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2010年3月20日 (土)

飯守泰次郎 バルトーク 青ひげ公の城 東京シティフィル 237th定期 3/18 

【ポエム】

血塗られている 

拷問台や戦場に流れた血は
いまや 我々の富 花・・・それは愛
そして 土にまで
沁みこんだ

われらの血の代価を
どこかで 受け取るものがいる
だが そのことは問うまい

朝も 昼も 夕暮れも
そして いまや夜さえも
奪われたのだ
だが そのことも問うまい

生きてこそ 今日もまた夜がやってくる
なにも問うな さらば 苦しむこともない

血塗られた夜の ものすごい 闇
そこで見つけた 遠い夜の記憶
声もなき 夜明けの予感

【青ひげ=フライング・ダッチマン】

オーケストラがつづくので、この公演をみるかどうかは迷った。しかし、バルトークの歌劇『青ひげ公の城』は、どうしても観ておきたい作品のひとつだった。実のところ、これが初めての体験となる。私はこういう場合、言うところの「予習」という作業をあまりやらない。そうすれば、この作品があまねく世に知れ渡った作品であるとしても、少なくとも自分自身のなかでは、作品が初めて観られたときの新鮮さを味わえるからだ。今回の場合、その新鮮さは大いなる苦味を伴い、文字どおり号泣させられた。

あとにも先にもインディペンデント(独立的)な価値を誇るバルトークの『青ひげ公の城』は、古くからある伝承をもとに、詩人のベラ・バラージュがそれを大幅に翻案した心理劇として受け取られている。隠しておきたいオトコと、見たいみたいと迫るオンナの価値観のずれと、禁断を破ることで災厄を招くメルヒェンの筋書きが、意図的に重ねられているというわけだ。これは非常に人間的なテーマで、掴みやすい。飯守のプレトークも概ね、これに従ったものである。しかし、本当はもうひとつの奥御殿がある。それは正に、バラージュ=バルトークの愛国心に基づいている。

ハンガリーは中世における隆盛を経験しながらも、トルコの勢力が及ぶようになってからは、他民族の支配と向きあう時代がつづいた。表向きハンガリーの地位は維持しても、支配者と妥結し、上流社会だけが得をする歴史が続いてきたのだと思う。第1次大戦で敗戦国となり、ハプスブルク帝国から分離されたあと、敗戦の憂鬱を払うかのようにナショナリズムが台頭したのは、そのような歴史の反動であったといえる。ハンガリーの本当の自由を探して、国家としての旅は続いていく。この「さまよえるオランダ人」のような国家の姿こそが、青ひげに他ならない。

そうすると、ユーディットは『オランダ人』におけるゼンタの役割を果たすことになろう。確かに、女は無償の愛で青ひげを包み込み、驚くべき執念を発揮してすべての扉を開かせると、巌から身を投げて呪いを解いたゼンタのように、青ひげの城を浄化するかのような勢いを示す。しかし、そこから先がすこしちがう。青ひげの呪いは、彼女の行為によって、より深い闇に突き落とされるかのように強くなり、女は青ひげの扉のなかに閉じ込められてしまうからだ。『オランダ人』でいえば、救済のないバッド・エンドのほうが採用されている。

【愛国的な作品】

ユーディット(と青ひげ)のこのような結末は、一体、どのような視点で考えられるべきなのだろうか。そこにはいろいろな見方が可能であろうが、私は作品全体を「愛国的な作品」とみることで、きれいに説明がつくように思われるのである。

その前に、ユーディットという名前で最初に思い起こされる人物は、旧約聖書の外典に登場する聖女、ユダヤ人の娘であるユーディットであろう。ベラ・バラージュはユダヤ人であり、どうも教養ゆたかな女性とみえる美しきユーディットは、彼自身と関係がありそうである。資料が十分でないので断言はできないが、バラージュは当時の知的エリートでありながら、やがてマジャール語だけではなく、ドイツ語を当たり前のように身につけた自分の姿に疑問を持ったのであろう。これはチェコ(モラヴィア)の、ヤナーチェクの歩んだ道筋と似ている。やがてバラージュは、激しいナショナリズム運動の先頭を走っていくことになる。そのような自分へのイロニーをも込めてか、ユーディットはハンガリーの上流階層にちかい血統の良さを示している。それは、もとの許婚が城をもっているということからも、ダイレクトに読み解ける事実である。

つまり、この作品はハンガリー上流階層にあった娘が不気味な青ひげ邸で体験する、精神的な悲劇・・・つまり、それを見る被支配階層にとっては風刺喜劇であるという位置づけができる。最初にポエムを書いたが、ここで、そのような世界観が通底しているのは論を待たないだろう。彼らは拷問場や戦場で血を流すことにって、ハンガリーに眠っていた財宝や、花々、そして領土を獲得したのだ。スメタナの『わが祖国』の〈ヴィシェフラド〉からもわかるように、しばしばスラヴ民族にとって城はクニそのものを象徴している。青ひげ公の城とは、ハンガリーなのである。

ユーディットは支配階層に属するであろう、血統のいい娘だ。最後の2つの扉さえ開けなければ、彼女に備わった富がどのような犠牲に基づいているかを知ることもなく、幸福な生活を送ることができたはずだ。財宝も、花々も、土すらも血塗られているとはいえ、それらの価値は決して色褪せるものではない。花々に誰が水をやるかなど、考える必要もないのである。青ひげが言うように、彼女はああしたい、こうしたいと想像するだけでよいのだ。あとは、誰かがやってくれるのだから。

私は、この構造にユーディットが「誰が水をやるのか」(確か、花園の場面)と質問したところで気づいた。この城には、どうやら使用人はいないようだ。ならば、当然、水をやるのは前の妻たちしかいないということになる。青ひげは領土の場面で、朝、昼、夕暮れが住んでいるとさえ言っている。6つ目の扉が開くところで、その印象は決定的になるだろう。チャイコフスキー『白鳥の湖』を想像させる「涙の湖」は、馬車馬のように働いた彼女たちの涙と、もしかしたら汗の混ざったものである。

ユーディットよりも、我々は先に気づく。そこがポイントなのだ。彼女がきっと死体があるにちがいないと騒ぎ立てているとき、我々はユーディットの予想が外れることを知っている。その上で聴く転換の曲のアイロニーを味わうと、いかにもおぞましい戦慄に襲われ、動揺した私は、だらだらと涙を流すほかなかった。これは、物凄いアイロニーを含んだ音楽である。気づいたときには、我々は青ひげの共犯に仕立てられている。観客はユーディットがどうなるかをうすうす知っていて、青ひげとともにユーディットを闇へ突き落とすことになるのだ。だが、その行為の本質に気づくには、あまりにも時間がない。自らが犯そうとする罪は、その時点ではもう、止めることができないのである。

さらに皮肉なのは、この悲劇が避け得ないものであるということだ。それは、ユーディットが青ひげを愛しているからだ。青ひげは、ローエングリンがエルザにそうしろと命じたように禁問する。そして、ユーディットはエルザと同じように、その禁問を破ってしまう。しかし、ここで禁問を破る女たちには罪を問うことができないのは道理である。愛するということは相手のすべてを受け入れることであり(実際の男女問題では必ずしもそうではないとしても)、その前提として相手の秘密について妻は知る権利がある。

繰り返すが、実際の夫婦生活では、互いに隠しておきたい事実というのは存在するだろうし、それを掘り返さないほうが円満を保ちやすいのは言うまでもないが、ここでは、そういった問題は無視してもよい。彼女たちの置かれた異常な状態において、これらの男たちの課したような禁問は、唯一、神のみが求め得るような性質のものであり、女たちの問いかけは当たり前にあるべきものと判断される。5つの扉を開けば、ユーディットは残りの2つの扉を開けざるを得なくなる。そして、開ければ、結末はわかりきっている。ここにも、ひとつのアイロニーが仕込まれているのだ。

ユーディットは、それでもどちらかといえば、まともな人間だったのだろう。この作品が風刺している対象の人間たちであれば、5つの扉に染みついた血にもひるまず、2つの扉を開けずに残したまま、広大な領土、美しい花々、目も眩むような財宝に目を奪われ、青ひげの胸のなかに飛び込んだやもしれないからである。

【ユーディット】

では、最後の扉の内側に押し込められたユーディットとは、どのような存在に当たるのだろうか。これは私の考えでは、青ひげが城全体の所有者であると考える場合と、本当の所有者ではないと考える場合で、まったく意味が異なってくる。このうち妥当性が高いのは後者の見方であることは言うまでもないが、そこではユーディットは青ひげとの結婚により、前の3人の妻たちと同じように馬車馬の役割を担うことになるはずである。つまり、ユーディットは優越的な支配階層の地位から離れ、彼らに抑圧される階層と同化するのだ。

こうしてユーディットは、落ちていく。だが、これは血統のいいかの娘にとって、おぞましい災厄でありながら、ある種の浄化の要素も伴っている。バラージュ=バルトークにとって、この作品は支配層の娘が落ちていく痛快な喜劇であると同時に、極限状況において起こるある種の目覚めを物語るシリアスな悲劇でもあったのだ。禁問を破ったユーディットを青ひげは批判せず、それでも最高の女として位置づける。ユーディットの「失敗」は、青ひげ邸に朝、昼、夕暮れにつづく夜が戻った瞬間でもあった。程なくして、ハンガリー革命はなるという時代である。だが、その道は決して平坦なものでもないことは、音楽からも想像できるところだろう。実際、革命はなっても、それはすぐに瓦解し、バラージュは国を去ることになる。

青ひげの最後の台詞は、夜が戻った日に対する喜びを噛み締める意味も、確かにあるはずだ。しかし、表向きはどこまでもつづく闇しか示さない。最後の最後で、バラージュとバルトークのちがいが出てきたようで興味ぶかい。バルトークの音楽が、バラージュの未来を示唆している。

【歌手たち】

作品の素晴らしさのみ、すこし力を込めて書かせてもらった。正直、演奏自体は悪くはなかったが、そんなに素晴らしいものだったとも思わない。

今回の演奏は、全体的に怜悧で、突き放すような視点で統一されている。それは特に、青ひげ役の小鉄和広の演技によって強調されている特徴である。小鉄はこの公演のためにハンガリーを訪れたといい、譜面なしで臨んだりもしたが、よほどこの演目に愛着がふかいのであろうか。最初の口上や溜め息まで録音し、見上げたプロ精神である。

彼の解釈によって、青ひげはいかにもオペラティックなキャラクターとしてではなく、全体的に語り部のような雰囲気で造型されているが、これは面白い。歌手にとっては「演技力がない」と誤解される恐れもあり、リスキーだが、このことにより作品の風刺的な性格が強調される。デクラメーションの特性もよく出ていて、ときどき軽すぎる声が抑えきれずに浮き上がってしまうのを除けば、優れたパフォーマンスだったといえる。

ただし、それをカヴァーするオーケストラの演奏は、力みにおいては強いインパクトを残すのに対して、その他の表現は場面ごとの性質を教科書的に捉えるに止まり、歌手のアイディアを十分に支えきっていない。そのため、口上や溜め息でスピーカーを使っていること(そのこと自体を批判しているわけではない)や、ホールの音響的な特性の問題もあり、ラジオ・ドラマ的なメリハリのない演奏になっていたことは否めなかった。ひとつひとつの場面がきれぎれになっているわりに、音楽的にはすこし癒着がみられるというのはいただけない。

一方、ユーディット役の並河寿美は、このページでもよく出てくるお気に入りの歌手のひとりだが、やはり、ドラマティックな強靱さが求められるこの演目では、声質が合わないのは否めないところだろう。その範囲でよく考えた歌唱をしており、現時点でのベストを尽くしたパフォーマンスをおこなってはいるが、どうしても余裕がなくて、ユーディットらしい突き抜けた特徴が十分に出ていないのは残念である。ユーディットは青ひげと同じくらいタフな女性であり、その異常なまでに運命的な愛情の強さがなくては、青ひげに匹敵しない。

並河は頑張ったけれども、完全にキャラクターを掌握するところまでは行っていないのではないか。

【オーケストラ】

オーケストラは既述のとおり、節々でニュアンス不足は覆い隠せず、歌手たちを十分に助けられていなかったが、それでも作品の特徴をよく捉えた演奏ではあった。前半のコダーイ(これはかなり力づくな印象を残した)と比べれば、はるかにニュアンスも豊富であり、さすが飯守泰次郎という指揮者は本質的に劇場人であると思う。

デクラメーションを除く、この作品の音楽的特徴はワーグナー、そして、リヒャルト・シュトラウスのシリアスな部分を受け継いでいる。例えば、序盤の場面では、『サロメ』でヒョロヒョロとなる横笛の響きが模倣され、そのイメージを援用してユーディットの印象を支えているのがわかる。『サロメ』の影響はそこかしこに見られ、作品のなかで十分に語られないユーディットのイメージを補強しているのは明らかだ。音楽的な盛り上がりの構造は『エレクトゥラ』を思わせるところもあり、『アルペン・シンフォニー』の神々しい金管の響き(のイメージ)も流用されている。

ただし、これらの要素に重要な官能性は、今回の演奏では、すこしばかり乏しい。

全体のなかで特に見事だったのは、作品のクライマックスを成す第7の扉を開かせるまでの問答と、最後に、青ひげが種明かしをする場面だろう。特に、ミステリアスな湖の場面で緊張感を高め、既に述べたように、ユーディットに先んじて我々が秘密を知ることになる第6の扉の最後の展開は、身の毛もよだつというほど毒々しい響きが、強靭なアイロニーを肉付けする。表面上、ユーディットが青ひげを告発するような音楽づけだが、実際、追いつめられるのは彼女のほうだ。台本や音楽とともに、彼女を突き落とすことになる我々のこころにつく傷が、この作品のすべてであると言ってよい。

飯守たちの演奏は、この部分できわめて肉厚な表現力を示し、この作品の魅力のすべてを吐き出す。

こうして、口上に呼びかけられた紳士淑女の皆々さまは、ユーディットとともに地獄に落とされるのである。これと比べれば、最後の扉が開いてから、ユーディットが「(女たちが)生きている・・・」といって愕然とする場面は、ほとんど力がない。聴き手はこのあたりから既に、浄化が始まっていることを知る。青ひげの独白の場面は、非常に清潔なサウンドをつけ、輝くような明るさに満ちている。ユーディットを含め、女たちを愛でる青ひげのモノローグはすこしも嫌らしくなく、祖国を誇らかに歌うような気品に満ちみちている。ここが第2のクライマックスだが、小鉄の歌唱が見事であると同時に、管弦楽のアンサンブルの美しさも、他からみて際立っている。

あと印象的なのは、第5の扉が開いて広大な領土が視野に飛び込んでくるときの音楽であろう。プレトークのときに、ピアノを弾きながら「長調ばかり。力づくの音楽」などと言っていたのが楽しく思い出されるが、正に、そのような強い響きが聴かれる。バンダも思いきり吼え、正に飯守の得意そうな場面という感じだ。一転して、最後の場面も印象ぶかかった。浄化を象徴するオルガンが入ったあと、弾きおわりにかけて周到に鎮められていく音楽の柔らかさは、逆に飯守らしからぬデリカシーに満ちている。

【理由がない】

最後に、この劇のもうひとつ重要なモティーフを述べておかなければならない。それは、理由がないということである。例えば、ユーディットはなにゆえ、青ひげに惹かれたのか。家族やフィアンセを捨てて、青ひげにはしったユーディットの選択には、理由となるものが「愛しているから」という事実しかないのである。また逆に、青ひげがなにゆえ、ユーディットを選んだかという理由も存在しない。あるとすれば、「夜に見つけた」という事実だけだ。

ここでは、そもそも愛することに理由はいらないなどという、当たり前の常識論は価値がない。理由がないということ自体に、なにか意味があるはずなのだ。残念ながら、その答えをいまはっきりと論じられる根拠は、私には用意できていない。ただ、多分、信仰や愛国心のような無条件のものと同格に、青ひげとユーディットの関係があるせいではないかと思っている。この2人の関係はどう好意的に解釈しても、一般人の理解を超えているようだ。特に、ユーディットが青ひげを愛するということの異常性については、まったく理解ができないだろう。『さまよえるオランダ人』のゼンタが、「オランダ人」を運命的に待ち構えている理由が、まるでわからないのと同じように。

そのような超越的な関係において、バラージュは人間の心理を考えようとしているのだろうか。超現実主義という言葉があるが、青ひげとユーディットとの関係はオトコととオンナの関係の究極をいっており、このような極限状況においてしか理解することはできないはずだ。しかし、このような関係と、バラージュの攻撃的なまでの風刺性がどのように結びついているのかについて、いまは答えることができないし、当然、その上に重なるバルトークの音楽について述べることもできない。

しかし、超現実主義といえば、この作品に出てくる拷問用具、武器、財宝、花々、領土、湖、それに、肝心の人間たちにつけられた音楽は、正に現実すぎるほど現実的(『超現実主語』の語意)ではなかろうか。そのような点において、今回の演奏がどこまで意図的であったかはわからないが、奇しくも、そのことを示唆する演奏であったことだけは間違いない。

まだまだわからないことは残るが、なにはともあれ、作品の素晴らしさに驚嘆した一夜であった。

【プログラム】 2010年3月18日

1、コダーイ 管弦楽のための協奏曲
2、バルトーク 歌劇『青ひげ公の城』(演奏会形式)

 コンサートマスター:松野 弘明

 於:東京オペラシティ

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