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2010年4月 1日 (木)

エリシュカ 「お家芸」のシンフォニエッタ @札幌交響楽団

先日の「N響アワー」では年間ベスト・コンサートの投票結果が公開されていたが、その第1位をとったのがエリシュカだったのには驚いた。結果にしか興味のなかった私も、チャンネルをひねると、エリシュカの『ヴルダヴァ』がかかっていたので、食い入るように見てしまった。やはり、この演奏が第1位なのは当然だろう。

それにしても、数年前までまるで無名だったこの指揮者が、急速に日本のクラシック・ファンの間へと浸透したのは、まったく奇跡的なことであった。しかし、より痛快だと思うのは、その発信地が大東京ではなく、札幌だったという事実だ。かつて破綻寸前とまで言われたオーケストラが、この新たな「スター」を東京、大阪、九州へと送り込んだのである。都響、N響での「成功」は確かに大きかったとは思うが、それもこれも、札幌という根城がなくては始まらなかった。情報時代の勝利とも言えるが、これまで我々が体験したことのないパターンで、エリシュカの存在感は大きくなったのである。

【エリシュカ、来札】

エリシュカ&札響の『わが祖国』のディスクもリリースされ、目下、注文中なのであるが、これも素晴らしい録音だとの評判であるので楽しみだが・・・。そのエリシュカが間もなく、札幌にやってくるという記事である。4月16/17の両日、札幌コンサートホールKITARAで、札幌交響楽団を指揮する。ここ2回はヤナーチェク・ドヴォルザークの間にモーツァルトの協奏曲を挟みこんだプログラムだったが、今回はドヴォルザークの序曲「謝肉祭」と交響曲第5番の間に、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』が挟まる。

周知のように、エリシュカはヤナーチェクの直弟子、ピアニストで指揮者のブチェティスラフ・バカラに師事し、強い影響を受けている。なにしろバカラは、ヤナーチェクがもっとも信用した弟子といってよく、その作曲意図を正確に伝える録音や、楽譜の校訂で名を残している。ナクソス・ミュージック・ライブラリーでも、バカラの録音による『グラゴール・ミサ』と『シンフォニエッタ』が聴けるが、そのことについては後述する。以前、エリシュカは札響の公演で『タラス・ブーリバ』を指揮したが、そのときはバカラの指示をしっかりと盛り込んだ特別エディションで、札響を導いたそうだ。今回も、バカラ直伝のヤナーチェクの真髄に迫る演奏が聴けるはずである。

メインは、ドヴォルザークの交響曲第5番。聞くところによれば、チェコのドヴォルザーク協会の会長を務めるエリシュカではあるが、習作的な1-4番については高く評価しているわけではなく、是が非でも全集をつくって頂きたいという我々の願望は、当面、果たされそうもない。ということは、エリシュカにとっては、この交響曲第5番こそがドヴォルザークが初めて、過去の偉大なシンフォニストの列に並ぼうとする可能性を示した作品という風にみえるのであろう。

私の知るかぎりでは、この交響曲の決定盤ともいえるような質の良いディスクは存在しない(存在するなら教えてほしい!)。私が所有したり、聴いたりすることができるもののなかで、もっとも質がよいと思えるものは、もはやスラヴ的とはいえないユニヴァーサルな音づくりをするビエロフラーヴェクが、なんとかスラヴ人としての意地を示し得ているチェコ・フィルとの録音である(ちなみにビエロフラーヴェクはこの曲を得意としており、BBC響でも録音している)。

私にとって6番ほどの愛着はないものの、作品自体には十分に魅力があると思う。エリシュカが5番以降を演奏すべき作品として評価するのは、このあたりから、ドヴォルザークらしいインディペンデントな特徴が出てくるからだろう。第2楽章のアンダンテ・コン・モートなどは、どちらかといえば機能性を重視するビエロフラーヴェクの演奏でさえ、溢れるような詩情が漂う。ここをエリシュカがどんな風に演奏するのかは、本当に楽しみでならない。

【ヤナーチェク シンフォニエッタ】

エリシュカにとって、ドヴォルザークとヤナーチェクの、どちらにより強い愛着があるのかという議論は不毛であるが、私はいつも、それを考えてしまう。そして、どちらかといえば、ヤナーチェクに体重がかかっているのではないか・・・といつも思ってしまうのだ。だからというわけではないが、今回、私にとってもっとも楽しみなのは、『シンフォニエッタ』の演奏である。

この『シンフォニエッタ』はしばしば、ハプスブルク帝国内で発展したチェコ人の国体「ソコル」の祭典ファンファーレとして委嘱されたと説明される。しかし、その構想は委嘱前から練られていた。ヤナーチェクは当初、この作品を「軍隊シンフォニエッタ」としており、外題から「軍隊」という文字は最終的に外したものの、「ソコル・シンフォニエッタ」と呼ばれることには、頑として納得しなかったという。

証拠はまったくないが、私はそのころのソコルは、ヤナーチェクにとって甚だ不満足なものだったのではないかと考えている。ソコルは愛国的な(あるいは愛チェコ民族的な)催しであり、ヤナーチェクもつよい愛国心を抱いていた人物である。しかし、どこかソヴィエト政府のピオネール組織的な匂いのする、この時期のソコルが、ヤナーチェクの激しい愛国心に見合うものであったかどうかは疑問も多いように思う。

【バカラの演奏にみられるヤナーチェクの意図】

その薄弱な根拠のひとつは、先に挙げたバカラの演奏そのものである。

この演奏を聴いて驚くことは、2つあるように思う。そのうち1つはファンファーレに限らず、全体的に響きの質がつよく、鋭いということである。しかし、その強さはドイツ的な堅固さではなく、国旗が風にたなびくような、芯の強さと柔らかさを併せもった響きといえるかもしれない。これはやはり、ソコルというよりは、軍隊へ献じられるべき音楽なのである。もしもこの作品がソコルのために書かれたとするならば、そこにはソコルに対するつよいアイロニーが込められているように思われる。また、軍隊についても、全面的な信頼があるようには思えない。このことについては、後述する。

2つ目は、オペラティックともいえるほど、ゆたかな表情づけである。この曲の一般的な演奏では、ファンファーレの独創性が目立つあまり、そのほかの部分では、ヤナーチェクの作品の際立った特徴を示し得ていないものがほとんどなのだ。ところが、バカラの演奏では、ひとつひとつの音符に込められた詩情が丁寧に拾い起こされ、その結果、全編に台詞のないオペラのようなメッセージが張りついているのだ。

特に重要なのは、終楽章のアンダンテ・コン・モートの部分ではなかろうか。導入部分は、先日聴いたバルトークの歌劇『青ひげ公の城』の〈涙の湖〉の場面のように、凍りつくような、ふかい哀切さが偲ばれる部分である。しかし、その素材が独特のメカニズムで組み合わされ、アレグレットに向けて昂揚していく部分では、その部分がまったく逆のベクトルを向いたエネルギーに変換されている。アレグレットへの再帰直前、非常に見通しのいい上向を描くとき、この作品の本当の性質が明らかになる。

それはここに示された素材を、人民ひとりひとりとして考えることで説明が可能である。ヤナーチェクは、この複雑な音符のパズルを解くようにして、人民が結びつき、立ち上がるべきだと考えていたにちがいない。バカラの演奏する最後のアレグレットは、そのような力強い運動性に満ちている(運動とは、二重の意味がある)。

【生まれ変わるアレグレットの意味】

だが、実際の軍隊やらソコルは、そのような動きの原動力となりそうもなかった。ヤナーチェクの音楽は、誰かを激励するように厳しい。黙っていても、ソコルやら軍隊が、なにかを勝手に成し遂げてくれるであろうという楽天性は、どこにも見られないのだ。バカラの演奏で強烈なのは、それとは対照的な、能動的な、ときには煽り立てるような動きの厳しさ、綿密さである。例えば、モデラート(第3楽章)の最後の金管の勇壮なアンサンブルなども、藪から棒ではない。そこに辿り着くための精神的なドラマがあり、音楽も、そこに張りつくように細かくコミットしているのがわかるだろう。

ヤナーチェクは多分、なにかを成し遂げるためには、なにかを捨てる必要があるという信念をもっているのではなかろうか。ソコル的な生温い愛国心を捨てなければ、本当の自由を勝ち取ることはできないと感じたにちがいないのである。まったく同じメロディを使ったアレグレットのファンファーレだが、最後のアレグレットは、最初のそれと同じものではない。変容している。最初のアレグレットでオブラートに包まれたような響きは破棄され、後半のそれは、まるで素性のちがう音楽のように、行動的に聴こえるのである。

考えてみれば、交響曲では、得てしてこのようなことが起こる。最初のテーマが長い形式を踏みながら、最後のほうで再帰するようなときには、最初のテーマ演奏のときには考えられなかったほど、多くの表情がそこに付加されて、メッセージが膨らんでいることは、さして珍しくもない。しかし、この作品においては、そして、バカラの演奏においては、単に再帰するとか、何かが加わるというよりは、最初のアレグレットをかなぐり捨て、まったく新しい何かに生まれ変わるというイメージを抱かせられるのだ。

こんな演奏は、私の聴ける範囲においては、バカラ以外にない。さて、エリシュカは作品に潜む詩情を丹念に引き出してくる名人であり、そのことは『わが祖国』の演奏からも明らかであった。私は彼が師匠のバカラに勝るとも劣らない情熱と、ユニークなアイディアで、この『シンフォニエッタ』のなかに含まれる豊富なポエジーをどのように表現するのかということに、少しずつ考えをめぐらしていきたいと思っている。

【まとめ】

長くなったが、このコンサートは聴き逃せないだろう。札幌は、決して遠い場所ではない。エリシュカの年齢からいって、この先、山ほど聴ける機会があるということはないのだし、少なくとも、彼が日本に来てくれる間は、私たちとしても、その機会を大事に扱いたいものである。そして、断言してもいいが、エリシュカが振るときの札響は、現在のチェコ人が忘れかけているものを表現し得ているし、少なくともエリシュカのもつ語法をしっかりと代弁していることは間違いない。

エリシュカを聴くならば、札幌以上の場所はないのだ。そして、エリシュカが日本国内でもっとも深い愛情を注ぐのもまた、このオケである。

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コメント

ドヴォ5はノイマン&チェコフィルが良いです。
アリスさんなら、もう聴かれているかもしれませんが。

http://www.amazon.co.jp/ドヴォルザーク-交響曲第3番-チェコ・フィルハーモニー管弦楽団-ノイマン-ヴァーツラフ/dp/B000XQ9IQI/

ノイマンはチェコの巨匠の代表格のように思われていて、実際そうなのだけれど、良くも悪くもボヘミア的にきっちり官僚的で、ときにリズムが硬く不満に思うところもあります。

しかし、このドヴォ5はいいですね。
ノイマンのきっちりに、チェコ味が滲み出している。

クレツキ&チェコフィルのベートーヴェンを愛聴しているが、あれに近い味わいというのでしょうか。


ドヴォルザーク「第5番」の日本初演は、ビエロフラーベクによって為されています。時はようやく1977年11月18日、東京文化会館における日本フィル定期でした。当時ビエロフラーベクはまだ三十歳でした。私もほほ同じ歳で、よく覚えているコンサートです。

Pilsnerさん、ありがとうございます。これは、ノイマンの全集に入っているものと同じですよね。なるほど、序盤はやや粗く、硬さの感じられる録音ではあるものの、いつのまにか響きがゆたかになり、ドヴォルザークらしい風味が出てくる演奏でよいと思います。

ずっと以前から所有してはいたものの、そういえば、この5番はあまりかけた記憶がありません。こういう機会でもないと、お蔵入りになっていた可能性があります。ご指摘、ありがとうございました。

カンタータさん、ありがとうございます。ビエロフラーベクが日本初演をしているとは驚きです。

77年では、彼がようやく一本立ちしはじめたぐらいの時期ということになるのでしょうか。その当時から、日フィルがビエロフラーベクの実力を見抜いていたんだとすると凄いことです。貴重な情報をお寄せくださいまして、ありがとうございました。

カンタータさんも、札幌にいらっしゃるといいですよ。エリシュカがいいからというのもありますが、それだけじゃなく、空気もよければ、食べものもウマく、そこに住む人間たちも素晴らしい。おまけに、ミューザと兄弟の、いいホールもあります!

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