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2010年3月18日 (木)

アルド・チッコリーニ ベートーベン ピアノ協奏曲 ジ・アート・オブ・チッコリーニⅡ 3/16

私はこれまで、チッコリーニを凄いピアニストだと思ってきたが、そんな私にとってさえ、このコンサートは驚き以外の何ものでもなかった。この演奏会は、「ジ・アート・オブ・チッコリーニ」と題された2回シリーズの公演の2日目であるが、正に「アート」としか言い得ない表現の奥深さ、そして、そこに定冠詞をつけることに積極的に意味を見出したくなるほどの個性の煌き・・・それ自体が強烈な個性であるベートーベンのピアノ協奏曲において、ここまで明確な個性を打ち出した演奏を私は知らない。

特に、第3番の第1楽章のカデンツァと、第4番の同じく第1楽章のカデンツァにおいて、チッコリーニが披露した妙技には、アルド・チッコリーニというピアニストの80有余年の生涯が詰まっていたと言ってよい。

だが、私はもともと、この「個性」という言葉を愛していない。巷ではしばしば流布されている「個性的である」という褒め言葉には、私はある種の押しつけがましさが伴うと思う。そこには2つの問題があり、1つはオーソドックスなものの軽視という問題であり、もうひとつは、基準をはっきりさせないままに「個性」なるものを恣意的に設定する批評眼の浅ましさである。このことに気をつけながら、私は上の言葉を、敢えて書きつけたつもりだ。つまり、ここでいうチッコリーニの「個性」とはほかでもない、オーソドックスな演奏姿勢の徹底であり、ベートーベンという素材のなかに、モーツァルト、バッハといった先達に加え、バロックや、ベートーベン以後に発現した可能性を詰め込んだ音楽的知性の結晶ということになるのである。

【象徴的だった第3番の序奏】

まず象徴的だったのは、ピアノが第一音を打つ前の、第3番のオーケストラによる序奏である。ふうわりとした弦の軽い響きが霧のように浮かび上がり、木管アンサンブルのあと、柔らかく凝縮する。適度なルバートがナチュラルに聴き手を酔わせ、一挙に作品世界が広がっていく。指揮者は、その半生を東ドイツに閉じ込められ、現在までのあいだ70有余年の生涯を知る、ヴォルフ=ディーター・ハウシルト。さすがに、古風な響きを知っていた。しかし、それだけではないのだ。これはいかにも、チッコリーニのピアノのフォルムに忠実に従っているのだと気づくのに、時間はかからなかった。

ところで、ルバートとはまったく、音楽の生死を左右するリスキーなクスリ=毒ではなかろうか。特にベートーベンにおけるルバートのコントロールは、それが生命線ともされるショパンの曲などよりも、はるかにデリケートで、難しい芸当だと思われる。ここでハウシルト=チッコリーニが選んだルバートは、非常に振り幅が大きいにもかかわらず、不思議なことに、まったくもって自然な風合いで馴染んでいくるのであった。しかし、それはいかにもピアニスティックなアクションであり、この時点で、ハウシルトがチッコリーニの演奏姿勢を代弁しているのは明白であった。

もうひとつ重要なことは、響きの適度な重みである。どこかのブログに書いてあったが、チッコリーニは自分の音を歌に譬えれば、ドラマティコではなくリリコ・スピントだと言ったそうだが、正にその言葉どおりの軽さと、スピント系の芯のつよさが同居した味わいぶかい響きの重みが、最初のオーケストラ序奏の部分で象徴的に提示されている。リリコ・スピントの特徴は、なべて強い声を使う(7月に、ここで同じ曲を弾くゲルバーはこのタイプで、正にドラマティコといえる)のではなくて、ベースにおいて軽い声をバネのようにピンと張りつめ、そのバネの反発を利用して必要なときに、必要なだけの強い声を発するものであると理解している。チッコリーニが80代に突入して、なおあれだけの演奏ができるのは、そのような調節が実に巧みにこなせているせいなのであろう。

こうしてハウシルトは、手際よくオーケストラの響きをチッコリーニのために捧げたのである。このことからもわかるように、今回の演奏において、ハウシルトがパートナーを務めたことはチッコリーニの音楽を遺憾なく楽しむ上で、非常に重要な要素であった。

新日本フィルはソロ・コンマスの崔、ヴィオラ首席の篠崎などを集めた弦にウェイトを置いた布陣で、木管は多分、フルート・荒川、オーボエ・浅尾、クラリネット・鈴木(ファゴット、視覚的に見えない金管はわからず)という2線級(これは失礼な言い方)のメンバー構成で、かつ、準備不足が窺える。しかし、そのアンサンブルをどうにかまとめあげて、チッコリーニのピアニズムを引き出すべく最大限にアジャストし、伝統的なドイツ音楽の豪胆な響きを聴かせた点で、指揮者の力量は非常に高く評価できる。

【2つのカデンツァ】

既に述べたように、チッコリーニが、第3番と第4番各々の第1楽章でみせたカデンツァの輝きは凄まじいものであった。

第3番のカデンツァの作者は浅学にして不明だが(自註:ライネッケ作とホールのページに記載が出た/尚、チッコリーニの師匠筋に当たるブゾーニはライネッケの弟子だったらしい)、ふかい古典的教養に基づきながら、ヴィルトゥオージティの高いもので、一般的なベートーベン作のものより長大だった。それで、カデンツァの特徴を説明するために使ったいまの表現が、チッコリーニの演奏そのものをも表現するのに役立つ。ベースにおいて非常に清潔な古典の香りを丁寧に織り込みながら、ラフマニノフの一節でも聴くようなロマンティックなカンタービレの断片が表れたり、モーツァルト風の愛らしい美しさをもつ経過句が表れたり、しかし、その響きを肉付けしながら、ベートーベン自身とバッハの間を彷徨うような精神の対話が徐々に浮かび上がってくる。

チッコリーニ師匠筋のブゾーニを思わせるようなヴィルトゥオージティを感じさせる部分も十分にあるのだが、これは作品そのものの性質とダイレクトに結びついており、これはあとの第4番との関係でも面白いのだが、そのことについては後述する。さて、仮にこのカデンツァがベートーベン自身のものでないとしても、このカデンツァの作者はベートーベンの偉大さに打ちのめされた人物であることは間違いない。起伏に富んだチッコリーニの演奏したカデンツァは、この数分の間にベートーベンの魅力と、その先進性をことごとく語りつくし、その影響が何百年後に及ぶことまで見通しているし、逆に、ベートーベン以前の数百年の歴史をスポンジのように吸い尽くした音楽でもある。

第4番のカデンツァは、よく知られたベートーベン自身によるものと思われる。3番のカデンツァが「大っぴらに」凄い音楽であったのに対して、第4番のカデンツァは「しみじみと」素晴らしいものであった。特に、弱音によるベースの美しさが際立っており、それはカデンツァから抜けたあと、オーケストラと響きあう部分に入ったときのピアノの清楚な輝きによって確認された。独奏ピアノはカデンツァ後も響きを支配しつづけ、例のバネのような響きをピンと張りつめて、イニシアティヴを放さない。そのままバックと緊張感に満ちたカンタービレを交歓しながら、弾きおわりにかけてぐっと凝縮していていく響きの素晴らしさは、オーケストラの側も褒めなければならないだろう。

【第3番と第4番の対比】

さて、この2つのカデンツァは、作品の性質を完全に代表するものであることは言うまでもない。すなわち、第3番は外向的で、パヴリックな音楽であるのに対して、第4番は内省的で、室内楽的である。ただし、調性を見てみると、3番が(ハ)短調で、4番が(ト)長調となっている。このこともチッコリーニの演奏において、意味があることだ。

例えば第4番について、チッコリーニの演奏の著しい特徴はロンド・フィナーレにおける非常な明るさである。この第4番は私にとって愛着のふかい協奏曲であるが、特に第2楽章の濃密な悲劇性において印象づけられていた。これとは対照的なヴィヴァーチェのロンド・フィナーレについては従来、概ね2つの演奏姿勢に分けることができると考えていた。1つは、アンダンテをまったく無視したかのような跳躍的な演奏である。このヴァリュエーションとして、楽章間をアタッカで通さず、一旦、響きを消失させるという手がある。2つは、アンダンテの陰鬱さからイメージを広げ(あるいは、脱出できずに)、悲劇性を残した(あるいは、それが残ってしまった)演奏である。

しかし、チッコリーニの演奏は、それらのいずれでもなかった。簡単にいえば、アンダンテの悲劇性を踏みしめて、その苦しさを乗り越えるような解釈である。ただ、そう言ってしまえば埒もないような気になる。実に折衷的で、誤解の多い表現だからである。私はこのことをより掘り下げるために、第1楽章の演奏について見たいと思う。

ここでチッコリーニは、私にとって非常に不思議な演奏をした。それまでの流れるような展開と比べると、いささか硬さの残るフォルムの彫りこみが耳につき、どこか慎重な演奏に聴こえたからである。私はそのとき、いまからみれば恥ずべきと思われるような思考をとった。その背景は、チッコリーニの高齢や、第3番の第2楽章や第3楽章を弾くときにチッコリーニがしばしば咳き込んでいたこと、さらに、30分以上の休憩・・・というつまらない因子に基づいていた。これで勘のいい人はわかると思うが、私はチッコリーニの体調が万全でないために、第4番の演奏において集中力を欠いているのではないかと疑ったのである。私はそうしたイメージ、演奏外の思い込みや偏見をなるべく排したものの見方をしたいと願っているが、まだまだ鍛錬が足りないということだろう。

結論を述べるならば、チッコリーニにとって、この演奏姿勢には必然性があるのである。(多分、)彼の解釈によれば、この第1楽章はベートーベンの日記とでもいえそうな内面性にディペンデントした(立脚した)、作品の性質を物語るためにだけあるようなものと理解できた。チッコリーニのひとつひとつ置くような打鍵は、例えば、新ウィーン楽派の作曲家たちが作品をつくるときに、彼らの想定した新しい12音から、必死の想いで1音1音を選びとって並べたときのような慎重さに基づいているのである。ベートーベンは音符を1つも無駄にしないように、周到な配慮を重ねながら、自らのなかに抑えきれない情感を余さず表現するために、こうしてピアノ・パートの構造を組み上げた。チッコリーニは、そのことを簡潔に述べたにすぎない。

第1楽章でソナタの形式を踏んでいくあいだに、ベートーベンは明らかに、スケルッツォ的な作品の諧謔性と、力強い生命力を優先させている。それはカデンツァの部分でも、はっきりと象徴されており、モーツァルト的な軽い構造に導かれながら、繊細で、壊れやすい要素から、図太い対位法的な構造への発展がわかりやすく提示されている。特にチッコリーニは、その対位法的な部分の輪郭をくっきりと描いている。

甘いアンダンテ・コン・モートだけに目を奪われてはいけなかったのだ。この協奏曲は、あくまでも長調の曲なのである。確かに、第1楽章から第2楽章にかけての展開は、なにか甘美な思い出と、そこから突き放された悲劇性を思わせる。しかし、ベートーベンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くような繊細さと、それを破り捨てるだけの精神の図太さを兼ね備えていた。「遺書」を書いたとき、もはやベートーベンは死ぬ気がなかったと私は信じている。この作品が、そのような図太さに基づいた作品であるならば、ロンド・フィナーレへの「急」展開も、まったく無理がないのである。

そして、それは驚くべきことに、リリコ・スピントであるところのチッコリーニの音色を表現すべく、演奏会冒頭でみせたハウシルトのつくる明るい響きに、完全に一致している。これだけ書けば、私が非常に苦心に苦心を重ねて、(しかし直感的に)チッコリーニの演奏が「個性的であった」と書いたことに筋が通ってきたのではなかろうか。

【まとめ】

随分と長文になったが、そうならざるを得ないほどの多様な問いかけに満ちた演奏であったと解釈してもらえればありがたい。しかし、そろそろ締めることにしよう。

といって、書きたいことはまだまだたくさんあるのだ。例えば、さりげなく分散和音を追うときでも、その一拍目だけではなく、のばされる部分に血液を行き渡らせた表現法であるとか、さらに、さりげない経過句のなかに、ベートーベンが仕込んだ不器用なユーモアの表現法。たとえ自分の演奏が下手に聴こえても、ベートーベンの書いたものに忠実なアクションしかしない勇気。細々としたルバートのフォルムの美しさや、オーケストラとの対話の瑞々しさなどについて、全部割愛しなければならないのは罪である。

しかし、それらすべてを簡潔に表現する腕もなければ、音楽的知見もないだけに、その点はご容赦願いたいと思うのである。

最後にひとつだけ述べておきたいのは、この企画の素晴らしさだ。「ジ・アート・オブ・○○」シリーズは、これまでパユ、バボラーク、チッコリーニなど、世界でも最高級のアーティストたちを招聘し、実入りに苦戦しながらも(今回もそれは改善されていない)、非常に貴重な体験を聴衆に与えつづけてきた。今回、チッコリーニのために30分もの長い休憩時間をとったことについてチョロッと触れたが、そんな気の効いた配慮は、他ではありそうでないものである。たとえ80何歳の指揮者が振っていても、演奏会のフォルム自体は厳として変わらないのが普通だ。

それが、今回はどうだろうか。その休憩時間の件はともかくとしても、チッコリーニのやりたいことが、彼の望むカタチでやれているのが大きいと思う。例えば、ベートーベンの協奏曲ならば、普通は3番と5番を組むところである。だが、3番と5番は同じタイプの音楽であり、いずれも外向的で派手なフォルムをもっている。だが、3番と4番を並べれば、既に書いたようなふかい対比をおこなうことが可能である。今回はハウシルトという優良なパートナーを得たこともあり、チッコリーニのパフォーマンスにはまったく無駄がなかった。彼のやること為すことに、意味があった。それを引き出すべく、主催者が最大限の努力をしたことは認められるべきだろう。

最後、シューベルトのワルツ(AnhⅠ-14)は、演奏を通じて、チッコリーニからハウシルトへプレゼントされたものであることが、ホールのホームページに記されている。現場では、そういうゼスチャーだとは読み取れなかったが(舞台上にハウシルトはいなかったから)、それでも、実に丹念で優しい演奏であり、そうした演奏をできるチッコリーニの人柄には涙が溢れた。また、2人合計で160歳に迫る(ピアニスト+指揮者)コンビの素晴らしさも、ここで改めて強調しておきたい。

【プログラム】 2010年3月16日

1、ベートーベン ピアノ協奏曲第3番
2、ベートーベン  ピアノ協奏曲第4番

 pf:アルド・チッコリーニ

 管弦楽:新日本フィル
  コンサートマスター:崔 文珠
  指揮:ヴォルフ=ディーター・ハウシルト

 於:すみだトリフォニーホール

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