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2010年5月23日 (日)

スダーン イタリアのハロルド with 青木篤子 東響 578th定期 5/22

私にとって、もっとも愛すべき楽器はヴィオラである。来週は「ヴィオラ・スペース」にも足を運ぶが、この日の『イタリアのハロルド』の演奏も楽しみだった。ユベール・スダーンが指揮する東響に、ソリストは同団首席の青木篤子。今シーズン、「アフター・シューマン」(シューマン周辺)をテーマにプログラミングされた曲目のひとつで、ダブル・メインとしてリストのピアノとオーケストラの協奏的作品が組まれてもいた。

ただし、ベルリオーズの『イタリアのハロルド』はヴィオラを代表するレパートリーではあるが、正直、もとになったバイロンの作品にもさほど親密ではないし、肝心のヴィオラが大活躍というほどではないので、あまりよくわからない作品のひとつだった。そうしたイメージは実のところ、ある種の無知や無関心の産物にすぎなかったのだが、今回の演奏は、正に、そのような私の怠惰な知性をつよく刺激するものだった。

【弱いもの、力なき者への讃歌】

結論からいえば、ベルリオーズはこの作品で、詩人・バイロンと、自らの似姿でもあるハロルドのいのちをソロ・ヴィオラに託し、シンプルな詩情を愛情たっぷりに注ぎ込んだ。しかし、この愛すべき主人公はいのちを落とす運命にある。今回、スダーンはソロ・ヴィオラの最後のフレーズがおわると、独奏の青木をやや目立つ形で退場させたりして(彼女は指揮台の後方から舞台を降り、客席最前列の半分を横切って上手から去っていく/あとで、後ろのほうですこしだけ戻る)、聴き手に注意を向けた。

音楽的には、独奏が抜けたあと、弦のフロントの奏者たちが室内楽的なアンサンブルをやるときに、ヴィオラが抜けているために、まるで噛みあわない部分があるのがハッキリ印象づけられる。あそこで鳴らないヴィオラと、若きハロルドの死という喪失感が重ねられているのは言うまでもない。いわばハロルドのためのレクイエムともとれるこの部分に来て、私はハッとした。正に、この作品はヴィオラのための讃歌だったのだ。

ヴィオラだけではない。この作品では、オーケストラのインナー・マッスルとでも言いたくなるような、普段は目立たないが、実に大事な仕事をこなす楽器に、大事な部分が丁寧に充てられているのに気づかなくてはならない。例えば、ファゴット(4本も集めている!)とか、コール・アングレといったところがそれである。ベルリオーズは管弦楽法の大家であって、例えば歌劇「トロイア人」のような壮大な作品も書いたのだが、それゆえにかえって、このような楽器の重要性に敏感であったにちがいない。音域も狭く、響きも目立たないヴィオラのような楽器は、例えばシューベルトが歌曲のなかで描く青年のように、内にこころを秘めるハロルド像からみたときに、ベルリオーズのつよい共感の対象ともなったはずだ。

かくして、強くて勇敢で、姿がよく、内面的にも優れていて、ひとに愛され・・・というようなタイプではない、新しい時代のスターが誕生した。時代はもはや、英雄たちの時代ではない。この前の新東京室内オーケストラの演奏会ではないが、ナポレオンは退場し、ビーダーマイヤーの風潮は隣国のフランスにも訪れていたはずだ。先日のコンサートにも登場したパガニーニはストラディヴァリの銘記を携え、ベルリオーズに『ハロルド』の発想をもたらす役割を果たしている。そして、『アテネの廃墟』でベートーベンが応援しようとしたギリシャの独立闘争に加わらんとする旅路において、詩人・バイロン卿は客死したのだ。ベルリオーズは、なんでも器用にこなしてしまう悪魔のようなパガニーニ的存在ではなくて、もっと弱く、青臭くて、のろまの主人公こそ、こうした時代に相応しいと思った。

それゆえ、パガニーニのような名手が蝶のように舞い、蜂のように刺すというタイプの華々しいコンチェルトの形式を選ばず、もっと大きなうねりの中に、独奏ヴィオラを裸で放り込んでしまったのだ。ビーダーマイヤー時代というのは、スターが生まれにくい時代であったように思うが、その一方で、社会のなかの個というテーマが深く見つめなおされる時代でもあったと思う。

今回のソリスト、青木篤子の演奏は、ドジで、のろまというわけではないが、格好よく目立とうとせず、丹念に作品に書かれているヴィオラの役割を地でいったのが成功である。演奏が終わってから、上手から舞台に戻ってきた青木を指揮者のスダーンが抱擁で迎えるというのも、なんだか劇のつづきをみるようで感動的だったが、それはこの難役をこなした青木個人への賞賛という意味もあるとしても、こうした役割を黙々とこなす楽器そのものへの敬意の表れであったというほうが、より適切ではないかと思う。

月並みな言い方ではあるが、’No viola,No orchestra!’という標語が、私の頭をよぎった。青木がフロアからも大スターのような賞賛を受けたのは、もちろん、我らが楽団の首席だからということがあるにしても、上のような意味あいを背中に受けていたからにちがいない。そして、目立たぬものの生に大いなる讃歌を捧げたベルリオーズに対する強い共感が、そこに重ねられていたことも忘れるべきではない。

【演奏について】

演奏について、もうすこし細かくみてみたい。

第1楽章は、メランコリックなアダージョに始まり、内向的なハロルドの内面性が徐々に解放されていく過程を描いている。ファゴットを中心とする息のながいフレーズが粘りづよく扱われ、それは、独奏ヴィオラも例外ではない。青木は立ち上がりから、ひとつひとつ丁寧に道を選ぶようにして、こころを込めた演奏をみせる。インタヴューによれば青木は歌手を志したこともあったそうだが、早くから培ったカンタービレのセンスは、まず実直といってよく、この部分で私は最初の感動を味わった。

白眉は、第2楽章である。指揮のスダーンは楽曲への共感を、演奏を通じて聴き手に対してダイレクトに感じさせることのできる点で特に優れているが、シューベルト・シリーズの成功も、まずはその点にポイントがあった。今回の演奏では、第2楽章と第3楽章のやや質の異なるカンタービレに対する深い共感と、それらの描き分けをひとつのポイントに置いている。第2楽章では幾度も繰り返される巡礼の歌を、丹精込めて色付けしていく粘りづよい演奏が聴きどころとなった。しかも、それらはただ金太郎飴のような繰り返しではなく、それぞれの教会がもつ雰囲気に反応し、微妙に移り変わっていく巡礼の心情をイメージさせるように、繊細、かつ、多彩なイマジネーションを内包している。特に、弦の最弱奏と、独奏ヴィオラの関係が細かく描かれた、弾きおわりの演奏は象徴的である。

第3楽章も、東響の管楽器のアンサンブル力の向上が窺われる素晴らしい演奏である。はじめの長閑な曲想はふうわり膨らみのある木管の響きを徹底することで、ラモーの歌劇の一幕(フランス・バロック)をイメージさせるようなアイディアで聴かせる。ヴィオラ(パート)の音色を生かした民俗的な舞曲のベースを下地に、独奏ヴァイオリンが歌う中間部の構成も秀逸だ。これに対する第4楽章は冒頭、かなりダイナミックな響きではあるものの、対位法的な構造が露骨に意識され、ドイツ・バロック以降、古典派までの流れが拾い起こされているのは、スダーンらしい慧眼だ。

これに象徴されるように、全体的にはドイツ的なガッシリしたアンサンブルが先行しているが、そこに濃厚な劇性が注ぎ込まれ、数々の回想的なフレーズとともに古典的な形式を模しながらも、明らかに独創的な展開を追っていくことになる。これはオペラのグランド・フィナーレで、中間の印象的なフレーズを取り込みながら、ストーリー上のクライマックスが展開するとともに、人間のこころが激しく切り結ばれていく構造と同じである。山賊の供宴の凄まじい響きは、イタリーのサルタレロをイメージさせる毒々しい響きで熱狂的に演じられるが、全体を大まかに3つぐらいのパートに切り分け、パートを追うごとに攻撃性が高まっていく演奏姿勢が窺われた。特に、独奏ヴァイオリンが去ってからは、最後のエンジンが点火され、ロッシーニ・クレッシェンド的に息ながく、ダイナミックに盛り上がっていく。

それだけに、その頂点からふっと印象づけられる例の室内楽の場面に、圧倒的な注意が向くのである。

最後の部分は迫力があるが、全体を通して演奏効果があがりやすいという感じはしない。しかし、演奏がおわると、聴衆は狂喜乱舞の拍手でオーケストラを称えた。ヴィオラの青木が戻ってスダーンと抱き合うと、この日の熱狂が頂点に達したのは既に述べたとおりである。また、このコンビによる名演が増えた。

ちなみに、この作品のもとになった詩を書いたバイロンは、クラシック音楽に様々なインスピレーションを与えた。この『ハロルド』のほか、『マンフレッド』はシューマンの手で劇付随音楽となったり、チャイコフスキーの交響曲にもなっている。同じチャイコフスキーは、『マゼッパ』をオペラにも仕立てている。『タッソーの嘆き』はリスト等にインスピレーションを与え、『海賊』や『2人のフォスカリ』はヴェルディによるオペラとなった。そのほか、いくつかの例がある。今度、しっかり読んでみたい詩人である。

【スペシャリストのリスト演奏も素敵だった!】

かなり長く書いたので、リストのほうには筆を傾けられないが、こちらも実は労を払って書いておきたい、優れた演奏だった。独奏は、ミケーレ・カンパネッラ。ピアノ協奏曲第2番もそうだが、ピアノと弦楽合奏による『呪い』は、ほとんど演奏機会に恵まれない。その『呪い』は、叩きつけられる2つの音による和音が呪いを表すわかりやすい作品である。

しかし、呪いにもいろいろなイメージがある。今回の演奏から私がイメージしたのは、『源氏物語』の六条御息所が用いるような呪いである。つまり、醜い行為ではあるにしても、その奥には1人のひとを想う真心があり、嗜みに満ちた悩みがあり、それゆえに、止むに止まれぬ激しい言霊が生じるというような感じである。スダーンとカンパネッラは、呪いのイメージをハッキリと提示しながらも、気品の高いエレガントな演奏をすることで、このような激情をしっかりとコントロールして、質の高いポエジーに高めていった。

ピアノ協奏曲第2番の演奏は、より立体性の高い演奏である。リストが数十年にわたって愛情を注いだ作品であるだけに、ピアノという楽器の音色と、オーケストラの楽器の音色に対するリストの考え方といったものが、色濃く滲んでいる大作(演奏時間は長くないが)であることがわかった。

第1部は後半のカデンツァまで、どちらかといえば、オーケストラ部が主導するかのような印象もあり、オーケストラの声部をピアノの音色が補強するようなアクションのほうが目立つ。しかし、その関係はほどなく逆転し、ピアノの名技性が徐々に優先されていく。ただ、リストは伝統的な技巧の見せびらかしとしてのピアノ独奏を拒否するかのように、そこに深いポエジーを貼りつけることを怠らない。さらに、オーケストラ部との関係を強化して、より対等な力関係を組み立てようとしていることも明確である。

そのことが如実に表れるのは、最後のアレグロ・アニマートの弾き終わりの部分である。ここで、リストは1つのフレーズを半分で区切り、オーケストラとピアノが交互に受け渡すような構造をみせているのだ。並のピアニストではピアノは伴奏の残響にマスクされる形となりそうだが、歯切れのよいスダーンのつくるオーケストラ部に対し、肉厚なカンパネッラのピアノは完全に噛みあって、ここでも私を唸らせることになった。

カンパネッラは1984年に登場して以来、26年ぶりの東響の舞台であるといい、既に60代に入ったピアニストだが、表面上、技術的な落ちは感じられず(もちろん、当時の演奏は知るべくもない)、欧州におけるリスト演奏、および研究の権威であるという声名に恥じない粒だったパフォーマンスをみせた。トリルや、グリッサンドのようなテクニックには若干、キレがないものの、それをカヴァーする上品で、快活な音色。落ち着いた音楽の運びは、ひとつの粋を行っている。最初にこのカンパネッラを迎えて、リスト・シリーズを継続していくことは実に意味のあることではなかろうか。

また、目立つソロのあったチェロのボーマンを中心に、フルートの相澤、コンマスの高木など、ソリスティックな部分でも魅せられるオーケストラになったということは、東響の大きな成長を示しているのかもしれない。カンパネッラも頻りにスダーンと、彼のオーケストラを賞賛する姿勢をみせ、特にボーマンとはガッチリ握手を交わしていた。終演後、最初のアプローズを受けるときにカンパネッラとスダーンが互いに譲りあい、まずは(ピアニスト)おひとりで・・・否、一緒におねがいします・・・という感じでやりあっていたのには笑いがこぼれた。

【プログラム】 2010年5月22日

1、リスト 呪い
2、リスト ピアノ協奏曲第2番
 (以上、pf:ミケーレ・カンパネッラ)
3、ベルリオーズ イタリアのハロルド
 (va:青木 篤子)

 コンサートマスター:高木 和弘

 於:サントリーホール

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