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2010年4月 5日 (月)

高関健 マーラー 交響曲第4番 紀尾井シンフォニエッタ東京 @紀尾井ホール15周年記念演奏会 4/2

紀尾井ホールが今季で15周年を迎えるということで、開館記念日となる4月2日に、レジデント・オーケストラの紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)を中心に、祝祭的な企画が組まれた。メインのマーラー、最初のヨハン・シュトラウスともに大編成であり、大量の助っ人を迎えて、もはや「シンフォニエッタ」とはいえない構成での演奏となったが、たまにはこうした演奏会もありだろう。これに匹敵する規模の演奏会としては、ハルトムート・ヘンヒェンを指揮台に迎えた、メンデルスゾーン『パウロ』の演奏があった(オケはすこし小さな編成だが、合唱とソリストを迎えたせいである)ぐらいである。

上の大編成について勘違いしている方もあるようだが、今回、大量のエキストラを迎えたために音質にバラツキが出たなどという見解は、実のところ、あまり正しくない。そうではなく、もともと、そういうオーケストラなのだ。KSTはコア・メンバーを中心としながらも、毎回、メンバーは異なっている。そのなかで今回、はじめてKSTに加わったというメンバーは、実際には少ない。エキストラというよりは、しばしばKSTに参加しているメンバーが、いつもより多めに集められたというのが正しい。そして、彼らにアンサンブルの精密さを求めるのは間違いだ。

正直、KSTに対して求めるものは、数年間、レジデント(定期会員に当たる)であった私のなかでも、さほど大きなものではない(失望したとかいう意味ではなく)。現在、国内の各オーケストラがレヴェルを高めるなかで、所詮、寄せ集めであるKSTのアンサンブル・パフォーマンスはさほど目立たくなった。その代わり、母体となる常設のオーケストラと比べて、各奏者の伸び伸びとしたパフォーマンスが披露されるのが、このアンサンブルのもつ現時点での良さだといえる。例えば、この日もクラリネットの鈴木氏が新日本フィルではみせないような、ハイ・テンションで演奏していたのが印象的だっただろう。今回、KSTとは初顔あわせになった高関健は、そういうKSTの特徴を実に巧みな形で生かしたのではないかと思う。

【意外と効いてくる春の声】

さて、演奏プログラムをみて、ヨハン・シュトラウスのワルツ『春の声』が入っているのは祝祭的な演奏会であることから納得できるとしても、演奏会全体の構成からみれば著しく蛇足であるようにも思われた。まあ、マーラーの終楽章だけで登場するソプラノを有効に活用する意味でもわからなくはないプログラミングではあったし、季節も確かにあっているけれど、それでもマーラーがメインの演奏会で、なにゆえ『春の声』なのかという疑問はつきまとった。

しかし、結論を言うと、この『春の声』は私にとって、蛇足でもおまけでもなく、演奏会全体を象徴するプログラムとして印象づけられることになる。演奏されたのはソプラノ独唱付きの華やかなヴァージョンで、天羽明恵がそこを歌った。今回の演奏の特徴は、この天羽がはじけまくった歌唱の素晴らしさに集約される。

ウィンナー・ワルツ大好きの私としては、リズムの硬さなどはどうしても拭いがたいものとして残りはするが、さりとて、日本人によるウィンナー・ワルツの演奏で、ここまでできれば上出来というものだろう。高関は、斎藤メソッドによる手堅いバトンをすこし緩め、1人1人の奏者を自由に歌わせるのだが、その演奏意図にもっとも応えたのは独唱の天羽であったろう。歌いだしから些かおきゃんな表情づけでありながらも、ベルカント的な技巧性よりも、言葉とその表現にずっしりと立脚した歌で、つよい弾力性を得ていたように思う。序盤は声の虚弱も心配されたが、聴き込むにつれてドンドン惹き込まれる。管弦楽の雰囲気が付け足され、天羽の歌に沁み込んでいくことで、より以上に彼女は表現が鋭く、アイロニカルになっていったようだ。

クライマックスの超高音はやや硬くなったにしても、私は、そこに至る天羽のパフォーマンス全体につよい共感を覚え、力強い賞賛を与えるのに躊躇いがなかった。

中プロのモーツァルトを弾いた田部京子のソロがやや微温的に聴こえたのも、そのせいだろう。それはそれで田部の個性なのだから止むを得ないとしても、外向性を厳しくコントロールし、気品のある室内楽的な響きの美しさに焦点を当てる彼女の演奏は、しかし、ここでは、あまりにも保守的に思えてしまったのである。曲目がモーツァルトなのであるし、当然、ウィンナー・ワルツとは話がちがうわけだが、それを計算に入れても、やはり、いささかの退屈さは拭えなかった。

そして、マーラーである。まさか、ここにまで『春の声』が反映されるとは思っていなかった。自らウィーンの宮廷歌劇場を率いたマーラーの経歴からみればあり得るアプローチではあるが、特に第1楽章で高関がみせた解釈は、伝統的なウィンナー・ワルツを過剰なまでに、マーラー演奏に適用するものであった。第1楽章のうねるような構造を強烈なルバートで彩り、フォルムがぶっ壊れそうになるほどの波状攻撃を繰り返すのである。これには、面食らった。例えば、ワルターにしても、テンシュテットにしても、はたまた我らがベルティーニにしても、そんな解釈はとっていない。

そもそも、この交響曲第4番はマーラーの作品のなかでは、一服の清涼剤のような佳品として受け取られている。もちろん、マーラー独特のイロニーはあるわけだが、編成に比べて響きそのものは室内楽的で、まとまりがよく、それゆえ、紀尾井ホールでも演奏し得ると考えられたのであろう。実際、そのとおりなのであるが、高関はそうした中庸の解釈では、この作品のオリジナリティに応えきれないと考えたにちがいない。

【マーラー 交響曲第4番への見方】

そこで考える必要があるのは、果たして、この曲がマーラーにとってどのような意味をもつのかということである。

誰にでもわかるように、この作品が通り一遍の美しい詩情だけで成り立っているわけではなく、相当に皮肉な風刺性を含んでいるのは明らかである。例えば、第1楽章の最後では、うつらうつらと眠り込むように響きが静まったあと、それを叩き起こすように電話のベル(トライアングル)が鳴り響き、騒々しい客たちが押しかけてくる場面は印象的だ。また同じように、葬送行進曲的な第3楽章でも、死を勝利のように賞賛する大仰な響きのあと、荘厳に眠りにつくかという場面で、再びけたたましいベルが鳴り響き、俗世の響きに追い立てられ、天国へ逃げ込むようにして、響きが遠ざかってから終わるというイロニーもある。

作曲家というよりは指揮者として高い名声を掴み、ウィーンの職を得て引っ張りだこだったマーラーの、当時の多忙さはよく知られている。これらの曲想には、そのような背景が影響しているのは議論の余地がない。

さらにいえば、マーラーは明らかに、死を賞賛している。しかし、マーラーはそれぐらい、変人だったというのは短絡だ。例えば、キリストを抱くまでは死ねないと運命づけられたシモン(シメオン)は、嬰児・イエスを抱いて「われは満ちたれり」と呟き、ようやく死の道につける幸福を喜ぶ。これはバッハのカンタータ第82番にも歌われていて有名な話だが、このようなモティーフは、キリスト教的な信仰のなかでは決して異色とはいえない。ワーグナーの『さまよえるオランダ人』でも、オランダ人に対する救済は、ゼンタとともに昇天するという形で訪れるだろう。

ときに、この作品につけられる副題「大いなる喜びへの讃歌」の、「大いなる喜び」とは紛れもなく死のことを指している。高関は第3楽章でワーグナーの「ジークフリートの葬送音楽」を思わせるような大仰な響きを際立たせることで、この「グラン・マカーブル」(大いなる死)の意味を熱く問いかけるようだった。第4楽章のはじめで、電話のベルに使われていたトライアングルが、今度は非常に寛いだ響きをイメージさせる。天国では、現世でマーラーを悩ませたけたたましい響きも、ひたすらに美しく解体されるようだ。そのあたりの表現はテンシュテットの録音などもうまいが、高関はここでもうひとつのトリックを仕込む。

ここで、最後の楽章の意味について考えてみるべきだ。「非常に心地よく」天国の安らぎを語る最終楽章の独唱により、死が無条件に賞賛されているかといえば、そうでもないのではなかろうか。高関はそのことを示すためか、この第4楽章の詩情を過剰に演出することなく、淡々と演奏することで、素晴らしい祝福に満ちながら、反面、ひどく退屈な世界がそこにあることを示そうとしている。つまり、死へと向かって真っすぐに叫ばれていた讃歌はここで、すこぶる皮肉な形で逆転されるのである。

決定打は、弾き終わりの部分にある。高関はここではっきりと句点を打たずに、作品を終わらせる。それはこの作品の終始としては別に珍しくないが、高関の面白いのは、バスをゆたかに響かせてハープの響きを下支えすることで、そのイメージを強調していることである。こうすることで、我々はこの退屈な空間が永遠につづくことの恐ろしさを知ることになった。どこまでも心地よく、いつまでも浸かっていたいような気持ちよさだが、それはあくまでもぬるま湯なのだ。

【最後の最後で反転された生への讃歌】

ここで、第1楽章に戻ろう。上のような意味づけからみても、高関とKSTの演奏は、第1楽章においてもっとも象徴的なのは明らかだ。

非常に振り幅の大きいルバートをウィンナー・ワルツ風に強調したことについては既に触れたが、その波に乗っかるようにして、これに寄り添っていく各パートが思いきったパフォーマンスをみせ、この揺さぶりをはっきりとしたイメージとして提示しているのがわかるだろう。圧力のある金管の唸りや、大胆に見得を切る木管の響き、クラリネットなどはいちいち楽器を持ち上げて、歯切れのいい音を空間に漂わせようとする。一見、場当たり的で乱雑だが、よく聴いていれば、緻密に計算された響きが、オーケストラ全体のつくるルバートの息づかいに、積極的に対応しているのがわかるだろう。

これにはもちろん、マーラーの作品のもつ独特の情緒的なうねりを表現する狙いがあるが、同時に、オケコン的な華やかさが花開いていることもまた事実であり、多分、そのこと自体がマーラーの計算のなかに入っているのかもしれない。高関はここで、表面的なアンサンブルの美しさを「求めない」・・・というよりは、「拒否する」といったほうが正しいだろう。この楽章の終止が指し示すように、それらの響きはあくまで自分勝手なものであるべきだ。そして、それはある瞬間までは、むしろ醜いものとして聴き手に受け取られるべきなのである。もちろん、「ある瞬間」とは第4楽章の最後で、やっぱりマーラーは、それでも生への讃歌を書いていたのだと決定的に気づかされるときのことである。

KSTのメンバーたちは、本当に楽しそうに演奏した。それは『春の声』で、天羽が持てるかぎりの明るさを振り絞って、ウィーンの若く快活な女性に変身した姿と重なっている。私はアンサンブルの汚さに戸惑いながらも、こうして朗々と歌うKSTのメンバーたちと、それを導く高関のやり方に、段々と満足していった。いろいろと大きな瑕はあったにしても、それをいうのは野暮というものだろう。

確かに、イロニーは込められている。それが第1楽章の終止の部分で、凝縮したユーモアとして表現されていることは既に述べたことだが、ここで重要なことがひとつある。それは、「放り出さない」ということである。私はそのことを考えるのに、2007年2月のN響定期におけるアシュケナージの演奏を思い出す。日本で、指揮者としてはすこぶる評判の悪い彼だが、この4番は思い出に残るいい演奏だったと思っている。全体的に室内楽な特徴を的確に捉え、ワルツのリズムも柔らかく、フォルムのきれいな演奏だった。終楽章は、クララ・エクの艶やかな独唱で美しく締め括ったのも記憶に残っている。

そして、ユーモアがあった。第1楽章の終止は例の電話のベルを強調。これにつづき、騒々しい響きをガツンと鳴らし、それをぶった切るようにして、逃避的なイメージをつよく打ち出してユーモアを醸し出す。

微妙なちがいではあるが、高関はここで、響きをぶった切っていない。野球のピッチングで言えば、球をはなす直前でボールをはじき出すか、ぐっとリストを被せるかというようなちがいである。高関は、後者を選んだのだろう。最後までキャッチャー・ミットから目を離さずに、球筋を確認する(米・レッド・ソックスの岡島はこれで良くなった)。それと同じように、高関は同じようなユーモアを示しながらも、最後をすこしだけ大事にすることで、まるでちがう印象を刻む。マーラーは、ここで逃げてはいなかったのだ。すぐにそうは気づけなくても、演奏が終わったあとには、「ああ、そうだったのか」と帳尻があう。

マーラーは最終的に、どんなに魑魅魍魎たる世の中であっても、そこに住む自分勝手な人たちとの交流のなかにも、何らかの価値があることを見出していく。高関の語るマーラーの交響曲第4番は、そのような意味でも、まことに明るい。ワルターのように、全体を非常に健康的な響きでまとめているのは、このような意図に基づく。

【まとめ】

もうひとつの特徴は、ワーグナーからの影響をつよく打ち出した点にある。特に第3楽章が、「ジークフリートの葬送音楽」のようなイメージを漂わせる(あくまで雰囲気だが)ことは既に述べた。しかし、そこ以外にも、ワーグナーの影響はそこかしこに表れている。アンコール・ステージで、マーラーの歌曲集『子どもの不思議な角笛』から、ワーグナーの『リング』を思わせる〈ラインの伝説〉を取り上げたのも頷ける。

このように、今回の演奏会は、一見して関係のなさそうな素材がきれいに組み合わせれた、興味ぶかいコンサートであったといえる。高関は、かなり粗削りではあるものの、我々の知を刺激する大胆な解釈で1回きり(実際には2回)の演奏を組み立てた。これまで群響でしか聴いたことがなかったが、この人は、優れた手兵を与えれば、恐ろしくすごい仕事をしそうな雰囲気がある。現在、マーラー研究においては世界的にみても屈指のアカデミシャンといえるが、にもかかわらず、(作曲家と)同時代のワルターを参考にしたような通り一遍のオーセンティズムを超越し、独特な解釈で演奏した勇気は賞賛すべきだ。

いろいろ細かいことで書いておきたいこともあるが、長くなったので、以下、割愛する。

なお、今回の演奏会で、長らくアンサンブルのリーダーを務めた澤和樹氏が、その役割を辞することを決めたようなので、一言付け加えておく。紀尾井シンフォニエッタ東京も、新しい段階を模索しなければならないときなのかもしれない。

【プログラム】 2010年4月2日

1、J.シュトラウスⅡ ワルツ『春の声』
 (S:天羽 明恵)
2、モーツァルト ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」
 (pf:田部 京子)
3、マーラー 交響曲第4番
 (S:天羽 明恵)

 コンサートマスター:澤 和樹

 於:紀尾井ホール

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コメント

評論を書かれた方がどなたなのか、明記して頂きたいです。

本文末尾に登場する”オーセンティズム”は辞書には見当たらないし、英英辞書にも見当たらないです。”オーセンティック”(本物の)から連想して作者個人の勢いで造られた造語なのでしょうか?

えー?『アリスの音楽館』ですから、書き手は「アリス」です。つまり、ワタクシだけです。どうやって、7年前のエントリーに辿り着かれたのか。不思議なものですね。おかげで、久しぶりに読み返す機会ができました。件の言葉は最近はあまり使ってないつもりですが、このとき、それが「ある」と思って使った造語と思われます。なにせ、大分、前の記事です。

英語の教員ですが、

件の“オーセンティズム”は正しくは、
authenticity (オーセンテセティ /ɔːθɛnˈtɪsɪti/)
https://en.oxforddictionaries.com/definition/authenticity

または稀に
authenticness (オーセンテクネス /ɔːˈθɛntɪknəs/)
https://en.oxforddictionaries.com/definition/authenticness

です。

上にも書いたとおり、以前は、「ある」と思っていた言葉でして、現在では正しい語彙を把握しております。ご指摘に感謝します。

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