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2010年2月28日 (日)

エルヴェ・ニケ 劇付随音楽 アーサー王 ル・コンセール・スピリテュエル 2/27

神奈川県立音楽堂の「音楽堂バロック・オペラ」シリーズに出演し、パーセルの『アーサー王』を演奏した。この作品は正確には、ジョン・ドライデンの台本に基づく史劇の付随音楽として書かれているため、合計10のパートは一貫したドラマトゥルギーでつながっておらず、アーサー王や魔術師・マーリン、悪役のオズワルドと魔術師・オズディン、さらにはヒロインのエメリン姫などが歌う場面すらない。

今回は、この劇付随音楽を字幕や、解説文で補強し、最終的には音楽的な感興を中心に楽しんでもらうという趣向であり、一応、セミ・オペラとして位置づけている。既にヨーロッパで上演実績があり、パート譜などの校訂はニケ自身のオリジナル・エディションに基づいているという。国内版の演出は伊藤隆浩が担当したが、上手と下手に小舞台が用意され、中央後方に字幕+映像投影用のスクリーン、真ん中にどっかとオーケストラが陣取るかたちであり、ヴィジュアル的なものからいっても、どちらかというとオラトリオの上演というに相応しいようだ。

【ニケの構想の勝利】

さて、上記のように甚だ問題の多い上演であるにもかかわらず、公演自体は成功したといえるのではなかろうか。本来は添え物であったはずの付随音楽を中心に持ってきて、肝心の劇を省いたことは、この作品の仕掛人だったドライデンの意図を大きく裏切るものなのであろうか。今回の演奏を聴くかぎりでは、私はそのようには思わない。むしろ、だらだらと続いたであろういかにも中世的で、形式的な、英雄譚的史劇の部分が取り除かれたことにより、ドライデンが作品に込めた本来の意図が、むき出しに伝わって来ることになったとみる。

つまり、この作品のもっとも重要なポイントは、伝統的なカトリシズムはもとより、ルター的なプロテスタンティズムとも異なる、英国のピューリタニズムに基づく人間解放的な哲学、よりフラットな宗教的構造による社会実現を謳歌する方向性にあるからである。音楽のなかでは、性的なもの=愛の優位性が頻りに説かれており、見方によっては野卑ともいえるほどに牧歌的な愉悦が、あたかも神聖なものとして描かれている。愛の神、キューピッドに導かれたブリトゥン人たちがオズディンの魔法による寒さから目覚め、キューピッドの暖かな愛のこころに浴して、悦に入る部分こそは、実のところ、この長大であったと想像できる劇世界のクライマックスを成し、ドライデンの哲学をいやというほど沁み込ませた部分だったのではあるまいか?

ニケは多分、こうした劇付随音楽の特質を完璧に把握しており、これを逆手にとって、現代人にとっては(多分、イギリス人にとってさえ)もはや古くさいアーサー王伝説のプロット(筋書き)を飛び越えて、17世紀の世界観から共感できる部分だけを取り出し、最終的に、魅力的な音楽的産物を易々と享受できるように構想を整えたものとみられるのである。伊藤の演出はさらに、それを逆手にとったものであり、いささか問題があると思うが、それは後述することにして、とりあえずニケの構想自体は十分に納得のいくものであり、その勝利は疑うべくもないであろう。

面白いのは、この作品が特に現代において取り上げるべき傑作だとか、群を抜いた名作に連なるものとして誇大的に演奏するのではなく、むしろ、もう何十年、何百年も前からそこに存在した(実際、17世紀には存在したわけだが)作品であるかのように、あらゆる意味で安定した上演を披露していることである。これが、今回の公演の特長をなしているといっても過言ではない。非常にナチュラルで、当たり前のように演奏しているコンセール・スピリテュエルのパフォーマンスに、我々はすこしも違和感を覚えない。そして、パーセルの『アーサー王』を、以前からよく知っている作品のように聴くことができた。これが、重要である。

【音楽的な感想】

そうした意味で、音楽的に強烈なカタルシスがあるとか、そういう面で作品や上演を語るべきでないことは言うまでもないだろう。しかし、非常に豪華で、華やかだった宮廷音楽の面影をみることは容易い。今回、僅かにバレエが導入されたように、本来は、多くの舞踊家が華やかな衣裳で舞い踊ったことは想像に難くないし、パーセルの真骨頂であるふくよかな和声が活力十分に展開している。例えば、幕開きのシンフォニアに始まる豊富なエネルギーに満ちたスリリングな展開は、思わず我を忘れさせる魔力をもつ。

しかし、その後の展開は、どちらかというと手堅い。オズワルド、アーサー王両陣営の歌(応援)合戦的な描写など工夫に満ちているが、音楽的には非常に安定したオラトリオ、カンタータ的なエピソードがつづく。このあたりでは、声楽家のやや非力な面が若干のストレスを呼び起こしたかもしれない。

キューピッドが登場する第3幕あたりから、パーセルの音楽はいよいよ本領を発揮しはじめる。(パーセルの時代から見た)かつてのイギリスの置かれた状況を皮肉ったようなキューピッドと、ブリテン島の守護神のコミカルなやりとりから始まり、愛の神に呼び覚まされた人々の祝宴につづく場面は、思い出ぶかいシーンになりそうである。ここで合唱団はスピードスケートの走法を真似したダンスを踊るが、これはバンクーバー・オリンピックでの長島・加藤両選手の活躍から、急遽、取り入れた動きだと思われる。それはともかく、音楽的な工夫が面白い。

象徴的なのは、キューピッドと島のニンフたちの掛け合いが起こる場面で、キューピッドを歌うソプラノ歌手を2人用意し、前後半で歌い分けさせていたことである。愛の神の呼びかけのあと、ニンフたちが愛の女神を称揚し、再びキューピッドが存在感を示すわけだが、最後、お前たちを暖めたのは私だと嘯く場面で、2人の歌手は声を競うように肩を並べ、私だ、いや私だと争いあうように歌うコメディが用意されている。これは最後の祝宴の場面でも、ひとりのオトコをめぐって、脇のソプラノが声を競う場面に対応しているようだ。

歌手たちは若く有望な人たちが選抜されているが、バスのジョアン・フェルナンデスが抜きん出ている。終演後のエンド・ロールでも彼一人が最後に紹介されたが、それだけオイシイ場面を歌っているとはいえ、バスにしては際立って清澄で、多様なニュアンスに満ちた歌声で、会場を魅了した。英語のディクションも明確で、彼の場合は、言葉のレヴェルで楽しむことができる歌を聴かせてくれた。

これに続いて特筆できるのは合唱で、中央にスクリーン用の突起物を挟むことで、アンサンブルの連携が掴みにくいタイトな状況にもかかわらず、美しいアンサンブルを披露して見事だった。

ル・コンセール・スピリテュエル(管弦楽)の響きについては、彼らとしては、若干、精度を欠いたような印象も受けるが、もちろん、それは非常に高レヴェルな次元でのはなしである。古楽器ならではの響き、彼らにしか出せない響きが随所に聴かれて、やはり、このアンサンブルを聴くのは楽しい。特に冒頭のシンフォニアの部分の愉悦感や、最後の祝宴のシーケンスにおける展開の濃密さには参った。

【演出】

伊藤隆浩の演出は自ら控えめというわりには饒舌で、やや考えすぎたのではないかという印象を受ける。元来、王宮におけるごった煮的な、豪勢な出し物であったことを踏まえ、とにかく、受け手がまともに受けきれないほどの情報量を与えようとする点で、彼の演出は理解できる。ニケ&コンセール・スピリテュエルによる音楽面、合唱を中心にして、歌手たちの演技、バレエを含む踊り、字幕による遊び、影を含む照明の遊びなどを、わっと詰め込んだ舞台は、17世紀におこなわれた本来の上演を思い浮かべる意味では、まるで無駄であるとまでは言えない。

しかしながら、そのことによって、演出の焦点がぼやけてしまった印象も否めないのだ。作品の性格からしても、全パートを通じての演出の一貫性を求めるわけではないが、では、それぞれのパートが単独で完璧に成り立ち得るような、強烈な演出意図によって固められていたとも思えない。ドライデン一流の皮肉は曖昧模糊としたものとなり、悪ふざけした考察ノートのような字幕遊びは、伊藤の苦労した成果を十分に物語らず、一口にいえば下卑ている。これは凄い作品なのだから、大真面目にやれと言っているのではない。ふざけるならば、徹底的にふざけよと言っているのである。また、ふざけるにも筋が通っていなくてはならないと言っているのである。

例えば、キューピッドに集められた人々が愛の賛歌をうたうのを、思いきり「ピンク」な方向で捉えるのも悪くはなかったろう。しかし、そうしたメッセージは英国的なピューリタニズムの開放感をうたう17世紀のブリテン島において意味があったとしても、もはや、そのような性的な解放が過度に強調されている現代においても、なお意味をもつ解釈なのであろうか。それはいわば、F1中継の最中に意味もなく美女が映されるといった安っぽいコマーシャリズムを助長するだけで、当時のように、人間の本性を描くことにはならない。これを当時における風刺性と同価で描くためには、より突っ込んだイロニーが求められるのである。

また、この祝宴の場面で、道具立ての類似性からシェークスピアからの影響に思い当たり、『ファルスタッフ』(ウインザーの陽気な女房たち)と同じであると主張する字幕の遊びは噴飯ものだ。そんなことは『真夏の夜の夢』のパックに対応するグリムバルドが中心に来ていることで、とっくに気づいていなくてはならない。その世界観を、現実世界に応用したのが『ファルスタッフ』の悲劇であり、これらに対するオマージュがドライデンの頭のなかにあったのは疑う余地もない。そもそも16-7世紀の英国に生きた、有能な詩人、戯曲家、劇作家で、シェークスピアの影響を受けなかった者などないだろう。

シェークスピアからの影響を風刺的に描くとするならば、そのような表面的な対応関係を見るだけでは無意味である。

バレエの導入は当時の決まりごとをプラスに捉えた方向性で、私としては歓迎するが、演出と振付の関係はいささか微温的で、やはり焦点のずれた印象を受ける。上手、下手の小舞台では踊るのに十分なスペースもなく、反対側からはステップも見えないため、東京シティバレエ団の面々も十分に本領発揮とはいかなかった。なお、バレエは実際に舞台上で踊るものと、事前に収録してシルエットでスクリーンに映すものと2種類があった。どちらかというと、シルエットのほうの印象がつよく、舞台上での舞いはいささか中途半端に見えた。

【まとめ】

私としては、いくつかの不満もありながら、全体的には好ましい舞台であったと感じている。なんといっても、この作品はこのアンサンブルでしか聴くことができないであろうし、しかも、そうした舞台を最高級の出来映えで鑑賞できたことも嬉しい限りだ。今回、2日間の公演日程が組まれているが、もしもロング・ランが組まれれば、観る度に面白くなる舞台だと思う。

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コメント

実に立派な評論であると思います。
自分には難しいことは分かりませんが、27日の舞台を見る限り、最高の音楽、最低・下劣な演出。
「一口でいえば下卑ている」。おっしゃるとおりで、
自分としては、スライドもいらぬ、バレエもいらぬ、音楽だけでいいから料金を安くしろ、といいたいです。あまりのアホらしさに、後半はず~と目を瞑って聴いていました。残念だったな。内容はともあれ、やるなら筋を通して徹底的にやるべし、というのは賛成。伊藤という演出家の愚劣さは十分に表現されていた。

タルオさん、コメントをありがとうございます。私は最低・下劣などというほど怒ってはいませんが、かなり外した感じであるのは間違いないと思います。『バヤゼット』のときは、シンプルでいい舞台をつくったのに、表現者としての欲が出たのかなと感じています。

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