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2010年7月28日 (水)

ウルフ・ヘルシャー & アルヌルフ・フォン・アルニム 世界の教授たちによるスペシャル・コンサート @武蔵野音楽大学 7/26

武蔵野音楽大学は「インターナショナル・サマースクール・イン・トウキョウ」と題して、世界的に著名な演奏家や、教育者を招いて学生の指導をしてもらうとともに、いくつかのコンサートを開いて公開する試みをつづけている。今回のマスターの演奏は、ピアニストのイリヤ・イーティンが22日、ヴァイオリンのウルフ・ヘルシャーとピアノのアルヌルフ・フォン・アルニムによるデュオが26日におこなわれたが、私は後者を聴いてきた。会場は江古田キャンパスのベートーヴェンホールだが、ここは自宅から数十分という近場である。

【ポエムⅠ】

なにも言わないでください。
わたしはあなたから去ります。ああ、去っていくのです。

300年前 あなたが遺したメッセージに
わたしは魅了されています。ああ、魅了されています!
それなのに わたしは
あなたの遺した五線のうえに、
鼾をかきつづけているわけにはいかないようなのです。
簡単にいえば
あなたの遺産は決してわたしのものではないのだから
それに恋しても
わたしの人生は成り立たないのです。

わたしは昨日、夢をみました。
あなたの曲が ほんのすこしだけ
わたしの夢を横切りました。
幸福な時間!
しかしながら、夢は覚めます。
わたしは 目を覚まさなければなりません
自らが生きるために!

あなたを愛するものゆえ
そして何よりも・・・生きるために
わたしは去ります。

あなたはわたしのために
きっと泣いてくれるでしょう。

【素晴らしかったシチェドリン】

まず、シチェドリンの演奏には驚愕させられた。NMLでは、ここにリンクするURLでシトコヴェツキーの演奏が聴けるが、これとは似て非なるものだった。もちろん、無伴奏ヴァイオリンのための『エコー・ソナタ』という題名からもわかるように、この作品は生演奏のほうが有利であることは言うまでもない。しかし、それだけではない。ヘルシャーの演奏はもっと明晰で、活き活きとしていて、劇的で、風刺が効いている。この作品は1984年、バッハの生誕300年を記念して書かれたものといい、エピローグにおいてバッハの作品の断片が挿入されているのが、一般的なチャーム・ポイントとして説明されるのであろう。

しかし、ヘルシャーの演奏では、1つ1つの響きにメッセージが詰まっている。まず、序盤戦は外題どおり、エコーの美しさで聴き手を惹きつける。ヘルシャーは決してそれだけとは言えないものの、基本的には技術と構造で、表現を組み立てていくタイプのヴァイオリニストであろう。その彼にとって、この「エコー・ソナタ」冒頭の響きと、ハーモニーのコントロールの精確さは、正しく目が覚めるような明晰なものだった(註:私はこの日、6時前から起きていた)。武蔵野音大のベートーヴェンホールは昭和35年に完成、わが国で初めての本格的なコンサートホールということだが、アメニティの面では問題があっても、響き自体は程よく広がりがあって秀逸だ。その音響的な特質をしっかり掴んで、ヘルシャーはきれいな重音を聴かせてくれる。

響きは断片的で、ハードな部分もある作品だが、ロシアの民俗的な響きをうっすらと香らせながら、濃厚な表現に踏み留まっている。きっとロシアの民族楽器などに精通していれば、より楽しめる作品なのであろう。この作品の初演者であり、そうした雰囲気をよく知ったヘルシャーが弾くことで、例えば、チョロチョロとつづくか細い響きにも、ロシアの街角に流れる息吹きの立体性が感じられる。それがまた、同じ響きを通して、ショスタコーヴィチのような風刺性とも結びついて、必然的な音の広がりを生んでいくのだから面白い。

このシチェドリンの作品は、首尾一貫した断固とした性質よりは、それとは反対の揺れ動く性質に特徴が求められる。民俗的なものとユニヴァーサルなもの、フィジカルなものと弱いもの。真剣なものと風刺的なもの・・・こうしたものが薄い拍節感だけを頼りにして、ソナタの構造によってまとめあげられている。そのためか、この手の作品としては若干、長めになっているものの、ときどきバロックの要素もさりげなく織り込まれているのもアクセントになりながら、実に豊富なエピソードを味わうことができる。そうしてヴァイオリンの響きそのものに注意を向ける20分強の時間は、決して苦痛ではない・・・どころか、なんともいえない悦楽の瞬間の連続となる。

ここにリンクするページによれば、シチェドリンは自らが師のように慕うショスタコーヴィチとの会話で、バッハへの愛情を告白しているという。なんでも一生、孤島に押し込められるとき、彼がもっていく音楽はバッハの『フーガの技法』だというのである。そんな彼がエピローグに入り、バッハの作品を挿入したとき、一体、どんなつもりでいたのだろうか。ヘルシャーは実にふかい愛情を込めて、しかし、いささかの毒を混ぜて、バッハを「愛唱」する。それは多分、バッハとの別れを示すものである。愛するがゆえ、去っていくというモティーフは、『トラヴィアータ』のヴィオレッタ的な心象である。だからというわけではないが、ヘルシャーの演奏はまず肉欲的で、劇的なものに支えられている。

彼が演奏することによって、この作品がおもちゃ箱をひっくり返したようなファンタジーに満ちた作品であることがハッキリわかるだろう。そのおもちゃとは、バロックの香り、構造、リズム、ハーモニー、民俗音楽、風刺、先達への畏敬などから成り立っている。

【ポエムⅡ】

ハッハ!
つまらん作品だ!!

【ポエムⅢ】

ヤツは大手を広げて追いかけてくる。

嫌なヤツだ。
こちらがいくら足をはやめても追いついてくるし、
逆に足を止めれば、これ幸いと
激しく迫って来るんだから。

俺は必死に逃げたさ
夜の暗い森だった。シューベルトの魔王の世界か。
ヤツは大手を広げて追いかけてくる。
気味が悪いよ。
俺は迷路のような森をでたらめに駆けて、
ヤツを煙に巻こうとした。

だが、ヤツは大手を広げて追いかけてきた。
平気なんだ。

呆れた俺は開き直って、ヤツの真似をしてみた。
そうすると、どうだろう!!
ヤツは呆気なく逃げていくんだよ。俺は調子に乗って、
ヤツを追い回したのさ。
大手を広げて追いかけた。

そんな俺って、嫌なヤツかい!

【シチェドリン@ピアノ】

後半、いささか剽軽なピアニスト、アルニムも独奏でシチェドリンのピアノ小品を披露した。まず、1957年作、初期作品の『ユモレスク』は、既に55年にバレエ『せむしの仔馬』を仕上げたシチェドリンによる、舞踊的なリズムを用いたアイロニカルな作品。序盤はドビュッシーのエチュードを思わせる分散的な展開だが、何気ない両手の技巧的なパッセージに発展し、最後にそれを否定するようにアイロニカルな和音を強打して終わる。アルニムは、最後の和音を弾き捨てるようにして、その自虐性を際立たせている。

もうひとつの作品は、『2つのポリフォニー小品』より「バッソ・オスティナート」。外題はいうまでもなく「通奏低音」のなかでも、同一音型を執拗に繰り返すものをいう。右手の素早いアクションに対して、このバッソ・オスティナートが不気味に響くユーモア的な作品で、過剰な低音が上の声部を打ち消してしまう演奏タブーをを意識的に引き起こし、皮肉な作品に仕立てている。ポエムにあるように、低音が大手を広げたような格好で追いかけてきて、右手が忙しなく動きまわるので、あたかも弱者が凶漢(怪物)から逃げまわるような外見を帯びる。ところが、あるところで右手が役割を放棄して左手の模倣を始めると、左手はバランスを崩してヒョヒョロとなってしまう。

アルニムは椅子に深くかけて、やや前傾するかたちで体重をのせた重厚な演奏を好む。しかしながら、タッチが非常に繊細で、柔らかい知性を効かせて演奏するところがミソになっているのだろう。表現性のつよい、ショーマンシップの豊富なピアニストのようだが、これを完全に使いきるのではなく、適当に抑制することで、ワサビのように上手に効かせるテクニックは、どこか優れた芸人の味を思わせるのではなかろうか。

【ポエムⅣ】

この町の教会は美しいよ。こころに響くね。
なんといったって、あの骨組みが凄いのなんのって!

【エキサイティングなシューマン】

メインは、シューマンのヴァイオリン・ソナタ第2番だ。最初にモーツァルトを弾いたときは、先日、キュッヒルの演奏を聴いているだけに(曲目はベートーベンだが)、ややルーズな印象も抱いたのだが、シューマンについては、ヘルシャーもアルニムも得意としているように見受けられた。特にヘルシャーはフレージングが厳しく、アクセントをつよく打ち出すことで、これを跳躍台に使ったダイナミックな演奏をする。上げ弓に対してのせられた響きの重みが印象的で、なんともスリリングな効果を生み出しており、これが全体のエキサイティングな印象に重なってこころに残った。

このような外形的な特徴に対して、内部でそれを受け止める構造的なエレガンスも、この2人の演奏では明確だ。第2番がそもそも第1番の欠点を修正し、構造的なまとまりを追究した作品であったこともあり、作品を真正面から捉えれば、当然、そのような特徴が浮かび上がりやすいはずである。だが、今回の演奏は展開部のダイナミックな表現と、再現部の丁寧な構築が際立ち(第1楽章)、そのような構造を余計に押し立てている。そのため、シューマン独特の気障なモティーフが浮かび上がってくると、ロック的なつよい感興が浮き上がってくるのであった。

第1楽章を凝縮したような第2楽章、ピッツィカートを含むチャーミングな表現が光る第3楽章をとおり、第4楽章も手に汗握る演奏である。しかし、最初の楽章とは感情がネガ/ポジの関係になっており、より深みのある表現が楽しめる。ヘルシャーが、あるいはアルニムが・・・というよりは、楽曲の出来が素晴らしいのかもしれないが、どの楽章をとっても隙がなく、中身の詰まったハイ・レヴェルな演奏だ。また拍節感がしっかりしており、その拍のなかでのストレス(強調)の構造が明確である点は、ドイツ音楽の表現にとっての枢要であろう。

そのなかでも、シューマンらしいフォルムの美しさに焦点を当て、思いきって細部を燃え上がらせた演奏は、実にエキサイティングなものに仕上がった。

ピアノのアルニムも、アンサンブル・ピアニストとしてはきわめて豪華で、ヘルシャーとコンビを組むのに申し分のない優れた演奏であったことは一言しておきたい。

【まとめ】

思いもかけず、素晴らしい演奏にぶつかった。ヘルシャーは名うての腕利きであり、そのことは、終演後に演奏されたシューマン編の珍しい、パガニーニのカプリースの演奏を聴くだけでも明らかだ。ヘルシャーは独奏として活躍するだけでなく、ウルフ・ヘルシャー・アンサンブルなる室内楽グループを率いていることでも知られているが、是非、日本で聴く機会があるといいのだが・・・。

ちなみに、このヘルシャーはドイツ・カールスルーエで教鞭をとる世界的な指導者でもある。マックス・ロスタル、ジョゼフ・ギンゴールド、イヴァン・ガラミアンなどの系譜を引くようだが、その名に恥じない優れた演奏を聞かせてくれた。ちなみに、多くの弟子をもつヘルシャーであるが、例えば、今年の仙台国際音楽コンクールで活躍した乾ノエは、ヘルシャーに師事している。パガニーニが上手だったのはなるほどというところであるが、もちろん、師匠の境地には遠かった。

【プログラム】 2010年7月22日

1、モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ第33番 KV377
2、シチェドリン 無伴奏ヴァイオリンのための「エコー・ソナタ」
3、シチェドリン ユモレスク
4、シチェドリン バッソ・オスティナート
            ~『2つのポリフォニー小品』
5、シューマン ヴァイオリン・ソナタ第3番

 vn:ウルフ・ヘルシャー pf:アルヌルフ・フォン・アルニム

 於・武蔵野音楽大学 ベートーヴェンホール(江古田)

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コメント

アリスさん、こんにちは。
ウルフ・ヘルシャーはカール・エンゲルと組んだシューベルトのソナタ集を愛聴しています(EMI)。
キリッと格調高くニュアンスに富んだヴァイオリンという印象でしたが、持ち味が保たれているのですね。一度、ライヴに接してみたい演奏家の一人です。

コメント、ありがとうございます。

昔の録音をあまり知らないなのでナンですが、オチはないんじゃないでしょうか。技術的にも、かなり安定した演奏でしたし、仰るような味のあるところを見せてくれました。付け加えるなら、ユーモアのあるヴァイオリン弾きではないかなと思います。

今後、ヘルシャーの来日が頻繁にあるとは思えませんが、機会があれば、もっと注目される機会に弾いてほしいものと願います。客席は学生と先生ばかりで、ガラガラでしたから。もったいないです。

ちなみに、このヘルシャーはベルリン芸術大学で教鞭をとり、カールスルーエでも教えている世界的な指導者でもある。

>>ヘルシャー氏ベルリン芸術大学では教えていません。<<

http://www.ulfhoelscher.de/

Seit 1981 ist er Professor für Violine an der Hochschule für Musik Karlsruhe. Zudem gibt Hoelscher Meisterkurse

ご指摘どおり、訂正しました。

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