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2010年4月14日 (水)

下野竜也 ドヴォルザーク 交響曲第7番 読響 名曲シリーズ 4/12

新常任指揮者、カンブルランの就任祝賀ムードが支配する読響であるが、それを迎える側の正指揮者、下野竜也のドヴォルザーク・ツィクルスは、この楽団をみる楽しみのひとつであろう。今週末、札幌でエリシュカの演奏会があるのだが、その前に、若い下野の指揮による交響曲第7番の演奏に興じようという趣向だった。この7番は、エリシュカがちょうど1年ほど前に演奏した曲目でもあり、録音も残されている。不思議な縁である。

エリシュカの演奏はもちろん尊重すべきだが、日本人のなかで、下野のドヴォルザークは傑出して素晴らしい。表面的な音の素晴らしさではなくて、ドヴォルザークのこころに迫っているという意味で・・・である。

【エリシュカのメッセージと比較して】

さて、以前にも書いたことがあるが、この交響曲第7番は4つの楽章全体のバランスをとるのが困難な、非常に演奏の難しい作品である。そして、ドヴォルザークの交響曲のなかではもっともドイツ的な、構造のしっかりした作品であるように思う。さりとて、構造さえしっかりさせればいい演奏になるというものでもなく、作品の構造がドイツ的であればこそ、こころのなかは常にスラヴ的でなくてはならぬという、そのことをエリシュカは教えてくれたのであった。もうひとつ、この曲では何事も手を抜くということは許されず、1つ1つのパーツを丹念に組み上げていくことが大切であることも、エリシュカの伝えたかったメッセージである。

そのような基準に照らして、下野の演奏を評価してみるとどうなるだろうか。なるほど、完璧とはいかない。例えば、第1楽章では木管の音型の処理がところどころ硬く、メッセージが通りにくい部分がある。第2楽章の緩徐的な楽想にも工夫が足りず、全体的なフォルムから伝わってくるメッセージの量にバラツキがある。

しかし、そうした欠点のみによって、エリシュカのメッセージとの「開き」を強調するつもりもない。例えば、第3楽章のフリアントの力強く、酒脱な演奏は、エリシュカとはやや異なるアプローチであるものの、非常に強い関心を惹く演奏である。まず、ルバートであるが、エリシュカが用いたような自然な(多分に身体的な運動と関係がありそうな)ものではなく、ウィンナー・ワルツの優美なフォルムを適用している(しかし、わざとらしくはない)。これは前半のブラームスの終楽章で体験したものと同じで、ドヴォルザークとブラームスの関係を織り込んだ解釈として見られる。

いま、括弧書きで「わざとらしくはない」と断ったのだが、それには理由がありそうである。というのは、このルバートの動きは単にウィーン音楽の伝統的な要素を導入したというわけではなく、アンサンブルの自主的な対話力を利用したものだからである。主部の旋律が時にささやきを挟みながらも、ついに大きく盛り上がって頂点へと迫ったとき、下野は右手の動きを止めて、オーケストラの動きに任せていた。そして、その部分で発揮された突き抜けた響きはさすがに、札響(エリシュカのパートナー)に対して、現在、日本最高の機能とこころを備えたオーケストラである読響の実力を物語るものにほかならない。あれを指揮者のコントロール下ではなく、アンサンブルのなかでやってしまう能力は凄い。

トリオのアンサンブルの受けわたしの巧さや、微妙なアーティキュレーションの調整は、非常に繊細な下野の音楽づくりで、圧倒的に輝く。トリオから、主部に戻ってくるときのブリッジの丁寧な彫琢も印象的だ。

フィナーレは、この交響曲を「コラール・シンフォニー」と名付け、「祈り」や「神」というキーワードを出して語っている下野の姿勢を象徴するように、最後のモルト・マエストーソのアプローチが鋭い。最後に第1主題が誇らかに歌い上げられるときの荘厳さは、メンデルスゾーンの宗教曲のクライマックスを聴くようで、なんとも深い解釈を感じさせるものだった。響きが非常に爽やかであるのに加え、終止の直前に響きが伸縮するときの雰囲気が、荘厳な宗教曲のイメージにそっくりなのである。そのため、高揚するフィナーレの響きは神々しく高められ、圧倒的に盛り上がっての弾きおわりにもかかわらず、しばらくは、水を打ったようにしんと会場が静まり返ったのは驚きであった。

ロンド主題的なモティーフ(第2主題、ベートーベンのラズモフスキー第1番の終楽章のテーマに似ている)の扱いはやや硬く、全体のフォルムは若干、芯が強すぎる感じがするのであるが、こうした新鮮な楽曲の捉え方は、エリシュカの演奏を体験している私にとっても、さらに新しい知的刺激をもたらすものであった。

前半楽章も、決して悪くはない。第1楽章では特に、このアンサンブルの高い機能性を利用し、情緒的なサウンドの押し引きが大胆に構成され、いざというときには燃え上がるスラヴ民族の激しさを情熱的に歌い上げる下野の筆致は聴く者を興奮させるものだった。前述のように、若干ばらつく面があったとはいえ、ブラームスと比べても管楽器のアンサンブルは滑らかで、より効果的な練習ができたことを物語っている。第2楽章は、楽器と楽器の結びつきが丁寧にイメージされ、いかにも繊細な音づくりが目立つ。

いままではさほど注目されていなかったドヴォルザークの内面の、隠れた部分に光を当てた優れた解釈を聴くことができたことで、私としては満足であった。

【なんという表情ゆたかなヘフリガー】

前半のブラームスのピアノ協奏曲第2番では、アンドレアス・ヘフリガーが独奏を弾いた。ヘフリガーは有名なテノール歌手のエルンスト・ヘフリガーの息子であるが、そのように断らずとも、アンドレアス自身も十二分に自己の名声を確立している。しかし、協奏曲というよりは、歌曲やアンサンブルでのスペシャリストというイメージのほうがつよく、NML等でよく聴いていて、その演奏(独奏や室内楽)を好みとする私としても、ヘフリガーがオーケストラを相手にどのような演奏をするかは疑問であった。

結果的には、素晴らしい演奏だったといえるだろう。意外なことにフィジカルな面ではまったく心配がなく、オーケストラの最強音にもかき消されないプレゼンスをもった響きを聴かせてくれた。一方、緩徐楽章の控えめな出番では、詩情たっぷりのソット・ヴォーチェで聴かせてくれる。強弱については、この間のグラデーションを自由に操ることができるようで、それだけでも傑出したピアニストの条件のひとつを満たしている。

アンサンブル・ピアニストというと、どちらかといえば、「合わしてくれるのが巧い」ピアニストだという見方をしていた。実際、そうでもあるだろう。今回の演奏においても、ヘフリガーはアンサンブルの動きをよく聴いて、先程のソット・ヴォーチェをロマンティックに響かせたり、自らのピアノを自由自在にアーティキュレーションしている。しかし、それ以上に、ヘフリガーは自ら動くタイプのピアニストであった。本当のアンサンブル・ピアニストは、相手に合わせるだけではなく、まずは、相手に語りかけるメッセージをもっていなくてはならない。欧米人の世界では、その必要性はさらに高まるだろう。

例えば、第2楽章の冒頭である。いきなりピアノが鋭い主題を奏でるわけだが、ヘフリガーは細かいフレーズを潰して、レガート気味に音型をぼやかす。これは多分、バロック的な響きのイメージをつくるためである。一巡して、次の主題再帰では通常の演奏に戻っている。

終楽章はアレグロ・グラツィオーソだが、ピアノ的なルバートを上手に織り込んだリズム処理が特徴で、これは下野の解釈の問題でもあろうが、多分にヘフリガー自身のオーダーによるものと思われる。その効果はバックのオーケストラとの対話において、きわめて効果的であり、オーケストラの音色がピアノの打鍵を鮮やかに補うブラームスの書法の美しさを際立たせる。

しかし、ヘフリガーの物凄さはそれだけではなく、磨きこまれたひとつひとつのパーツを駆使しての美しいアウトプット、もしくは、表情づけの豊かさが無類である。文章が長くなったので細かくは割愛するが、弱層で奏でるトリルの息を呑む繊細さ、既に述べたような強弱のグラデーションの切り替えの巧さ、シャープなタッチから繰り出される響きの透明な輝き、どこまでもしなやかなルバートの自然な呼吸、適度な遊びごころ、アジャストの早さ、独特のふくよかなカンタービレ・・・これらが単にパーツとして磨き込まれているだけではなく、それらの選択、もしくは組み合わせが、曲想のなかで徹底的に生きているということにかけては、正に歌曲伴奏や、室内楽での経験が遺憾なく発揮されているようである。

そんな中でひとつだけ不思議だったのは、第1楽章の冒頭、ベートーベン的な生硬なカンタービレでスタートしたことだった。濃厚な後期ロマン派のブラームスのスタイルとは異なるように思ったが、その素朴な素材がじっくり煮詰められ、この楽章のおわりには、圧倒的にロマンティックに生まれ変わっているというイメージを示すためのデフォルメにちがいない。全体的に見せびらかしの少ない奏者であるが、このようなポイント、ポイントで、しっかりとしたアンガージュマン(フェンシング用語で、剣を突き出す、の意)を試みてくる。知的好奇心を刺激するピアニストだ。

ツケの下野は全体的にガッシリした構造をつくっており、ヘフリガーの表現力を巧く引き出している。ときどき狂ったように煽りを入れる瞬間があり、オーケストラの豪壮な動きに反応するように、ピアノが鋭いアンガージュマンをつける場面がいくつかみられた。そのような部分においても、ヘフリガーは単に豪胆な響きで応えるだけではなく、少しすかしてみたり、響きのシャープさを増してみたり、場面に合わせた多様なアプローチがあるのも面白かった。

オーケストラは序盤、やや鳴りが悪かったが、温まってくると、読響らしいエレガントな響きに戻った。第3楽章のソロ・チェロは嶺田健が担当。その嶺田が引っ張るチェロ・セクションは全体を通して一体感があり(ドヴォルザークでも持続)、伴奏側の心臓になっていたのがわかる。それに比べて、管楽器のアンサンブルは、ドヴォルザークと比べてややバラバラな印象であった。

【プログラム】 2010年4月12日

1、ブラームス ピアノ協奏曲第2番
 (pf:アンドレアス・ヘフリガー)
2、ドヴォルザーク 交響曲第7番

 コンサートマスター:藤原 浜雄

 於:サントリーホール

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