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2010年7月14日 (水)

キュッヒル & 加藤洋之 ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ @ヤマハホール 7/13

本年のウィーン芸術週間でベートーベンのヴァイオリン・ソナタ全曲を完奏してきたライナー・キュッヒルと加藤洋之ですが、今回の日本ツアーで、このソナタのうち3曲もの演奏が楽しめるのは、どうやら、ヤマハ・ホールでの1公演だけのようです。サントリー・ホールでやってもいいはずの公演なのに、僅か300席ちょっとの新生、ヤマハ・ホールで聴けるという贅沢なコンサートに足を運びました。

周知のように、キュッヒル氏のご内儀は日本人であり、ウィーン・フィル関連以外でも来日の多い人なのですが、どういうことか、キュッヒルの人気はいまひとつですね。私もこれが初めてのリサイタル体験でしたが、正直なところ、それほど期待してはいませんでした。私はどちらかといえば予見を持つことを嫌いますので、ウィーン・フィルの第1コンマスといっても、まずは「そんな美名には騙されないぞ」という意気込みでいきます。しかし、彼がいまのような地位にあるのには、やはり、それなりの理由があることがハッキリわかりました。

【マテリアルを生かしきる】

技術的なことでいえば、キュッヒルより巧みな人がまったくいないわけではないでしょう。特に、この日の後半で弾いた「クロイツェル」ソナタのような技巧的な作品では、キュッヒルは必ずしも最高の弾き手とは言い難いところもあると思います。周知のように、キュッヒルはウィーンの名教師、フランツ・サモヒルに習っていますが、このサモヒルは数々の優秀な弟子を育て、独墺系音楽の伝統をもっともリアルに伝えた指導者として知られます。しかし、一方ではホールの大型化などに対応するため、よりダイナミックな表現をするように指導したため、従来の演奏伝統のうち一部の繊細な表現性が損なわれたとも言われます。「クロイツェル」においては、そのような後者の批判が故のないものではないことを感じさせます。

特に第1楽章においてキュッヒルが奏でたのは、適度に削られたはずの木材をさらにカンナでゴシゴシ削りこむような質の表現であって、ほかの部分と比べて、いささか泥臭いものに思われたでしょう。こういう部分は、サモヒルの指導の悪い部分の反映といえるのではないでしょうか。このような表現を試みたときに、キュッヒルの技巧性は今日、活躍するハイテクで、タフな若手・中堅の演奏家と比べて、はるかに勝っているものとは思えません。

しかし、私はそうした部分を論って、キュッヒルの演奏を批判することに価値はないと考えます。キュッヒルの本領はそうした部分にはなく、マテリアル(素材)本来の味わいを出し尽くすために、よく練られたフレージングやボウイングを基底に置いて、それを跳躍台にしながら思いきった表現を試みるところにあるからです。

特に見事だったのは、真ん中の第10番の演奏ではないでしょうか。例えば第1楽章は、ピアノとの掛け合いも含めて繰り返し的な要素が多いのですが、キュッヒルの上げ弓/下げ弓の対話、そして、それに基づく立体的なフレージングの構築により、一瞬も目が離せない音楽となっていました。キュッヒルの楽譜は2Dではなくて、ボウイングの動きにあわせて3Dで書かれているのではないかと思えるほど、その音楽は自然な起伏・・・あるいは、息づかいに満ちていたのです。

下げ弓では男性的なシャキッとした響きが、上げ弓ではやや穏やかで奥ゆかしい響きがつくられるのですが、それらのダイアローグ(対話)はまったく機械的ではなく、実に意外なタイミングでターンを繰り返すことから、しかも、そのことが自然なものと思われるような絶妙の押し引きでコントロールされるため、これらの多分に知的な構造づくりが、人間的な・・・あるいは、エルゴノミックで柔らかな形象として受け取られるのです。結局、この対話に対する厳しいセンスがフレージングを決定するのであり、さらに、もうひとつ重要なことは、これらの骨組みを肉づけする音(符)が精確に保持されているということです。長い音はともかく、8分音符や16分音符のような短い音符についてもそれは徹底されており、この3つがセットになって、キュッヒルの演奏を特別なものに仕立てているのです。

キュッヒルは多分、なぜ、どのようにというアテンションをつけて、これらのアクションをきっちりと説明することできるはずです。「アナリーゼ」という言葉がよく問題になりますし、音大でもアナリーゼは大事なことと目されてはいるはずですが、これほどまでに徹底した・・・先程、キュッヒルの楽譜は3Dで書かれているのではないかなどとデフォルメして言ってみたようなレヴェルで、演奏を組み立てている音楽家といったら稀でしょう。さらに、そのことを聴き手にはっきりと感じさせることのできる人物などは、滅多にいるものでもありません。

上のようなことを頭に入れて、第2楽章を聴くと、実に味わいがあります。緩徐的なアンダンテ楽章ではありますが、キュッヒルの演奏はフレージングが細かく、上げ弓と下げ弓の対話力も優れているため、この部分の「エスプレッシーヴォ」な部分が際立っています。息の長いレガートは、この作曲家が古典派に属することを思い出させるとともに、のちの弦楽四重奏曲にみられるような(第14番では大っぴらに、第15番ではより簡潔に)語法の萌芽をみることができます。ただし、ちゃんと出口をつくって、再び推進力を上げたときには、もうひとつ表情が変わります。こういうところが、実に巧いのです。

スケルッツォのあと、フィナーレは、ヘンデルの「陽気な鍛冶屋」を思わせるキュートな主題を変奏していくのですが、ここでも既述のようなダイアローグが活き活きと描写されます。これは1つ1つのマテリアルが際立ちやすいという点で、ヴァリュエーションにおける強みとなり得ます。あとで触れますが、「クロイツェル」においても、キュッヒルのヴァリュエーションは聴きごたえがありました。ここではさらに音符の保持の問題が重要で、これが明確な拍節感を導くことで、作品の構造を厳しく律しています。そのため、第7変奏におけるフーガ技法は、良い作品が仕上がるとミューズへの感謝を表すようにフーガを書いた、従来のベートーベン作品に比べて、大胆な崩しがあることがかえってわかりやすくなっています。

これはヴァイオリンの爆発的なトリルや、主題の大胆なデフォルメによる強い表現へとつながり、作品を結果的に劇的な方向へと傾けさせます。しかし、そのことは決して過剰にならず、適度に展開したところで響きが収められて、弾き終わり直前の落ち着き払った部分に落とし込んでいくときのコントロールも見事でしょう。

このようにして見てくると、キュッヒルの演奏の本質がわかってきます。それは、マテリアルを完全に生かすということです。マテリアルとは、旋律にはじまり、フレージング、ボウイング、響き、拍、リズム・・・などといった、楽曲のアーティキュレーションに関するすべてのことです。彼はこうしたものをすべて生かしきることで、聴き手を内側から征服してしまうというタイプのヴァイオリニストではないでしょうか。単に生かすのではなく、生かしきるという言葉を使うのがポイントです。もちろん、その要素のなかには、ピアニストとの対話も含まれています。パートナーについては後程、改めて触れることになりますが、キュッヒルとは完全に分かり合っている関係です。そのなかで、手厚いフォローをかけるピアノの響きにも注目しないわけにはいきません。

【クロイツェル・ソナタ】

ソナタ第9番「クロイツェル」は、第2楽章以降のヴァリュエーションが見せ場でした。まず、序盤戦ではピアノとの掛け合いを重視し、チョロチョロとつけていくアテンションが実に酒脱です。ピアノのウィットに満ちた演奏にも、一方で、凛とした緊張感があります。いかにもキュッヒルらしいのは技巧的な変奏でも拍節をしっかり守って、ルバートも最小限に抑えていることです。アンダンテのベース・テンポはやや速めに設定されますが、緩徐的な部分でのキープをみると、くどくならない程度にはたっぷりしています。とはいえ、上記のような特徴によりフォルムを整えるのは非常に難儀となっていますが、作品構造の厳しさがはっきりわかり、呼吸の難しさが圧倒的な迫力となって際立ちます。

揺るぎないイン・テンポはこの作品をカオスに近づけ、例の起伏に満ちた対話力のおかげで、それをより一層ふかく抉ることになります。いわばパガニーニの登場を予告するタフな音楽性、それと一対に織り込まれるバロック的な感興が鋭く対立しあい、独特のフォルムを感じさせるのです。ピアノとヴァイオリンのラインは、明確にポリフォニー構造を示しておりますが、最後に若干、響きあわない不協和音が象徴的に強調されます。なるほど、これではクロイツェルも、弾きたがらないわけです。

終楽章は、毒蛇に噛まれたかのような(タランテッラの原義から)刺激の強い和音をじんと打ちつけ、舞曲調の流麗な拍節感を押さえながらも、節々に毒蛇のウィットを叩いて推進力に使い、ゴツゴツした流れをつくり出すという構造把握が明解です。キュッヒルのアタックは最初の楽章と比べると柔らかく、余裕があります。こうなると、例のフレージングやボウイングの見事さが際立つことになり、独特の歌いまわしに聴き手は興奮を禁じ得なくなります。最後は、ここまでに示してきたトリルやトレモロの鋭さをアクセントに使い、敢然と弾き終わりました。

【ソナタ第4番】

4番はわりにマイナーなナンバーだと思いますが、ツカミとしては素晴らしい演奏になりました。まず、いきなりクライマックス的な、劇的な導入部ではピアノとヴァイオリンが音色と強さで高レヴェルのシンクロを示し、特に、ウィーン伝統音楽の粋をいくキュッヒルの相手を務めるに相応しい加藤の、適度な打鍵の強さ、リラックスした響き、音色の透明さが、ほんの数音で明らかになりました。キュッヒルは冒頭から、洗練されたフレージングでガンガン攻めており、確信に満ちた構造把握でドンドン聴衆を惹き込んでいきます。このナンバーは、キュッヒルの良さを端的にアピールする点でも、キュッヒル&加藤のコンビ・ワークを印象づけるためにも、非常に面白い素材で、プログラムの1曲目に置かれるには相応しい作品だったといえそうです。

アンダンテ・スケルッツォは、例のボウイングによる対話力を踏まえて、オペラ的な流れが感じられますし、また、対位法的な構造がそれを下支えしているようでもあります。既に10番を通じて強調した上げ弓/下げ弓のダイアローグがもっとも効果的だったのは、実のところ、細かいフレーズが粘りづよく組み立てられた4番においてだったと思います。そして、何度強調してもし足りないのは、それと組み合うピアノの響きの柔らかさについてでしょう。加藤はキュッヒルの複雑で、精緻なアーティキュレーションを完全に知り尽くしていて、キュッヒルのつけたいアテンションを積極的に彫り込む役割を担っています。それなりに長く連れ添うデュオとはいえ、なかなか、ここまではいかないものなのですが・・・。

終楽章は、キュッヒルのヴァイオリンの美しい音色が際立っています。オーナー企業が選び抜いたベーゼンドルファーのコクのある響きとあわせ、キュッヒルのヴァイオリンがふくよかなカンタービレを響かせます。

私の考えでは、同じ歌でも2つの種類があります。1つは伸びやかで、屈託のない、ちょうど児童合唱の無邪気な歌声にちかいような親密感を感じさせるもの。もうひとつは、正に鍛え上げられた筋肉に支えられた、大人の歌です。歌にとっての筋肉とはフレージングであり、呼吸感であり、強弱の流れのコントロールを言います。私たちはこれらの要素を適度に調節しながら、良い歌のフォルムを探っていくことになります。個人的には前者のような要素も必要だと考えており・・・否、むしろ、それこそが歌のベースとなるものだとさえ感じており、これを自由に使いこなすためにこそ、筋肉を鍛えるのだというイメージで考えています。

キュッヒルは発言も辛口ですし、その風貌からいっても、楽団での役回りからみても気難しい面があるというイメージがつよいのですが、こうしてソロ(デュオ)のステージを見ると、音楽を楽しむという要素が何ものにも優先しているように見えますし、歌ごころは素朴で、ときに無邪気でさえあります。しかし、もうひとつの要素・・・つまり、筋肉の部分へのストイックなこだわりもまた明晰です。キュッヒルの歌ごころの魅力は、これら双方を本当の意味で追究し、煮詰めていったところに現れるもので、これは生半可な努力で掴みとれるものではないのです。このことを知れば、キュッヒルがいかに卓越した音楽家であり、なにゆえ、今日のような地位にあるかがわかります。

キュッヒルは正に、本物中の本物なのでした。

【この演奏会はデュオ・リサイタル!】

ところで、最後の曲目が演奏が終わり、2人がいちど引っ込んでから呼び戻されたところで、興奮気味だった私は「ブラーヴィ!」と声をかけました。すると、しばらくして後方の座席の中年のオトコに呼び掛けられた私は、「1人の場合はブラーヴィとは言わない!!」と怒られたのです。ご助言には感謝しますが、「1人」とはどういうことなのでしょうか。私はこの日のパフォーマンスを、デュオと捉えて聴いてきました。ウィーン芸術週間のポスターの写真をみても、キュッヒルと同じ大きさで’KATO’の名前が並んでいます。周知のとおり、ベートーベンのヴァイオリン・ソナタは、ヴァイオリンとピアノのウェイトが拮抗していることからみても、この演奏会はデュオの演奏会なのです。

加藤洋之(ヒロシ)は日本での知名度はまったくありませんが、キュッヒルをはじめとするウィーンのヴァイオリニストに信頼されているアーティストであるようで、今後、ますますステイタスを高めていくことが予想されます。このピアニストはキュッヒルと組むに相応しい、繊細でありながら、必要なときには激しいアタックを上品に打つことのできるピアニストであり、なによりも響きが柔らかい。そして、これはあくまで印象にすぎないのですが、実に素直な人物なのだと思います。彼はキュッヒルの音楽を完全に吸収して、自分のものにしています。まるで加藤はキュッヒルの弟子ででもあるかのように、彼の波長のなかにすっと入り込んでいるのです。これは単に、あわせるのが巧いというのではなく、苦労して、相手の音楽を身体に叩き込んだ人にだけ許される特権です。

2001年以来、デュオで共演しているとの次第ですが、加藤がどのようにしてキュッヒルと出会ったのかは知りません。しかし、このピアニストはキュッヒルに如何にこっ酷く叱られようとも、彼を師のようにして慕い、必死になって喰らいついていったにちがいなく、キュッヒルのほうでもそんな若いピアニストのことを気に入って、可愛がってもくれたのでしょう。いま2人の関係は、感動的なまでに爛熟しています。ジャン・ファシナは先日、紹介した書のなかで次のように述べています。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

謙虚さと知性は、進歩の土台となる二大資質である。さらに意志、忍耐力、完全な自己投企も加えよう。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

さらにジャック・ルヴィエは、「意見を変えない者は愚か者だけである」という格言を引いていますが、昔の彼のことは知らないにしても、きっと20年前の加藤を知る人があったとしたら、彼のドラスティックな変わり方には心底、驚かされることであろうと思います。彼は、ファシナのいう音楽家にとって欠かすことのできない資質を、誰よりも豊富に備えています。そして、それゆえに、あれほどまでにキュッヒルの音楽性と密着できる存在になれたのでしょう。

あれを「1人」と捉えて称えることなど、私にはできません。そのときも、あの方には素直に頷いて応えておきましたし、こうした手合いをまともに相手にするのは面倒くさいわけですが、あのピアノを従属的な意味での「伴奏」として捉えるのは、キュッヒル氏も絶対に喜ばないであろうと思います。こうした「親切な」方がたまにおられるけれども、他人の世話を焼く前に自分の世話を焼いてほしいものですね。しかし私は、ここでかの下らない人物の批判をしたかったわけではなく、この演奏会はソロではなくて、デュオによるものだったことを強調したかっただけです。

とにかく、いまは、素晴らしいデュオに出会えた喜びでいっぱいなのです!

なお、会場のヤマハ・ホールは新旧を通じて初の体験でしたが、無用な響きが充満することなく、柔らかく広がっていく良いホールでした。2Fはピアノを上から見下ろす感じで独特のヴィジュアル感。今回は1F後方でしたが、多少、天井が被っても、音響的なロスはさほどないでしょう。1FのK、L列あたりがオススメです。ただし、エントリーのある7Fからホール階に上がるには階段のみしかなく、バリア・フリーにはほど遠いようですので、私は目下、直接には関係ないとしても、その点だけは不満に思いました。

【プログラム】 2010年7月13日

1、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第4番
2、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第10番
3、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」  

 於:ヤマハホール

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