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2010年5月28日 (金)

ヴィオラ・スペース 東京公演 第二夜 「躍るヴィオラ」 5/27

ヴィオラ・スペースの東京公演は、前日に引きつづき第二夜を迎えた。

【室内楽作品】

最初の曲は、ルクレールの『2つのヴィオラのためのソナタ』。原曲は、2つのヴァイオリンのために、イ長調で書かれているのを、ニ長調に移して編曲したもの。演奏者は、鈴木康浩とディミトリ・ムラト。バロックらしい伸びやかさや、牧歌的な感じは薄いが、当夜のテーマ「躍るヴィオラ」を体現した躍動感のある演奏であり、楽器の音色を生かした中庸な演奏といえる。鈴木の奔放な動きに対し、ムラトの知的な立ちまわりが目立った。

つづいては、都響の鈴木学が、ブラームスの『ヴィオラ・ソナタ第2番』を演奏した。この曲はブラームス晩年のクラリネット・ソナタを、作曲者自身の手でヴィオラに移したもので、昨年のコンペティションでも頻りに演奏されたので思い出ぶかい。そのときのピアニストのひとり、木村徹が伴奏を務めた。

鈴木の演奏は下手に深くを穿つことなく、端麗な演奏といえる。彼は昨年のコンペティションでも審査員を務め、ガラコンにも出演したトーマス・リーヴルの教えを受けているが、高い修行を積んだ僧侶、もしくは、寡黙な武士のように必要最小限のパフォーマンスで聴き手を唸らせた師匠の技に、鈴木の演奏も近づいている。しかし、音色は膨らみがあり、朗らかでもの優しく、リーヴルよりも親密な演奏だ。第1楽章の楽想表記、アマービレそのものである。ただし、それにしても、ややカンタービレが平板で、保守的な演奏に徹しすぎた点はマイナスに評価したい。

前半の最後は、ベートーベンの三重奏曲。これはオーボエとコール・アングレによる(op.87)からヴィオラ三重奏に移したもので、著名なヴィオラ・コンクールの名前にも冠されているヴィオリストたちの神さま、ライオネル・ターティスによる編曲である。今回は、佐々木亮、ムラト、今井信子の3人で演奏した。

このフォームで聴くのは初めてなので、良い演奏なのかどうかは判別しにくいが、3本の楽器の関係性が深く掘り下げられているとは言い難く、やや微温的な演奏に止まった。それでも、それなりに聴かせてしまうのは、やはりヴィオラという楽器の魅力の成せる業だろう。佐々木は良いヴィオリストであるが、ムラト、今井と比べると、表現の多彩さという点で、若干、劣るは止むを得ない。十分なリハーサルがあれば話もまた別なのであろうが、2人がコクのあるベースをつくるなかで、佐々木の音色はやや単調で、カンタービレも硬い。その分、リズムや音色の交歓が淡彩になり、作品を掘り下げていくときの障害になっていたのではないか。

【サンクトペテルブルクへのオマージュ】

この日は、後半の演奏が面白かった。まずは、クリストフ・エーレンンフェルナーによる『サンクトペテルブルクへのオマージュ~ヴァイオリン、ヴィオラとオーケストラのための協奏曲』である。この作品はこの日の独奏者であるセルゲイ・マーロフのために作曲されており、来年3月に、ザルツブルクで全楽章の世界初演がおこなわれる予定ということだ。そのうちの第1楽章が、ここで部分初演されたことになる。作曲者のエーレンフェルナーはヴァイオリニストとしても活動し、2人とも、現在開催中の仙台国際音楽コンクールに出場した経験もあるので、日本とは縁がある。

今回の作品は優れたヴィオリストにして、才能あるヴァイオリニストでもあるマーロフをイメージして、その両方の楽器を1人が操るということを前提にして構想されている。作曲者の言を参考に書くならば、ヴィオラは「死」、ヴァイオリンは「生」の神話を語る象徴的な人物として別々の役割を与えられ、ヴィオラは破壊、ヴァイオリンは「欲望とエロスの魅惑的で創造的なエネルギー」を発するという二元的な視点を導入している。だが、単純な二元論ではなく、エーレンフェルナーのコメントによれば、上記の説明のあと、ヴィオラの沈鬱な歌が古いラメントの形式であるシャコンヌに流れ込み、悪魔のヴァイオリンがこれを裏返すという、反対のことが説明されている。

藤田茂氏の誤訳ということも考えられる(どちらかでヴァイオリンとヴィオラを取り違えた)が、そうでないとすれば、はじめから2つの楽器は、破壊と創造、天使と悪魔の両方の要素をもつように想定されていたと考えるのが自然だ。

私のイメージでは、悪霊たちが蠢く墓場(オーケストラが不穏な響きを奏でる、いささかワーグナー的)から立ち上がる呪われたドン・ジョヴァンニのようなヴィオラと、それを救わんとする『オランダ人』のゼンタ的な役割のヴァイオリンとの出会い、そして、悲劇的な別れと、悲しい救済という譬えがちょうどいいのではないかと思う。ドン・ジョヴァンニは呪われてしまったが、その心根は真っすぐで、ダイレクトな感情だけで生きる正直者だ。しかし、その生き方は他者に対して、翻っては自身に対して破壊的である。また、ゼンタは一見、無償の愛を提供するかのようであるが、その異常なほどの夢想には悪魔がとり憑いているようでもあり、実際、オランダ人の「救済」というのも括弧つきのものである。

そして、この作品のひとつのテーマは官能性である。ドン・ジョヴァンニのリアルな中にも、どこか幻想的な官能性と、ゼンタのまったく幻想的にして、にもかかわらず不思議とリアルな官能性は、こうした作品のテーマを構成するのに持って来いだ。率直にいって思いつきだが、なかなか面白い比喩であろう。

音楽自体はネオ・ロマン主義的な懐古趣味が強く、ヴォルフとワーグナーのアイノコのような音楽ともいえそうで、新しさは感じない。しかし、上に示したような両性具有への素直な共感に基づく独奏楽器の使い方は多義的であり、単に2つの楽器を扱えるソリストの多芸を楽しませるに止まらず、正に、それらの楽器をともに愛する演奏者の内面を深く理解した音楽構成が、既に示したような破壊と創造、悪魔と天使、生と死のドラマに寄り添うカタチで上手に表出されており、その点で辛うじて独創性がある。

例えば、ヴィオラでヴァイオリン的な高音を追ったり、逆に、ヴァイオリンで低音を下るときの効果が、演奏者の内面と深く結びついて表現され、また、演奏者の誠実さを引き立てることになる。また、もともと両性具有ということもあり、作品が進むにつれて、ヴァイオリンとヴィオラの役割はハイブリッド化し、ときには、微妙に入れ替わってもいく。ここでセルゲイ・マーロフという1人の音楽家は、呪われる前の実態を取り戻すかのように、急速にリアリティを増す。

そこに立体性を付け加えるように、遠くから聴こえるようなコンマスのソロで幕を開けたフィナーレは、最後、オケ側にいるヴィオラの第一奏者とのデュオ、さらに、それを補うチェロ奏者との静かな協奏で終わるように構成されている。その結末がどうなるのか、是非、全楽章の再演を望みたいところである。なお、この学生オケのヴィオラ首席奏者のイケメン君は昨日のコンサートでも目立つ存在であったし、次回のコンペティションには難しい課題曲をマスターして、是非、エントリーできるように願いたいものだ。

なお、桐朋のアンサンブルについては、シュターミッツのように拍節感の大事な作品でもないことから、前日ほど悪くはなかった。否、よく頑張ったと言ってもいいだろう。

もちろん、マーロフは、ヴィオラもヴァイオリンも本当に巧みだった。特殊奏法も難なくこなすし、それだけに止まらない表現の強さがある。屈託のなさそうな人柄もあわせ、成功する資質をたくさん備えている。その出発点として、この作品は記念碑的なものになる予感がするし、そうなってもらいたいものだ。また、エーレンフェルナーが思い描いたドラマトゥルギーを完璧に演じきった、マーロフの演技力にも注目しておきたい。

【トリはタムスティ】

大トリは、前日の『シャコンヌ』で好演奏を聴かせたアントワーヌ・タムスティ(アントワン・タメスティ)の演奏である。タメスティは、タペア・ツィンマーマンらと並び、現在の欧州楽壇を席巻する若手ヴィオリストの1人だが、オルガ・ノイヴィルト作の”Remmants of Songs...an Amphigory”も、タムスティのために書かれた作品である。

この作品は、藤田茂氏の解説によれば、U.ベールによる学術書『歌の残骸...シャルル・ボードレールとパウル・ツェランにおけるトラウマと近代性の体験』を下敷きに、5つの楽章にまとめられたという。その文章がどのようなものであるかは知る由もないが、藤田氏は文芸批評と音楽の関係性は道を惑わすとして内容の言及を避けており、前日のレヴューにおける私のようなことを言っている。しかし、作品を聴いてみるとドラマティックな詩情が交響詩的に展開することから、もとになった文章の影響は、前日のエトヴェシュ作品よりも濃厚に感じられる。藤田氏には失礼だが、共感の薄い論文を熟読し、批評対象となった作品を読んで、その周辺まで調べねばならないことを怠った文章ともとれる。

真相はともかく、この作品の5つの楽章がどのような意味で構成されているのかについて、私たちは知識を与えられなかったわけだ。その範囲で想像するに、この作品の主人公である独奏ヴィオラは、ややうだつの上がらぬ放蕩者(例えば、シューベルトの『冬の旅』の若者のような)の遍歴を表現しているのではないかと見られ、つまり、そこでは悲劇性と喜劇性が両立している。

象徴的なのは最後のナンバーで、ここで独奏ヴィオラは伝統的な協奏曲の形式で音楽を奏でようとするが、それはいかにも調子っ外れなので、オケ全体から暴力的な批判を受ける。それでもヴィオラは、必死に音楽を奏でようとするのだが、誰ひとりとして彼の出す響きに耳を傾ける者はいない。ついに萎縮したように、ヴィオラはヒュウヒュウと獣の呻き声のような弱々しい響きを奏でるに堕し、作品は寂しく終わる。

このヒュウヒュウ空気の抜けるような響きは、確か第3曲(だったか?)の壮大な響きの最後にも現れていたのではないかと思う。この楽章では、まずポツンと放り出されるようにヴィオラ独奏が姿を現し、それを取り囲むように、弦のプルトが少しずつ増え、有名な「かえるの歌」状態で響きが増殖していく。このサウンドは徐々に壮大となり、ホルストの組曲『惑星』のなかの〈マーズ〉のような激烈な響きに盛り上がっていくのである。ただし、すこしタガが弛められ、悪意的である。ただならぬ雰囲気に追い立てられたヴィオラは必死に駆け出して、ようやく逃れ去ったところでヒュウヒュウと鳴く。

これは、『アリス・イン・ワンダーランド』を思わせるようなファンタジックな第2曲(および第4曲もそんな感じだったのでは?)と対を成し、ウサギを追っかけて走っていたはずが、かえって、不思議なものから逃げまわることになる少女の物語のメタファー(隠喩)として感じられる。

やや記憶も曖昧なので、もちろん、このような見方が適切であるようには思えないが、なにも知らずに聴けば、そんな風に想像してもおかしくはないという一例として見ていただければ幸いだ。しかし、「無意味な詩文」という題名の訳語や、論文のタイトルからみても、なにか徒労に終わるようにみえる無意味な仕事、それが作者の内面的な必然性と結びつく深いメッセージをもっているという内容であることが窺われ、それを戯画化して可視(正確には可聴)のものとした作品という風に理解すれば、それなりに解釈が成り立つ。

ここで重要なのも、マーロフのための作品と同様に、豊富な演技力である。しかし、音楽における演技力とは何であろうか。それはもちろん、技術や、歌のフォルムや、リズム、それに演奏姿勢、音色、フレージングなどといったものに求められるはずである。つまり、彼の偉大な先達と比べても非常にレヴェルの高い技術をもつタムスティのゆたかな能力がなければ、この作品が指示するような鋭い表現性は浮かび上がってこないことになる。

しかも、このヴィオラが演じるのは道化的なキャラクターである。誰もが知るように、下手糞な二枚目はそれなりに魅力的なものだが、演技力のない三枚目ほど悲惨なものはない。表現力がジェームス・ディーンに劣るチャップリンでは、誰も笑わせることはできない。リゴレットのように、足蹴にされるだけだ。その意味で、タムスティの演奏は、圧倒的に巧い。彼はまず非常に艶やかな出だしから、民俗的な要素を醸し出すスタートで真面目にスタートする課のようなポーズをとる。もちろん、基調は無調になっている。我々は、なにかシリアスなパフォーマンスを見るのだと想像して身構える。そして、それを裏切るカタチで道化芝居が始まる。諸君は、どこで気づかれたろうか?

こうしたストーリー・テリングを、タムスティのヴィオラはしっかりやってのけた。そして、そのフォーマンスは確かに可笑しかった。

【今年のヴィオラ・スペース】

さて、今年のヴィオラ・スペースには、隠れたテーマがあった。それは、バッハの『シャコンヌ』に象徴的に見えている。つまり、ひとつのものが複数の役割をこなすときに見えてくるものの面白さである。逆に、ひとつの役割を複数でこなしたときに、より広く見えてくるものという視点もあった。これは、バッハの編曲である野平作品に顕著に窺える。このことについて深く触れたい気もするが、すこしややこしい話になりそうなので、割愛することにしよう。

プログラムでは、独墺系作品の原点に回帰し、作品、アーティストがそれぞれ、古いものと新しいとで向かい合うという構図が説明されているが、それだけではない。正に、そのような二項対立を打ち破るような発想が、プログラム全体から伝わってくるのだ。18回目にして念願のコンペティションを創設、常に脱皮しつづけるヴィオラ・スペースの息吹きは、そういうところからも感じられる。

来年、ヴィオラ・スペースも20周年を迎えるが、どのような企画が待っているのか、いまから楽しみでならない。

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コメント

ヴァイオリニストとして、作曲者、指揮者として活躍しているクリストフの曲を紀尾井ホールで聴いてきました。

2つの楽器を持って登場した時には、どんな演奏になるのだろう・・と思いました。
楽器を持ち替えての演奏に、ただただ驚きました。

11月には楽友協会のゴールデンザールで一楽章・二楽章の演奏があるそうです。
ザルツブルグでの全楽章演奏が待たれます。


情報、ありがとうございます。日本、ウィーン、ザルツブルクと少しずつ初演していくわけですね。2人が、この作品をどれだけ大切にしているかがわかります。

ドイツだとどうなのかわからないですが、オーストリアは新しさだけに拘泥せず、しっかりいいものを見分けてくれるという話を聞きますので、2人もよい評価を受けられるのではと期待します。

同じくコンサートを聴いてきた者です。深く洞察されたクリティーク感服いたしました。(昨年のコンクールなども)

桐朋オケのイケメンヴィオラ君、気になりますよね?(笑

たけちゃんさま、コメントありがとうございます。お褒めに与あずかりましたが、大したことは書けていませんので、過分のお言葉と存じます。

桐朋オケの彼は、とてもオイシイところを弾きましたからね。また、セルゲイが握手を求めるカタチで目立ちました。大事なチョロッと出てくるのと、全体を構成するソリストでは世界がちがいますが、良いヴィオリストはひとりでも多いほうがいいです。

前回のコンペでは、日本人のファイナリストがゼロで、その点、最後の盛り上がりに欠けました。そのような点を踏まえて、こういう才能のある人に頑張ってほしいと思いました。

クリストフ・エーレンフェルナー氏とクラリネット奏者の藤井洋子さん達の演奏会が白寿ホールあります。
2月13日14時からです。お時間ありましたらお出かけください。

kuri-miさん、ありがとうございます。いや、聴きたいですね。仕事の都合がつくならば!

お仕事の都合がつけば嬉しいです。
追加情報です(クリストフ氏から連絡ありましたので)
2/6 (日)14:00
カンマームジークコンサート by 本多昌子 〜Wienの響きとともに
王子ホール

9日(水 19:00
深沢亮子ピアノリサイタル
~ベートーヴェンの夕べ~室内楽とソロ
浜離宮朝日ホール


私は白寿ホールを聴きに行きますnote

重ねがさね、ありがとうございます。参考にさせていただきます。

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