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2010年7月30日 (金)

大阪センチュリー響 厳しい民営化への道

【大阪センチュリー響はいま】

大阪センチュリー交響楽団の補助金カットは橋下改革の緊縮財政に関連して、2008年に大きな話題となり、波紋を広げた。結果的に補助金は大幅に削減されたものの、一応、存続が可能な範囲で持ち堪えた。その後、楽団はワンコインサポートを募り、ファンクラブを開設するなどして、市民からの支援体制の充実を図り、以前よりもスポンサー探しに熱心に動くようになった。しかし、現在も経営が安定するには程遠い状態で、再来年からは補助金がゼロとなることが確定していることから、目下、民営化に向けたスポンサー探しがおこなわれている。

危機の顕在化のあと、大阪センチュリー響の運営団体、大阪府文化振興財団の理事長には、かつての大阪弁護士会の会長である水野武夫氏がノー・ギャラで就任し、積極的な動きを見せてきた。かつては冷え込んでいた大阪府知事との連絡体制を整え、さすがに弁護士らしく、現実的な対応を図っている。

しかしながら、財団が目標として掲げた6月中のスポンサー確定は実現せず、1社丸抱えによるスポンサーシップの確立は困難になった。楽団の運営に必要な費用のうち企業支援が求められる3億円(以前は4億円と言っていた)を集めるために、1口=500万円のオフィシャルサポーターと、1口=5000万円のオフィシャルスポンサーを募ることになったようである。前者ならば60社、後者ならば6社の協力により目標達成となるが、うまくいくのだろうか。これまでは大阪の地元企業にこだわったスポンサー探しをしていたが、これからは全国的に支援を呼びかけるということだ。

【悲観的な見通し】

5000万円というお金は膨大な額でもないが、決して小さな額でもない。例えば、音楽関連企業で世界的に活躍するヤマハの経常利益は、およそ35億円である。3億円は、そこからみて、およそ10%に当たる。また、このようなスポンサー料金は会計的には広告費として分類されるのだが、例えば、日本経済新聞に一面広告を載せる場合が、これと同じ5000万円と言われている。新聞の一面広告に出すような商品は、その会社が社運を賭けるようなものに限られており、それを毎年、繰りかえし出していくとなれば、これは考えものと言わざるを得ない。オーケストラが1年にコミュニケートする人たちの数は、日経新聞の読者数から比較すると問題にならないほど少ない。

つまり、このような金額を出す企業は、広告的な目的でセンチュリー響を選ぶことはあり得ないということだ。それならばもっといいメディアがあるのは、子どもでもわかる理屈である。だから、財団は文化保護に積極的な企業、文化的な事業に加担することで社会的なイメージを上げたい企業、解散寸前のオーケストラを助けることで名前を上げたい企業を探すしかない。そうでもなければ、4億円など屁のカッパというような巨大企業を頼るしかないのだが、そのような一流企業でさえ派遣切りなどに手を染めるという日本社会では、5000万円もの費用をそう簡単に捻出してくれるという期待は抱けないだろう。

多分、財団が大阪の企業にこだわったのは、地元の文化政策や、教育政策からみた楽団の必要性を訴えるのに、やはり地元企業のほうがわかりやすいし、志を説けば、必ずや興味をもってくれるところがあると踏んでいたからであろう。関西地区の20数社(少なくない?)に打診したということだが、その目論見は残念ながら、当たらなかったようである。地元で相手にされなかったのに、ほかの地域でスポンサーをお願いして、快諾が得られるという可能性は高くないように思われる。このような状況では、積極的に言いたくはないことだが、民営化の断念、そして解散というシナリオが見えてきてしまったのではなかろうか。

2008年に兵庫芸術文化センター管弦楽団での活動を修了して、大阪センチュリー響に首席奏者で迎えられたフルート奏者のニコリンヌ・ピエルーは、かつて佐渡時代に存続危機を迎えたパリの名門民営オーケストラ、コンセール・ラムルーにも所属経験があり、当時はパリ中を駆けまわって支援を訴えたという。彼女は、「みんなが懸命にオーケストラを救おうとすれば、どんなことでもできるはず」だというが、その言葉が現実のものになってほしい気持ちは山々である。しかし・・・。

【危機感はあるのか?】

現状において、財団や、センチュリー響がどの程度の危機意識をもって動いているのか、私にはわからないし、そのあたりを取材して、伝えようとする音楽ジャーナリストもいるのかもしれないが、その動きは我々の目につくようなところにはない。財団や楽団からの情報発信も、楽団員ブログの開設などで若干、強化されてはいるものの、この問題に関して、さほど積極的に伝えようとする向きは感じられない。ラムルー管の奏者たちまでがパリを駆けずりまわったという、そういう雰囲気は、私が東京にいるせいなのか、あまり感じられないのである。

署名のときは、7万6000人が協力したというではないか。実質は半数ぐらいとしても、その支援体制が生きているなら、財団の理事長や、幹部だけに営業を任せるのではなく、こうした市民との連携を積極的に働かせて、キャンペーンを強めていくべきではなかろうか。関西の文化人らによって組織された「大阪センチュリー交響楽団を応援する会」も、2009年3月の支援コンサートを最後に活動が見られず、ブログ、ホームページなども更新されていない。この人たちがもし本気だったのならば、財団はもういちどお願いして、こうした人たちに協力を呼びかけるのも手段であろう。

私はなぜ、もっと必死さを表に出さないのかが不可解でならないのだ。この楽団は数年後、消滅するかもしれない。まだ20年ちかくの歴史しかもたない、比較的、新しいオーケストラではあるが、彼らが育んできた演奏の歴史、そして、地域コミュニティの輪は、このことによって雲散霧消する。私はちかい将来、多くのオーケストラが存続できなくなる事態が出てくることは目に見えていると思う。その連鎖をなるべく遅らせるためにも、意地を張らなければならないと思うのだ。センチュリー響が瓦解すれば、その負のスパイラルは加速するだろう。どうして、この問題に無関心でいられるだろうか?

【プライド】

そのような精神論ではどうにもならない・・・と音楽ジャーナリストたちは言うのだろうか。しかし、オーケストラを守るための気の利いた理屈など、どこにもありはしない。非論理的でも何でもいいが、文化とは、民族のプライドであって、理屈ではない。ジャーナリストというのは、そういう面をまったく考慮しない。例えば、地方の山村で、みんなに見捨てられたようなお地蔵さんを、大事に守ってくれるお婆さんがいる。お婆さんのやっていることは、なるほど無駄なことかもしれない。しかし、このお婆さんの行動に我々は限りない感謝の念を感じるだろうし、そういう心遣いこそが、枯れた山村に潤いをもたらすことになる。

といっても、このお婆さんに補助金は出ないが、私が言いたいのは、金を払って守れるプライドがあるならば、それは出すべきだという信念である。それは、人々のこころを守るという、掛け替えのない義務である。私たちは無難に小さな安定した生活を送るより、たくさんのプライドをもって、誇らかに生きるべきだ。もちろん、私はそのために、財政のことも何も考える必要はないと言っているつもりはない。しかし、私たちはもっと人間としてのプライド、都市としてのプライド、国家としてのプライドを大事にすべきだし、それがなくて、80何年の生涯を生きるなんて、苦痛以外の何ものでもないだろう。サッカーの日本代表は大会前、すこしも期待されていなかったが、いまや英雄扱いだ。そのことを、私は批判しない。代表は私たちのこころを守り、勇気づけてくれた。それに、無邪気に反応することは罪ではなく、当たり前のことだ。

サッカーと同じように、オーケストラだって、日本の伝統文化ではない。しかし、だから、何だというのだろうか。同じプライドといっても、そのような国粋的なプライドばかりがプライドではない。明治以降、100何十年という歴史を刻んだことを考えれば、西洋音楽も既に歴とした日本の文化に列せられている。日本の音楽教育の重要性は、既に明治初期にはっきりと認識されていた。文部省、音楽取調掛の伊沢修二が米国のメーソンを迎え、唱歌を教えはじめたのが最初である。彼らは日本の音楽と、西洋の音楽をうまく組み合わせて、それを社会機能として生かそうとした。それは、正しい志だったといえる。

私はもっとも古い人で、大正1桁生まれのお年寄りのお世話をさせていただいているが、この唱歌の力というのは凄いものだ。毎日の記憶が曖昧になっているような方であっても、この歌の記憶は脳裏のネットワークにきちんと貼りつけられている。そして、そこを刺激することで、いろいろな効果がある。その力は、例えば戦時期には悪い方向で利用された。たまに『同期の桜』なんていうのを歌うと、「私の近所で、よく早稲田の学生が大声で歌っていたのよ」などという話を聞かせて下さる。ありがたいことであるが、その歌詞は、桜は散っても靖国で会えるという内容のものである。

音楽の社会的機能に関しては、最近、ベネズエラの「エル・システマ」が欧州で注目され、その思いがけない凄さについて、改めて確認されたところである。音楽は駄目になっていたベネズエラのこころを、立て直したのだ。オーケストラは確かに金がかかり、お笑いのように、ひろく普及しているとはいえない。しかし、その分、音楽のもつ潜在的な力を、我々は十分に利用し得ていないともいえる。我々のプライドは、こうした大事なリソースを守ることにもつながるのではなかろうか。だが、失われたりソースは、もう、元には戻ってこない。そのことを重くみるべきだ。

【まとめ】

企業への営業活動に関して、我々が協力できる面はさほどない。だから、いまは財団の動きをすこしずつチェックしていくことしか、できることはない。しかし、財団と、センチュリー響は、もうすこしデモンストレーションを強めたほうがいいのではないかと思う。懐かしいランドマークがなくなる間際になって人気となり、「惜しい」とか「勿体ない」とか言われているのをよく耳にする。そのような言い方は日本人らしい弱きを労わる身上の表れだが、もう解散が決定的となってから騒ぐのでは遅いのである。このような厳しい状況下で、世論を積極的に盛り上げていかないことには、ホワイト・ナイトになろうとする企業も現れないだろう。

その動きさえ出てくれば、多少なりとも協力できるところはある。昨年の事業仕分け騒動のときにも思ったのだが、音楽業界の人たちの行動力のなさには、私はいつも歯がゆい思いをする。署名や、メールの送りつけなどは、それなりに効果的に組織できるらしい。しかし、もっと具体的に、立体化した動きはなかなか出てこないようなのだ。その点を指摘したところで、この文章を閉じようと思う。

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