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2010年6月23日 (水)

アンサンブル・ノマド 呼び交わす世界 vol.1 フィンランディア2010 6/21

コンテンポラリー・ミュージックのスペシャリスト集団、アンサンブル・ノマドの38回目の定期演奏会を聴いた。今回から「呼び交わす世界」をテーマとしたシリーズが組まれ、今後、「うたうアジア」「現代ラテン世界を行く」という副題が予告されているが、その第1回は「フィンランディア2010」がテーマとなった。もちろん、これはシベリウス後のフィンランドの作曲家に焦点を当てる試みである。コンテンポラリーについて、私のわかる部分は限定的だが、感じたままを書いてみよう。

【演奏会冒頭のトリック】

演奏会は1961年生まれの作曲家、ユハニ・ヌオルヴァラの『弦楽四重奏曲第2番』の2-3楽章の演奏で始まったが、このプログラムには、当夜の演奏会を印象づけるひとつのトリックが仕掛けられていた。この作品の第2楽章は、佐藤紀雄氏(当団主宰、ギター奏者)の解説によれば「夢見がちな浮遊感漂う」ものであり、素朴な詩情がうるうると湧き出ていうようなイメージでありながら、一見、「現代音楽」に対するステロータイプにあるような、ハードな響きが外壁を固めるかのようなイメージもつきまとう。ところが、第3楽章に入ると、何のことはない。作品はピアソラの作品といわれても騙されてしまいそうな、快活な現代風の舞曲なのであった。

ノマドの演奏を聴きに来るような人たちは得てして、新しさへの志向が強いものと思われるし、そういうものを期待してくる可能性が高い。それを見越した上で、「こういうものをご期待でしょう」と第2楽章のそれらしいイメージを取り出して見せたあと、「いえいえ、今回の趣向はちがうのです」といって、第3楽章のイメージを披露するという仕掛けなのであった。

今回、取り上げられた作品群はポスト・ミニマル的な作品や、フェルドマンの影響を受けたかのようなものも含め、完全に独創的といえるものは少ない。それにもかかわらず、どの作品にも「時代遅れ」的な感じはなく、そのポジションなりの新鮮さを感じるものがほとんどだ。

【ヘイニオ、ホィットール】

例えば、演奏会中盤に置かれたマシュー・ホィットール『葡萄酒色の海』や、ミッコ・ヘイニオ『ピアノ五重奏曲』はいずれも、ポスト・ミニマルというような潮流のなかに位置づけられるだろう。もちろん、1948年生まれ、十分なキャリアをもつヘイニオと、いまだ30代のホィットールでは、明らかに立ち位置が異なるはずだ。もちろん、作風も同じではない。

より上段に構えたヘイニオの作品は、『ピアノ五重奏曲』と題しながら、実際には、ルイス・キャロルのテクスト(英語のまま)が取り込まれ、クィンテットの演奏者たちに加え、2人のナレーターが加わるという奇抜な構造を見せている。テクストは『鏡の国のアリス』からということだが、巻末の有名な’Life, what is it but a dream?’かもしれない。このキーワードの雰囲気をそのまま生かしながら、生かしてしていく手法がライヒにそっくりである。しかし、彼ほど格好つけたフォルムの工夫がなく、テクストがより直接的な物質として扱われ、例えば、絵画の絵の具を絵の具としてはっきり見せるような方法で、素朴な生命感を追っているのが独特である。

一方、ホィットールの作品はバロック・ギターとテオルボという編成で構成され、ルネッサンス期のイタリーの作品のような外形が印象的である。それがミニマル的なやり方で、引き締まった構図に押し込められている。手法としては、既に古典的ともいえるオーソドックスなテクニックなのであるが、これほど古い時代を参照したパロディ作品は多いとは言えず、その点で、意外なところに積み残しになっている可能性があったという驚きが、まずは先に立つ。バロック弦楽器を使うということ自体が既にアンチ・テーゼ的なのであるが、時代とともにお払い箱になったプライヴェートな楽器の特性が、ここに来て、俄然、輝きを放ってくるのは興味ぶかいところだろう。

2本の楽器の微妙な差異と、親密さというアンビヴァレンツ(二律背反)を利用したグラデーションが面白く、それがシンプルなミニマル的な手法・・・しかし、それはライヒ的なミニマルよりもより原始的な手法で料理されているだけに、なにかの真似事というよりは、よりナチュラルな風土のなかに埋め込まれた印象を抱かせる。

【ヴェンナコスキ、ハーパネン】

ロッタ・ヴェンナコスキの『歌のゆりかご』は、前々回、ノマドが取り上げたフェルドマンの作品にそっくりである。しかし、フェルドマンと比べると、生成するリズムやフォルムはより尖鋭で、人工的だ。後半の構造の発展はフェルドマンにないものであり、アンチ・クライマックス的な潮流に対するヴェンナコスキの反論的な視点が窺える。

ペルットゥ・ハーパネンの『歌曲』は題名に反して、ピアノとエレクトロニクスによる音楽であるので、その曲名からして皮肉めいている。ただ、ときどきはピアノの打鍵に反応するように流され、しかし、基本的には独立した声部として響きをなす電子録音には、ユッタ・セッピネンという歌い手の声をサンプリングしたものも収められ、そうした意味では、「歌曲」であることは間違いない。

声とフルートの関係を追究した直前のサーリアホの作品と傾向が似ており、ピアノと、そのサンプリング音との微妙な関係を探った作品としてみてみれば、兄弟的な関係にある。しかし、ハーパネンの本作はヘイニオにおける即物的なテクストの位置づけと、関連するかのようにプログラムされていることからもわかるように、ピアノの響き自体が平板に増幅され、本来は立体的なものと感じられるはずのピアノの音色は、きわめて物質的に扱われているのである。

しかし、この作品の面白さは、その2Dの1枚画を粘りづよく並べていくうちに、いくつかの方法で、我々を絵画のなかの3次元世界に引き込んでしまうということである。最初は没入的な中川賢一の親密なピアニズムに導かれて、彼の音楽に同化することで、やがて、その感覚も(多分に馴れのために)薄くなると、今度は考えられ得るかぎりの強い打鍵をもって3Dのイリュージョンを引き起こし、さらには、四隅に設置されたスピーカーの効果を強めて、我々の錯視を引き起こそうとする。ここでは、ピアノとエレクトロニクスとの対話も重要であり、その翻訳力に優れた中川のスキルが重要となっているのは明白だ。

こうして聴き手は、ある種のルールに従って、2Dから3Dの世界へと導かれることになる。そもそも音楽は、2Dの楽譜に書き込まれている。それを生身の人間、楽器が3Dに翻訳して表出するわけだが、よく言われるように、舞台と客席の間には見えない壁があり、音楽は依然として2D性を克服できない。聴き手は多くの場合、こうしたトリックに気づくことなく、安易に、また気紛れにその壁を踏み越えることで、音楽の立体性とコミュニケートすることになる。だが、このハーパネンの作品では、完膚なきまでに平面的な音楽の2D性を、まずハッキリと印象づけた上で、3D性への慎重なアプローチを実現している。

【サーリアホ】

サーリアホの歌曲2つは、歌詞や訳詩が書いていないために、北欧語に精通しない私に本質的な理解は不可能だが、序盤に演奏した『チェンジング・ライト』が旧来のポエジーに基づいたものであるのに対して、最後に演奏した『さようなら』は言語そのものも解体的に用いられているように、そうした要素では説明できないようなポエジーの構成を持っている。いずれの作品においても、サーリアホのもつユーモアの感覚がつよく生きているが、『チェンジング・ライト』では声楽とフルートの、奏法や発声における共通性や差異を強調し、それらの相互交流を通じて言葉の世界、声の世界、響きの世界を1つの次元で共演させるという発想に基づいているのではなかろうか。

一方、『さようなら』はひとりの歌手を中心に、両脇のギターとフルートが狂言まわしを演ずるような構図が注目される。私はさほど詳しくないのだが、日本の狂言にもコミカルなものばかりではなく、シリアスなものもあると聞く。タイトルの『さようなら』が示唆するように、この作品も正に、シリアスな狂言というのが相応しい作品ではないかと思う。

あるいは、森川栄子、木之脇道元、佐藤紀雄という見た目にもエキセントリック(森川は単に丸顔で、すこし太っているだけのことだが)な人たちが並んでいるせいで、そんな風に思えたのかもしれない。しかし、例えば、この作品で頻りに楽曲の雰囲気づけを担うパーカッション類の使い方が、すこしばかり笑えるのである。これを専門の打楽器奏者が後ろのほうで、あくまで、「音響的効果」としてやっているならば、何の面白みもない。だが、言葉にならないような歌を発しながら、厚めのマレットのバチ1本でタンバリンの真ん中を「ポン」と鳴らしてみたり、左手のすこし下側で小豆(?)の入った楽器を「サワサワ」と鳴らしてみたり、ウィンド・チャイムに声をぶつけることで音を出してみせたり、これらの行動はいかにも「シュール」で喜劇的なのである。

それだけではない。どこか独りよがり的なギターの硬いフォルムや、ピッコロを取り出しながら、ひとつもそれらしい響きがなく、楽器の本領には遠い世界を一生懸命にやることで、画面の中の登場人物はまったくもって真面目一途であるにもかかわらず、どうしても笑いを禁じ得ないチャップリンの演技を見るような可笑しさを感じる。また、これは楽器と声のどこかソリの合わない関係をみることによっても、同じように冷笑的な視点を感じられるはずである。佐藤氏の解説によれば、「曲前半の間歇的な表現は中間部分のギター・ソロを境に、それまでに緊張した世界がほどけていくような表現に変わっていく」となっているが、これは私のみる限り、あくまでも倒錯的な意味であって、ごくごくプレイヤー的な見方でもある。

私たちからみれば、前半の狂言まわし的な手法が後半、ぐっと風刺的なユーモアを強め、むしろ、シリアスな作品としての本質が姿を現すかのように見える。歌詞は「いかにして抵抗するか」というものに始まるようだが、それは表の意味はともかく、「もはや進みべき道はない・・・だが、進まねばならない」と作品を名づけたノーノの悩みと似た世界が問題になっていることを示す。そして、その結論が最後に我々にも聴きとれる「さようなら」であることには大いに意味がありそうだが、この作品を聴くかぎり、サーリアホは作品の前半部分にみられる非人間的、あるいは、楽器の本質を無視したような表現を正しい位置に戻すことから、この悩みに向き合おうとしているかのように見えなくもない。

【コスキネン】

コスキネンの作品からも、私はユーモア的な視点を感じた。『芭蕉断章-東京版』は、彼のオペラ『サド公爵夫人』に使用するために採録した芭蕉の句の電子録音を改めてインスパイアしたもので、彼に大きな示唆を与えた鈴木明(アキ)という舞踊家の「多彩で個性的な発声」が作品のベースを構成している。

 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」
 「蘭の香や てふの翅に たき物す」
 「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」

という三篇が選ばれており、私は日本文学科にいたが、さほど俳句には造詣が深くないので偉そうにはいえないが、シンプル・イズ・ベストを体現した最初の句。よりヒューマニスティック、もしくは、宗教的な視点を含めた2つ目の句。さらに、ユーモア性のつよい第3の句と、異なる典型を織り込んでいる点が、作品に対するこの北欧人のつよい共感を窺わせる。彼自身は、これらの発句が、大地、火、水を連想させるとしているが、その感覚はよくわからないとしても・・・。

しかし、この鈴木という舞踊家の詠唱はいささか独特であって、コンサヴァティヴな我々の耳からすれば、ある種の不快感を催させる。この作品のベースにあるのは、なにか大事なものが、思いも寄らないような方法で扱われたときの、言いようのない不快感、あるいは、不安定感に依拠している。これを引っ掛かりとして、言葉が断片的にいじくられ、ときには連呼され、引き千切られる音楽的なフォルムは、ああでもない、こうでもないと思考錯誤して、ひとつの発句を定めるまでの俳人の苦悩とリンクしているようにも思われる。

ただ、コスキネンにしても鈴木にしても、その苦悩を単に苦しいものとは捉えずに、よりはんなりした遊びの要素として、親密なイメージで捉えているのが特徴である。例えば、3つめの句は、良質な蛸がとれることで有名な明石で詠まれたとされるが、「蛸壺」というややエキセントリックな言葉が、芭蕉の柔軟なポエジーを刺激したものと思われる。この「蛸壺」のキーワードへの執着を作曲者は見事に読みきっている。そのせいか、既に第1句のサウンドのなかにもそれは紛れ込んでおり、まったく別の「古池や・・・」の句のなかに乱暴に入り込んでくることで、聴き手の不快感を増幅しつつも、どこかくすっと笑わせるような面白味にもつながっているようだ。

句の生成に関する思考が、コスキネンに与えた多大な影響は、その生成過程をそのまま作品にするという形で、ここに喜劇的に結実した。ただし、基本的には表意的で、音と結びつきにくい日本語の性質をコスキネンがどれだけ理解していたかは疑問である。特に序盤戦において、言葉とサウンドの関係は十分に吟味されているようには思われず、作品のもつ風刺性を若干でも損なう理由になっている。そのような点には、多少ならざる問題も指摘できるのかもしれないが、いまや「世界言語」となった俳句の新しい生命感は、こうした作品において、ハッキリと感じられるのである。

【クラミ~フィンランド近代】

ウーノ・クラミは1900年生まれの作曲家で、正確には、フランス近代の作曲家である。『コンチェルティーノ』は正にその時代柄を感じさせ、ストラヴィンスキーとプーランクのアイノコのような音楽だ。弦楽五重奏のバックの上で、オーボエ、クラリネット、トランペットが活躍する協奏的な作品だが、通常のコンチェルトとちがい、ひとつひとつの声部の役割が明確で、特に、トランペットという音のつよい楽器が入ることで、全体のアーティキュレーションに繊細な配慮が求められるだけでなく、ときには、他の楽器の逞しさが試される面もある。その当時、爛熟した書法のお手本のような作品のひとつであり、ひとつひとつの楽器の個性が、ヴィヴィッドな作風のなかに自然に溶け込んで、なんともいえない感懐を導いているのは見事だ。

今回の演奏は、全奏のクライマックスでややもたつきがあり、作品の難しさを思わせる面もあるにはあるが、粒だった8本の楽器の音色を素直に楽しませるクラミの美質を明るく表現していたことは確かである。正に、最初の曲に隠されていたようなメッセージが、ここでもっとも明るく輝くことになったのではなかろうか。

【まとめ】

今回の演奏会から、「フィンランディア」という地域性をいかに感じるかということは、そう簡単なものではない。フィンランドという清らかなベース、雪や雄大な自然を感じさせる透明感を共有しながらも、これらの作曲家は、世界的な潮流のなかで固有の歴史を築きつつ、外界の流れから完全にインディペンデントであることを求めるというよりは、世界との調和、あるいは対話のなかにこそ、自らのポジションを見つけだそうとして、もがいているように見えるのだ。

彼らは所詮、蛸壺のなかの蛸と同じようなものであるという自覚がある。そして、そのような閉鎖性と「さようなら」をすることで、はじめてゆりかごに乗り始めたような段階だ。クラミがパリで出会ったようなひとつの成熟を、この1世紀半というもの、彼らは突き詰めてきたが、いまやそれらの夢は葡萄酒の海に浸かるような、錯乱した歌として機能しなくなっている。我々は蛍光灯をLED電球にしてみたように、まったく異なった質の光を求め始めている。なにも、どこからみても見たこともない、聴いたこともないような、未知のものだけが新しいということはない。それはひとつの道、ひとつの条件ではあるが、すべてではない。例えば、我々が見知らぬ北欧の作曲家と、日本人ばなれした舞踊家の声に新しい詩の道を知るように、可能性はいくらでもある。

20世紀はあらゆる意味で、急ぎすぎた時代だった。次から次へと新しいスタイル、新しい個性を追い求め、それらに見事に応えてきた歴史は賞賛すべきだが、そのペースを数世紀にわたって維持しつづけようとすることは、賞賛に値するどころか、まったく無鉄砲なはなしと思わざるを得ないのだ。発展的な史観に基づいていえば、もはや古くさいようなミニマル・ミュージックにも可能性がまったくないというわけではない。

ここに紹介されたような北欧の作曲家たちは、いささか遅れているような面もなくはない。しかし、彼らは彼らなりのペースを守っており、がむしゃらに前を向くドイツの重戦車的な発想よりも、はるかにヒューマニスティックな輝きがある。古くさくてもいい、と言っているのではない。彼らが踏み潰してきた可能性のなかにも、まだまだ豊富な可能性があるということである。そして、ドイツがどちらかといえば、古い時代の「先進的」だった作曲家層への敬意に凝り固まっているなかでは、北欧の作曲家は新しい人たちが素直な尊敬を集めることに成功し、各々が自分なりのフィールドを堂々と展開しているように思えるのである。

新しい音楽に必要なのは、実は、そのような可動的なフィールドなのではなかろうか。今後、アジアやラテン世界で、どのようなフィールドが広がっているかということを、ノマド的な批評眼を通してみせてくれることは、実に楽しみなことである。

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