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2010年5月21日 (金)

前田二生 ビーダーマイヤー時代の音楽 新東京室内オーケストラ 5/19

こんなコンサートが増えてくれると、我々ファンとしては嬉しいのだが・・・。

新東京室内オーケストラは、読響のホルン奏者、山岸博を中心に同団のメンバーを主体とする構成で組まれた中規模のオーケストラである。指揮は、海外で地味ながら高い評価を得ている前田二生が務めている。「ウィーン古典派の系譜」シリーズは25回目を数えるが、今回は「ビーダーマイヤー時代の音楽」と題してのコンサートだった。コンマスは、三浦章広。

【ビーダーマイヤー時代】

さて、「ビーダーマイヤー時代」というと、どちらかというと、「会議は踊る」のウィーン会議に象徴されるような華やかな時代背景をイメージしがちだが、ウィーン・ムジークフェラインのアルヒーフ館長であるオットー・ビーバ氏による解説では、若干、意味合いがちがうようだ。博士によると、この時代はナポレオン騒動のあと、ようやく手に入れた和平を守るために、厳しい思想統制がおこなわれた保守的な時代だった。そのため、人々はパヴリックな場所を避け、豪奢な私邸に集い寄って、音楽を楽しんだり、それをバックに踊り明かしたというわけだ。

かくして、ビーダーマイヤーという言葉は後世、この冬の時代を耐え忍んだ人たちを嘲る言葉となったが、やがて、その明るい部分「よい意味に理解されるようになった」という。私のイメージも、そのようなよい意味でのものに偏っていたわけだが、もちろん、それというのも、この時代を代表する作曲家として何よりもまず、ヨハン・シュトラウスのような華やかな存在を思い浮かべるからという歴とした理由があったのである。

ビーバ博士は、シューベルトの(D648)の序曲においてさえ、「時折、悲劇的な響きさえ聞こえてくる」と指摘する。私はなるべく当時のウィーンっ子の気持ちになって、音楽に接してみようとした。この最初の曲の演奏はクオリティが十分でないこともあり、まだ、ビーバの言葉をハッキリ実感させるものではない。しかし、中盤に現れる管楽器のアンサンブルが、この時代の抑圧された思想がぶつかりあうようなイメージで聴こえるのだけは、きっちりと感じ取った。

2曲目は藤原浜雄をソリストに立ててのパガニーニの協奏曲第2番であったが、ここで私は、ようやく博士の言葉にある程度の実感を得た。この協奏曲は、有名な「ラ・カンパネッラ」(鐘)のモティーフを織り込んだ技巧的な作品である。後世でいえば、アメリカに初めてオイストラフが来たときのような衝撃を感じさせたであろう、パガニーニの作品は、天使とも悪魔とも思えるような超越的な音楽性をいまもって感じさせる。外形的には、イタリア・オペラの形式(特に、ロッシーニの作品が思い浮かぶ)を借りながら、声楽的な身振りと、弦楽器ならではの機能性を巧みに織り込んだ名品である。

上記のような大まかなフォルムに基づきながら、ファルセット(ハーモニクス)や、音階を駆け下るヴァイオリンのアクションを、いかにも上品に「見せびらかす」パガニーニの手法は予め知っていたはずだけれども、それでも、私は衝撃を受けた。特に、これは生でやられると、本当にたまったものではない。エクスタシーを飛び越えて、恐怖や震えが来るようなヴァイオリンさばきは、なるほど、この時代の鬱屈した雰囲気のなかで、パガニーニがなにゆえ愛されたかを明らかにするものだ。

今回、藤原浜雄はこの作品を完璧に把握して、見事な演奏を披露した。これだけ難技巧がつづく作品なので、ときどき目立つ瑕が現れるのはご愛嬌としても、私は、藤原がここまでやってくれるとは思いも寄らなかった。重要なのは、難技巧を「こなして」無難なフォルムを組み立てることよりも、パガニーニの悪魔とも天使ともいえるようなつよい個性を、思いきって表出することに賭けたところにある。正にそのことにより、カンタービレは思いも寄らぬ深彫りにされ、一般聴衆だけではなく、ヨハン・シュトラウスをはじめとする歴史的な音楽家たちさえも瞬時に虜にしたエネルギーの在り処を、彼のヴァイオリンがダイレクトに教えてくれるのである。

とりわけ、第1楽章のカデンツァは単にパガニーニの難曲を聴くというよりも、それを弾くヴァイオリニストの本質を明らかにし、それを感じ取らせるかのような「精神性」が浮かび上がる。藤原のそれは恐ろしく実直で、日本の伝統工芸の名職人たちの頑固一徹な横顔を思い浮かべさせるものであった。

長大な「狂乱の場」のような第1楽章のあと、ゴージャスで威厳のある序奏につづき、いちばん幸せな場面を歌うかのように明るく輝いた第2楽章のヴァイオリン独奏の弾きだしも印象的だ。ところが、第3楽章になると、ブッファ的なユーモアが一気に広がる。作品の後半、オルゴールのねじを巻くように、弦と弓を擦り合わせてチュクチュクという響きをつくる場面が、なんといっても印象に残る。作品中盤では、グロッケンが奏でる鐘の音とあわないで、必死に追っかけるヴァイオリンのコミカルな描写が巧い。ようやくバランスを得たコーダは、ねじの巻きすぎで勢いのつきすぎた鐘にとりつく妙技が、これまた明るく印象づけられる。

作品を聴きおわって気づいたが、私たちはこの作品のなかで、恐ろしくいろいろな感情と向き合うことになる。それは例えば、驚きであり、怖れであり、愛情であり、幸福であり、うまくいかない人生であり、逆に、何かが偶然うまく運んだときの絵も言われぬような喜びである。そのような意味においても、パガニーニのこの作品は、オペラ的である。伴奏は非常にシンプルで、これまたオペラティックである。パガニーニはこうした既成の手法を宛がいながら、いつしか、インディペンデントな作品を織り上げてしまったのだ。

なお、ビーダーマイヤー時代のウィーンにとってイタリーへの憧憬は象徴的で、そのことは一世代あとのヨハン・シュトラウス(Ⅱ)『入江のワルツ』などに典型的に現れているが(ただし、それは喪失のあとの裏返しの感情である)、ビーダーマイヤー時代のウィーン古典派音楽と、イタリーの音楽の関係性は、この演奏会の隠れたテーマとして考えられる。

【アテネの廃墟の意外性】

その問題を考えるときに、意外な名前が浮かび上がってくる。それは、劇付随音楽『アテネの廃墟』から3曲が演奏されたベートーベンのことである。自分の無知のせいかもしれないが、ベートーベンとヨハン・シュトラウス・ファーターが同時期のウィーンに人生を過ごしていたことには、新鮮な驚きを感じた。

さて、この『アテネの廃墟』は、再びビーバ博士の解説によれば、トルコの占領からの解放をめざすギリシャ市民の闘争心に火をつけようとする試みであったのではないかという。博士は、この作品の序曲が1823年にウィーンで出版されることが許可されたのは、音楽をよく理解しなかった当局者のミスであるとさえ言い切っている。

なるほど、勇ましい「トルコの行進曲」は中盤で威圧的な響きを集め、親しみやすい鼓笛の響きで、聴き手を捉えるだろう。しかし、前田二生は最後、巧みに空気を抜いてエネルギーが逃げ去っていく様子を、上手に描きあげている。今回は演奏されなかったが、その後、声楽付きで演奏されるギリシャ側の音楽は、これと比べて、穏やかな立ち上がりから構造的に密度を増し、力づよく結ばれる逆の構造をとっている。なるほど、このような組み立てからベートーベンが思い描くイメージは、実にわかりやすい。

ところで、そのような批評的観点と音楽会の演奏効果は、若干、ずれがあることも指摘しておきたい。私も、いちど耳にしたときから大好きなのだが、このトルコ側の行進曲は短いが、とても魅力的なのだ。今回、演奏会の最後にアンコールされたのも、実はこの曲だった。さすがに、この人たちはよくわかっている。

話が脇に逸れたが、私がここで注目したのは、ベートーベンとロッシーニの意外な親密さである。「序曲」における壮麗な盛り上げや、ロッシーニ・クレッシェンドのようなフレーズの膨らまし方(やや息は短いが)、弦管のアーティキュレーションの構成などに加えて、あとで調べてみれば、劇付随音楽の最後の「国王万歳!」のグランド・コンチェルタンテのつくり方なども、ロッシーニ作品そのものであると言っていいほど似通っている。ベートーベンがロッシーニの作品を激賞した事実はそれなりによく知られているが、ベートーベンの頭のなかに、『ギョーム・テル』のような作品があったことは間違いない。

今回の演奏会で、一方の主役がパガニーニであるとするならば(シューベルトやシュトラウスを夢中にし、ビーダーマイヤー時代のきっかけをつくったナポレオンの妹との交際歴もある)、もう一方の隠れた主役はロッシーニであったのかもしれない。

前田二生は、こうした特徴を捉えるのがうまく、とてもエキサイティングな指揮者だとは言えないが、大事なものを大事なものとして、しっかり提示する能力には優れている。アプローズを受ける仕種も下手で(この日も、聴衆が戸惑う場面が2度ほどあった)、プロ音楽家としての華やかさには欠けるものの、しっかりした音楽を聴いたという感じを抱かせる指揮者である。

【最後にシューベルト】

メインは、シューベルトの交響曲第5番。東響&スダーンによるツィクルス演奏をきっかけに、日本でも、シューベルトの交響曲は本格的な見なおし過程に入っているが、あれと比べると、ずっとしっかりした演奏であるという印象が、ここでもあった。

ただし、生気溢れるような、快活な楽章よりも、緩徐楽章において、この演奏は印象づけられるべきだろう。星秀樹、渡邉恭一のベースを軸にした豊かな情報量を誇る第2楽章の演奏には、陶然としてしまった。同じオーケストラのメンバーが主体であるだけに、アンサンブルの密度が高く、特に、コントラバスのほか、山岸のいるホルンや、井上俊次、岩佐雅美によるファゴットといった低音楽器の効果が、絶妙に効いているのだ。さりとて、暗鬱なイメージに流れることなく、表情ゆたかなカンタービレを聴かせるところが、シューベルトのシューベルトたるゆえんだろう。

【まとめ】

読響のアンサンブルは聴き慣れており、クラリネットに高橋知己、ティンパニに元日フィルの森茂のような名手が入っている以外、ほぼミニ読響といって間違いではないアンサンブルに目新しさはない。それなのに、指揮の前田のほか、ビーバ博士のような参謀の知恵が入ることで、本隊では決してあり得ない濃密で、知的な表現が聴けるのは、実に喜ばしいことだった。

アルミンクや、ティエリー・フィッシャー、それに下野竜也などがこのような種類の試みをおこなっているが、まだまだ数が多いとはいえない。しかも重要なことは、単に意義深い試みというだけではなく、それに見合った音楽的感興を配慮していることだ。今回のプログラムでは、パガニーニとシュトラウス・ファーターで、同じ素材の作品を選んだのはやや失敗だったが、それ以外は、パガニーニの名技性の面白さや、「トルコ行進曲」の親しみやすさ、それに、シューベルトの交響曲の快活さを上手に組み合わせている。

さらに、パガニーニのコンチェルトのところで触れたように、人間にとって大事な面をいろいろと掘り下げていく部分もあり、また、多種多様な表現性を含んだ演奏会であったという面白さも加わる。このコンサートは、イタリア・オペラに影響を受けたもの、ウィンナー・ワルツの独特なフォルム、より古いドイツ舞曲の形式、ベートーベンのルバート、パガニーニの夥しい特殊奏法、オペラ的な伴奏法・・・と、数々のスタイルを使い分けていかねばならない難しいコンサートだ。多少、練習不足の面はあるにしても、これほどのレヴェルでやりきったメンバーにはアタマが下がる。

プログラムが気に入って足を運んだ演奏会だが、思った以上の満足感を得ることができた喜びは大きかった。

【プログラム】 2010年5月19日

1、シューベルト 序曲 D648
2、パガニーニ ヴァイオリン協奏曲第2番「ラ・カンパネッラ」
 (vn:藤原 浜雄)
3、J.シュトラウス・ファーター ワルツ op.11 「パガニーニ風」
4、ベートーベン 序曲/舞台裏からの音楽/トルコ行進曲
            ~劇付随音楽『アテネの廃墟』より
5、シューベルト 交響曲第5番

 コンサートマスター:三浦 章広

 於:紀尾井ホール

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