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« サー・チャールズ・マッケラス氏が逝去 ロンドンにて 享年は84歳 | トップページ | 汎人類的な作品をめざした(?)ファウストの劫罰 二期会公演 スピン・オフ記事 »

2010年7月18日 (日)

プラッソン ファウストの劫罰 大島早紀子&三浦安浩演出 @二期会 7/17

二期会が、ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』を上演したのを拝見した。今回は、いまは亡き若杉弘が指揮を執ったリヒャルト・シュトラウス『ダフネ』の公演でオペラ初演出を体験した舞踊家の大島早紀子に、三浦安浩が協力したプロダクション。松井るみ/沢田祐二の装置/照明に、太田雅公の衣裳という演出チーム。管弦楽は、ミシェル・プラッソンの指揮による東京フィルだった。会場は、東京文化会館・大ホール。

【成長した大島の演出・振付】

さて、総論からいえば、私の観たものでいえば、2008年のコンヴィチュニー演出『エフゲニー・オネーギン』以来の好プロダクションであり、音楽的な質の良さも加わったいい舞台であった。前回の『ダフネ』では、音楽にあわせた動きの細やかさにおいて、通常のオペラ演出家よりはるかに勝る点を訴えたものの、ドラマトゥルギーのなかにおける演出意図はスカスカで、プロダクションとしては甘さが目立った。2度目となる今回はかなり無駄なものが減って、凝縮したドラマをつくり上げることに成功した。

この背景には、ベルリオーズの作品がもともとオペラではなく、オラトリオ的なものであったことから、かえって音楽的な要素が凝縮しており、なおかつ、伝統的に舞踊との関連が深いフランスもの、しかも、そのなかでも最右翼のベルリオーズ作品であったということが大きく寄与している。また、前回の反省点を踏まえて、演出助手として三浦安浩がつき、大島をサポートしたのも大きかったろうと思う。非常に誤解の多い言い方になるが、大島の演出はそのような点において、今回、きわめてコンサヴァティヴ(保守的)な面もある。

【マルガリータの救済の意味】

コリオグラファーとしての大島の仕事は、ややワン・パターンであるのは否めないかもしれない。彼女のカンパニーの特徴は、ファッションとしてのアングラ(つまり、本質的にはポップな性質をもった)をベースに、バレエを基本に置いた舞踊のフォルムに対する自由な発想。多彩なダンス・コラボレーション。ワイヤー・アクションを利用した舞踊空間の最大限の拡張と、超人間的なフォルムの追究。そして、その副次的な効果として、男性ダンサーのサポートから自由な女性ならではの表現性・・・といったポイントにより語られるだろう。これらのうち、今回のプロダクションで特に重要だったのは、人間(性)を超えたものの表現、つまりは、極端な人間中心主義という矛盾についてのアテンション(注意)である。

誰の目にも印象的な、幕切れのシーンを思い出してみよう。浄化され、救済されるマルガリータ(ドイツ語ではマルガレーテ)は、序盤からダンサーがまとっていたような長く裾を引くドレスの、最大限に美化され、引き延ばされたイメージをまとって現れる。安っぽい紙吹雪が吹くのはご愛嬌としても、あの息を呑むような衣裳の美しさは、このプロダクションにとって語りぐさとなるものだろう。あるいは、彼女をワイヤーで吊ってしまうことも考えたろうが(私はそれを予想していた)、それよりもはるかにシンプルで、効果的な救済の表現である。

ベルリオーズはファウストへの天罰(劫罰)をテーマとするとともに、この明らかにマグダラのマリア的なマルガレーテの救済を作品の最後にもってきている。面白いことに、ドラマは、明らかにモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』に擬せられるファウストの地獄落ち、次いでメフィストの凱旋、最後にマルガリータの救済という順番になっている。これは多分、作曲者の共感のつよい順になっている。ファウストを人間性、もしくは人間的知性の象徴とするなら、メフィストはその彼岸に配置される悪魔的な知性、つまりはアンチ人間的なものの象徴である。しかし、これらに対してはるかに超越的な神性、超人間的な感性といったものが、マルガリータの背負うものとなっている。それは非常にヒューマンなものにディペンデント(立脚)なもの=愛情を起源としながら、その純真性において超越的なのだ。

(もともと教皇グレゴリウスⅠが形成した)ステロー・タイプとしてのマグダラのマリアがその人間的な罪のために、かえって聖女とされてきたように、マルガリータもその罪のために、つまりは、彼女の行き過ぎた愛情が母ごろしに発展するという過ちのために、先述のような超越的なものとして出現することになる。その瞬間を、あれほどまでにシンプルな視覚的象徴で語ってみせた功績は、どれだけ褒めても褒めたりないというものである。

【最終場面での見落とし】

ただし、その効果が鋭いものであればあるほど、それと関係する男たちとの関係がここで明確に描かれていないことは、残念に思われる。もちろん、もとの「劇的物語」では、そのあたりに何の注釈も与えられていないのであり、無理に解釈を施す必要はないのかもしれない。しかし、その「劇的物語」を「オペラ」として上演したのならば、登場人物の「関係」がより重要になるのは自明であり、最後、上っていく天使にとってファウストが何であり、メフィストが何だったのかについて、ある程度の「結論」、もしくは、それに代わるほのめかしがなくてはならないはずだ。

私はこの物語において、ファウストはすべてを失ってまったく何も得ない者、メフィストは二兎を追って一兎のみを得た者、しかしてマルガリータは、すべてを失うことによってすべてを得た者であるとみており、このことを描くのに、最終場面は十分すぎるほどスペースがあると思っている。特に、私が強調したいのは、メフィストにとってのマルガリータの喪失についてである。この劇に出てくるすべてのものは、彼がファウストの魂を奪うために用意したものだが、マルガリータのみはそうであって、そうではないという二面性をもっている。

メフィストは海老で鯛を釣るつもりだったのだろうが、ファウストと出会ってからのマルガリータの急激な成長は、メフィストにとって思いがけないものだったにちがいない。結局、彼は大事なものを喪って、傲慢なファウスト博士を得たにすぎないように見える。鯛で、海老を釣ってしまったのだ。これは彼にとっての、本当の勝利なのであろうか。地獄へ凱旋したメフィストは表向き、勝利を誇るかのようだが、意味不明の悪魔の呪文による祝福は、激しいサウンドのなかにも、どこか空疎に聴こえる。

このことに対して、何も言わなかったというのは、今回の演出で最大の見落としである。リブレットに言葉がなかったから、気づかなかったのだ!

【舞踊は充実、しかし、多少の過剰も】

踊りの部分は、既に述べたように動きがワン・パターンであることを除き、作品に深い緊張感を与えていたと思う。しかし、いくつかの場面において、若干、過剰な部分はあった。例えば、いわゆる「鬼火のメヌエット」でメイン・ダンサーによるソロから、非常に滑らかにパ・ド・シスに移行するまでの流れは素晴らしかったが、そのあと、いつの間にか2人が抜けて、得意のワイヤーで空中に展開するのは蛇足であった。また第2幕の最後のほうで、眠りについたファウストに魔法をかける部分で、豚の丸焼き状態でワイヤーを滑っていくアクションも過剰だし、その他の場面で、若干、踊りが長すぎるように思った部分は、個人的な好みもあるとしても、もうすこし凝縮したイメージをつくることができるはずだ。

先の魔法をかける場面にしても、メイン・ダンサーが下で踊っていて、最後、下がっていくときにファウストのベッドの向こう側からぬっと姿を現し、オトコに巻きつくようにして接吻してから、すっとベッドを跳び越して去っていく場面はきわめて印象的なのであり、こういう場面こそは下手になにかを付け加えるぐらいならば、メイン・ダンサーがワイヤーも何もなしで、マルガリータの出現を導くというほうが潔く、劇的である。大島早紀子が自らの仕事にすぐさま満足しきってしまうタイプの怠惰な芸術家でないとするならば、彼女は上記のような自分の塗りのこし、もしくは、塗りすぎに気づいて、次のプロダクションでは、もっと完璧な仕事をしてくれるはずだ。

基本的に、音楽的な要素に手をつけず、そこに溶け込むように流れをつくる大島だが、作品の大詰めで、1場面だけ、音楽に逆らってダンサーの高速回転を入れるシーンがあった。これは多分、減衰していく音楽に残るエネルギーを示すための大胆なデフォルメで、今回のプロダクションで、実は私がいちばん感心した場面だ。批評家の東条碩夫はこれには共感できないとしているが、どうだろうか。最近、よく引いているジャン・ファシナの言葉(この本は実に応用範囲が広い!)に、次のようなものがある。スタッカートを説明したものだ。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

弾き終えた音符は、休息の役割を果たし、そして次の音符に向かう跳躍板の役割も果たす。

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ファシナはここでスタッカートをブツブツ切らず、次の音への跳躍台となるように、うまく保持して使えといっているのだ。減衰する音には、次の音へ向かうためのエネルギーを反射する跳躍台の役割がある。次の音楽がきわめて大事な、強さをもっているからこそ、大島は、その前の減衰にあわせて動きを収束させるという当たり前の方法を選ばなかったのだ。

考えてみれば、そんな当たり前の選択ならば、誰にでもできるではないか。東条氏はむしろ、そのほうがマシだと言っているのであろうか。そうだとすれば、私はこの批評家の見識を疑うべきだと思う。むしろ、このような強い動きを入れたところに大島の舞踊家としてのプライドが窺われるのだし、彼女のコリオグラファーとしての特別な資質が詰まっているように見受けられるからだ。この場面には心底、息を呑んだ!

【歌唱陣、特に小森輝彦】

歌唱は、非常にバランスが良い。今回、Aキャストの林美智子が降板したため、初日と2日目、最終日をBキャストの林正子がカヴァーし、この17日はアンダー・スタディに入っていた小泉詠子(エイコ)が歌うという変事があったが、二期会で売り出し中の才色兼備、両「林」に不安でならなかった私としては、この変更はウェルカムだった。小泉は藤沢オペラコンクールで、経験豊富な谷原めぐみの第2位に選ばれたばかりであり、いきなりの抜擢であるが、とてもリリカルで、フレッシュな声の持ち主と思われる。有名なアリア「トゥーレの王」や、終幕の「ロマンス」があるおいしい役柄だが、特に音程の良さや、中音域におけるユニークな発声の拡がりに魅力を感じた。

ファウスト役の福井敬は今回、はまり役で、好調というべきだろうが、これだけ長く聴いていると、若干、一本調子な感じも否めない。別に悪いというつもりはないが、この人の歌は、なにを聴いても同じというのが面白くないのである。

それに対して、毎夏、楽しみにしているリサイタルもちかい小森輝彦のメフィストは、いろいろな表情を見せてくれる。酒場の場では道化まわりのようなコミカルさと、ふてぶてしさ。第3幕では、ロック歌手のような存在感。終幕では地獄の勇士として振る舞い、演出コンセプトのこともあるが、各場面で自由に立ち回っており演技力があるのがわかる。小森はドイツの中堅劇場、テューリンゲン州立劇場(旧アルテンブルク・ゲラ市立劇場)を代表する歌い手のひとりとして活躍しており、やはり、このメンバーでは経験値が高い。

しかし、歌唱の面でも繊細な魅力を放っている。例えば、鬼火のあとのセレナードでは、厭らしい悪魔の顔に加えて、すこしキュートな面もまぜながら、堂々とした策士の顔を使い分けなければならないのに、これが実に巧みなのだ。声は無駄に張らず、しかし芯があり、聴き手の注意を惹きつける工夫に満ちている。歌のおわりをしっかり抱き止めて、聴き手にアテンションを与えることで僅かな間をつくり、鬼火たちを追い払う次の場面への移行をスムーズにすることも忘れない。この作品ではメフィストの役割が目立つが、小森はそれを極力、表面に出さないことで、ファウストやマルガリータとのバランスをとっている。こんなリリックなメフィストこそ、ベルリオーズの分身には相応しいのだ。

ただし、これも演出的な蛇足だが、第3幕ではメフィストがスター歌手のように扱われ、テレビ・カメラで彼を撮影するような場面までが視覚化されている。このことについては最初の幕から伏線が用意され、セット上部の左右にある小さな四角い窓にはモニタが仕込まれ、作品世界がメフィストによって生み出された何らかのデジタル的な世界であることが、示唆されていた。また、壁にはコンピュータ・プログラムのような文字列が薄く映し出されてもおり、演出コンセプトとして、このような要素は全編を支配しているように思われる。しかし、それで十分だ。直前の場面では、ダンサーたちが手にもったフラッシュがパチパチと明滅する場面があるが、これはわりに効果的だ。

しかし、それに加えて、あそこでわざわざカメラが出てくることによって、演出プランは一気に、海外ではありふれたメディア批判の構図になってしまい、詩情はみすみす滑っていくし、おまけに、メフィストの歌声に集中できないという欠点をもたらす。先程のモニタはむき出しになり、空間全体はスタジオ化している。要するに、ここで種明かしがおこなわれたわけだが、私は最後までそれをせず、ほのめかしに止めたほうが、より効果的だったのではないかと思うのである。演出家はきっと、畏れたのだ。このコンセプトに観客が気づかないことを!

でも、演出とはそういうものではなかろうか。気づかないことは、観客の責任だ。わざわざ説明的に、種明かしをすべきではない。

【プラッソンは見事!】

東京フィルの演奏は、見事である。私は新国の舞台で、ご子息(エマニュエル・プラッソン)のほうの指揮を拝んだことがあるが、父親のミシェル氏のほうが来日し、しかも、オペラを振る機会に接することができるとは思っていなかった。最近、ブレイクしたジョルジュ・プレートルや、亡きジャン・フルネと並ぶフランスの大指揮者の来日には期待感を抱くとともに、録音からは若干、脇が甘いところがありそうな予感もしていたのだが、佐藤正浩がアシスタントで入ったことも効いているのか、想像以上にまとまったアンサンブルに仕上がっていた。

この作品はオペラ・ファンには非常に有益なページ、「オペラ対訳プロジェクト」を見ながら聴いているとよくわかるが、言葉や感情に、実に繊細な音楽が振られていることに驚かされる。有名な「ハンガリー行進曲」に象徴されるダイナミックな音楽構造をもちながら、同時に、バロック・オペラのコンティヌオがやるような、繊細な感情づけが特徴を成しているのだ。そのことがよくわかったという点で、プラッソンの指揮の凄さを語っておくべきだろう。

感情の流れや、その場面の性質にあわせた様式の表現・・・例えば、最後のマルガリータの救済に見られるような聖歌の歌い方と、アウエルバッハの酒場でのアーメン・コーラスの違いといったような簡単なものは別にしても、その場面が3人の人物のうち、誰に支配的な場面なのかということでもアーティキュレーションがまったく異なっていたし、たとえ同じ人物であっても、冷静なときと取り乱したときではまったく質感がちがっていたことも指摘できる。例えば、同じようにリリカルなマルガリータの歌、「トゥーレの王」と「ロマンス」では若干、後者に重みが加わっているが、これは多分、前者よりもフレージングが長めに区切られていることが影響している。

演出は全編がほぼ暗い(ここでは単に明るさの問題)場面というハンデにもかかわらず、踊りの多彩な表情づけで、このあたりによくつけているといえそうである。もしも、バックの目まぐるしい表情の動きがなかったら、先に述べたようなワン・パターンさはより際立ってしまったであろうし、逆にいえば、音楽的ニュアンスのゆたかさが、大島のコリオグラフィの基本にある単調さを救ったと見ることも可能である。

ところで、「トゥーレの王」のフレージングは、きわめて独特である。それはこの日、カヴァーで入った歌手の経験不足から来るのではない。小泉は確かに歌いだしで、なんとも無防備な「若さ」を聴かせてしまったが、その問題は徐々に回復し、既に述べたような中音域の個性などを丁寧に生かしていった。この「トゥーレの王」では、プラッソンは全体の流れをやや緩くとり、歌手のスペースをひろく確保したようにみえる。ただ、その内部での流れは揺るぎのないものにキープして、素材の性質をじっくりと印象づけながら、透明な詩情をすっきりと流すように工夫している。このため、あとで再びマルガリータが現れるときに、このアリアのモティーフがメジャー・コード的に表れたとき、これらの素材の対比が立体的で興味ぶかいものになる。のちに流行する、ライト・モティーフのはしりを、こんなところに見るのも可能なのである(より前期の、幻想交響曲にそれを見るのは有名なはなしだ)。

一方、やや不満な点は、響きの厚みに関することだが、例えば第3幕のフィナーレなど、局部的なはなしに止まるうえに、あまり本質的な話題でもないから詳しくは述べないことにする。全体的には、素晴らしい演奏であったということができるだろう。

【ベルリオーズとベートーベン】

それにしても、このような優れたプロダクションでは、語るべきことがヤマのようにある。例えば、第2幕のフィナーレなどは、上段から軍服の若者が仰向けに寝転がり、そのまま頭から逆さに階段を下りてくるという奇抜な場景をつくっていて、個性的な演出が際立つ。最後、兵隊たちは舞台の底部にさらに開けられた穴から地獄に吸い込まれ、その穴からは煙が上がるというグロテスクな場面となっているのだが、この作品において、戦争との関係はどのように位置づくのだろう。

例えば、ベルリオーズは直前の東欧ツアーの成功に気分を良くして、ファウストを強引にハンガリー旅行に連れ出して、お気に入りのラコッツィ行進曲を挿入しているのは周知のことである。今回の演出では、この行進曲でも軍服姿の若者たちが現れ、序盤はリズムを皮肉るような後進をそのまま見せたあと、いったん脇にはけておいて、曲調が激しくなる後半戦で戦場のシーンが視覚化される、という私からすればミエミエの動きを施している。これらの場面を通じて、演出チームがどのような視点を観客にイメージづけようとしたのかは定かではない。

私の考えでは、ベルリオーズにとって戦争だの、革命だのといったものは、迷惑以外のなにものでもない。その点で、これに限らず、あらゆる面でネガ/ポジの関係にあるベートーベンとは対照的である。オペラのヒロインにしても、ベートーベンのほうは男装も自然な闘う貴婦人、タフなレオノーレを描くのに対して、ベルリオーズは純真無垢な、要するに無防備なマルガリータを書いている。ベルリオーズはベートーベン的なタフな正義感には反対で、より冷笑的な風刺を好む。この作品のなかでも、宗教や政治に対するアイロニカルな視点が窺えることは、誰でも気づくことだろう。同じゲーテの信奉者でも、ベートーベンはファウスト的で、ベルリオーズはメフィスト的である。

この作品は、ゲーテの『ファウスト』のフランス語訳に触発された作品とされている。しかし、1万2千行のうち、ベルリオーズが興味を示したのは、おもに第1部の内容である。第1部ではいわゆる「グレートヒェン悲劇」でマルガレーテが救済されるが、第2幕ではファウストが救済される。ファウストはメフィストの与えるいかなる悦楽にも反応せず、最終的に危険な土地をみなの努力で維持するという断続的な労働のなかに安らぎを覚えて、ついに、メフィストとの契約にある言葉を口走って、時計の針を落とすことになる。この形而上的なファウストの勝利が丸ごとカットされて、マルガリータに対するファウストの罪が手早く執行され、メフィストは勝利を得るという筋になっている。

正に、この作品はメフィスト的な読み替えのなかで、倫理観が逆転しているのである。ファウストは明らかに、ドン・ジョヴァンニ的であると先述したが、そうだとするならば、メフィストは『コジ』のドン・アルフォンソ的な存在である。アルフォンソは嫌なヤツだが、確かに真実を語っている。ベルリオーズはマルガリータ的な超越的なものに憧れながらも、そうはいっても、アルフォンソ的な真実を語らせたらいちばんだと自負していたにちがいない。それこそが、ベルリオーズの勝利なのであった。

【ベルリオーズの信仰心】

しかし、ベルリオーズにとって最高の作品は、やはり、『レクイエム』であったという。最後にプラッソンの大きな功績を挙げておけば、それはベルリオーズの信仰心を明らかにしたことである。確かに、教会に対しては舌鋒鋭く皮肉を垂れることも忘れないが、最初のほうでファウストのこころを慰め、最後に、マルガリータの生命を浄化する聖なる響きこそ、ベルリオーズの本領発揮であることを、プラッソンは強烈に印象づけたのではなかろうか。例えば、ベルリオーズの『レクイエム』には「神」という言葉がいちども出てこず、信仰心に基づかない作品だと説明されることさえあるが、それは多分、誤解であろう。確かに、いささかエキセントリックな面はあるにしても、ベルリオーズのこころにある美しく、澄明なこころ、この作品(ファウストの劫罰)の節々に秘められた爽やかな信仰のメッセージを見逃してはならない。

彼はただ、伝統的な宗教曲の儀礼に従わなかっただけであり、どんな分野においても、自分らしい清新さを捨てなかったというだけのことだ。『レクイエム』の特異さについては、そのようにして説明がつく。この『ファウストの劫罰』にしても、より整った形式によるオペラ化の計画があったが、この独特のフォルムに自信をもっていたのか、その計画はついに実行されなかった。正にそのことによって、オペラよりもオペラらしい詩情の凝縮した、素晴らしい作品が残ったともいえる。今回、オペラの舞台でやったからこそ、そのことがはっきりわかったという面もある。このような意味で、今回の上演はきわめて優秀なものであったと結論せざるを得ないのだ。

確かに、悪魔の存在とか、毒殺とか、さかりのついた猫とか卑猥な文句も出てくるが、これらは便宜上のものである。既に述べたように、マルガリータは当時、流行していたマグダラのマリアのイメージを思わせる。彼は、間違いを犯すことを前提に、人間を見ているのだろう。ファウストも間違いを犯す。それなのに救われないのは、傲慢だからだ。ファウストへの天罰(劫罰)というが、何の罪だろうか。マルガリータに手を出したこと? メフィストに魂を売ったこと?

・・・そうではない。傲慢である。傲慢こそが、罪なのだ。そして、キリスト教における7つの大罪にも数え上げられるその罪業からは、ベルリオーズ自身も免れ得ないという自虐的な視点は、彼が死ぬまで消えることがなかったようである。ベルリオーズがメフィスト的であったとするなら、ここにおいて、ファウストとメフィストが背中合わせになっている構図も窺われようというものだ。実に、興味ぶかいことである。

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コメント

>小泉詠子(ヨウコ)
読み方、違いますよ。

訂正しました。

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