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2010年3月21日 (日)

スクロヴァチェフスキ シューマン 交響曲第3番 読響 芸劇マチネー 3/20

スクロヴァチェフスキ、読響常任指揮者としての最後の1ヶ月を迎えています。最後、ブルックナーで締めることになりますが、私はそれには行く予定がないので、これがとりえずのお別れの演奏会ということになります。今回はコンチェルトがなく、3つの大きなプログラムを据えての「トリプル・ビル」という印象があるコンサートです。そして、その構成に応える素晴らしい演奏でした。

【天の助けを得た(?)リヒャルト・シュトラウス】

まず最初は、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』です。今日、この演目があること自体を忘れていましたが、どうして素晴らしい演奏でした。スクロヴァチェフスキは意外にレパートリーの限定されている指揮者で、リヒャルト・シュトラウスの作品で演奏する作品は、ごく一部にすぎません。とはいえ、作曲をひとつのライフ・ワークとするスクロヴァにとって、時代の近接するショスタコーヴィチ、リヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフ、メシアン、ストラヴィンスキーなどは重要な研究対象であったと思われます。それゆえ、三管編成の大規模な曲でも、暗譜で平気というわけです。

冒頭の豪奢なサウンドを華々しく立ち上げたときには、目の前にいるのが海外の伝統あるオーケストラではないかと見紛うほどの驚きでした。その勢いは最後まで失われず、まるで、この曲を弾くのは容易いこととでも言いたげな余裕いっぱいの演奏で、初っ端から圧倒的な演奏を楽しませてくれます。第1の女、第2の女を表す繊細な描写も明瞭で、特にそれぞれの最後のほうで別れを表すかのような寂しげなサウンドが、いかにも懐古趣味のシュトラウスらしいものです。しかし、それはこの日のシチュエーションでは、去りゆくスクロヴァチェフスキ自身への追憶と重なっても来るでしょう。

中盤以降は、コンマスのソロを含むオケコン(オーケストラル・コンチェルト)状態となり、スクロヴァと読響団員たちのふかいコミュニケーションが偲ばれます。読響は金管に弱点があると思っていましたが、ホルンを含め、全体的に神さまの助けでもあったかのように素晴らしい演奏です。今回の演奏会のひとつのポイントになっているのは、楽器本来の味わいを生かすということなのですが、この『ドン・ファン』の演奏が素晴らしかったのも、外向きなサウンドの華麗さに惑わされることなく、丁寧に、1つ1つの楽器の奏でる音の味わいを絞り出してきたところにあります。

最後、冒頭のモティーフをくっきりと浮かび上がらせて、華麗なクライマックスを築いたあと、ドン・ファンの悲劇を思わせるように暗転する音楽の、エネルギーの逃がし方などは本当に素晴らしかったと思います。これほどのシュトラウスの演奏は、なかなか聴けるものではないでしょう。

【楽器本来の味わいを生かす】

先程、「今回の演奏会のひとつのポイントになっているのは、楽器本来の味わいを生かすということ」だったと述べましたが、そのメッセージが詰まっていたのは、スクロヴァの新作『ミュージック・フォー・ウインド』です。発起人であるハント氏が率いるマサチューセッツ工科大学ウインド・オーケストラをはじめ、米・独・日のウインド・オーケストラやフル・オーケストラが共同委嘱した作品の日本初演であり、その委嘱元には読響も含まれています。

作品はまことに大規模な管楽アンサンブルと、ピアノを含む打楽器による作品で、4楽章構成のシンフォニーになっています。スクロヴァによれば、この作品は表面的な見せかけの芸術ばかりがもてはやされる現代に対する、作曲者なりのリアクションを表現した作品だということです。では、「見せかけの芸術」に代わって、スクロヴァが提示する新しいものとは何かに注目して、私は聴いてしまいました。しかし、結論からいうと、その姿勢は間違っていました。

私はなまじ現代音楽によく親しんでいるがために、現代音楽=形式的な新しさ、未聴感というステロータイプに、いつしか凝り固まっていたのかもしれません。スクロヴァが生まれた時代に書かれていてもおかしくないような作品のありきたりに、私はしばらく戸惑いを覚えていました。しかし、だんだんにわかってきたのです。ここでスクロヴァチェフスキが示そうとしているものは、そのような文脈にはない何かであることが・・・です。そのうちに、私にはさらに気づくところがありました。それは、1つの1つの楽器の音色が癒着せず、各々の響きを生かしたサウンドが丁寧に広がっていたことです。

その「発見」は実のところ、ひとつの問いかけに始まりました。例えば、それはハープの低音とティンパニーの響きを重ねあわせ、独特の響きをつくる部分でした。私は正直、その響きが「独特な」ものとは思わなかったし、ピアノの内部奏法でも使えば代用できて、そのことでハープは要らなくなるのに・・・と考えたりもしていたのです。つまり、私はこの文脈で、スクロヴァの作品の無駄について考えていたのです。しかし、そのことに対する疑問だけは持ちつづけていました。

私が開眼したのは、長大なコーダともとれる最後のアレグロの部分(だと思う)に入ってからです。そこでは、プクプクとした弾力性の高い響きが集められ、1つ1つの素材が互いを高めあうように凝結していきます。私は、ハッとしました。正に弾きおわりにかけて浄化されていく響きの凝縮は、いかにもスクロヴァらしい明瞭な拍節感を伴って、丁寧に、丁寧に扱われました。それらの響きはときどき新しい時代の演奏法を含みながらも、概ね、その楽器本来の味わいとしてイメージされるものが、素直に使われていたのです。

そうなのです。ハープとティンパニーを使うぐらいなら、ピアノの内部奏法で代用できるというのは、非常に傲慢な、現代的な合理主義にすぎなかったのです。それは構造のシンプルさをめざす現代音楽の潮流に立脚しながらも、そのかなり乱暴な援用としか言いようのないものです。あそこでは、通常、あまり使われることのないハープの低音を可能性として示し、それをティンパニーの質感のある響きと対比することで、やはり独特な効果をもたらしていたと解釈すべきです。そして、ハープは要らなくなるという私の考えを嘲笑うかのように、最後に、イメージどおりのハープのふくよかな音色がしっかりと用いられ、その響きを消すハープ奏者の手の動きで、作品は終わるのです。

それでも、以前、初期のバレエ作品を聴いたときにも思ったことですが、言いたいことに対して、メッセージが長すぎる(自分のブログみたい!)のは玉に瑕です。とはいえ、なるほど、スクロヴァチェフスキのまごころを感じる作品ではありました。

管楽器陣はここでもほとんど大きく外すこともなく、非常に感動的なパフォーマンスをみせました。ひとつ難を言えば、前の曲で使った弦セクションの椅子を片付けなかったことです。演奏自体には関係ありませんが、これはヴィジュアル的にいけないと思います。管楽器陣は前の曲の体勢のまま残り、弦セクの椅子はそのまま、コントラバスも置きっぱなし、指揮台はもとの位置で、そこにスクロヴァが乗るというのも、なんだか滑稽な風景でした。

【そして、シューマン!】

そして、シューマンです。前半にこれだけ派手な曲をやっておきながら、メインがシューマンで釣りあうのだろうかという疑問は吹き飛ばし、素晴らしい演奏でした。特に、準備運動が万端であるだけに、管楽器が特に素晴らしかったです。第2楽章の前半の4本ホルンのアンサンブルや、オーボエのたおやかなソロ。第4楽章のトロンボーンの柔らかい響きなど。ここでもオケコン的な響きを存分に味わうことができて、ひとつの演奏会に筋が通ってきました。

全体的には、シューマンの「田園」シンフォニーともいえる作品の長閑さを穏やかに物語るものでありながら、その一瞬一瞬は緊張感に満ち溢れていて、まったく気の抜けないものです。正に、そこに立っているスクロヴァチェフスキの自画像のような演奏というべきでしょうか。(シューマンの)尊敬するベートーベン「運命」/「田園」式にアタッカでつづく後半3楽章の形式的な緊張関係も、そこに一味を添えてくれます。

第4楽章の「ファイアリッヒ」(荘厳に)は作品の謂れを思わせる荘厳な演奏ですが、既述のトロンボーンなど、金管の柔らかなアンサンブルが効いて、全体的には、バロック的な、内省的ななかにも輝かしいサウンドが強調されています。終楽章の「レブハルト」(活き活きと)でも対位法的な響きの構造が優先され、その部分に快活さを求める意図が明確です。既に述べたようなオケコン的な構造を積極的に捉え、新作で示したような楽器そのものの味わいをそのままに取り出すシンプルな演奏に、興奮は高まります。

とにかく、読響のアンサンブルで、ここまで柔らかさを感じる演奏会はありませんでした。最後ということで、神さまが助けてくれているのかなという印象は、最後までつづきました。それぐらい、味わいぶかい演奏だったということです。終盤は表面的な名技性に走りがちなところですが、スクロヴァは細心の注意を払って弦管のバランスを調節し、最後まで手を抜かない音楽をつくっていました。正に、興奮のひとときです!

【まとめ】

それにしても、スクロヴァチェフスキは読響のために貴重な3年間を提供してくれました。前任のアルブレヒトほどの目立った成長はもたらせなかったものの、そこで育てられたものを有効に利用し、じっくりと伸ばしてくれた彼に、楽団はこころから感謝しなければならないと思います。

客演では、いつまで経ってもブルックナー、ベートーベンの演奏に終始させられたところでしょうが、常任となってからは近・現代を含む幅広い曲目をカヴァーしてくれました。私が聴いたなかで印象的だったのは、ブルックナーの初期交響曲(特に2番)、ショスタコーヴィチの交響曲第11番、ブラームスのハイドンの主題による変奏曲、そして、今回のコンサートでした。中でも、最後だからというわけではないのですが、この日のシューマンがベスト・パフォーマンスだったと思います。

とにもかくにも、氏の3年間の活動に対して、ひとまず感謝の言葉を捧げたいと思います。

 Dziękuję!

【プログラム】 2010年3月20日

1、R.シュトラウス 交響詩『ドン・ファン』
2、スクロヴァチェフスキ Music for wind
3、シューマン 交響曲第3番「ライン」

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京芸術劇場

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