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2010年3月 8日 (月)

アルベルト・ゼッダ ギョーム・テル ハイライト公演 東京フィル オーチャード定期 3/7

昨年の東京国際ヴィオラコンクールの雑な伴奏に対して憤慨し、3年は単独公演には行かないと決めた東京フィルだが、今シーズンのゼッダと、来シーズンのエリシュカだけは外せない。

ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)のディレクターを務める指揮者で、音楽学者のアルベルト・ゼッダと東京フィルは、藤原歌劇団の公演でロッシーニ『ランスへの旅』『どろぼうかささぎ』で共演し、はるかイタリーの小都市、ペーザロから名声の届いていたゼッダの真価を確認させてくれた。今回の東京フィルの公演では2プログラムを指揮するが、そのうち、歌劇『ギョーム・テル』のハイライト公演を聴いた。

この作品は日本においては声楽家の得意とする言語の関係からか、イタリア語訳、もしくはドイツ語訳での上演が主流であり、外題も『ウィリアム・テル』(なぜか英語読み)もしくは『ヴィルヘルム・テル』が一般的だが、もともとはフランスでの上演を想定しており、フランス語で書かれたものだったという。ロッシーニ自身もイタリア語訳での上演に否定的だったという事実や、音楽そのものがフランス語の語感とつよく結びついているという見解から、ゼッダはフランス語での上演にこだわった。フランス語、つまり原語による『テル』の上演は、日本ではあまり例がないようだ(テル自体の上演が多くないせいもあるが)。

しかし、これはホールに着いて初めて知ったことだった。楽団のホームページでも、一般的な『ウィリアム・テル』の外題が用いられ、「日本語字幕付」とは書いてあっても、「フランス語上演」と書いていない。字幕があるかどうかよりも大事な情報だと思うのだが・・・。

【テンション上がりきらず】

しかし、どう評したらいいのだろうか。良い面と悪い面が混在した公演だった。本来は4時間に近づく作品を2時間強くらいにまとめたが、これはさすがにゼッダによるエディションだけあって、問題はなかった。ゼッダと東京フィルの関係も、これまでどおり素晴らしいものだった。例えば、スイスの山々が目の前にみえるかのような雄大な風景に、つよい愛国心が乗っかったフィナーレの演奏などは、ちょっと他では聴けないだろう。序曲のチェロ・アンサンブルの渾身の弾き出しや、見事なロッシーニ・クレッシェンド。ウィンナー・ワルツを先取りするかのような華やかな舞曲の演奏。終幕の戦闘シーンを彩る緻密な対位法の表現、これらの特徴を織り込んだ素晴らしい演奏であったことは言うまでもない。声楽陣も大満足とは言わないが、それなりに水準を越えていた。

だが、どこかテンションが上がりきらないのである。

理由はいくつかあるが、ひとつは、アンサンブル全体の問題だ。清純で美しいが、フランス語上演による特長を生かそうとするゼッダのスケールの大きな解釈は、ときどき保守的なアンサンブルの指向に結びついてしまっていた。また、このオーケストラの弱点であるが、前列の表現的にも技術的にも優れた奏者と、そこまではいかない奏者との間に広がる、若干の開き。これが少しずつ少しずつ、アンサンブルの足を引っ張っているのがわかるのである。そのため、素晴らしい瞬間が幾度も訪れるし、総じてまとまりのいい音楽を伝えているにしても、ほんの僅かずつ、私の耳にはアンサンブルの冷たさが流れ込んでくるのである。

教科書的な巧さはあっても、それを突き破るアイディアに欠けている。これは指揮者のせいにはできず、アンサンブルの成熟度の問題ではないかと思っている。

このことは、もっとも目立つテノールの石倚◇(シー・イージェ/◇=さんずいに吉)についても言える。上海出身の石は、日本国内の公演でも聴いた記憶があるのだが、知らないうちに、2009年に本場・ペーザロのROFに出演し、新進のロッシーニ歌手として売れてきているようだ。難曲として知られる第4幕でのアリアも上手に歌っていたし、かなりの美声を鍛えているうえに、フランス語のディクションもカチッとしている。しかし、高音の伸びが硬い点と、シラグーザのような歌い手とちがってパフォーマンスに遊びがなく、コンクール的であること、さらに、レチタティーボ的な部分における雑な歌いまわしなどが、どうしても引っ掛かる。

これは代役のイアーノ・タマール(タマー)についてもいえることで、天才的なレベカ(降板)とはちがい、安定した歌唱を丁寧に鍛えてきたという跡は窺えるものの、全体的に歌が硬く、満足のいく出来だったのは第3幕の礼拝堂の場面で、自分を捨てて復讐に奔るというアルノールの選択を嘆く場面だけだった。

とはいえ、私は声楽陣に関しては、それほど不満には思っていない。石は才能の片鱗を見せたし、タマールは経験値の高さを見せてくれた。いちばん良かったのは、ギョーム役の牧野正人であったが、彼の今回の出番は決して多くないのである。ほかに、新国立劇場合唱団(合唱指揮:佐藤正浩)も、ペーザロのコーラスよりレヴェルが高いだろうと思う。ただ、今回の公演ではやや男声が弱いのが難点だった。

【ゼッダの手腕】

しかし、それにもかかわらず知的刺激の多い公演であったことは否めない事実だ。

いちばん面白かったのは、導入の風景描写に表れるスイスの山々の「場景」が、最後の幕で、市民軍の勝利を称え、自由への賛歌と、強烈な愛国心を奏でるときの「情景」にメタモルフォーズするという構造的な面白さである。最後の場面の勇壮さに比べて、導入部のほうの描写は僅かだが、それをゼッダはしっかりと印象づけることに成功している。劇の舞台がスイスであることが、ここまで見事に生かされている作品はそう多くない。

それにしても、この最終場面は複層的なアイロニーを含んでいるようだ。ロッシーニは、この作品をフランスでの上演を前提して書いており、筋書きは、フランスにとってのライヴァル国家であるハプスブルク帝国が圧制の末に叛乱を招き、領邦であったスイスの独立を許すという、フランス国民にとって「痛快な」中身になっている。しかし、これをイタリー人であるロッシーニの立場に置き換えると、フランスやハプスブルク帝国に蹂躙されるイタリーの立場が劇中のスイスに仮託されるわけであり、これはかなり皮肉な視点を呼び込んでくる。

やがて『テル』上演の1年後にフランス7月革命が起こることもあり、以前のフランス市民革命へのオマージュという観点を含め、この作品は大掴みに、欧州に広がる自由主義の波を象徴する作品であると位置づけられるかもしれない。しかし、今回の上演を聴くかぎり、ロッシーニはスイスがスイスであることに強いこだわりをもって書いているようだ。自由主義のユニヴァーサルな息吹きではなく、個々のネーション(国)のアイデンティティに沿った自立性が作品に滲み出ており、そのことが作品の風刺性を深めているのである。

よって、私はこの作品を最終的に「喜劇」として受け取った。もちろん、これは結果的にしろ、ロッシーニが喜劇王として有名になったという事実に基づくステロータイプに影響された見方ではない。我々はゼッダによる『どろぼうかささぎ』や『マオメット2世』の優れた上演に接することにより、そうしたロッシーニに対する見方から脱出している。その上で・・・というよりは、そのおかげで、この作品における喜劇性、それもかなり鋭い喜劇性に気づくことができるのである。

そういうこともあって、私は石のような歌い手のパフォーマンスや、東京フィルの真面目すぎる演奏に満足できなかったのかもしれない。この作品では、ゼッダが言うような繊細な姿勢も必要だが、同時に、かなり思いきった踏み込みをも求められている。スポレート劇場日本公演でシラグーザが歌ったようなユーモアよりも、ずっと洗練された、鋭いユーモアが必要なのだ。

その一端が拝めるのは、最後の湖畔の場面で手際よく戦闘の情景を描き出す場面に現れる、対位法的な音楽構造だ。こうした場面ではマルシュ(行進曲)が使われることが多いが、この作品では、対位法的なフーガに特有の響きが争いあう勢力のつばぜり合いを表すのに、効果的に用いられている。このことを示し得たのは、ゼッダのひとつの勝利ではないかと思う。

【ロッシーニの先進性】

それにしても、ゼッダによる上演をみていつも驚くことは、ロッシーニという作曲家の存在感だ。私は過去のゼッダの藤原歌劇団、ROF日本公演を視聴して、従来、能天気な喜劇的作曲家としてイメージされていたロッシーニが、ヴェルディをはじめ、イタリアの創作史のなかで決定的に重要な位置を占める作曲家であることに気づかされた。しかし、『テル』はロッシーニが最後に書いたオペラであり、傑作中の傑作であるだけあり、それぐらいのレヴェルでは済まない驚きを提供してくれた。

例えば、この作品におけるテルとアルノールの関係は、ワーグナーの『マイスタージンガー』におけるザックスとヴァルターの関係に似ており、ワーグナーがこの作品から影響を受けたと思われる部分はぷんぷんと匂った。もちろん、これまでに既知のものとなっているヴェルディ作品への影響は濃厚だ。そして、例えば、復讐を誓うアルノールの歌などからは、ヴェルディを通り越して、ヴェリズモにいたる道筋さえも示されている。バレエ音楽にみられるような音楽はウィンナー・ワルツを先取りし、例えば壮麗な行進曲から合唱へのスッキリした流れは、ヨハン・シュトラウスの傑作『美しく青きドナウ』の合唱版を想起させる。

しかし、既に述べた対位法的要素の導入からもわかるように、ロッシーニの作品からは、古典派やバロック以前の作品から来たのであろうエレメントをも引き継いでいることが確認されるだろう。正に、温故知新。それを地で行ったような作曲家がロッシーニであり、その精華である『ギョーム・テル』なのであろうか。

【ロッシーニの宗教性】

最後に、もうひとつゼッダが印象づけたかったものに、ロッシーニの宗教性という問題がある。今回、もうひとつの演目に選ばれているのは、ロッシーニの『スターバト・マーテル』だが、ロッシーニが敬虔なカソリック信者であったことは、最近、よく知られるようになってきた。

この作品でも、その要素は十分に感じ取れる。例えば、最初のチェロ・アンサンブルはバッハの『マタイ受難曲』のアリアにつけられたオブリガートを思わせるような、清潔な響きをもっているだろう。牧歌的な農村の描写では、教会の鐘の音がしんみりと響き、オルガンとハープによる古い道具立ても宗教的な響きを感じさせる。神の与え給うた対位法の響きについては既に注意してあるし、それ以外の場面でも、聖歌や宗教的カンタータの響きが作品の内面を落ち着かせる役割を担っているのがよくわかる。

また、リンゴを撃ち抜く前のテルが、母や子を思って歌う場面や、アルノールが父に対する復讐の念をつよくする場面は、マリアやイエスに対する情熱的な信仰心と重ね合わせてみることが可能である。面白いのは、そうした信仰心の発露に対して、女が乗ってこないことである。彼女たちは「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」や、マグダラのマリアの想いを追体験することを怖れ、彼らの勇気を正面から称えることはない。父への復讐を誓うアルノールに対して、マティルドはお父様が亡くなられたというのに一緒に悲しむこともできないといって嘆く。一見して男女の感覚のちがいともとれるが、これは宗教的な対応関係からも見ることができるのである。

今回の上演ではあまり出てこないが、リンゴを撃ち砕くということ自体が、既にして象徴的なのである。というのも、アダムとイヴが口にしたのは、他ならぬリンゴだからである。テルは息子に向かって、お前だけがリンゴを通じて神の力を導き、父親を助けることができると発破をかける。これは神の子・イエスに呼びかける言葉のようにも聞こえ、神と人間(父と子)のあいだを、それらを引き離したリンゴが介在するというのも皮肉である。息子のあたまの上に置かれたリンゴを矢で射抜くなどとは神がかっているが、それも他ならぬ神の為せる業とすれば自然なことだろう。

ロッシーニは、ウェーバーの『魔弾の射手』を知っていただろうか。似たような状況で、マックスは悪魔に魂を売ろうとしたが、テルは神に祈った。

【まとめ】

というわけで、知的には非常に楽しんだ公演でありながら、感情的には、いささかテンションが上がりきらない公演であったというのが結論である。もちろん、聴きにいって損をしたとかいうようなレヴェルではない。終幕の場面を聴けただけでも、お釣りが来たと思える。だが、それだけにもっと行けたはずではないかという想いもつよいのだ。このあたりが、東京フィルの現在の限界というところなのかもしれないし、オーチャードホールというロケーションも影響していたかもしれない。

なお、この演奏会のコンサートマスターは、かなり高レヴェルな争いであったというオーディションを通じて、今季から加入したネイサン・ギエムであった。まだまだ経験不足だが、しっかりした技術に支えられ、ゆたかな将来性がありそうな若者ではあった。

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