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2010年4月18日 (日)

エリシュカ シンフォニエッタ & ドヴォルザーク 札幌交響楽団 528th定期 4/16、17 ①

エリシュカ&札響の演奏を聴きに、北海道まで行ってきた。今回はきっと、季節外れの雪すらが降ったという同日の東京より温かかったのだろう。この時期の北海道の柔らかい寒さは、私にとって心地よいものだ。帰ってくると、いつものことながら空気がまずいのに驚く。この空気が、当たり前だと思い込みながら暮らす毎日に戻るのだとすると気が滅入る。そもそも私の母の一族は、旭川の片田舎に一山をもっていたという家だったそうだが(祖母の代にあらかたの資産は失ったという)、私のDNAにも北海道で暮らすべきコードが書き込まれているのかもしれない。それに逆らって、私は生きているのだろうか?

閑話休題。

さて、ここのところの札幌交響楽団は新たに全国区となった指揮者、ラドミル・エリシュカによるドヴォルザークとヤナーチェクで新シーズンを開幕する習慣となっている。しかも、それらの音源はすべて録音されて、一般的な評価も高い。今回は、ドヴォルザークの序曲『謝肉祭』と交響曲第5番の間に、難曲のヤナーチェク『シンフォニエッタ』がサンドウィッチされるプログラムとなった。過去数年間と異なり、コンチェルトがない。聴くほうは大歓迎だが、演奏するほうとしては厳しい選択となるのにちがいない。

【今回のテーマ作曲家・・・実はベルリオーズ?】

小見出しのように、私はいつも、突拍子もないことを考える。でも、正に演奏を聴きながら、そう思ってしまったのだからしようがないことだ。隠れたテーマ作曲家はベルリオーズだと思った理由は、『シンフォニエッタ』の終曲を聴いて、『幻想交響曲』のサバトの場面を思い出してしまったことと、ドヴォルザークの第3楽章が、『幻想交響曲』の第2楽章にあるワルツの(華やかな)部分を想像させるものだったことによる。おまけに、ベルリオーズにも『ローマの謝肉祭』という作品があることも考えた(無論、謝肉祭はカソリックにとってもっとも重要な祭礼のひとつなのだから、多くの作曲家がそれをテーマに作曲しているわけだが)。

もともとドヴォルザークというのは、ヤドカリのような作曲家だというイメージがある。無論、馬鹿にしているのではない。私にとって、ヤドカリは興味ぶかい生き物であるのだから。彼らの背負う殻はしょせん借りものにすぎないのにもかかわらず、ヤドカリをみた人たちは、彼らが初めからそういう殻をかぶっていたものと信じて疑わない。それほど、彼らは自ら生み出したものではない・・・それこそDNAにコードされていたわけではない殻を、あたかも自分と一体のものとして生きている。ドヴォルザークの音楽も、いつも何か先人の作品を下敷きにしているようだけれど、それなのに、ドヴォルザークはそうしたベースをいつも完全に自分のものにして、インディペンデントな作品にしてしまう。そこが、ドヴォルザークの面白いところだ。

もちろん私は、ドヴォルザークの第3楽章がそのままベルリオーズの世界だと言っているわけではない。エリシュカの演奏を通じてわかるように、このスケルッツォ楽章は、ドイツ音楽の骨組みを利用しながらも、立派なスラヴ的な舞曲であることは論を待たないだろう。しかし、6番以降のコテコテの舞踊楽章と比べると、かなりガッシリしたつくりになっていて、単純なトリオ形式にもなっていない。途中、歌謡ショーのような単旋律が張り出すのを除けば、ドヴォルザークのシンフォニーのなかでも、この5番のスケルツォは形式的に際立ってエレガントである。

そこに無理やり、ベルリオーズのイメージを貼りつけようというつもりはない。そもそもは、ただメロディと雰囲気が似ていると思っただけのことにすぎないのだから。幼稚なはなしである。しかし、周知のように、ベルリオーズには『管弦楽法』という大著があり、後世の作曲家がそれを参考にしたとしても何の不思議もない。例えば、ドヴォルザークの作品にみられるコール・アングレ(イングリッシュ・ホルン)の重用は、ベルリオーズからの影響の一端を示すものであるかもしれないが、この日の1曲目に置かれた『謝肉祭』にも、この楽器に大事なパートが書かれている。

浅学にして、これ以上の踏み込みは効かないのだが、特に初日の16日の演奏では、サウンドの自由な広がりがいかにもスラヴ的な、快活な表情を導くのと同時に、上のような相関性を裏づけるかのような響きの酒脱につながっていたようである。

【ヤナーチェクの2日間の演奏】

一方、ヤナーチェクに関しては、特に初日の演奏において、「サバト」のイメージを抱いた。

この難物の演奏は、2日間でまったく異なったものになっており、非力な私には、どちらが本当にエリシュカの意図に見合っているものか判別がつかない。演奏のまとまりにおいては、圧倒的に17日が勝るのはハッキリわかる。この日の演奏はバンダにも神さまが味方したのか、感動的な演奏となった。初日はミスが多かったアンサンブルが飛躍的にクリアとなり、ビシビシと決まるフォルムが作品の放つメッセージをよりスムーズに伝える。特に第3楽章の展開は2日間を通じて見事であったが、17日は冒頭の低音弦から一貫した流れが徹されて、特に勇壮なファンファーレに突っ込む金管のアンサンブルと、弦のつくるバックボーンのアーティキュレーションが絶妙に輝いた。

ほぼ全楽章にわたって、アンサンブルの精確さ、緻密な受け渡し、流れのスムーズさや安定感、カンタービレの充実は、2日目が明らかに良いだろう。しかしながら、初日の終楽章から受けた毒気については、忘れようとしても無理なはしなのだ。そこでは、バラバラな要素がバラバラなままグロテスクな対位法的構造をみせており、ドヴォルザークならば融合をめざすところで、ヤナーチェクの場合は、(柄谷行人風に言うならば)対立を対立のまま止揚したというような見方もできそうな、危ういバランスを表現していたからである。

確かに演奏は必ずしも巧くなかったが、そのような構造的な面白さは、いかにもヤナーチェクらしい強烈な風刺性を思わせるものであり、これまで聴いてきた『シンフォニエッタ』の彼岸をみせるものであったから、実のところ、私はこの演奏にも、一方ならぬ共感を抱いていたのである。だが、それは単に札響の演奏がメロメロであったためにそう「なってしまった」にすぎないのか、そうではないのか、考えどころである。2日目を体験したいまも、初日の方向性はあっていたという想いもなくはない。

そもそも、ヤナーチェクはこの作品を「ソコル」という愛国的な体育イベントの委嘱を受けて書いたということになっている。よっぽど、その構想は当時の夫人とともに軍隊のパレードをみたときに着想され、「ソコル・シンフォニエッタ」と呼ばれることも心外に感じていたらしい事実はある。しかし、一見するところ愛国的なスラヴ民族団結の集いであるはずのソコルが、実のところバラバラな言語、思想、文化の持ち主たちの集まりであり、その不思議な凝集のなかで生まれた鋭い風刺が、この作品の基底に流れていたとするならば、初日の演奏は、見事にそれを表現していたとも思える。

ある方の請け売りだが、ヤナーチェクがスラヴ民族の愛国的な作曲家だったとしても、そのナショナルな意識は実際、複雑なものであったようである。例えば、大支配民族であるドイツ人たちへの反発を表現するとしても、同じスラヴ民族とはいえ、ヤナーチェクの帰属意識のなかにあるモラヴィアのアイデンティティは、対ボヘミアという視点からみれば、さらにもう一層の支配構造に包まれてしまっているからだ。「ソコル」にしても、「軍隊」にしても、そのような多層性のなかにある矛盾を、うまく解決するものではない・・・というよりは、そうした矛盾を力づくで消してしまうのが、「ソコル」の目的であったのかもしれない。

そのような混沌を描きながらも、神々しいファンファーレが鳴り出すとともにぐっと響きが引き締まって、バラバラな詩情がバラバラのまま凝結していくときの神秘性こそが、この作品の本質を突くのだとすると、エリシュカ&札響の1日目の演奏は、この上もなく示唆的であったのだ。そういう観点でみれば、まとまりのいい第2日目の演奏は確かに感動的であったにしても、それは1日目に予め受け取っていた毒気のうえに、ディペンデントな(立脚した)ものだったかもしれないという印象が、どうしても残ったのである。

さて、ここで「サバト」のようだったというのが生きてくるのであるが、この楽章の主部以降、エリシュカが弦管のパッセージを鋭く、つよい諧謔性をもって演奏させていたのは確かなのであって、その風変わりでヴィヴィッドな造型に、特徴的な木管の調子っ外れも手伝って、私には、あの『幻想交響曲』のサバトのシーンに重なって聴こえたのであった。私がこの曲からそのようなイメージをもったのは初めてであり、このような大胆なフォルムをつくるエリシュカの自由な感性・・・そして、それを促すヤナーチェクの音楽の凄さには、ぐうの音も出ないほどに驚愕させられた。

さらに驚くべきことは、ファンファーレが鳴り出してからも、そこに響きが吸い寄せられていくのではなく、むしろ、なお拡散して粒だってクラスタ化し、それらが対位法に基づく古典的な方法で個々に結ばれていくことで、最後までバラバラなままでありながら、不思議と一所にまとまっていくときの強い求心力である。

2日目の演奏では、こうした要素がきれいに解決されている。17日の朝に目覚めてから、札響のメンバーたちが少しでも良いものをと準備を怠らなかったことが窺われ、それはそれで感動的な光景でもある。だが、このような演奏ならば「聴いたことがある」。これほどの難曲(ショスタコーヴィチの『革命』終楽章とともに、生演奏で満足しにくい曲のひとつである)をそこまで仕上げたのだから、それはそれで素晴らしいことだ。しかし、2日間聴いてみて、私は両方の要素があることが重要だったのではないかと思う。

もちろん、素敵な演奏であったことは変わらないけれども!

(②につづく)

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