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2010年6月 8日 (火)

仙台国際音楽コンクール ヴァイオリン部門 ファイナル ②

前のエントリーにつづき、映像配信でみる仙台国際音楽コンクール、ファイナルの模様をレポートする。前回は、優勝者と第2位の演奏を聴いたので、今度は第3位の長尾から・・・。

【第3位 長尾 春花 日本】

ベートーベンということで、やや力みすぎではなかろうか。それに限らず、全体的に自然な表現はない。例えば、強拍の強調の仕方がグリグリ押しつけるような形になっていることに加え、清らかなカンタービレに入ったときのふっと抜けるようなレガートの使い方、不自然に多い身体のアクション・・・それらの要素が、本来、もっているリストの柔らかさに基づいた美しい響きに見合わず、ときには、それを損なうほどに強引な表現に聴こえるのである。展開部の没入するような集中力の高さに裏打ちされた、堅固で、ダイナミックなフォルムのつくり方は、これまで聴いた3人のなかでも秀逸だ。これで全体を貫くことができれば、優勝も夢ではなかったろうが、実際は、そうはなっていない。

第1楽章後半からは歌いまわしもスムーズになり、構造も見えやすくなった。カデンツァはもともとベートーベン作のものがないこともあるが、音色やフレージングなどの諸要素において、あまりにも異世界が広がりすぎており、単独に良い演奏でも、そこでカデンツァを弾くことの必然性が感じられないために、さほど大きな感銘は浮かんでこない。カデンツァ作者の、ベートーベンとの向き合い方について、いますこし慎重な視点をもつことが必要だったのではなかろうか。

緩徐楽章はカンとは反対に、響きをフォルムに合わせすぎている感じがして、いささか呼吸が浅くなっている点が悔やまれる。言い換えれば、オーケストラ部と独奏の関係に対する表現センスがあまりに素直であるために、本来、作品のもつ立体性が損なわれているといえる。バラーノフの場合もそうだったが、この楽章は独奏にも休符が多いので、かえって音のないところで独奏がオーケストラ部をいかに支配するかということがポイントになる。長尾にはそのような視点がなく、与えられた場所で何をするかという発想になっているのだ。

そのため、緩徐楽章におけるヴァイオリン独奏の存在感は、きわめて薄くなってしまっている。オーケストラも、どうやって弾いたらいいのか、いささか戸惑い気味とみえた。

終楽章は、弾力性のあるロンド主題の扱いに愛想がある。ただ、もうすこしルバートなどを使って、たっぷりした呼吸のなかで、演奏を聴きたかった。一方、短調の部分ではロマンティックに歌い、伸びやかにやっているが、ここではそれが、かえってフォルムに対して過剰に甘すぎるようにも思われる。ロンド主題からの展開もワン・パターンで、アイディアに欠けるだろう。全体に安定感のある演奏ではあるのだが、それ以上の長所は感じられない。

前回よりは力を発揮したが、ベートーベンを演奏するには、まだ表現、技術の両面にわたって幼いという感じが拭えなかった。

【第4位 キム・ボムソリ】

彼女がセミで弾いたストラヴィンスキーは、今回のコンペティションを通じてのベスト・パフォーマンスだと思うが、結論を先に言うと、ベートーベンはあまりに線が細かった。

彼女らしく、全体にデリカシーに満ち溢れた丁寧な演奏で、こうした要素では、今回のコンペティションのなかでも、やはり目立つ存在であることは変わらない。しかし、作品が作品であるだけに、徐々に埋没していく表現のか弱さは致命的となる。弾き損ないも少なく、安定した表現を貫いているが、表現に大胆な突っ込みがなく、その分、伸びしろの欠如を感じさせてしまうのが残念だ。独奏ヴァイオリンの役割は、オーケストラだけでは為し得ない構造的なシンボルを築くことにあると思うが、ボムソリの演奏では、そのような要素が決定的に欠けており、極端なはなし、いてもいなくても変わらないようなものになっている。

序奏部のテヌートの使い方の自然な粘り腰や、ときどき見せる決然としたカンタービレの艶やかさ、さらには、きっちりしたフォルムへの心配りなど、拾うべき要素はいくらでもある。しかし、例えば緩徐楽章に行くと、本当にどこにいるかわからないほどになり(もちろん画面には映っているけれど)、思わずボリュームを上げたくなってしまうほどだ。音量がないとかいうことではなく、表現にまったくメリハリがないことが問題である。その印象は終楽章にも受け継がれ、ロンド主題はあまりにも可愛らしく、平板で、そのほか、全体にわたって余裕残しの表現と感じられる。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

ここまで聴いて、大体、様子がわかってきたので、思いきって書いてしまうが、なるほど、審査結果は妥当なようである。上位4人を聴いて、自分が審査員だったら選べないとは思うが、なるほどクララ=ユミ・カンのアドヴァンテージは意外に根強いのである。しかし、それならば、いっそのこと、1位なしでもよかったような感じがするほどなのだ。あと2人も頑張って聴いてみるが、恐らく、結論はこうなりそうである。誰一人として、ベートーベンの協奏曲に見合う弾き手はいなかった・・・。

先述したように、コンペティションの全演奏を聴いて、もっとも感銘が深かったのは、キム・ボムソリのストラヴィンスキーだ。この演奏は既にコンテスタントというよりは、一端のアーティストとしての演奏であったといえるだろう。しかし、そのボムソリにして、あのベートーベンなのだ。バラーノフや長尾の演奏も好きだが、結局、あの程度でしかないとなると、コンペティション全体のレヴェルに疑問符がつくことになってしまうのである。

もちろん、ベートーベンの協奏曲は本当に難しいレパートリーだ。伝統的な古典派のコンチェルトの語法で書かれてはいるが、それを逸脱する巨大な変奏曲のような趣もあり、ロマン派への架け橋にして、典型的な古典派のソナタ。かつ、そうした基本線からチョロチョロッとはみ出してきて、弾き手を悩ませる不器用なユーモアの存在。決然としているようでいて、ときには頼りなく、見ようによっては、すこぶるロマンティックでもあり、しかし、やりすぎると表現は腐ってしまうほどデリケートだ。このような難解な作品に立ち向かう、20代前半の若者たちの演奏が、そもそも作品に見合うはずもないのだが。

それだけに、私としては、もっと大胆な踏み込みに期待したかった。彼らのほとんどは、伝統的な演奏スタイルに対して、自分らしいフォルムというものを確信するに至っていない。そのため、折衷的な表現となったり、あまりに大人しすぎる演奏となっている。そのなかでカンだけは、不器用ながらも自分らしいカタチを何とか表現に高め、それをオーケストラにも伝えるという基本的なことができている。私は、バラーノフや長尾がそのことに気づいていれば、カンなどを押し退けることは造作もないことだったろうと思う。しかし、実際にはそうではなかったのだ。

なにも、演奏者のレヴェルが低いと言っているわけではない。ほんの少しの気づきがあれば、これらの若きアーティストたちは、見違えた存在になるだろう。そして、例えば、キム・ボムソリ、キム・デミ、長尾春花のような人たちは、まだ若いという要素も含め、今後も注視していきたい楽しみな逸材である。

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コメント

ファイナリストの皆さん本当につまらない演奏でした。
ベートーヴェン等古典の名作ではその演奏家の才能のレヴェルが本当に分かってしまいます。


コメント、ありがとうございます。反論はいたしませんが、私の考えとは少しずれがあります。

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