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2010年5月 7日 (金)

ラフォル・ジュルネ エル=バシャ バッハ:平均律 & ショパン:プレリュード 【353】 5/4 ホール:D7

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エル=バシャによるバッハの『平均律クラヴィーア曲集Ⅰ/Ⅱ』と、ショパンの『前奏曲集』を組み合わせたコンサートは、実に素晴らしい試みだった。周知のとおり、ショパンにとって最高のヒーローは、なんといってもバッハである。ショパン演奏は特別であるとはとよく言われ、実際、そのとおりなのであるが、ショパン以前の作品に何も手がかりがないのかといえば、そういうことはない。特に、バッハをしっかりと演奏することが、ショパン演奏にとって決定的に重要な、独特なルバートの収得にどれほどの効果を発揮するかということは、このエル=バシャの演奏によって、実に示唆的に提示されたのであった。

エル=バシャのショパンは、今日のショパン演奏のストリームのなかでは、もっともオーセンティックなものに属すると思われる。そこでは、たとえスタインウェイの軍艦ピアノが用いられるにしても、エラートやプレイエルだけがもつ繊細な表情づけ、優しい音色が再現される。テンポ・ルバートはハッキリと意識されているものの、大げさではなくナチュラルで、その効果が染み入るような感じである。

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イントロダクションのあと、「雨だれ」の演奏を聴いて、いきなりこころにじんと来るものがあった。まず気づくのは、エル=バシャが決して叩きすぎない上品な打鍵で、作品をじっくりと演奏していることだろう。叙情的な部分を引き伸ばして、甘ったるく弾くこともないし、これみよがしに旋律の美しさやダイナミズムをひけらかすこともない。彼はただ、各人の足の形にあわせてピッタリな靴をつくるようにして、楽曲のカタチを的確に把握しながら、その身の丈にあった動きをつけるだけなのだ。それなのに・・・否、それだからこそ、エル=バシャは楽曲のもつ最大限の表現性を引き出すことができる。

かつてパヴェウ・カミンスキ教授が話していたように、ポーランド人は一般に激しい性向をもっており、ショパンもまた、それに見合った作品を書いているのは間違いないだろう。だが一方で、そのような激しさを単純に強調するよりも、むしろさりげないアクションにそっと溶かしこむほうが、より効果的にショパンの内面を表現することができるのも事実である。そういった意味で、エル=バシャの演奏はひとつの粋をいっているのではなかろうか。

「雨だれ」では、サンドの言葉に由来するというニックネームに象徴される同音連打の部分からの、一切の誇張なく、気品に満ちた感情の高め方が見事である。左手と右手のバランスが内面の動きにあわせてアーティキュレートされ、左手の「雨だれ」の陰鬱さに右手のポエジーが呑みこまれていく様子が、あくまで控えめに物語られている。控えめだから、なお、こころに響くのである。しかし、それは最終盤でひっくり返され、弾きおわりでは、右手の清廉な旋律へと転じていく。面白いのは、その切り替えが長調への転調部分ではなくて、より最後の押し詰まった部分まで温存されていることだ。

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前半の演奏では、バッハの(BWV862)から、ショパンの(op.28-17)への移行なども印象ぶかい。これらの構造は外見的な明らかなる違いにもかかわらず、内部構造においては驚くほど似通っている。このあたりから、バッハの作品とショパンのそれのダブりというのが、しっかりと聴き手に伝わってくる。また、15番のあとの(BWV867)の演奏で示唆的なように、ショパンの詩情を構造によって純化するようなバッハの効果も、エル=バシャの演奏においては、実に力づよく表現されている。この17番でも最後の逡巡するようなパッセージに、私などはぐっと来てしまうのだが、その一方で、直後にヘ短調に転じて奏でられるバッハが一段とショパンのこころの叫びを切実なものにする。

エル=バシャはこうして、パートごとの丹念な音楽表現と、構造、しかもショパンとバッハの組み合わせによる相互補完的な組み立てを巧みに利用して、ドンドン聴き手を作品世界にのめりこませていく。内面的なふかい感動が、構造的、和声的な細かなデザインと結びついて、同時的に輝く。特に、エル=バシャは細かい和声の効果を捉まえ、ポイント(点)で感じさせることができる稀有なピアニストであるため、効果は抜群である。そのことを感じ取るのには、もちろん、譜面上の知識はさほど必要ない。なぜなら、エル=バシャのパフォーマンスは、ほとんどスコアを見ながら聴いているに等しい演奏だからである。

唯一、構造が押し詰まったときにときどき、休符にフェルマータを置いたような空間をつくり、ほんの僅かに立ち止まって演奏を整える場面が見られるが、それも大げさではなく、全体的な構造把握を損なうものではない。それはかえって、作品に奥行きをもたらす結果にもなって、聴き手には印象的であったろう。

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ショパンの20番の演奏は劇的な要素を抑え、かなり控えめに弾いていたのが面白い。そのためナンバー自体のカタストロフィーは落ちるものの、構造的な整合性はむしろ高まったといえる。なお、このあたりから、エル=バシャの演奏は一筆書き的な流麗なものとなる。同時に、ショパンの叙情性が中心で来ていた流れが、少しずつバッハに傾いていくような展開も感じられる。その流れはバッハとショパンによるダブル・フィナーレに流れ込むが、やはり、ショパンの24番の包容力はすごいと感じた。エル=バシャ独特のアルペッジオの清冽な運びは説得力も抜群で、この興味ぶかい試みを閉じるに申し分ない。最後、悲劇的な低音が3度打ち鳴らされて終わると、会場はしんと静まり返り、私などはいま思い出しても涙が堪えきれないような感動を味わった。

この文章のなかで何度も出てきたが、なんといっても「見事」という言葉に尽きる。ショパンに限らず、古典派以降の作品を演奏するのに、バッハの重要性は巷間にイヤというほど言い伝えられており、世界的なコンペティションでも必ずバッハの課題が組まれるほどになっている。しかし、内面とカタチの両面において、これほどバッハへの私淑を明解に物語った演奏も珍しい。

特に、ショパンのルバートを、バッハの作品における息遣いと同等に表現し、その正体を明らかにしたのは面白い発想であった。ショパンという作曲家がインディペンデントな存在であり、また、そのようにイメージされているなかにおいて、その音楽的な独立性を損なうことなくして、同時に、上のような課題を成し遂げたエル=バシャの演奏に、快哉を叫びたい気分である。

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