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2010年4月27日 (火)

カンブルラン シェーンベルク ペレアスとメリザンド 読響 就任披露演奏会 4/26

今シーズンから正式に、読売日本交響楽団の常任指揮者に就任するカンブルラン。アイスランド噴火による空港閉鎖をかいくぐり、60時間の旅程を経ての来日を強行しての演奏会である。帰りにホールの裏を通りかかると、VIP用の出入口に高級車が詰め掛けており、この演奏会のもつ特別の意味を窺わせる。

【大事に行きすぎた!】

とはいえ、今回の演奏会は、いささかお粗末なものになってしまったのは否めないだろう。今月はやたらと演奏会の多い読響だが、少なくともやる気には漲っていた。例えば、最初の『コリオラン』序曲の演奏においては、指揮台のうえで張りつめたアクションをとるカンブルランに引っ張られ、なんとも凄い緊張感をみせてくれたものである。それなのに、響きには、それが乗ってこない。むしろ、硬直的なサウンドとして聴こえてしまったのである。全体的に奏者たちが硬くなっているのか、大事に行きすぎて、かえってアイン・ザッツに乱れが多く、響きにも潤いがない。各パートの響きが孤立して、作品のフォルムが浮かび上がってこないのであった。

最初の『コリオラン』序曲は、私が愛着を感じる曲のひとつだが、弦の不揃いがベートーベンらしいサウンドの切れ味を損ない、殺伐とした勇者の表情だけが強調される結果となった。

マーラーの『交響曲第10番』のアダージョはやはり、いまは亡きベルティーニと都響の演奏において、ひとつの極をみているだけに、このような演奏ではまったくこころに響かない。スクロヴァチェフスキも下野も、マーラーよりはブルックナーというタイプなので、そもそも読響がマーラーを演奏するのは久しぶりのような気もするが(実際には2月にセゲルスタムが7番を指揮、その前は昨年8月の高関による5番)、いきなり極北の10番を演奏するというのは至難の業なのであろう。

この10番は完成しているのが第1楽章だけということもあるし、繊細な曲想をこれでもかと織り込んでいることもあり、モーツァルト並みに1つの手抜きも許されない難曲だ。当夜の演奏では、中盤、ソリスティックな対話が盛んになる部分から急速に持ち直したが、アンサンブルが硬く、整わないこともあって、マーラーらしい濃厚な叙情性が浮かび上がってこない展開がつづいた。こうしたなかで盛り上がっていく部分はいかにも空疎な印象で、楽曲の難しさしか感じさせないのである。

そのなかでは、後半に現れる井上俊次のファゴット・ソロが突出して気品に満ち、素晴らしい感動を味わわせたことだけは書いておきたい。井上は、あとのシェーンベルクでも控えめながら、ひとり気を吐いていた。

【ペレアスとメリザンド】

今シーズンのカンブルランは、世の中に存在する4つの『ペレアスとメリザンド』を素材とした音楽作品のうち、シベリウスのものを除く3作品を演奏することで、シーズンの柱に据えている。今回はシェーンベルクだが、一般的なステロー・タイプとは別に、初期作品の『ペレアスとメリザンド』は難解な作品ではなく、ワーグナー風のライトモティーフを自由自在に使いこなし、風景的にも、内面的にもごく描写的な、わかりやすい音楽となっている。作品については下記のページが非常に親切で、参考になる。録音はマティアス・バーメルト指揮RSNOの演奏がよく、強奏部分はやや雑な部分もあるが、大事なモティーフを丹念に扱っておりわかりやすい。

 新交響楽団 HPより:
 http://www.shinkyo.com/concert/p201-2.html

ここに示されるようなモティーフが、どれぐらい明確に印象づけられたかということは、この作品の性質を考えたときに、きわめて重要である。その点において、この日の演奏はやや物足りない。ゴローと運命のモティーフは鮮明すぎるほどだが、それ以外の繊細な表情づけは大味で、どちらかというと優先されるガツガツしたサウンドの狭間に置いてけぼりを喰ってしまう。とりわけ、第1部に繊細に織り込まれるメリザンドの下向的なモティーフが聴き取りにくく、ホルンを中心とした勇壮なゴローのモティーフとの関係が明確でないまま、物語が進行してしまう歯がゆい展開となった。

カンブルランは現代ものの難解な作品も多く取り扱っているだけに、初期のシェーンベルク作品としては、やや語法が饒舌すぎる感じもして、作り物めいた印象を与えてしまう。実際には、『ペレアスとメリザンド』は非常に素朴な詩情に溢れた作品で、もっともっと柔らかい表現力に支えられるはずである。このあたりは読響の弱点であるとも思われ、カンブルランがこうすれば豊潤なポエジーに溢れた演奏になるとイメージしている部分において、いかにも不器用なガツガツしたサウンドになってしまっているのは、オーケストラと指揮者のコミュニケーションが未だ十分ではないことを示しているのだろう。

【メリザンドの真意】

第2部では、ゴローの落馬からコントラバスによる疑念のモティーフが大事に扱われている。ところが、この間、夫を気遣うメリザンドとゴローの関係が描かれる部分の表現が整わない。

ここでプロットを確認すると、『ペレアスとメリザンド』は謎めいたメリザンドとゴローが森で出会い、結婚生活に入るがうまくいかず、メリザンドは弟のペレアスと仲良くなり、やがて嫉妬に狂うゴローを置いて、2人は駆け落ちに至る。追ってきたゴローにペレアスは討たれ、メリザンドはショック死する。ゴローは、深い後悔に襲われるというメルヒェン悲劇である。題名は『ペレアスとメリザンド』だが、実はゴローの内面の動きによって、題名役の2人の運命は左右されている。妻の浮気という筋書きと、逆上した夫による復讐劇という構図からはヴェリズモの影響がみられ、愛する者を殺してしまう男の悲劇(ゴローも間接的にメリザンドを殺してしまう)という点では、ビゼーがオペラ化した『カルメン』の影響が、さらに音楽的には、ワーグナーの影響が濃厚である。

さて、メリザンドの真意とは、一体、どこにあったのかということが、この劇を上演し、または鑑賞する上での最大のポイントになるだろう。メリザンドが完全にペレアスに惚れ込み、ゴローを捨ててしまったのならば、その悲劇性はせいぜい三面記事的な興味に止まる。しかし、この落馬の場面のあと、ゴローが指輪を失った妻に気づくまでの展開からは、メリザンドのゴローに対する真実の愛が窺われるのではないか。

メリザンドがゴローに対してどのような感情を抱いていたかは、物語が故意の言い落としをつくっている部分なので、その真相は読者の想像に概ね委ねられている。メリザンドの死の部分でも、その真意は語られずに終わるからだ。だが、少なくともシェーンベルクはメリザンドのなかに、ゴローへのより深い愛情があったにちがいないと信じているようだ。それはペレアスに対するものよりも純粋なもので、本来、ゴローが容易く手にできるはずのものであった。それなのに、ゴローの疑いの気持ちが、メリザンドとの距離を回復できないほど広げてしまい、むしろ、ペレアスのもとに近づけさせる結果となった。

私はこの関係をみて、即座に『カルメン』の構図を思い浮かべる。ジョゼの独占欲がカルメンをかえって遠ざけてしまい、本来、権利のあるものから、エスカミーリョのような存在にみすみす手渡さねばならなくなる悲劇。彼がその過ちに気づくのは、大事な相手を失ったあとのことだ。ビゼーの管弦楽法を高く評価したというシェーンベルクだが、もちろん、この『ペレアスとメリザンド』で同じような音楽的構築が試みられているわけではない。しかし、思いあう2人が、ドンドン離れていって修復できない世界に入っていくという基本的な構図は似通っている。

これを運命といえばいえると思うのだが、これが決定的にぶつかるのが、第2部の落馬後のエピソードなのである。ここにおいて、落馬という具体的な描写や、ゴローの怒りだけが強調され、メリザンドの優しさや、心配というのが十分に伝わってこないのが、今回の演奏に象徴的な作品表現の甘さにつながっている。

【こぼれていく詩情】

先程の落馬の場面もそうだが、全体的に具体的な表現においては、非常にイメージが明解だ。ランサム(第3部)のペレアスとメリザンドのこころの交歓を描く部分の、舞曲的な性質を強調した柔らかいフォルムの伸縮も面白いし、メリザンドが声を上げ、ペレアス刺殺に至る部分の重厚なサウンドも悪くない。

しかし、死のモティーフがじっくりと奏でられてからのちは、これまでの行状が・・・つまりは、いくつかのモティーフを除いて、きっちりと聴き手に印象づけられていなかったことが仇となって、交響曲の最後に置かれるような再現を用いたフラッシュ・バックが十分な説得力をもたないまま、終盤に突入していく。最後、執拗に拘りつづけたゴローと運命のモティーフだけは力づよく輝き、これのおかげで、ようやく作品は最後の詩情をもちなおす。だが、それまでは、ポロポロとこぼれ落ちていく詩情を留めることができない。

これでわかるように、この作品ではひとつのモティーフとて邪険に扱ってはならないのだ。その点において、今回の演奏会は準備不足が顕著である。読響の、劇的な作品における表現力もベースが低い。今後、カンブルランのてこ入れに期待が集まる要素であろう。

【まとめ】

ところで、演奏会自体の構成は、非常に面白いものだったと思う。最初の『コリオラン』は、劇的な作品という以外に留意できるポイントはないが、マーラーとシェーンベルクの作品は、妻の浮気というテーマではっきり結びついている。すなわち、アルマ夫人の不倫騒動が持ち上がった時期に、マーラーの10番は書かれており、妻のことをなじるような文言がオリジナルの総譜には記されていたという。一方、既に述べたように、『ペレアスとメリザンド』では妻の浮気に逆上した夫の悲劇が描かれている。

シェーンベルクはマーラーのことを尊重しており、ツェムリンスキーとともにマーラーを訪れ、音楽論を闘わせたこともあるという。もちろん、アルマ夫人とも面識があった。

また、作品執筆とは時期がずれているため、直接の関係はないが、シェーンベルク自身、『ペレアスとメリザンド』が予告するような妻の浮気に、数年後、自らが曝されることともなり、結局、駆け落ちした妻は戻ってきたが、その相手は自殺するという悲劇をみることになった。偶然の結果論にすぎないが、自らの不吉な作品が運命を予告する点では、マーラーとシェーンベルクは通じる部分がある。

音楽的には、12音音楽、セリエル・ミュージックに脱皮する前の後期ロマン派としてのシェーンベルクを扱うことで、マーラーの時代との近接点を洗う試みにもなっている。これは今回の演奏に限らず、ヒンデミット、フンパーディンク、プフィッツナーなど、後期ロマン派の最後期にスポットを当てつづける楽団の姿勢(それは主に下野竜也によってもたらされているわけであるが)とも符合する。また、アルブレヒト時代からみれば、ツェムリンスキーやワーグナーを積極的に取り上げてきた姿勢とも整合性が出てくるのである。

しかし、実践においては、いささかこころ寒い結果となった。終演後、この楽団でベストを尽くすと宣言したカンブルラン。日本での知名度はいまいちとしても、欧州では殊に尊敬される指揮者のひとりとして、その真価を見せてくれるのか、お手並みを拝見しよう。

なお、カンブルランは間もなく、長く活躍したバーデン・バーデン=フライブルクのポストを去るが、新たにシュトゥッツガルト歌劇場のGMDとなることが決まったようだ。前任者はやはり読響とも関係が深い、マンフレド・ホーネック。日本でもマスカーニの公演で大きなブーイングを浴びた彼がこのポストを得たとき、あまり成功は期待できないと思っていたが、そのとおりになった。前任者のツァグロゼクの残した偉大な功績を乗り越えることはできず、インテンダントとの不和もあって退任が決まったとの次第である。オペラに関する評価も高くなく、前衛的な演出家を起用して高いレヴェルで安定したパフォーマンスを見せたツァグロゼク時代の精華を維持できなかったようだ。

最後にどうでもいいことだが、今回、プログラムで解説文を担当した渡辺和氏の仕事はこうした媒体のなかに書かれる文章としては、なかなかに読みごたえがあったので、一言だけ賛意を表しておきたい。例えば、「宮廷歌劇場には音楽監督着任後の卓越したオペラ指揮で絶賛される一方、趣味のように交響曲を作曲し上演しては賛否両論のマーラーが君臨」なんてところは、言外にいろいろな時代背景を忍ばせているし、「趣味のように」なんていう表現も言い得て妙だ。

【プログラム】 2010年4月26日

1、ベートーベン 『コリオラン』序曲
2、マーラー 交響曲第10番(第1楽章)
3、シェーンベルク 交響詩『ペレアスとメリザンド』

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:サントリーホール

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2010年4月26日(月)7:00pm サントリーホール 第492回定期演奏会 [続きを読む]

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