2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 新国立劇場 新シーズン展望 | トップページ | ホグウッド 陽気の人、ふさぎの人、聖セシリアの祝日のためのオード HFJ公演 2/13 »

2010年2月 8日 (月)

セゲルスタム シベリウス 交響曲第1番 読響 @横浜みなとみらいホール 2/7

この日の演奏会の成功は、最初の一音ではっきりとイメージできた。聴きなれた『フィンランディア』冒頭の金管の驚くべき弾力性にドキリとして、一気に身が引き締まる想いをしたのである。この曲のもつ背景からいって、それはソ連の威圧的な政治支配を象徴する響きなのであるが、それだけではなかったのだ。その内側に包み込まれる人民の息吹きをも感じさせなくてはならない。セゲルスタムは明らかに、そのことを意識している。だから、あの金管の出だしはただ威圧的ではなく、新雪のようなふわふわした弾力性に満ちていたのだ。

これは、レイフ・セゲルスタムが指揮する読売日本交響楽団「みなとみらいホリデー名曲コンサート・シリーズ」の演奏会の模様である。彼の演奏を聴くのは、4年ぶりということになる。そのときは『展覧会の絵』とドヴォルザークの『交響曲第9番』によるコンサートで、とある知人に素晴らしい座席を提供してもらった思い出がある。彼も、私が普通に生活していれば出会うこともなかったであろう人であった。それはともかくとして、その風貌からも、やはり真冬に出会いたい指揮者であるセゲルスタムにとって、やはり北欧のレパートリーは打ってつけであったろう。それも今回はオール・シベリウスなのだから、彼にとって得意中の得意ということになるはずだ。

【フィンランディア】

まず、最初に述べた『フィンランディア』の演奏で度肝を抜かれた。セゲルスタムの演奏は、非常に豪胆である。しかし、先月のオルソップとちがうのは、それにもかかわらず、まったく押しつけがましくない、自然な風合いに満ちた演奏であった点にあるだろう。この曲はシベリウスの作品のなかでも、『交響曲第2番』とともに人口に膾炙したもののひとつであるが、今回の演奏はあまり好きな表現ではないが、「名演」というに相応しいだろう。セゲルスタムは母国のオケを相手に録音も残しているが、繊細な表情づけの妙や、丁寧な音楽の推移については勝るとも劣らない。

こころなしゆったりした音楽の運びで、構えの大きな演奏をめざしたセゲルスタムは今回、リズムやテンポの動きに任せず、真正面から響きと向きあう形で、読響のメンバーと向きあった。例の金管の立ち上がりのあと、弦が深い音色で入り込んでくるときには、瞬時に重たい雪が降りかかってくるイメージが浮かび上がってくる。録音とは根本的にイメージもちがっていて、いささか殺伐とした闘いのイメージすら連想させる鋭い演奏ではなくて、厳しいなかにも穏やかな「温度」に恵まれたフィンランドの情景にフォーカスし、響きのゆたかさをじっくりと聴かせる構想がはっきりしている。

こうして交響詩の性格はいささか変化して、そこに含まれる詩情のゆたかさは、より鮮明に位置づけられた。例えば、トリオ的な中間の木管主体の部分については、1つ1つの楽器が奏でる旋律線のたおやかさが、なんとも丁寧なアンサンブルに滲んでいた。また、燃え上がるような主要テーマもずっと柔らかく、自然で、容赦なく向こうから襲い掛かってくるのではなく、聴き手が選び取ることができるような自由な部分を残し、余裕のある演奏に聴こえた。

録音を聴くかぎりでは、セゲルスタムはもっと煽り立てるような強い演奏をしており、日本の繊細なオーケストラを相手にするに当たり、明確に解釈を変えて演奏しているのがわかる。

【先行の作曲家とシベリウス】

ところで、この日の演奏会では、シベリウスという作曲家と、先行する偉大な作曲家たちとの対比も見ることができた。なかでも、『フィンランディア』をはじめとする今回の3曲は、チャイコフスキーの影響が濃厚である。浅学にして、そのことがよく言われることであるのを私は知らなかったが、例えば、『交響曲第1番』の冒頭、クラリネットの内省的なソロに始まり、その後、弦がさっと世界を広げるという構図は、チャイコフスキーの交響曲第5番とほとんど同じである。そのほか、オーケストレーションの特徴や、曲の運びのスタイルをみると、シベリウスが明らかにチャイコフスキーを意識して出発したのは、紛れもない事実であろう。

しかし、それだけではない。まったく予見なしに聴いていて、例えば、『ヴァイオリン協奏曲』の終楽章には、同じ北欧のグリーグの影響が見られるように思ったし、同じく協奏曲の独奏部のスタイルにはブラームスの影響も垣間見えるようだった。そして、交響曲の第1楽章のアレグロ部分では、ベートーベンの「第九」や「エロイカ」を思わせる節まわし、構造すらあるのであって、こうした要素を明確に意識し、また聴き手にも意識させながら演奏しているセゲルスタムの演奏の明晰さには、深い感銘を受けた。上記のほかでは、マーラーやベルリオーズの影響も感じ取れる部分があったことを報告しておく。

ただ、面白いことに、シベリウスはそうした過去の偉大な先達の模倣を試みながらも、あるところから先にいくと、それとはまったく異質の世界に踏み込んでいくのである。その点も、セゲルスタムの視点は鋭い。シベリウスがどこまで先達の知恵に寄り添い、どこで決断し、乖離していったかがはっきりわかる演奏だったのだ。

私はもともと、優れた作曲家は「成長」しないという持論をもっている。彼らは初めからすべての要素をもっていて、彼の進んだ人生の道筋や、作曲のステージに応じて、引き出してくる部分が違うだけだという見解である。あるいは、それもまた「成長」の一形態といえるのかもしれないが、極端なことをいえば、その作曲家が7番目に書いた交響曲が最初に書かれる可能性もなくはなかったとみる点で、若干、ものの見方にちがいがあるように思われる。

例えば、交響曲第1番の終楽章のおわりにみられる、息の長いフレーズが浅いクレッシェンド気味に延々と膨らんでいくクライマックスのつくり方は、傑作のひとつといわれる同じ作曲家の交響曲第5番のフィナーレを予告している。そうした点からみても、34歳にして最初の交響曲を書いた「未熟な」シベリウスが、多くの先達の知恵を借りながら作品を書いた成長物語の第一歩として、この作品を眺めることには抵抗を感じる。シベリウスは、自らがいささか時代遅れなポイントから出発していることを、はっきり認識していた人物だ。彼は自らの作品のもつ存在意義にいつも懐疑的で、そのせいか、91年の人生の最後半の30年もの間は、作品を発表することはなかった。

そんな彼であってみれば、先行の作曲家の影響をもろに受けて、ついついその作風で書いてしまうということはあり得ない。彼がやったのは、非常に上品なコラージュのようなもので、それらをぐにゃりとひねってグロテスクな・・・というよりも、エレガントな展開をみせて、自らの音楽世界を出現させることは訳のないことであったのだ。セゲルスタムは、その点をよくわかっている。この日の演奏を聴いた人たちは、音楽の切り替えがはやく、実に見事なひねりのテクニックが次々に披露されていたのに気づいただろうが、それはこうした理由によるのだと思う。

【具体的な感想】

交響曲第1番は演奏機会が多くはない作品であり、実演は初めてだった。私はシベリウスの交響曲のシンプルな美しさを愛しているが、この作品も、既にしてそのような性質を示している。既に述べたようなコラージュ的な性格を浮かび上がらせながら、それとは異質な展開、コンパクトな構造を手際よく示していくセゲルスタムである。読響の演奏は、散文的というよりは韻詩的であり、絵画的でもあった。リズムの停滞を感じさせる部分もあるが、そこには大胆にもイメージの強烈な静止画が差し挟まれ、白雪に彩られた銀世界と、そこに住む妖精(トロールのような)のイメージが位置を占めるのである。

1-3楽章の丁寧な筆致もさすがであるが、第4楽章が圧巻だったといえる。元来、前の3つの楽章に比して悲劇的な響きが強いのは確かだが、この日の演奏ではテンポが総じて抑え気味であったこともあり、より重々しい陰影が印象的に思えたのかもしれない。しかし、長い夜のあとに来る朝日の美しさは格別であるように、闇が深いければ深いほど、終結の盛り上がりは意味を増していく。既に述べたようななだらかな上り坂では、慌てず騒がず、じっくりと歩を進め、響きを育てていく。クライマックスへつづく9合目で、ツンと響きを抜く場面の見事さも忘れられない。パウゼを挟みながら深い緊張感を織り上げつつ、聴き手をぐっと舞台上に惹きつけていくときの絶妙の間合いも素晴らしい。最後、集積したエネルギーをふうわりと解放し、色気ムンムンに終わると会場はしんとして、セゲルスタムが力を抜くまで、余韻を味わうことができた。

ヴァイオリン協奏曲のソリストは、今年、開催される仙台国際音楽コンクールの第2回の覇者である松山冴花であるが、特に低音の重厚な響きに特徴のある演奏であった。ホールの響きの特質のせいか、ややくぐもった響きにも聴こえて、高音の伸びが足りず、ヴィブラートの質もやや硬めなのは褒められない。ヴァイオリンの強いパーソナリティを要求するセゲルスタムのゆったりした伴奏に、松山の力量は十分に応えたとは言い難いだろう。セゲルスタムはこの曲を大得意としており、数々の録音があるが、今回はきわめて重心の低い演奏であり、その点においては、松山の低音の魅力はプラスであったが・・・。

松山冴花は(ヴァイオリンで通用しないと言っているわけではないが)、セルゲイ・マーロフのように、ヴィオラをやったら魅力的なのではないかと思う。

【まとめ】

今回は、非常に素晴らしい演奏会であったと思う。魅力的ではあるが、2番のように有名とはいえない1番の演奏において、あのように聴き手のこころを掴んだセゲルスタムの力量は、やはりタダモノではなかった。決して手足のながい人ではないが、それをいっぱいに伸ばして指示を出すと、その動きに見事に対応した響きが出てくるという、オーケストラとの濃密な対話が聴かれたのも、既に常連となっている指揮者の特権なのであろうか。非常にタイトな要求を出しながらも、それらは決して押しつけがましいものではない。それは、オケの人たちの溌剌とした動きをみればわかることだ。

それが音楽自体に表れており、既に述べたように押しつけがましくなく、闊達な、作品に寄り添った自然な響きとして形になっている。私が聴きたかったのは、このような音楽なのだ。

【プログラム】

オール・シベリウス・プログラム
1、交響詩『フィンランディア』
2、ヴァイオリン協奏曲 (vn:松山冴花)
3、交響曲第1番

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:横浜みなとみらいホール

« 新国立劇場 新シーズン展望 | トップページ | ホグウッド 陽気の人、ふさぎの人、聖セシリアの祝日のためのオード HFJ公演 2/13 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/47509995

この記事へのトラックバック一覧です: セゲルスタム シベリウス 交響曲第1番 読響 @横浜みなとみらいホール 2/7:

« 新国立劇場 新シーズン展望 | トップページ | ホグウッド 陽気の人、ふさぎの人、聖セシリアの祝日のためのオード HFJ公演 2/13 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント