソードでは、いささか表現の肉厚さに欠ける。ポジションも慎重で、テノールとしては危うさに欠けるのが難点だろう。

バスは牧野正人で、ベテランらしい落ち着いた歌唱で申し分ない。

波多野については既に話題に出ているので繰り返さないが、なんといっても、歌の表情のゆたかさにおいて特筆すべきものがあろう。第1部の第4曲のふさぎの歌詞で、「至聖なる憂鬱」を歌うときのメランコリーは序盤の最初のヤマとなり、聴き手をぐっと惹きつけたし、オードの「現代初演」のアリアも、「フル-トは優しくも物悲しい音色で/消え入るように悲恋の苦悩を歌い上げ/リュートは哀歌に打ち震える」という甘みの歌詞を、引き締めた歌いくちで見事に印象づけた。

【ヘンデル=対話力の高い作曲家】

さて、今回の演奏会でもっともつよく印象づけられたのは、ヘンデルという作曲家のもつ天性の対話力であった。一体に優れた作曲家は「対話力」に優れ、大バッハはその力を専ら神さまとの関係において用い、ベートーベンは一対多という関係のなかで用いたが、ヘンデルはよりパーソナルな語りかけを身上としている。彼は、われわれ聴き手のことを誰よりもよく理解しており、その自然なこころの動きを掴みながら、繊細な配慮を重ねた。しかも、実際は彼の掌のうえで聴き手を転がしているにもかかわらず、あたかも聴き手が自分たちのやり方で、彼の音楽を切り取り、受け取っているような錯覚を与えるように、メッセージを仕込んでいる。

その点、今回の作品でもっとも奥が深いのは、第2部の部分であることは議論を待たない。このパートはごく内省的な深みをもっており、派手さはないものの、じわりじわりと内側に沁み込んでくるようなテクスト、音楽性をもっている。それは単に「内省的」というよりも、我々がひとりひとり見ている夢のなかを、覗きみるような・・・もしくは、起きながら、その世界を追体験するような感興を備えているとさえ思うのである。言うまでもなく、夢博士・ユングの登場は、1世紀ちかくもあとのことだ。その段階において、ヘンデルは、人々を夢のなかで裸にする術を体得していた。

そうしたことを演奏上、はっきりと認識させるためには、アンサンブルとしてより十分な準備が必要である。

今回はそうした部分の見事さは後退し、より率直なメッセージが前面に出ている。それは第1部の表情ゆたかな音楽性の、絶え間のない細々とした推移であり、あるいは、オードの快活で、実感に満ちたメッセージの力強さに象徴されている。

【意外とファジーなホグウッド】

ホグウッドの音楽づくりは、意外にファジーなものに思われる。ここはこう、あそこはこう・・・と細かく指導するタイプではなく、アンサンブルの対話からあがってくるメッセージを手際よくまとめて、ときどき驚きに満ちたヒントを与えてくれるような、そういう指揮者だったのではないかと思う。実際、どうだったかは知る由もないが、演奏を聴くかぎりでは、そうした練習風景を想像させたとうことだ。

しかし、出来上がってきた音楽は、来週に公演を控えるコンセール・スピリテュエールの演奏にもヒケをとらないであろう、リアリティのある演奏であった。臨時編成とはいえ、この日のために備えて息の長い活動をつづけてきた成果は、十分に出ていたのではないかと思う。あとは、より思いきったアンサンブルの伸縮というのがあれば申し分なしだが、わずか1週間弱で、そこまで仕上げるのは至難の業というものだ。

良くも悪くもファジーなホグウッドの指揮は、今回の演奏をもちろん、特徴づけることになっている。自由で快活なサウンド。肩肘張らずリラックスした音楽づくり。柔らかい対話力。押し付けがましくなく、じっくりと穏やかに語りかけるかのような、ナチュラルな表情づけ・・・などである。一見、清潔で、濁りのない響きを整然と織り上げているように見えるが、それはむしろ、オケの側がもつ外見なのかもしれない。

広瀬奈緒(ソプラノ)などを含む合唱団は、非常にレヴェルが高い。コラール風の合唱の、よく抑えた美しさというのには、誰もが感動したことだろうと思う。ほぼすべてのメンバーが高い修練を積んだ歌手たちであり、そのなかで、声質が柔らかく統一されていた点を特に強調したい。

ホグウッドがこうした音楽家たちを信頼して音楽をつくっていったのは明らかであり、その威張らない、謙虚な人間性と、相手を尊重し、引き立てる資質の素晴らしさは、さすがに一流の指揮者というところである。今回は、出版されていないオードの楽譜をこの公演のために、自ら校訂して演奏しれくれるなど、彼の存在なしには成り立たない部分もあった。オードのアリア異稿の現代初演に、HFJの名前が刻まれることにもなり、実に名誉なことである。それだけで意義深いとは言わないが、HFJは一連のプロジェクトの最終回を納得のいく形で締め括れたのではないかと思う。

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