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2010年5月18日 (火)

音楽は思想を越える! 樋口裕一氏の文章を参考に ①

大学の先生は普段、学生の指導にはまったくやる気がないように見えるけれども、そのなかにも、こちらから積極的に質問にいくと、意外や一生懸命に答えてくれたりする人もある。普段、まったくやる気がないのかどうかは知らないけれども、この樋口裕一という先生も、そういう方々のうちに入るのかもしれない。

この先生、先日、終了したラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの公式アンバサダーも務めている人物だ。ときに、来年のフォル・ジュルネはブラームスを中心に、マーラーなどが取り上げられる見込みになっている。筆不精と自称する先生は、そのわりにブログまでやっているのだが、来年のイベントの話題に絡めて、うっかりマーラー嫌いなどと書いたものだから、大変な質問責めにあっている。気にする必要もないのに、2ちゃんねるの記事にまでリアクションする始末で、まったく野暮な先生だと思っていた。

しかも、この先生、エスカレートして「私はマーラーが大嫌いだ!」などと題して、新たに記事をつくるという行動に及んだので、私はどちらかというと、これは鼻持ちならない人間だと思い始めた。しかし、次の記事では、「音楽は思想である!」と言い出した。この先生がまたバカ丁寧に、ほとんど嫌がらせみたいなコメントにも丹念に答えようとなさるのを見て、さすがに「鼻持ちならぬ」は撤回した。そこで、私としてもひとつ難問を投げてみた。「思想」とは何であるかということを問う内容だが、神様への捧げものを創りつづけたバッハや、プライヴェートな作品の多いショパンの思想とは何か。また、その思想と、形式との関係がどういうものかについてである。

この文章を書き始めたとき、答えはまだであった。しかし、「プルーストの思想」「漱石の思想」というものと同じで、世界観と言ってもいいということは書いてくれた。これを聞いて、私はガッカリした。思ったより面白くない答えが返ってきそうだったからである。樋口氏は結局、音楽とは人間であるという答えに辿り着くしかないのではないだろうか、と思っていた。

思想の起源を辿っていけば、そこには最終的に「人間」とでも言うしかないような、多種多様な要素が混じり合っていることは想像に難くない。例えば、民族、信仰(宗教)、作曲や演奏の流派、生育環境、住環境、人脈、時代、社会的な帰属、同時代での評価など、人間にとって重要なあらゆる要素が問題になる。江藤淳が漱石について、『漱石とその時代』という大著をして示し得たことと同じである。だったら、そんな当たり前の結論はない。実際、その後に書かれた記事をみても、この印象から大きく遠ざかるものではなかった。

【音楽は思想の壁を越える】

ところで、私がこの話題に興味をもったのは、自分がこよなく愛するフォル・ジュルネのアンバサダーともあろうお方の発言に、多少なりとも興味があったせいでもあるが、それよりは、「作曲家の思想」というテーマに興味をもったせいであった。思想、つまり、世界観であろうか。私はこのテーマを考えるときに、音楽のもつ特別な力というものについて考えずにはいられないのだ。

人間というものは残念ながら、争いあうことがDNAにコードされているかのような生き物だ。彼らはほんの些細なことで対立し、いがみあったり、殴りあったり、あるいは、相手を避けあったりする。第三者からみれば、「ほんの些細なこと」と見えることが、当人たちには大問題であったりもする。例えば、中近東のパレスティナ問題だ。私たちはあれほど犠牲を払って争いあうならば、互いを認めて共存すればいいのではないかと思う。しかし、「些細なこと」の積み重ねはいまや歴史となって、容易に動かすことはできない。

そんな大きな問題でなくともいい。例えば、彼氏のほんの僅かな悪癖がイヤになって、別れる恋人たちがいる。あるいは、ほんの些細な無礼を咎めて、あいつは人間がなっていないと怒る上司や、先輩社員もいる。私は機械の営業をやっていたことがあるが、そんな仕事をやっていると、気に入られるにも嫌われるにも、ほんの些細な行動や対応ひとつではなしが変わってくるのだ。疲れた夫が家で寝転がっているだけで、邪魔だと思う妻もいる。メールをすぐに返さないというだけで、現代の友達どうしはすぐに関係がこじれるという・・・。

しかし、音楽というものは、こうした小さな壁をすり抜けるのが本当にうまいのである。

例えばハイドンは、妻子と暮らすのに飽き飽きしていたのか、長く離宮に手飼いの音楽家を集めて暮らすのを好んだ主人のエステルハージー侯に対して、音楽家を一時、家に戻すことをお願いするために、最後、一人ずつ演奏家が抜けていく交響曲第45番「告別」を書いたとされている。侯爵もきっとこころの広い人だったのであろう、この奇知によって音楽家たちは休暇を与えられたというのだから面白い。また、その願いは叶わなかったが、ドヴォルザークは交響曲第6番を書くことで、故郷のボヘミアと自分を受け容れてくれたウィーンが友好的になってほしいと願った。

マーラーはユダヤ人であったが、反ユダヤ主義者として知られるリヒャルト・ワーグナーの音楽的な魅力には抗えなかった。そのためかわからないが、マーラーは自ら改宗という道を選んでもいる。ユダヤ教からキリスト教への改宗といえば、メンデルスゾーンが思い浮かぶ。以下のページでは、そのことについて簡単に考察している。

 当ページの旧サイト:
  http://moon.ap.teacup.com/applet/alice2006/msgsearch? 
    0str=%82%A0&skey=%83p%83E%83%8D&x=0&y=0&inside=1

また、現代では、対立しあうイスラム教徒とユダヤ人の若者たちによる、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの試みや、鉄のカーテンを隔てた音楽家たちが集まって結成されたアダム・フィッシャー主催のオーストリア=ハンガリー・ハイドン・オーケストラの試みなんていうのもある。

【バッハの無私とベートーベンのワタクシ】

さて、次にみていくのは、作曲家に必ずしも世界観があるとは限らないという話である。

音楽史には詳しいとはいえないが、多分、クラシック音楽というものはそもそも、人間と神という別次元の関係をなんとか結びつけようとして生まれてきたのではなかろうか。その態度を典型的に示すのは、その前の数世紀を締め括る存在として現れたヨハン・セバスチャン・バッハである。バッハの理想は、無私ということに帰結する。樋口氏への質問でこれが難問と思ったのは、バッハについては思想というものはなく、独自の世界観すらなく、それらをはるかに越えた次元にあるもの=神の領域を聴き手に提示する音楽こそが、バッハの本質を成しているせいである。

バッハにとってみたら、人間個々の存在感など取るに足らなかった。この音楽家はいわば、対象を神の世界において撮影しつづけるノン・フィクション映画の監督(例えば、音楽家を対象にするブルーノ・モンサンジョンみたいな)であり、受難曲に見られるほんの僅かな視点の提示を例外として、音楽家の存在を消すことを最高の理想としたひとりであると思う。そして、そのことによって、彼はしばしば、「バッハには宇宙を感じる」「バッハは神の音楽家である」と言われるようになった。音楽が決定的に優れているというのではなく、そのような点において、バッハは特別なのであろう。

時は下り、はじめて樋口氏のいうような「世界観」を音楽にもたらしたのは、ベートーベンであったと思う。職業音楽家として初めて独立した存在になったともいわれるベートーベンだが、その偉大な功績は音楽というものに、バッハにおいては巧みに隠されていた己というものを、ついに露わにして表現したことである。これはのちのロマン派の登場を用意し、その後の音楽の個性を成り立たしめる起源となった。現在、その定義がたとえ曖昧であっても、しばしば「精神性」ということが問題になるのは、上のような理由による。

もちろん、モーツァルトにおいても、そのような傾向はあった。例えば、『フィガロの結婚』のプロットに託された個的な存在の重要性というものは、確かに、バッハとは一線を画するものであったろう。よりオーガナイズ(組織化)されたベートーベンの個性と比較すると、モーツァルトのそれはより個体的である。モーツァルトの楽譜には何ひとつ無駄がないというのも、ひとつには、このことに起因するところがあるのかもしれない。いずれにしても、その後のクラシック音楽の歴史では、「無私」から、「私」の強い発現がつよく求められることとなる。言うまでもなく、そのなかでも圧倒的に意味深い世界観を確立したのはワーグナーであり、形式的にも、そのことは徹底された。

【無私の作曲家、ショパン】

ところが、ロマン派の時代、そうしたストリームのなかにポジショニングしながら、なぜか存在の薄いショパンという作曲家が現れる。ほぼ9割方の作品がピアノ独奏で表現されるという特殊性もあり、このショパンの異質性は軽視される傾向にある。例えばワーグナーのファンで、同時にショパンのファンである人はほとんどいない。ショパンがおもに貴族やブルジョアジー、文化人のサロンにおいて活躍したことや、ロマン派という時代風潮のなかで、実に美しい作品を書いたことも、ある種の偏見につながっている。だが、私のみるところ、このショパンが目指したものはバッハと相通じるところがある。つまり、無私なのである。

ショパンは、きわめてプライヴェートな作曲家として誤解される。それは、ピアノという楽器が1人で演奏できるものであることから連想されることでもあるし、ショパンとサンド、ドラクロアなど、個人的な通交が必要以上に有名になっているせいでもある。確かに、ショパンはプライヴェートな作曲家でもあろう。しかし、その個人というものは、ショパン自身であってもなくても構わないものなのであった。ショパンの作品の演奏には、これが正解というものはない。テンポ・ルバートを主体とした軟構造は演奏家の幅広い自由を認めており、ショパン自身、左手の保持、つまり、作品のもつ大掴みな枠さえきっちり守ることができれば、右手の動きは自由にしていいとして教えていたらしい。それは左手さえも恣意的に伸縮させるパデレフスキ・スタイルのような誤謬を招くことになったが、基本線としては面白い考え方だと思う。

つまり、ショパンはコンポーザー・ピアニストとしての自分を、弟子たちに押しつけようとはしなかったのである。至るところに詳細な指示を書き込んで、自分の思い描くフォルムを何とか守らせようとしたマーラーとは大違いだ(彼としては、職業指揮者に対するサーヴィスのつもりであったかもしれないが)。しかし、誤解してはいけない。それはショパンが自らの作品の完成を留保し、弾き手に委ねてしまったのではない。つまり、完全に自分を放棄してしまったのではない。その証拠に、彼は自分の作品を演奏するときに譜面を立てることが礼儀だと考えていたらしいことが知られている。彼は最低限、自分の作品を弾こうとする人たちに譜面と向きあうことを要求した。では、譜面とは何だろうか。それはショパン自身というよりは、より崇高なものを象徴しているように思えてならない。時代が時代であれば、それは神とでも言い得るようなものであったのではないか。

このような見方からわかるように、極端にいえば、バッハとショパンは同じ種類の音楽家である。もちろん、それは極論であって、「無私」というキーワードで同類項に括っただけの単純なはなしであるが。とはいえ、クラシック音楽の歴史のなかでは、ベートーベン的なインディヴィジュアル(個人的な)な歴史が発展するごとに、必ず、それを打ち消すような「無私」の作曲家が現れるように思うのだ。例えば、ドビュッシーとかブルックナー、それに、ヘンリー・カウエル、ケージ、クセナキスといったところは、それである。もしも「世界観」というものでこれらの作曲家を判断するならば、間違いが起こるのではないかと思う。

もちろん、「無私」という一面だけからショパンについてみるのも、誤解を大きくすることになる。彼は、一方でロマン派の申し子でもあるからだ。作曲家の「個」性がハッキリ求められる傾向に反比例して、作品の規模はドンドン大きくなり、よりパヴリック(公的)な条件(例えば、大オーケストラや響きの良い演奏会場)を必要とするようになるという矛盾が生まれた。これを解決するために、ピアノという楽器は打ってつけだったはずである。そこでは、正に個性が個性として輝くのに、何の障害もないからだ。大きなホールも、絶大な経済力をもったパトロンも必要ない。ヨハン・シュトラウスが米国の公演で大歓迎されたのはいいが、膨大な聴衆を満足させるために巨大オーケストラを用意し、何人もの指揮者を使って苦労しなければならなかったのと比べれば、どんなに自由なことだろう!

それに先述したけれども、ショパンがプライヴェートな作品を書いたのも否定するつもりはない。今年のフォル・ジュルネや、それに先立つ「ル・ジュルナル・ド・ショパン」の企画のように、ショパンの鍵盤作品から、その人生を映しみる試みは有益である。

しかし、このことも忘れてはならない。ショパンにとって最大のスターは、なんといってもバッハだったのである!

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