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2010年6月20日 (日)

仙台国際音楽コンクール ピアノ部門 セミ・ファイナル 第1日

映像配信を聴いての感想を通して見守ってきた仙台国際音楽コンクール、ヴァイオリン部門に続いてピアノ部門のリポートに復帰する。

その前に、このピアノ部門の選考について一言しておきたい。ピアノ部門は、予選が限定条件の少ない自由なリサイタル形式、セミ・ファイナルとファイナルが協奏曲による審査となっており、コンテスタントから見て、2つのラウンドで協奏曲が弾けるというのが特徴的である。ピアニストは必ずしも、協奏曲を弾ける人間だけが一流ではないと私は考えているので、通常のコンペティションでは、自由曲によるリサイタル形式になることが多いセミ・ファイナルを殊更に重視し、それまでにほぼピアニストの評価を決してしまう。ファイナルは、その後のフェスティヴァルのようなものだし、順位もそれに付随的なものにすぎないと考える。

しかし、それが第一次予選のラウンドに来るこのコンペティションでは、すこし様相がちがってくるだろう。40人ちかいアーティストたちの30分強のプログラム演奏をいちいち聴いて、その芸術性を細かく評価していくことは、私のような変わり者にとっても、さすがにきついことだ。審査員の先生方がどのような位置づけで見ておられるかわからないが、予選のようなラウンドに位置づけられれば、自然、それは仕分け的な要素が強くなるのは止むを得ないことだろう。実際、このラウンドでは最初の数分、極端な場合は数小節の演奏を聴くだけで、8割方、その弾き手の質の良し悪しは判断がついてしまう。

こういうラウンドで、本格的なプログラムを組んで演奏することが要求されるコンテスタントたちは、すこし気の毒だと思う。その代わりとして、通常は1回の審査で判断されるピアニストの協奏曲における実力が、2度にわたる審査で確認できるというメリットが生まれる。通常、それなりに実力のあるコンテスタントたちは、手のうちに入った得意な協奏曲を、少なくともひとつはもっているものだ。それで、ほとんどのコンペティションはカヴァーができる。しかし、この仙台では、もうひとつ持ち球が必要になというわけである。

しかも、最後のラウンドでは、コンテスタントが任意に選んだ2つの曲目のうちから、抽選で自らが引き当てた一方を弾くという形になっており、結果として、コンテスタントたちはさらにもうひとつの手玉を握っている必要があるのだ。これが、このコンペティションに特異な奥行きを生み出している。例えば、前回のコンペティションのオクサナ・シェフチェンコ(第3位)は、ファイナルでブラームスのコンチェルトを弾くことになったが、これは他のコンペティションでまず見られないであろう選択だった。そのことでコンテスタントが十全なパフォーマンスをできないのであれば、決していいことではないという人もいるし、一概には言えない部分もあるのだが、少なくともシェフチェンコの例をとる限りでは、私は彼女のピアノ演奏に秘められた意外な可能性を眺められた気がして、かえって評価を高めることにつながった。

いろないろな問題があるとはいえ、コンペティションのひとつの使命は、コンテスタントが練習室で気づかないような可能性を温め、育てることにあるはずだ。そういう意味で、仙台国際音楽コンクールには競合のコンペティションにはない、独特の役割を果たしている面があると思う。

【No.24 スティーブン・リン 米国】

曲目:ベートーベン 協奏曲第1番

リサイタル形式による予選を終えて、私の注目するコンテスタントのなかに、このリンも含まれる。彼のほか、中国のファン・ナンソン、米国のクワン・イ、ウクライナのヴァディム・ホロデンコの4人に期待しているが、協奏曲ともなると世界が異なってくるだけに、注意が必要だ。

リンが演奏するのは、ベートーベンの1番である。このラウンドは、山下一史指揮の仙台フィルがツケを担当するが、そのオープニングがなかなかに面白いので、先に書いておこう。まず、非常に軽いモーツァルト風の出だしを踏みながら、小節を追いながら、徐々にベートーベンらしいどっしりした構造が組み上げられていくのである。これを跳躍台に、リンがどのような出だしを演出するかが興味ぶかいところだが、まずは清潔なタッチで、モーツァルトに戻るという真っ当なスタイルを選んでいる。

ここからリンは、ベートーベンがいかに幅の広い古典的教養の持ち主であったかを示すかのような、多様なスタイルを示すことで、作品をゆたかな「色彩」で彩っていくことになる。既にベートーベン的な芯のつよさも窺えるが、ハイドン的なユーモアを基調に、バッハや、それ以前のバロックの雰囲気を呼吸した演奏は実に面白い。

特に、このピアニストの美点は、拍節感の柔らかなアピールに集約されるところがあるのではないか。言葉で表しにくいのだが、単純にバスやリズムの動きだけに頼らず、構造やアクセント、ときにはアーティキュレーションの調節、フレージングの巧さで、要所をうまく固めながら、多様な骨組みの仕方が試みてある。建築でいえば、太く目立つ柱に頼らないで、どうやって広大な空間を支えるかといった工夫(例えば、釣り天井のような)がみられるのであるが、それもアイディアが単一でなく、ああでもない、こうでもないと多様である点が特徴となる。

カデンツァはヴァイオリンのハーモニクスに似た響きをつくり、これも工夫に満ちた打鍵であるが、その分、ややフォルムがなよなよとしている憾みはあった。中間のインターミッションを経て、カデンツァ中の後半のクライマックスでは、これを膨らましたダイナミックな構造が生まれており、大変、示唆的な演奏になっていた。

ベートーベンの1番は、いろいろと突っ込みどころのある作品で、コンペティションとなると、もうほとんど可能性が言い尽くされた3番や5番を選ぶコンテスタントが多いことに疑問を感じていたが、このリンの演奏は、そうした作品のポテンシャルを十分に感じさせるものである。ラルゴはやや叙情的な方向に奔りすぎているきらいもあるが、モーツァルトのある面を典型的になぞる優しいタッチもまた、これはこれでいいのではないかとも思う。ただし、会場で聴いていると、すこしタッチが浅すぎてやりたいことがわかりづらい、という可能性も否定できない。こればかりは、映像配信ではわからないところだ。先生方の審査を楽しみにしよう。

ロンド・フィナーレはそれこそフェスティヴァル的なもので(この記事のイントロ部分を参照)、私なりの評価には関係ないが、第1楽章に比べて、ややフォルムが硬直的である点は惜しい。ヴィルトゥオーゾ的なプログラムでは、やや技術力に心配があるのだが、どうなのだろうか。音楽のつくり方は単調なロンド形式でもやはり工夫があり、タッチやフレージングが凝っていて、そこに苦心のあとが窺える。率直にいって、私の好きなタイプのピアニストであると言っておこう。

【No.12 ファン・ナンソン 中国】

曲目:ベートーベン 協奏曲第3番

今回、最年少=16歳のコンテスタントながら、予選を勝ち抜いたファン。浜松国際で優勝のチョ・ソンジンを髣髴とさせる完成度を見せつけた予選だったが、セミでは、どのような演奏を披露してくれるのだろうか。音楽の面でも、従来、アジアでは日本と韓国がリードしてきた(韓国と日本というべきか)わけだが、このコンペティションでは2人がセミに進出し、やはり中国の躍進は目を瞠るばかりだ。曲目は、王道のベートーベン3番をチョイスしたが・・・。

結論的にいうと、チョ・ソンジンほどの器というには、いろいろと疑問がありそうである。例えば、登場の場面では見得を効かそうとして大胆なルバートを打ったが、これが見事に不発。若者にありがちの、醜悪な「目立ちたい」病の症状が窺われ、がっかりしてしまったものである。ベースには心地よいルバートも混ぜられながら、安定感のあるサウンドの、ナチュラルなフォルムが強固な岩盤をつくっているだけに、そこからの逸脱するときのアイディアが陳腐である点はまことに惜しまれる。

ただ、既に述べたように、そのような横滑りするアイディアも、ベースにある岩盤のおかげで、決して谷底に音楽を突き落とすような破綻にはつながっていない。表現に年齢なりの幼さを指摘することはできず、既に一定の水準はクリアーしているといえるだろう。随所に見せるトリルの爽やかさや、アルペッジオを叩くときの迫力は十分に目立つものであるし、和音の表現も明晰で、屈託がない。

カデンツァでも、やはり深くルバートを刻みながら、大胆なフォルムを描こうとするスタートから、次の対位法的な部分への推移がスムーズでなく、やや違和感がある。ピアノによる主部の再現は恐ろしく自然で、柔らかかった。左手に忍び寄る闇の接近、そこから傾いていく技巧的なフォルムのあやしさなどは、巧く表現しているだろう。カデンツァ後のまとめ方は決然としていて、徹底的にきれいな楷書体である。

ラルゴ冒頭の和音もとびきりに美しく、絶妙の強さで奏でられる。中間部の演奏は、彼のもつ和音の表現の清らかさが甘いルバートの構造と溶け合い、大変に魅力的である。しかし最後、漸次、響きを弛めながらの弾きおわりを演出するのは効果的かどうか、微妙である。ロンド・フィナーレは打鍵がやや細かすぎるように思われ、そのため、作品は過剰に装飾的な印象を与えるだろう。こうした部分は作曲者自身が故意の見せびらかしを狙ったとの解釈も成り立つが、そのことによって、作品のダイナミックな構造が損なわれているのであれば、決していいアイディアとはいえないだろう。

これもまた、「目立ちたい」病の症状のひとつであるとも見えなくはない。しかし、最後のプレストの迫力などは大したものである。

中国系のコンテスタントによくいるメカニカル偏重のピアニストと比べると、ずっと深い表現の彫り込みが見られるものの、思ったほどではなかったというのが正直な感想である。しかし、その範囲において、レヴェルの高い弾き手であることはいうまでもない。例えばリンの演奏は好きだが評価には迷うものであるのに対して、ファンの演奏は、誰からも、ある程度は高く評価されるであろうことが推定できる。年齢の低さから来るポテンシャルの大きさへの期待感もあり、やや有利というところか。

【No.27 ムン・ジヨン 韓国】

曲目:ベートーベン 協奏曲第3番

前のファンにつづき、ムンも同じベートーベンの協奏曲第3番を選択した。ファンと比べると、かなりニュートラルな表現と思われる。わりと機動的で、積極的なアクションが見られるわりには、実際に出てくる音は、意外にコンサヴァティヴ(保守的)な響きであるという印象が強い。対位法的な構造などもしっかり押さえ、雰囲気ではなく、構造でぐっと盛り上げていくタイプの演奏者であるだけに、ファンとはまた別の味わいが楽しめる点は十分に訴えることができた。

しかし、全体を通して、メカニカルな部分でのブレ(ミス・タッチとかいうことではなく)が目立ち、彼女らしい美点を少しずつ削いでしまっている点は惜しい。例えばカデンツァの冒頭でのもたつきは、非常にわかりやすい。しかし、私がより強調したいのは、次のような部分だ。カデンツァの最初の頂点で和音をつよく打鍵し、僅かな間を置いて、それを掃き清めるように細かい打鍵をうつときのことである。この後者の部分に移行する「間」において、打鍵の重みに自然なエネルギーの流れが感じられないで、表現がすっと抜けていくような隙間が感じられることが、致命的な印象を与えるのではないか。非常に細かいはなしだが、こういう部分がポツポツと散在しており、彼女の弱点を否応なく印象づけることになっている。

ラルゴはやや重すぎて、もたれる演奏である。「しつこい」といってもよい。オーケストラもピアニストにつきあいすぎだが、やはりこうした部分はオペラ・アリア的に積極的なポジションをとってほしいので、ムンのような演奏では、どうしてもズルズルとうしろ向きに、音楽が引っ張られる印象を抱かせられる。まるで音楽の犠牲を顧みず、踊りのフォルムにこだわり抜くバレリーナのようなものの見方だ。その範囲において、左手と右手の繊細な対話力については若干、評価を加えておきたいが、やはり音楽の停滞は著しい。

ロンド・フィナーレは、ムンもまた細かい修飾音を丁寧に打ち、ファンと同じような演奏をしている。ただし、全体の構造観が開放的であるため、彼ほどは表現が小さくなっていないようである。やはりメカニカルなブレに注意が逃げていくが、それでも、長閑で、開けひろげなカンタービレは魅力的である。

【No.36 ワン・ミミ=ジュエ 中国】

曲目:ベートーベン 協奏曲第1番

こちらも中国のワン。以前、生演奏で耳にしたナイダ・コールがこんな弾き方をしていたなあ・・・という遠い記憶を呼び覚ましてくれる、弾力性のある打鍵が特徴となっていた。表現の明るさを前面に出した演奏だが、それを繋ぎ止める冷静な知性が働いていて、なかなか切れ味のあるピアニストである。例えば、ピアノの細かい打鍵がファゴットの音色に重なるなど、細かいアイディアを丹念に拾っているのは好印象だ。打鍵の種類も豊富で、いろいろと試して行き着いた演奏だということが、よくわかる点も評価したい。

このような演奏者は私の好みに合うが、浅学にして、このようなスタイルがベートーベン時代のピアノの実情から見て、妥当性のあるものであるかについては自信がない。しかし、そのことを捨象して考えれば、第1楽章の伸びやかなカデンツァなどは、めくるめくカラフルな打鍵が効き、実に味わいぶかいものであった。同曲を弾いたリンと比べると、表現のパレットは狭いものの、そのなかにおいて試みられるヴァリュエーションの質は実に豊富で、これはこれで奥行きのある演奏といえるのかもしれない。

ラルゴの演奏も丁寧ではあるが、この楽章あたりに、彼女の限界が見えるといえなくもない。これがドビュッシーだったら、どれだけいいんだろうという想像の愉しみはあるにしても、細部への飽くなきまでのこだわりが、このような動きのない楽章では、十分に輝いてこない憾みは残った。ロンド・フィナーレは、オーケストラの快活なロンド主題の生命感に対して、ピアノのほうは若干、小ぶりな表現になった。よく弾けている部分と、そうでないところで差があり、努力型の秀才の弱点を垣間見せる部分もある。個人的には、もうすこし見てみたいピアニストだ。

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コメント

ファイナルにおける協奏曲の選定は,ファイナリストのくじびくで決定されるそうです。

とりあえず、謝意を述べておきます。しかし、その情報は確かでしょうか。課題曲の項には、「(前略)セミファイナル終了後に運営委員長が指定した1曲について、その全楽章を演奏する」と明示してあります。くじ引きではないと思われます。確かという根拠があれば、訂正します。

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